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戦いの翌日、グレイウォール辺境領には、穏やかで、しかし力強い朝が訪れた。
空はどこまでも高く澄み渡り、まるでこの地の新たな門出を祝福しているかのようだ。
昨夜の祝宴の熱気はまだ城のあちこちに残っていたが、人々はすぐに現実へと向き合い始めていた。
城門の外では、亡くなった兵士たちのための合同葬儀が、厳かに執り行われていた。
犠牲者の数は、数年前の戦いと比べれば、奇跡的と言っていいほど少ない。
それでも、失われた命の重さは、決して軽くはなかった。
並べられた簡素な棺の前で、遺族たちの嗚咽が漏れる。
その悲しみに満ちた光景を、私はアシュトン様の隣で、ただ黙って見つめていた。
私にできることは、彼らの悲しみに、そっと寄り添うことだけだ。
アシュトン様が、領主として弔辞を述べた。
その言葉は、決して流暢ではなかったかもしれない。
だが、そこには故人への心からの追悼と、残された者たちへの深い思いやりに満ちていた。
「彼らの勇気と犠牲を、我々は決して忘れない。」
「彼らが命を懸けて守ったこの故郷を、我々は必ず、豊かで平和な地にすることを誓う。」
彼の力強い言葉に、すすり泣いていた遺族たちも、顔を上げる。
その目には、悲しみだけでなく、未来への決意の光が宿っていた。
葬儀が終わった後、私は一人ひとりの遺族の元を訪れた。
夫を亡くした若い妻や、息子を失った老いた母親。
彼女たちは、私の前で、堰を切ったように想いを語り始めた。
「あんなに、優しい人だったんです。」
「虫も殺せないような人だったのに、どうして。」
「自慢の息子でした。この土地を守る騎士になるんだと、いつも誇らしげに話していました。」
私は、彼女たちの言葉を、ただひたすらに聞いた。
相槌を打ち、時にその手を握り、涙を拭う。
安易な慰めの言葉は、ここでは無力だ。
大切なのは、悲しみを無理に忘れさせようとしないこと。
悲しみを抱えたまま、前を向いて生きていく手助けをすることだ。
心理学で言う、グリーフケアというもの。
「辛かったですね。今は、無理に笑う必要なんてありませんよ。」
「たくさん泣いていいんです。あなたの悲しみは、決して間違っていませんから。」
私は、彼女たちの感情を、ありのままに肯定した。
それだけで、彼女たちの表情が、少しだけ和らいでいくのが分かった。
悲しみという感情の嵐の中で、溺れそうになっていた彼女たち。
私の言葉は、ほんのささやかな救命浮輪になったのかもしれない。
その日の午後、私の提案した心の相談室が、城の一室で正式に始まった。
日当たりの良い、こぢんまりとした部屋だ。
そこには、簡素な机と、二脚の椅子だけが置かれている。
ここが、これから騎士たちの心を癒やす、大切な場所になるのだ。
最初の相談者としてやってきたのは、レオさんだった。
彼は、部屋に入るなり、深々と私に頭を下げた。
「リリアーナ様。先日は、本当にありがとうございました。」
「あなた様の言葉がなければ、俺は、幻術に心を食い殺されていたと思います。」
「いいえ、レオさん。あなたは、ご自身の力で幻を打ち破ったのですよ。」
「さあ、こちらへ座ってください。」
私は彼を椅子に促し、向かい合って座った。
彼は、どこか緊張した面持ちで、自分の膝の上で固く拳を握りしめている。
「何か、お話したいことがあるのではないですか。」
「どんな些細なことでも構いませんよ。」
私の穏やかな問いかけに、彼はしばらくためらっていた。
やがて、意を決したように、ぽつりぽつりと語り始める。
幻術で見た、親友の姿のこと。
彼を救えなかったという、ずっと胸の奥に抱え続けてきた罪悪感について。
「あいつは、俺のせいで死んだんです。俺が、もっと強ければ。」
「俺が、もっと早く気づいていれば。」
彼の声は、震えていた。
自分を責める言葉が、次から次へと溢れ出してくる。
これは、戦争を生き延びた兵士が陥りやすい、サバイバーズ・ギルトと呼ばれる心理状態だ。
私は、彼の話を遮ることなく、最後まで聞いた。
彼が、全ての感情を吐き出し終えるのを、辛抱強く待つ。
