独身おじさんの異世界おひとりさまライフ〜金や評価は要りません。コーヒーとタバコ、そして本があれば最高です〜

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第16章 おじさんと旅芸人の少女

第203話

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トレシーが店に来る頻度は、少しずつ増えていった。

最終的には、毎日。

だが、彼女は相変わらず扉の音を忍ばせるようにして入ってきて、誰にも気づかれないように店の奥へ向かう。

そして、棚に置かれた小さなリュートを両手で抱えるように取り出し、定位置の椅子へ座る。

構え方はもう板についている。

背筋をぴんと伸ばし、指を弦に添える。

余計な緊張もなく、かといって馴れ馴れしさもない。

ただ、自分とリュートとの距離を、毎回確かめながら触れているような動きだった。

一音目が、そっと空気を震わせる。

そのとき、店内の空気がふっと切り替わる。

誰も合図をしていないのに、客たちの動きが自然に静まる。

読書していた者はページをめくる手を少しだけゆっくりにし、煙草に火をつけた者は一度だけ煙を吐いてから、指を止める。

誰も喋らない。

誰も彼女を見ないふりをしながら、耳だけは澄ませている。

トレシーは鼻歌を乗せるようになっていた。

それも、ほんのわずかに。

旋律のようでいて旋律ではない、言葉のない歌。

だが、確かに彼女の声だった。

弾く音と、声の重なりが、店内に広がっていく。

だが、誰も拍手はしない。

誰も言葉をかけない。

そして、彼女も誰にも視線を向けない。

「……静かだな」

俺はカウンターの奥で、そう呟いた。

声に出して言ったわけじゃない。ただ心の中で思っただけだ。

だが、この静けさが、居心地が悪いわけではない。

むしろ、この店にとっては自然なことだ。

珈琲と煙草、それにリュート。

どれも騒がず、語らず、ただそこにあるだけのもの。

けれど、ないと物足りない。

そんな空気になっていた。

ある日、旅の冒険者風の女が店に入ってきて、カウンターに腰かけた。

「ここ……歌姫がいるって聞いたんだけど」

俺は返事をしなかった。

女は苦笑いして、肩をすくめた。

「いや、別に歌ってるわけじゃないってのはわかってるよ。名前も知らないし、目立ちたくもなさそうだ」

「でもさ、静かな店で、なんか音楽が流れてるって、気持ちが落ち着くんだよな」

「……そういうの、久しぶりで」

言って、女はカウンターに出された珈琲を受け取ると、一口すする。

「……うまい」

それからは黙っていた。

後ろでは、今日もトレシーがリュートを弾いていた。

空気に馴染んだ音だった。

誰も、それに拍手をしない。

誰も、それを見つめない。

ただ、それを聴くために来て、聴くだけで帰っていく。

そんな客がちらほら増えてきた。

それでも、彼女は怯えたりしない。

誰も自分を見ていない、という空気を、店がちゃんと作っているからだ。

それは、客たちの無言の配慮でもあった。

この空気を壊さないように、という無言の協力。

「いい客ばかりだな」

そう思いながら、俺はカップを拭いて棚に戻す。

トレシーは、一曲弾き終えると、ひと呼吸だけ間を置き、また指を動かし始める。

その繰り返し。

彼女にとっても、きっとここは「音を出してもいい場所」になっているのだろう。

大きな声も、拍手も、名前も要らない。

ただ、少しだけ勇気を出せば、音にしても許される場所。

俺は、カウンターからその様子を眺めながら、煙草に火をつけた。

紫煙が細く、まっすぐに上がっていく。

誰も言葉にしないまま、ひとつの音楽が、店の空気になっていた。
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