無能だと捨てられた第七王女、前世の『カウンセラー』知識で人の心を読み解き、言葉だけで最強の騎士団を作り上げる

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アシュトン様の体が、小さく震えている。
その灰色の目は、報告に来た兵士を見ていない。
部屋の何もない場所を、彼は見つめていた。
おそらく彼の記憶にだけある、過去のひどい出来事を思い出している。

呼吸が浅くて、速くなっている。
息が、苦しくなっているのかもしれない。
このままでは危ない。
彼が指揮できなければ、この城も土地も魔物の群れに飲まれてしまう。

報告に来た兵士も、どうすればいいか分からない。
彼は青い顔で、ただ立っている。
私はアシュトン様の前に立ち、氷のように冷たい彼の手を両手で包んだ。

「アシュトン様」

できるだけ静かに、でもはっきり彼の名前を呼ぶ。
彼はびくりと肩を震わせ、ようやくぼんやりとした目を私に向けた。
ピントの合わない目が、私を映している。

「……リリアーナ…」

か細い声が、私の名前を呼んだ。

「はい、私です。聞こえますか」

私は彼の目を見て、ゆっくりと聞いた。
混乱している人には、まず一人ではないと分からせることが大切だ。
そして、安全な場所にいると教えることが重要になる。

「息を吸って、それからゆっくりと吐いてください。私の呼吸に合わせて」

私は自分で深く息を吸い、長く吐いてみせる。
彼は戸惑いながらも、私のまねをしようとした。
必死に自分の呼吸を、整えようとしている。
彼の喉が、ひゅうひゅうと鳴っていた。