やがて、彼は言葉に詰まり、俯いてしまった。
肩が、小さく震えている。
「そうだったのですね。あなたは、ずっと、そんな重い荷物を一人で背負ってこられたのですね。」
私は、彼の苦しみを、そのまま言葉にして返した。
「あなたは、ご友人を救えなかった、と感じていらっしゃる。」
「そして、そのことで、ご自身を責め続けているのですね。」
「ですが、レオさん。あなたのご友人は、本当に、あなたのことを責めているでしょうか。」
「彼が、今ここにいたとしたら、あなたに何と言うと思いますか。」
私の問いに、レオさんははっとしたように顔を上げた。
彼の瞳が、激しく揺れる。
「あいつなら、きっと、言うでしょうね。」
「『お前のせいじゃない。俺の分まで、生き抜け』って。」
「そうですね。私も、そう思います。」
「あなたは、生き残ってしまったのではなく、彼から『生きる』ことを託されたのではないでしょうか。」
「彼の死を無駄にしないためにも、あなたは、幸せに生きる義務がある。そうは、考えられませんか。」
私の言葉は、彼の心に深く染み渡っていったようだ。
彼の固く握りしめられていた拳が、ゆっくりと解かれていく。
「俺は、生きていて、いいんでしょうか。」
「もちろんです。あなたは、生きるべき人です。」
「そして、あなたには、あなたにしか救えない人が、これからたくさん現れるはずです。」
私は、彼の存在そのものを、力強く肯定した。
レオさんの目から、大粒の涙が、止めどなく溢れ出した。
それは、長年彼を縛り付けてきた、罪悪感という名の氷が、ようやく溶け始めた証だった。
その日を境に、相談室には、多くの兵士たちが訪れるようになった。
ダリウスさんは、意外にも、自分の強すぎる力に対する恐怖を打ち明けてくれた。
戦場で高揚すると、自分でも力の制御が効かなくなる。
仲間まで傷つけてしまうのではないかと、常に怯えているのだという。
ボルツさんは、腕の怪我で、もう二度と剣を握れないかもしれないという不安を語った。
騎士として役に立てなくなった自分は、家族を養うこともできない。
無価値な人間なのではないかと、彼は思い詰めていた。
私は、彼ら一人ひとりの声に、真摯に耳を傾けた。
そして、彼らが自分自身の中に、新たな価値や役割を見つけ出す手助けをした。
ダリウスさんには、その力を守るために使う訓練を提案した。
ただ敵を倒すだけでなく、仲間を守るための盾となる動きを身につける。
そうすれば、力の新たな使い道を見出せるのではないかと考えた。
ボルツさんには、剣を握ることだけが騎士の役目ではないと伝えた。
彼の豊富な実戦経験は、若い兵士たちを育てるための、何よりの財産になる。
これからは、教官として、騎士団を支えてほしいと。
私のカウンセリングは、兵士たちの間に、確かな変化をもたらしていった。
彼らの表情から、以前のような自暴自棄な雰囲気は消える。
代わりに、自分の役割に対する誇りと、未来への希望が生まれ始めていた。
心のケアを受けることは、弱さの証明ではない。
真の強さを手に入れるために不可欠なことなのだと、誰もが理解し始めたのだ。
一方、アシュトン様は、領地の本格的な復興計画に着手していた。
まずは、喫緊の課題である、食糧問題の解決だ。
今回の戦いで、街の食料庫はほとんど空になってしまった。
冬が来る前に、十分な食料を確保しなければ、多くの領民が飢えることになる。
しかし、この辺境の痩せた土地では、作物の収穫量はたかが知れている。
王都からの支援など、最初から期待できない。
その夜、私はアシュトン様の執務室で、二人きりで話し合っていた。
テーブルの上には、領地の地図が広げられている。
「やはり、厳しいな。この土地の土壌そのものを改良しない限り、抜本的な解決にはならない。」
アシュトン様が、疲れた顔で呟く。
「何か、この土地の気候や土壌に適した、特別な作物などはないのでしょうか。」
「あるいは、作物の育て方そのものに、何か工夫ができるとか。」
私がそう尋ねると、彼は首を横に振った。
「先代も、色々と試してはいたようだ。だが、どれも上手くいかなかったらしい。」
「結局、北の土地は、呪われているのだと、皆が諦めてしまっている。」
諦め。
