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戦いの翌朝、城は不思議なほど穏やかだった。
昨夜の祝宴の騒がしさが、うそのようである。
誰もが確かな満足感と共に、それぞれの仕事に取り掛かっていた。
窓から差し込む朝の光は、いつもより温かく感じられる。
それはきっと、私の心の状態がそう感じさせているだけなのだろう。
私はエマと共に、城の中をゆっくりと歩いていた。
すれ違う兵士や使用人たちが、皆私ににこやかにあいさつをしてくれる。
以前のような、よそ者を見る警戒心や敵意はもうない。
代わりに、仲間を見るような親しみと確かな敬意が感じられた。
「リリアーナ様、おはようございます。」
「昨日は、本当にありがとうございました。」
その一つ一つの言葉が、私の胸を温かくした。
私は、この城の一員として確かに受け入れられたのだ。
ふもとの街からも、槌音や人々の活気ある声が聞こえてきていた。
魔物に壊された家々を、人々が協力して直しているのだ。
その顔には、悲しそうな様子はなかった。
むしろ、自分たちの手で未来を立て直していく力強い意志が輝いている。
この土地は、死んではいなかったのだ。
ただ、長い冬の間固く凍てついていただけだった。
そして今、確かな春の気配が訪れようとしていた。
「すごいですね、リリアーナ様。皆さんの顔が、昨日までと全然違います。」
隣を歩くエマが、感動したようにつぶやく。
彼女の顔にも、以前のようなおびえや不安の色はなかった。
明るい、笑顔が咲いていた。
「ええ、本当に。皆、強い人たちなのですね。」
「はい。私、この土地の人間であることを誇りに思います。」
彼女の言葉が、自分のことのように嬉しかった。
朝食の後、私はアシュトン様に呼ばれて彼の仕事部屋へと向かった。
そこにはすでに、ギデオンさんやダリウスさんたちが集まっている。
騎士団の、中心的な者たちだった。
昨日の戦いで、本当の意味での行動隊長となったレオさんの姿もある。
部屋の空気は、勝利の喜びに浮かれたものではなかった。
次の段階を見据えた、引き締まった緊張感に満ちている。
私が部屋に入ると、そこにいた全員が立ち上がり私に敬礼をした。
そのことに、まず驚いてしまう。
「あ、あの皆さん、おやめください。私は、そんな者ではありません。」
戸惑う私に、アシュトン様が穏やかな声で言った。
「いや。君は、それにふさわしい敬意を受けるべきだ。リリアーナ、こちらへ。俺の隣に座ってくれ。」
彼は、自分の席の隣にもう一つ用意されていた椅子を示した。
それは、ただの客としてではない。
この会議の、主要な一員として私を認めるという明確な意思表示だった。
私は、少し戸惑いながらも彼の言葉に従ってその席に着く。
会議の議題は、もちろん昨日の戦いの後始末と今後の対策についてだった。
「まず、今回の戦いで亡くなった者たちをとむらう。彼らの家族には、領地から最大限の補償を行う。彼らの勇気と犠牲を、我々は決して忘れてはならない。」
アシュトン様の言葉に、全員がまじめな顔でうなずく。
幸い、死者の数は数年前の戦いとは比べものにならないほど少なかった。
これも、新しい連携戦術がうまくいったおかげだろう。
「次に、ギデオン。昨日の魔術師たちの件、何か分かったか。」
アシュトン様にうながされ、ギデオンさんが一歩前に進み出た。
「はっ。遺体を詳しく調べさせましたが、奇妙な点がいくつかありました。まず、奴らは人間でした。亜人などではない、純粋な人間です。」
その報告に、室内に緊張が走る。
ただの魔物の暴走では、なかったのだ。
明確な悪意を持った人間が、この襲撃を仕組んだということになる。
「そして、持ち物からこんなものが見つかりました。」
ギデオンさんがテーブルの上に置いたのは、黒い石で作られた奇妙な紋章だった。
蛇が、自らの尾をかんでいるような不気味なデザインである。
「見たことのない紋章だな。王国の、どの貴族のものでもない。」
アシュトン様が、眉をひそめた。
「はい。それに、奴らの使っていた魔術も王国の正式なものとは全く違いました。幻術や精神操作に特化した、陰湿で古めかしい術です。正直、正体に見当もつきません。」