何度か繰り返すうちに、彼の荒い息は少しずつ落ち着いていく。
血の気が引いていた顔にも、わずかに赤みが戻ってきた。

「……はぁ…っ、はぁ……」

「大丈夫です、あなたは今ここにいます。過去の戦場に、いるのではありません」

私は彼の意識を、今この場所へ引きもどす。
そのために、はっきりとした言葉で言った。
つらい記憶から、彼を現実に引きもどすための言葉だ。

彼の目に、だんだんと理性の光が戻ってくる。
それが、私にも分かった。

「……魔物が…」

「はい、来ています。ですが、前回とは違います」

私はきっぱりと言った。
その言葉に、彼はすがるような目を向ける。

「何が、違うというんだ…!」

「全てが、です。まず、あなたは一人ではありません。私がいます」
そして、あなたを信じる騎士団がいます。

私は彼の目を、まっすぐに見つめ返す。
その視線に、私の強い気持ちを込めた。

「あなたは、あの時と同じ弱い若者ではありません。この地を守る、たった一人の辺境伯です」
そして、あなたの騎士団はならず者の集まりではない。

私は言葉を続ける。

「彼らは、お互いを理解し支え合うことを学び始めました。それは、あなたが諦めずにこの地を守ってきたからですよ」

私は、彼のこれまでの苦労を認める。
彼がどれだけ大切か、思い出させる。
自分に自信をなくしている彼には、まず自分自身を認めることが必要だった。

私の言葉に、アシュトン様は息をのむ。
彼の目が、激しく揺れ動いた。
その時、部屋の外が急に騒がしくなる。

扉が勢いよく開かれ、ギデオンさんが駆け込んできた。

「アシュトン様! ご報告は! …殿下も、こちらにおられましたか」

彼は部屋の中の張りつめた空気と、私の姿に気づく。
アシュトン様の手を握る私を見て、一瞬言葉を失ったようだ。

報告に来た兵士が、震える声でギデオンさんにも話す。

「魔物の群れ、五百です! すでに森を抜け、こちらへ!」

「ご、五百だと…!?」

さすがのギデオンさんも、その数には顔色を変えた。
城の兵力は、百人もいない。
勝つのが難しいほどの、人数差だ。

兵士たちの間に、不安と絶望が広がるのが分かった。

「…くそっ、またかよ…!」

「今度こそ、終わりだ…」

廊下の向こうから、そんな声が聞こえてくる。
恐怖は、人に伝わる。
このままでは、戦う前に気持ちがなくなってしまうだろう。

アシュトン様が、また青い顔で下を向いた。
震えが、また始まっている。
私は、今が大事な時だと思った。

私はアシュトン様の手を離し、皆の方を向く。
そして、この場で一番落ち着いた、はっきりとした声で言った。

「皆様、落ち着いてください」

私の声に、その場にいた全員の視線が集まる。
誰もが、不思議に思っているようだった。
魔力もない弱い王女の私が、何を言うのかと思っている。

「確かに、敵の数は多いです。ですが、私たちはまだ何も失っていません」
恐れるのは、戦いが終わってからでも遅くはない。

私は続ける。

「今、私たちがすべきことは、混乱することではありません。落ち着いて、自分たちにできる一番良いことをするのです」

私は、あえて恐怖を否定しなかった。
恐怖を感じるのは、自然なことだ。
それを無理に押さえつけようとすれば、よけいに混乱させる。

大切なのは、怖いと感じながらも、どう動くかだ。

「ギデオン副団長、すぐに全兵士を中庭に集めてください。アシュトン様が、皆様に直接指示を出されます」

私は、アシュトン様が指揮することを前提として話した。
彼に、あなたは指揮官なのだと知らせるためだ。
その役目を、はっきりと分からせる。

ギデオンさんは、一瞬ためらった。
しかし、私の真剣な目とアシュトン様の様子を見て、力強くうなずいた。
アシュトン様は、少しずつ落ち着きを取りもどしている。

「…はっ! ただちに!」

彼は向きを変え、廊下を走っていった。

「全員、中庭へ集まれ! 辺境伯様のご命令だ!」という彼の太い声が、城中に響き渡る。

残されたアシュトン様は、戸惑ったように私を見ていた。

「…俺が、指示を…?」

「はい、あなたしかいません。彼らは、あなたを待っています」

「だが、俺は…また、みんなを死なせてしまうかもしれない…」

彼の声には、まだ深い恐怖が残っている。
過去の光景が、彼の心をしばりつけているのだ。

「そうかもしれません、ですが何もしなければ全員が確実に死にます。どちらを選びますか」

私は、あえて厳しい現実を伝えた。
悲しんでいる時間はない。

「戦う前から、負けることを考えてはいけません。考えるべきは、どうすれば一人でも多く生き残れるかです」

私は彼の心に、強くうったえかける。

「そのための最も良い方法を、あなたは知っているはずです。あなたは、誰よりもこの地を守りたいと願っているのですから」

私は、彼の心の一番深い部分にある、土地への愛情にうったえかけた。

アシュトン様は、固くこぶしを握りしめた。
その灰色の目の奥で、何かが燃え上がるのが見えた。
それは、絶望に打ち勝つ強い決意の光だった。

「……行こう」

彼は、短くそうつぶやく。
そして、私をうながして部屋を出た。
その足どりに、もう迷いはなかった。

私たちが中庭に降りると、そこにはすでに兵士たちが並んでいた。
しかし、その顔は誰もが青ざめている。
恐怖と絶望の色を、隠すことができないでいる。

中には、はっきりと体を震わせている若い兵士もいた。
数年前の悪い夢が、彼らの頭によみがえっているのだ。