それが、この土地の人々の心を、最も深く蝕んでいる病なのかもしれない。
私は、前世の知識を必死に手繰り寄せた。
臨床心理士だった私に、農業の専門知識などあるはずもない。
だが、何か、ヒントになるようなことはないだろうか。
温室栽培や、水耕栽培、品種改良。
様々な単語が頭をよぎるが、この世界で実現可能かどうかは分からない。
やはり、この土地のことを、もっと深く知る必要がある。
書物だけでなく、ここに長く暮らしてきた人々の、生きた知識が。
「アシュトン様。領民の方々の中に、農業や、この土地の植物に、特に詳しい方はいらっしゃらないのでしょうか。」
「うぅむ。皆、代々伝わるやり方で、細々と畑を耕しているだけだからな。」
「特別な知識を持つ者など、いるだろうか。」
彼は、腕を組んで考え込んでしまった。
その時、執務室の扉が控えめにノックされた。
お茶を運んできた、エマだった。
彼女は、私達の会話を耳にしたのか、おずおずと口を開いた。
「あの、もし、お役に立てるか分かりませんが。」
「どうした、エマ。」
「はい。私の村の、その、森の奥に、一人で暮らしているお爺さんがいます。」
「村の皆は、『偏屈じいさん』と呼んで、誰も近づかないのですが。」
「そのお爺さん、昔は、先代の辺境伯様と一緒に、畑仕事の研究をしていた、と聞いたことがあります。」
「薬草や、珍しい植物にも、とても詳しいって。」
エマの情報に、私とアシュトン様は、顔を見合わせた。
それは、まさに、私達が求めていた人物像だった。
「その方は、今もそこに。」
「はい、おそらくは。ですが、あの方は、人をとても嫌っていて。」
「特に、お貴族様は。」
エマは、不安そうな顔で付け加えた。
おそらく、何か過去にあったのだろう。
しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。
アシュトン様が、決意を込めた顔で言った。
「会いに行こう。リリアーナ、君も付き合ってくれるか。」
「はい、もちろんです。」
一条の光が、差し込んできたような気がした。
この凍てついた大地に、緑の恵みをもたらすための、最初の鍵。
私達は、その鍵を持つ人物に、会いに行くことを決めた。
空はどこまでも高く澄み渡り、まるでこの地の新たな門出を祝福しているかのようだ。
昨夜の祝宴の熱気はまだ城のあちこちに残っていたが、人々はすぐに現実へと向き合い始めていた。
城門の外では、亡くなった兵士たちのための合同葬儀が、厳かに執り行われていた。
犠牲者の数は、数年前の戦いと比べれば、奇跡的と言っていいほど少ない。
それでも、失われた命の重さは、決して軽くはなかった。
並べられた簡素な棺の前で、遺族たちの嗚咽が漏れる。
その悲しみに満ちた光景を、私はアシュトン様の隣で、ただ黙って見つめていた。
私にできることは、彼らの悲しみに、そっと寄り添うことだけだ。
アシュトン様が、領主として弔辞を述べた。
その言葉は、決して流暢ではなかったかもしれない。
だが、そこには故人への心からの追悼と、残された者たちへの深い思いやりに満ちていた。
「彼らの勇気と犠牲を、我々は決して忘れない。」
「彼らが命を懸けて守ったこの故郷を、我々は必ず、豊かで平和な地にすることを誓う。」
彼の力強い言葉に、すすり泣いていた遺族たちも、顔を上げる。
その目には、悲しみだけでなく、未来への決意の光が宿っていた。
葬儀が終わった後、私は一人ひとりの遺族の元を訪れた。
夫を亡くした若い妻や、息子を失った老いた母親。
彼女たちは、私の前で、堰を切ったように想いを語り始めた。
「あんなに、優しい人だったんです。」
「虫も殺せないような人だったのに、どうして。」
「自慢の息子でした。この土地を守る騎士になるんだと、いつも誇らしげに話していました。」
私は、彼女たちの言葉を、ただひたすらに聞いた。
相槌を打ち、時にその手を握り、涙を拭う。
安易な慰めの言葉は、ここでは無力だ。
大切なのは、悲しみを無理に忘れさせようとしないこと。
悲しみを抱えたまま、前を向いて生きていく手助けをすることだ。
心理学で言う、グリーフケアというもの。
「辛かったですね。今は、無理に笑う必要なんてありませんよ。」