ギデオンさんの報告は、謎が深まるばかりの内容だった。
一体、誰が何のためにこんな辺境の地をねらったのか。
「王都の連中の、差し金というわけでもなさそうだな。」
ダリウスさんが、うなるように言った。
「ああ。あいつらは、もっと直接的で単純なやり方しか知らんからな。」
レオさんが、皮肉っぽく付け加える。
確かに、あの第一王子がこんな手の込んだ作戦を立てられるとは思えなかった。
話し合いが、行き詰まりかけたその時だった。
今まで黙って話を聞いていた私が、静かに口を開く。
「あの、よろしいでしょうか。」
全員の視線が、私に集まった。
「奴らの正体は、今はまだ分かりません。ですが、その『目的』についてはある程度の推測ができるのではないでしょうか。」
「目的、ですと。」
ギデオンさんが、不思議そうに問い返した。
「はい。考えてみてください。もし、奴らの目的がこの城を攻め落としこの土地を奪うことだったのなら、もっと直接的な方法があったはずです。例えば、トロルをもっと早い段階で投入するとか、もっと強力な攻撃魔術を使うとか。」
「ですが、彼らが主に使ってきたのは私たちの心を乱す精神攻撃でした。それは、なぜでしょう。」
私の問いに、皆が考え込む。
アシュトン様が、はっとしたように顔を上げた。
「まさか。奴らの目的は、城を落とすことそのものではなく。」
「はい。おそらくは、『実験』だったのではないでしょうか。」
私は、自分の推理を述べた。
「彼らは、自分たちの精神攻撃の魔術がどれほどの効果があるのか試していたのです。心に傷を負った兵士たちに、どう影響するかを。このグレイウォール騎士団は、そのための格好の実験材料だった。そうは考えられませんか。」
私の言葉に、室内の空気が凍りついた。
自分たちが、ただの実験動物として扱われていたのだ。
その事実は、何よりもはずかしめられることで許しがたいことだった。
ダリウスさんが、こぶしを握りしめ怒りに震えている。
「ふざけやがって。俺たちを、モルモット扱いしやがったってのか。」
「だとすれば、奴らはまた来るということだな。今回の実験結果を元に、さらに強力な術を編み出して。」
アシュトン様が、厳しい顔でつぶやく。
謎の敵は、底知れず不気味だった。
しかし、その目的が分かったことで今後の対策も立てやすくなる。
ただ、むやみに防衛力を高めるだけでは十分ではない。
私たちは、敵の最大の標的である兵士たちの『心』を守る手段を考えなければならなかった。
私は、この機会を逃さず前から考えていた提案をすることにした。
「アシュトン様。皆様。一つ、ご提案がございます。」
私は、姿勢を正して皆に向き直った。
「今回の戦いで、私たちは絆の力で勝利できました。ですが、兵士たちが心に負った傷は決して浅くありません。戦いの恐怖は、またいつ彼らを苦しめるか分かりません。」
「そこで、この騎士団の中に正式な『相談室』のようなものを設置してはいかがでしょうか。」
「相談室か。」
「はい。兵士たちが、いつでも気軽に自分の悩みや不安を打ち明けられる場所です。私が、その相談役を務めます。定期的に面談を行い、彼らの心の状態を確かめて世話をするのです。」
「そして、私がお教えした自己表現のような技術も、もっと計画的に学べる機会を作ります。そうすることで、騎士団の結束力はさらに強固なものになるはずです。」
それは、この世界では今までに聞いたことがない提案だっただろう。
兵士の強さは、その剣の腕や魔力の強さで測られるものだ。
『心』の世話など、誰も考えたこともなかったはずである。
皆が、驚いたように私を見ていた。
しかし、その表情に否定的な色はない。
彼らは、昨日の戦いで心の力がどれほど重要かを身をもって体験したのだ。
最初に口を開いたのは、意外にもダリウスさんだった。
「俺は、大賛成だ。正直、昨日の戦いの後で夜眠れなかった。死んだやつの顔が、夢に出てきやがる。こういう話を、誰かに聞いてもらえるだけでもありがてえ。」
彼の素直な言葉に、レオさんや他の兵士たちも次々と同意した。
「俺もです。幻術で親友の姿を見た時、本当に気が狂いそうになりました。またあんなことになったらと思うと。」