アシュトン様が、兵士たちの前に進み出る。
その場の全員が、息をのんで彼の一言を待っていた。

しかし、彼は何も言えなかった。
兵士たちの絶望的な顔を見て、また過去のつらい記憶が彼を苦しめている。
言葉が、喉の奥でつかえているようだった。

私は、そっと彼の隣に並んで立った。
そして、私が兵士たちに向かって静かに語りかけた。

「皆様、怖いですか」

私の突然の問いに、兵士たちはざわめいた。
まさか、辺境伯の妻になる私がそんな弱気なことを言うとは思わなかったのだろう。

私は、彼らの動揺を気にしないで続けた。

「私も、怖いです。死ぬかもしれないと思うと、足が動かなくなります」
ですが、それは私たちが生きている証拠です。
失いたくないものが、あるという証です。

私は、彼らの恐怖を認めてその気持ちに寄りそう。

「数年前の戦いを経験した方も、多くいると聞いています。あの日の絶望を、忘れることはできないでしょう」
また同じことになるのではと、不安なはずです。

私は、彼らが口に出せないでいる一番の恐怖を言葉にした。
レオさんや、他の古い兵士たちがはっとしたように顔を上げる。

「ですが、本当にそうでしょうか。皆様は、あの日のままですか。違いますよね」

私は、集まった兵士たち一人ひとりの顔を見ながら語りかける。

「ダリウスさん、レオさん。あなた方は、以前のように自分の感情をぶつけ合うのではありません」
相手の言葉に耳をかたむけ、協力することを学びました。

「ボルツさん、あなたは家族への思いを言葉にしました。心を強く保つ方法を、見つけましたね」
もう、一人で悩むことはないはずです。

「そして、ここにいる全員がお互いを名前で呼び合っています。一人ひとりが、大切な仲間なのだと理解し始めています」

私は、彼らがこの数週間でできた小さな、でもたしかな変化を話した。
それは彼ら自身が、いつの間にか作り上げてきたきずなだった。

「今のあなた方は、ただ命令を待つだけの集まりではありません。自分の頭で考え、仲間と協力する力を持った一つのチームです」

私の言葉に、兵士たちの顔から少しずつ絶望の色が消えていく。
代わりに、そこに浮かび始めたのはおどろきと、そしてかすかな自信の光だった。

「敵の数は多いです、厳しい戦いになるでしょう。ですが、私たちには以前にはなかった武器があります」

私は力強く言った。

「それは、魔力でも強い体でもありません。『信頼』です」
隣にいる仲間を信じる心、そして自分自身を信じる心です。

私は、最後に隣に立つアシュトン様に向き直った。

「そして、私たちには最高の指揮官がいます。誰よりもこの地を愛し、私たちのことを思ってくれる人です」

私は、アシュトン様に全てをたくすように深くおじぎをした。
中庭は、静まり返っていた。
誰もが、アシュトン様の言葉を待っている。

彼は、私の顔をじっと見つめた後ゆっくりと兵士たちに向き直った。
そして、深く息を吸い込む。
今まで聞いたこともないような、力強い声で叫んだ。

「……皆、聞け!」

その声には、もう恐怖の色はなかった。
あるのは、領主としての覚悟と部下をまとめる者としての強さだけだった。

「リリアーナ様の言う通りだ! 俺たちは、以前の俺たちじゃない!」

アシュトン様は、兵士たち一人ひとりの顔を見ながら言葉を続ける。

「確かに、敵は多い! だが、恐れるな! お前たちには、この俺がついている!」
そして、お前たちの隣には命を預けられる仲間がいる!

彼の言葉に、兵士たちの顔が上がっていく。
その目に、もう絶望の色はない。
戦士としての、ほこり高い光がやどっていた。

「俺は、もう誰も死なせはしない! このグレイウォール辺境領は、俺たちの故郷だ! 誰にも好きにはさせん!」

アシュトン様が、腰の剣を抜いて天につき上げた。
その剣の先が、くもり空を鋭く切りさく。

「俺に続け! 故郷を、家族を、仲間を守るぞ!」

「「「オオオオオオオオッ!!」」」

地面が鳴るような大きな叫び声が、中庭に響き渡った。
それは、絶望の底からよみがえった戦士たちの叫びだった。

ついさっきまで、あれほど絶望していた騎士団がまるで別の軍隊のようだ。
高いやる気と、団結力で満ちている。

ギデオンさんが、信じられないという顔でその光景をぼんやりと見ていた。
やがて、彼は私の隣に来て低い声でつぶやいた。

「……殿下、あなたは魔女か何かですかな」

「いいえ、私はただ信じていただけです。彼らの持つ、本当の強さを」

私はほほえんで答えた。

アシュトン様が、ギデオンさんに向かって指示を飛ばす。

「ギデオン! 部隊を作れ! 第一部隊は俺が率いる! 第二部隊はダリウス、第三部隊はボルツに任せる!」

「はっ! ただちに!」

兵士たちが、アシュトン様の指示に従ってすばやく動き始めた。
その動きには、むだが一切ない。
見事な、協力ができている。
彼らが、アサーションの訓練で身につけた話し合う力が効果を発揮しているのだ。

私は、その様子を静かに見守っていた。
私の役目は、ひとまず終わった。
後は、彼らが自分たちの力でこの危機を乗りこえるだけだ。

しかし、戦いの準備はまだ始まったばかりだった。
騎士団だけでなく、この城にいる全ての人々が一つになって戦わなければならない。

私は、次の行動に移ることにした。
向かったのは、台所と侍女たちがいる部屋だった。
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