「たくさん泣いていいんです。あなたの悲しみは、決して間違っていませんから。」
私は、彼女たちの感情を、ありのままに肯定した。
それだけで、彼女たちの表情が、少しだけ和らいでいくのが分かった。
悲しみという感情の嵐の中で、溺れそうになっていた彼女たち。
私の言葉は、ほんのささやかな救命浮輪になったのかもしれない。
その日の午後、私の提案した心の相談室が、城の一室で正式に始まった。
日当たりの良い、こぢんまりとした部屋だ。
そこには、簡素な机と、二脚の椅子だけが置かれている。
ここが、これから騎士たちの心を癒やす、大切な場所になるのだ。
最初の相談者としてやってきたのは、レオさんだった。
彼は、部屋に入るなり、深々と私に頭を下げた。
「リリアーナ様。先日は、本当にありがとうございました。」
「あなた様の言葉がなければ、俺は、幻術に心を食い殺されていたと思います。」
「いいえ、レオさん。あなたは、ご自身の力で幻を打ち破ったのですよ。」
「さあ、こちらへ座ってください。」
私は彼を椅子に促し、向かい合って座った。
彼は、どこか緊張した面持ちで、自分の膝の上で固く拳を握りしめている。
「何か、お話したいことがあるのではないですか。」
「どんな些細なことでも構いませんよ。」
私の穏やかな問いかけに、彼はしばらくためらっていた。
やがて、意を決したように、ぽつりぽつりと語り始める。
幻術で見た、親友の姿のこと。
彼を救えなかったという、ずっと胸の奥に抱え続けてきた罪悪感について。
「あいつは、俺のせいで死んだんです。俺が、もっと強ければ。」
「俺が、もっと早く気づいていれば。」
彼の声は、震えていた。
自分を責める言葉が、次から次へと溢れ出してくる。
これは、戦争を生き延びた兵士が陥りやすい、サバイバーズ・ギルトと呼ばれる心理状態だ。
私は、彼の話を遮ることなく、最後まで聞いた。
彼が、全ての感情を吐き出し終えるのを、辛抱強く待つ。
やがて、彼は言葉に詰まり、俯いてしまった。
肩が、小さく震えている。
「そうだったのですね。あなたは、ずっと、そんな重い荷物を一人で背負ってこられたのですね。」
私は、彼の苦しみを、そのまま言葉にして返した。
「あなたは、ご友人を救えなかった、と感じていらっしゃる。」
「そして、そのことで、ご自身を責め続けているのですね。」
「ですが、レオさん。あなたのご友人は、本当に、あなたのことを責めているでしょうか。」
「彼が、今ここにいたとしたら、あなたに何と言うと思いますか。」
私の問いに、レオさんははっとしたように顔を上げた。
彼の瞳が、激しく揺れる。
「あいつなら、きっと、言うでしょうね。」
「『お前のせいじゃない。俺の分まで、生き抜け』って。」
「そうですね。私も、そう思います。」
「あなたは、生き残ってしまったのではなく、彼から『生きる』ことを託されたのではないでしょうか。」
「彼の死を無駄にしないためにも、あなたは、幸せに生きる義務がある。そうは、考えられませんか。」
私の言葉は、彼の心に深く染み渡っていったようだ。
彼の固く握りしめられていた拳が、ゆっくりと解かれていく。
「俺は、生きていて、いいんでしょうか。」
「もちろんです。あなたは、生きるべき人です。」
「そして、あなたには、あなたにしか救えない人が、これからたくさん現れるはずです。」
私は、彼の存在そのものを、力強く肯定した。
レオさんの目から、大粒の涙が、止めどなく溢れ出した。
それは、長年彼を縛り付けてきた、罪悪感という名の氷が、ようやく溶け始めた証だった。
その日を境に、相談室には、多くの兵士たちが訪れるようになった。
ダリウスさんは、意外にも、自分の強すぎる力に対する恐怖を打ち明けてくれた。
戦場で高揚すると、自分でも力の制御が効かなくなる。
仲間まで傷つけてしまうのではないかと、常に怯えているのだという。
ボルツさんは、腕の怪我で、もう二度と剣を握れないかもしれないという不安を語った。
騎士として役に立てなくなった自分は、家族を養うこともできない。
無価値な人間なのではないかと、彼は思い詰めていた。
私は、彼ら一人ひとりの声に、真摯に耳を傾けた。