「リリアーナ様と話していると、不思議と心が軽くなる。これが、いつでもできるってんならこれほど心強いことはねえ。」
ギデオンさんが、深く腕を組み静かに口を開いた。
「なるほど。敵が我々の心を攻めてくるというのなら、我々はその心を鍛え守る術を身につける。これ以上に、効果的な対策はないかもしれませぬな。」
そして最後に、アシュトン様が決断を下した。
「分かった。リリアーナ、君の提案を全面的に採用する。必要な部屋も、人員も予算も君の自由に使うといい。騎士団の『心の世話』は、君にすべて任せる。」
それは、私がこの辺境で正式な役割を与えられた瞬間だった。
王族でもなく、辺境伯の妻でもない。
臨床心理士としての、前の世界の知識と経験を生かせる私だけの役割だ。
「ありがとうございます。全力で、務めさせていただきます。」
私は、深く頭を下げた。
胸の中に、熱いものがこみ上げてくるのを感じる。
私は、この場所で私の力で生きていくことができるのだ。
会議が終わった後、アシュトン様が私に声をかけた。
「リリアーナ。少し、付き合ってくれないか。街の様子を見に行きたい。」
「はい、喜んで。」
私たちは、二人で城を出てふもとの街へと降りていった。
復興作業が、進んでいる。
彼が、私を連れて民の前に姿を現すこと。
それもまた、私が彼の『パートナー』であることを示すための明確な意思表示なのだろう。
街の人々は、私たちの姿を見つけると作業の手を止めた。
そして、次々と駆け寄ってくる。
「辺境伯様。リリアーナ様。」
「このたびは、本当にありがとうございました。」
彼らの顔には、心からの感謝と尊敬の色が浮かんでいる。
中には、涙を流して私たちの前にひざまずこうとする老人までいた。
アシュトン様は、そんな彼らを一人ひとり自らの手で立たせる。
そして、穏やかに言葉をかけた。
「礼を言う必要はない。君たちを守るのは、俺の役目だ。それよりも、皆が無事でよかった。」
その姿は、かつての『氷の辺境伯』の面影などどこにもなかった。
民を愛し、民に愛される真の領主の姿がそこにあった。
一人の、幼い女の子がおずおずと私の前にやってきた。
その小さな手には、いびつな形をした野の花の冠が握られている。
「あの、お姫様。これ、あげる。」
「まあ、ありがとう。とても、きれいね。」
私がしゃがんでそれを受け取ると、女の子ははにかんで母親の後ろに隠れてしまった。
その母親が、申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません、このようなもので。ですが、娘がどうしてもリリアーナ様に、と。」
「いいえ。とても、嬉しいです。大切にしますね。」
私は、その素朴な花の冠をそっと自分の頭に乗せた。
どんな高価な宝石のティアラよりも、それは私の心を温かく満たしてくれた。
アシュトン様は、その光景をとても優しい目で見つめていた。
街の視察を終えた私たちは、少し小高い丘の上に立っていた。
そこからは、グレイウォール辺境領の全てが見渡せる。
復興に向けて動き出した街や、再び訓練を始めた騎士団の姿が見えた。
そして、その向こうにはどこまでも厳しく美しい北の大地が広がっている。
「俺は、この景色が好きなんだ。」
アシュトン様が、ぽつりとつぶやいた。
「俺の親父も、よくここから領地を眺めていた。『この土地は貧しく厳しい。だが、ここに生きる人々は誰よりも強く温かい。その者たちを守ることこそが、辺境伯の誇りなのだ』と。」
「俺は、その言葉の意味をずっと理解できずにいた。父を失い、多くの部下を失ったあの日からだ。この景色は、俺にとってただの絶望の色にしか見えなかった。」
彼は、静かに自分の過去と向き合っていた。
その横顔を、私は黙って見守る。
「だが、今は違う。この景色が、とても愛おしく思える。守りたいと、心の底から思う。君が、この景色に色をくれたんだ。リリアーリ。」
彼は、私の方に向き直った。
その灰色の瞳には、まっすぐで揺るぎない思いが映っている。
「俺は、父をこえる領主になる。この地を、誰からもおびやかされることのない豊かな場所にしてみせる。そして、ここに生きる全ての民が心から笑える国を作る。」
彼の言葉は、もはやただの願いではなかった。
固い、未来への誓いだった。
「そのために、俺には君の力が必要だ。リリアーナ。俺の隣で、俺のパートナーとしてこの土地の未来を共に作ってはくれないだろうか。」
それは、結婚の申し込みの言葉ではなかったかもしれない。
でも、どんな愛の言葉よりも彼の真剣な思いが私の心に深く響いた。
王都から、やっかい払いとして嫁がされてきた名ばかりの王女。
そんな私が、今一人の人間としてパートナーとして必要とされている。
これ以上の幸せが、あるだろうか。
私は、こみ上げてくる涙をこらえきれずにただ何度も頷いた。
「はい、喜んで。私も、あなたの隣でこの土地のために生きていきたいです。」
私の答えに、彼は心の底から安心したように優しくほほ笑んだ。
そして、そっと私の体をその力強い腕で抱きしめる。
彼の胸に顔をうずめると、日の当たる場所のような温かいにおいがした。
北の空は、どこまでも青く澄み渡っている。
私たちの未来を、祝福するように。
長い、長い冬が終わりこの凍てついた辺境の地にようやく本当の春が訪れようとしていた。
遠くで街の復興を知らせる槌音が、希望の響きのように鳴り響く。
アシュトン様の腕の力が、少しだけ強くなった。
私はそっと目を閉じて、彼の胸に耳を当てる。
彼の心臓の音が、私のものと重なって穏やかなリズムを刻んでいた。
昨夜の祝宴の騒がしさが、うそのようである。
誰もが確かな満足感と共に、それぞれの仕事に取り掛かっていた。
窓から差し込む朝の光は、いつもより温かく感じられる。
それはきっと、私の心の状態がそう感じさせているだけなのだろう。
私はエマと共に、城の中をゆっくりと歩いていた。
すれ違う兵士や使用人たちが、皆私ににこやかにあいさつをしてくれる。
以前のような、よそ者を見る警戒心や敵意はもうない。
代わりに、仲間を見るような親しみと確かな敬意が感じられた。
「リリアーナ様、おはようございます。」
「昨日は、本当にありがとうございました。」
その一つ一つの言葉が、私の胸を温かくした。
私は、この城の一員として確かに受け入れられたのだ。
ふもとの街からも、槌音や人々の活気ある声が聞こえてきていた。
魔物に壊された家々を、人々が協力して直しているのだ。
その顔には、悲しそうな様子はなかった。
むしろ、自分たちの手で未来を立て直していく力強い意志が輝いている。
この土地は、死んではいなかったのだ。
ただ、長い冬の間固く凍てついていただけだった。
そして今、確かな春の気配が訪れようとしていた。
「すごいですね、リリアーナ様。皆さんの顔が、昨日までと全然違います。」
隣を歩くエマが、感動したようにつぶやく。
彼女の顔にも、以前のようなおびえや不安の色はなかった。
明るい、笑顔が咲いていた。
「ええ、本当に。皆、強い人たちなのですね。」
「はい。私、この土地の人間であることを誇りに思います。」
彼女の言葉が、自分のことのように嬉しかった。
朝食の後、私はアシュトン様に呼ばれて彼の仕事部屋へと向かった。
そこにはすでに、ギデオンさんやダリウスさんたちが集まっている。
騎士団の、中心的な者たちだった。
昨日の戦いで、本当の意味での行動隊長となったレオさんの姿もある。
部屋の空気は、勝利の喜びに浮かれたものではなかった。
次の段階を見据えた、引き締まった緊張感に満ちている。
私が部屋に入ると、そこにいた全員が立ち上がり私に敬礼をした。
そのことに、まず驚いてしまう。
「あ、あの皆さん、おやめください。私は、そんな者ではありません。」
戸惑う私に、アシュトン様が穏やかな声で言った。
「いや。君は、それにふさわしい敬意を受けるべきだ。リリアーナ、こちらへ。俺の隣に座ってくれ。」
彼は、自分の席の隣にもう一つ用意されていた椅子を示した。
それは、ただの客としてではない。
この会議の、主要な一員として私を認めるという明確な意思表示だった。
私は、少し戸惑いながらも彼の言葉に従ってその席に着く。
会議の議題は、もちろん昨日の戦いの後始末と今後の対策についてだった。