そして、彼らが自分自身の中に、新たな価値や役割を見つけ出す手助けをした。
ダリウスさんには、その力を守るために使う訓練を提案した。
ただ敵を倒すだけでなく、仲間を守るための盾となる動きを身につける。
そうすれば、力の新たな使い道を見出せるのではないかと考えた。
ボルツさんには、剣を握ることだけが騎士の役目ではないと伝えた。
彼の豊富な実戦経験は、若い兵士たちを育てるための、何よりの財産になる。
これからは、教官として、騎士団を支えてほしいと。
私のカウンセリングは、兵士たちの間に、確かな変化をもたらしていった。
彼らの表情から、以前のような自暴自棄な雰囲気は消える。
代わりに、自分の役割に対する誇りと、未来への希望が生まれ始めていた。
心のケアを受けることは、弱さの証明ではない。
真の強さを手に入れるために不可欠なことなのだと、誰もが理解し始めたのだ。
一方、アシュトン様は、領地の本格的な復興計画に着手していた。
まずは、喫緊の課題である、食糧問題の解決だ。
今回の戦いで、街の食料庫はほとんど空になってしまった。
冬が来る前に、十分な食料を確保しなければ、多くの領民が飢えることになる。
しかし、この辺境の痩せた土地では、作物の収穫量はたかが知れている。
王都からの支援など、最初から期待できない。
その夜、私はアシュトン様の執務室で、二人きりで話し合っていた。
テーブルの上には、領地の地図が広げられている。
「やはり、厳しいな。この土地の土壌そのものを改良しない限り、抜本的な解決にはならない。」
アシュトン様が、疲れた顔で呟く。
「何か、この土地の気候や土壌に適した、特別な作物などはないのでしょうか。」
「あるいは、作物の育て方そのものに、何か工夫ができるとか。」
私がそう尋ねると、彼は首を横に振った。
「先代も、色々と試してはいたようだ。だが、どれも上手くいかなかったらしい。」
「結局、北の土地は、呪われているのだと、皆が諦めてしまっている。」
諦め。
それが、この土地の人々の心を、最も深く蝕んでいる病なのかもしれない。
私は、前世の知識を必死に手繰り寄せた。
臨床心理士だった私に、農業の専門知識などあるはずもない。
だが、何か、ヒントになるようなことはないだろうか。
温室栽培や、水耕栽培、品種改良。
様々な単語が頭をよぎるが、この世界で実現可能かどうかは分からない。
やはり、この土地のことを、もっと深く知る必要がある。
書物だけでなく、ここに長く暮らしてきた人々の、生きた知識が。
「アシュトン様。領民の方々の中に、農業や、この土地の植物に、特に詳しい方はいらっしゃらないのでしょうか。」
「うぅむ。皆、代々伝わるやり方で、細々と畑を耕しているだけだからな。」
「特別な知識を持つ者など、いるだろうか。」
彼は、腕を組んで考え込んでしまった。
その時、執務室の扉が控えめにノックされた。
お茶を運んできた、エマだった。
彼女は、私達の会話を耳にしたのか、おずおずと口を開いた。
「あの、もし、お役に立てるか分かりませんが。」
「どうした、エマ。」
「はい。私の村の、その、森の奥に、一人で暮らしているお爺さんがいます。」
「村の皆は、『偏屈じいさん』と呼んで、誰も近づかないのですが。」
「そのお爺さん、昔は、先代の辺境伯様と一緒に、畑仕事の研究をしていた、と聞いたことがあります。」
「薬草や、珍しい植物にも、とても詳しいって。」
エマの情報に、私とアシュトン様は、顔を見合わせた。
それは、まさに、私達が求めていた人物像だった。
「その方は、今もそこに。」
「はい、おそらくは。ですが、あの方は、人をとても嫌っていて。」
「特に、お貴族様は。」
エマは、不安そうな顔で付け加えた。
おそらく、何か過去にあったのだろう。
しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。
アシュトン様が、決意を込めた顔で言った。
「会いに行こう。リリアーナ、君も付き合ってくれるか。」
「はい、もちろんです。」
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