「まず、今回の戦いで亡くなった者たちをとむらう。彼らの家族には、領地から最大限の補償を行う。彼らの勇気と犠牲を、我々は決して忘れてはならない。」
アシュトン様の言葉に、全員がまじめな顔でうなずく。
幸い、死者の数は数年前の戦いとは比べものにならないほど少なかった。
これも、新しい連携戦術がうまくいったおかげだろう。
「次に、ギデオン。昨日の魔術師たちの件、何か分かったか。」
アシュトン様にうながされ、ギデオンさんが一歩前に進み出た。
「はっ。遺体を詳しく調べさせましたが、奇妙な点がいくつかありました。まず、奴らは人間でした。亜人などではない、純粋な人間です。」
その報告に、室内に緊張が走る。
ただの魔物の暴走では、なかったのだ。
明確な悪意を持った人間が、この襲撃を仕組んだということになる。
「そして、持ち物からこんなものが見つかりました。」
ギデオンさんがテーブルの上に置いたのは、黒い石で作られた奇妙な紋章だった。
蛇が、自らの尾をかんでいるような不気味なデザインである。
「見たことのない紋章だな。王国の、どの貴族のものでもない。」
アシュトン様が、眉をひそめた。
「はい。それに、奴らの使っていた魔術も王国の正式なものとは全く違いました。幻術や精神操作に特化した、陰湿で古めかしい術です。正直、正体に見当もつきません。」
ギデオンさんの報告は、謎が深まるばかりの内容だった。
一体、誰が何のためにこんな辺境の地をねらったのか。
「王都の連中の、差し金というわけでもなさそうだな。」
ダリウスさんが、うなるように言った。
「ああ。あいつらは、もっと直接的で単純なやり方しか知らんからな。」
レオさんが、皮肉っぽく付け加える。
確かに、あの第一王子がこんな手の込んだ作戦を立てられるとは思えなかった。
話し合いが、行き詰まりかけたその時だった。
今まで黙って話を聞いていた私が、静かに口を開く。
「あの、よろしいでしょうか。」
全員の視線が、私に集まった。
「奴らの正体は、今はまだ分かりません。ですが、その『目的』についてはある程度の推測ができるのではないでしょうか。」
「目的、ですと。」
ギデオンさんが、不思議そうに問い返した。
「はい。考えてみてください。もし、奴らの目的がこの城を攻め落としこの土地を奪うことだったのなら、もっと直接的な方法があったはずです。例えば、トロルをもっと早い段階で投入するとか、もっと強力な攻撃魔術を使うとか。」
「ですが、彼らが主に使ってきたのは私たちの心を乱す精神攻撃でした。それは、なぜでしょう。」
私の問いに、皆が考え込む。
アシュトン様が、はっとしたように顔を上げた。
「まさか。奴らの目的は、城を落とすことそのものではなく。」
「はい。おそらくは、『実験』だったのではないでしょうか。」
私は、自分の推理を述べた。
「彼らは、自分たちの精神攻撃の魔術がどれほどの効果があるのか試していたのです。心に傷を負った兵士たちに、どう影響するかを。このグレイウォール騎士団は、そのための格好の実験材料だった。そうは考えられませんか。」
私の言葉に、室内の空気が凍りついた。
自分たちが、ただの実験動物として扱われていたのだ。
その事実は、何よりもはずかしめられることで許しがたいことだった。
ダリウスさんが、こぶしを握りしめ怒りに震えている。
「ふざけやがって。俺たちを、モルモット扱いしやがったってのか。」
「だとすれば、奴らはまた来るということだな。今回の実験結果を元に、さらに強力な術を編み出して。」
アシュトン様が、厳しい顔でつぶやく。
謎の敵は、底知れず不気味だった。
しかし、その目的が分かったことで今後の対策も立てやすくなる。
ただ、むやみに防衛力を高めるだけでは十分ではない。
私たちは、敵の最大の標的である兵士たちの『心』を守る手段を考えなければならなかった。
私は、この機会を逃さず前から考えていた提案をすることにした。
「アシュトン様。皆様。一つ、ご提案がございます。」
私は、姿勢を正して皆に向き直った。
「今回の戦いで、私たちは絆の力で勝利できました。ですが、兵士たちが心に負った傷は決して浅くありません。戦いの恐怖は、またいつ彼らを苦しめるか分かりません。」
「そこで、この騎士団の中に正式な『相談室』のようなものを設置してはいかがでしょうか。」
「相談室か。」
「はい。兵士たちが、いつでも気軽に自分の悩みや不安を打ち明けられる場所です。私が、その相談役を務めます。定期的に面談を行い、彼らの心の状態を確かめて世話をするのです。」
「そして、私がお教えした自己表現のような技術も、もっと計画的に学べる機会を作ります。そうすることで、騎士団の結束力はさらに強固なものになるはずです。」
それは、この世界では今までに聞いたことがない提案だっただろう。
兵士の強さは、その剣の腕や魔力の強さで測られるものだ。
『心』の世話など、誰も考えたこともなかったはずである。
皆が、驚いたように私を見ていた。
しかし、その表情に否定的な色はない。
彼らは、昨日の戦いで心の力がどれほど重要かを身をもって体験したのだ。
最初に口を開いたのは、意外にもダリウスさんだった。
「俺は、大賛成だ。正直、昨日の戦いの後で夜眠れなかった。死んだやつの顔が、夢に出てきやがる。こういう話を、誰かに聞いてもらえるだけでもありがてえ。」
彼の素直な言葉に、レオさんや他の兵士たちも次々と同意した。
「俺もです。幻術で親友の姿を見た時、本当に気が狂いそうになりました。またあんなことになったらと思うと。」
「リリアーナ様と話していると、不思議と心が軽くなる。これが、いつでもできるってんならこれほど心強いことはねえ。」
ギデオンさんが、深く腕を組み静かに口を開いた。
「なるほど。敵が我々の心を攻めてくるというのなら、我々はその心を鍛え守る術を身につける。これ以上に、効果的な対策はないかもしれませぬな。」
そして最後に、アシュトン様が決断を下した。
「分かった。リリアーナ、君の提案を全面的に採用する。必要な部屋も、人員も予算も君の自由に使うといい。騎士団の『心の世話』は、君にすべて任せる。」
それは、私がこの辺境で正式な役割を与えられた瞬間だった。
王族でもなく、辺境伯の妻でもない。
臨床心理士としての、前の世界の知識と経験を生かせる私だけの役割だ。
「ありがとうございます。全力で、務めさせていただきます。」
私は、深く頭を下げた。
胸の中に、熱いものがこみ上げてくるのを感じる。
私は、この場所で私の力で生きていくことができるのだ。
会議が終わった後、アシュトン様が私に声をかけた。
「リリアーナ。少し、付き合ってくれないか。街の様子を見に行きたい。」
「はい、喜んで。」
私たちは、二人で城を出てふもとの街へと降りていった。
復興作業が、進んでいる。
彼が、私を連れて民の前に姿を現すこと。
それもまた、私が彼の『パートナー』であることを示すための明確な意思表示なのだろう。
街の人々は、私たちの姿を見つけると作業の手を止めた。
そして、次々と駆け寄ってくる。
「辺境伯様。リリアーナ様。」
「このたびは、本当にありがとうございました。」
彼らの顔には、心からの感謝と尊敬の色が浮かんでいる。
中には、涙を流して私たちの前にひざまずこうとする老人までいた。
アシュトン様は、そんな彼らを一人ひとり自らの手で立たせる。
そして、穏やかに言葉をかけた。
「礼を言う必要はない。君たちを守るのは、俺の役目だ。それよりも、皆が無事でよかった。」
その姿は、かつての『氷の辺境伯』の面影などどこにもなかった。
民を愛し、民に愛される真の領主の姿がそこにあった。
一人の、幼い女の子がおずおずと私の前にやってきた。
その小さな手には、いびつな形をした野の花の冠が握られている。
「あの、お姫様。これ、あげる。」
「まあ、ありがとう。とても、きれいね。」
私がしゃがんでそれを受け取ると、女の子ははにかんで母親の後ろに隠れてしまった。
その母親が、申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません、このようなもので。ですが、娘がどうしてもリリアーナ様に、と。」
「いいえ。とても、嬉しいです。大切にしますね。」
私は、その素朴な花の冠をそっと自分の頭に乗せた。
どんな高価な宝石のティアラよりも、それは私の心を温かく満たしてくれた。
アシュトン様は、その光景をとても優しい目で見つめていた。
街の視察を終えた私たちは、少し小高い丘の上に立っていた。
そこからは、グレイウォール辺境領の全てが見渡せる。
復興に向けて動き出した街や、再び訓練を始めた騎士団の姿が見えた。
そして、その向こうにはどこまでも厳しく美しい北の大地が広がっている。
「俺は、この景色が好きなんだ。」
アシュトン様が、ぽつりとつぶやいた。
「俺の親父も、よくここから領地を眺めていた。『この土地は貧しく厳しい。だが、ここに生きる人々は誰よりも強く温かい。その者たちを守ることこそが、辺境伯の誇りなのだ』と。」
「俺は、その言葉の意味をずっと理解できずにいた。父を失い、多くの部下を失ったあの日からだ。この景色は、俺にとってただの絶望の色にしか見えなかった。」
彼は、静かに自分の過去と向き合っていた。
その横顔を、私は黙って見守る。
「だが、今は違う。この景色が、とても愛おしく思える。守りたいと、心の底から思う。君が、この景色に色をくれたんだ。リリアーリ。」
彼は、私の方に向き直った。
その灰色の瞳には、まっすぐで揺るぎない思いが映っている。
「俺は、父をこえる領主になる。この地を、誰からもおびやかされることのない豊かな場所にしてみせる。そして、ここに生きる全ての民が心から笑える国を作る。」
彼の言葉は、もはやただの願いではなかった。
固い、未来への誓いだった。
「そのために、俺には君の力が必要だ。リリアーナ。俺の隣で、俺のパートナーとしてこの土地の未来を共に作ってはくれないだろうか。」
それは、結婚の申し込みの言葉ではなかったかもしれない。
でも、どんな愛の言葉よりも彼の真剣な思いが私の心に深く響いた。
王都から、やっかい払いとして嫁がされてきた名ばかりの王女。
そんな私が、今一人の人間としてパートナーとして必要とされている。
これ以上の幸せが、あるだろうか。
私は、こみ上げてくる涙をこらえきれずにただ何度も頷いた。
「はい、喜んで。私も、あなたの隣でこの土地のために生きていきたいです。」
私の答えに、彼は心の底から安心したように優しくほほ笑んだ。
そして、そっと私の体をその力強い腕で抱きしめる。
彼の胸に顔をうずめると、日の当たる場所のような温かいにおいがした。
北の空は、どこまでも青く澄み渡っている。
私たちの未来を、祝福するように。
長い、長い冬が終わりこの凍てついた辺境の地にようやく本当の春が訪れようとしていた。
遠くで街の復興を知らせる槌音が、希望の響きのように鳴り響く。
アシュトン様の腕の力が、少しだけ強くなった。
私はそっと目を閉じて、彼の胸に耳を当てる。
彼の心臓の音が、私のものと重なって穏やかなリズムを刻んでいた。
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そんな…せっかく王宮の侍女の仕事にありつけたのに…!
でも王宮の庭園で、出会った人に連れてこられた先で、どうにかなりそうです!?
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全33話です。出来上がってますので、随時更新していきます。
読んでいただけると嬉しいです。
追放令嬢、辺境王国で無双して王宮を揺るがす
yukataka
ファンタジー
王国随一の名門ハーランド公爵家の令嬢エリシアは、第一王子の婚約者でありながら、王宮の陰謀により突然追放される。濡れ衣を着せられ、全てを奪われた彼女は極寒の辺境国家ノルディアへと流される。しかしエリシアには秘密があった――前世の記憶と現代日本の経営知識を持つ転生者だったのだ。荒廃した辺境で、彼女は持ち前の戦略眼と人心掌握術で奇跡の復興を成し遂げる。やがて彼女の手腕は王国全土を震撼させ、自らを追放した者たちに復讐の刃を向ける。だが辺境王ルシアンとの運命的な出会いが、彼女の心に新たな感情を芽生えさせていく。これは、理不尽に奪われた女性が、知略と情熱で世界を変える物語――。
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