【完結】没落令嬢、異世界で紅茶店を開くことにいたしました〜香りと静寂と癒しの一杯をあなたに〜

旅する書斎(☆ほしい)

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第12話

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わたくしはティーポットの中で茶葉が踊るのを見つめながら、細かく立ち上る湯気の向こうに浮かぶ夜の輪郭を、ゆったりと吸い込んでおりましたの。

“月下の調べ”と名づけたこの一杯は、夜の時間を美しく区切るための香りですわ。

目を覚ましているのに、夢を見ているような穏やかさ。

ラベンダーの深い甘さに、ブルーマロウの青みがかった静けさが重なって、最後にスターアニスのかすかな刺激が抜けてゆく。

香りのバランスは、気分の温度に応じて微調整が必要ですけれど、本日は完璧な一杯ができましたわ。

「今夜はこのお茶で、ゆっくりお休みになれますわ」

そう言って彼の前にティーカップを置きますと、彼はそれを手に取り、静かに香りを吸い込んで、ため息のようにひと息吐きましたの。

「……これは、眠らずに飲むのがもったいないくらいですね」

「ふふ、それは香りの魔法が効いている証ですわ。お話などせずとも、香りで十分でございますのよ」

「そうですね……」

小屋の中はすっかり夜の空気に満たされていて、窓の外からは湖面を渡る夜風が、レースのカーテンを静かに揺らしておりましたの。

わたくしは椅子を一脚引き寄せ、棚の上に置いたランタンに火を灯し、薄明かりのなかで彼の表情を横目に観察いたしました。

彼の顔には、到着した日にはなかった落ち着きが浮かんでおりましたわ。

お茶は、確かにその人の心を映しますもの。

「アナさま……このまま、ずっとここにいたら、いけませんかね」

「いけなくはありませんけれど、それでは“物語”が始まりませんわ」

「物語……?」

「ええ。旅人が香草の小屋に辿り着いて、お茶に癒され、再び歩き出す──それが“静寂の香り亭”の物語ですもの」

「なるほど。そしたら俺も、その登場人物ってことですか」

「そうですわ。そして、あなたが再び歩き出したとき、その香りはきっと背中を押してくださいます」

「……アナさまって、本当に、不思議な人ですね」

「それはよく言われますわ。わたくし自身は、ただお茶を淹れているだけなのですけれど」

「うーん、でも……やっぱり特別です」

「わたくしにとっては、あなたも特別なお客様の一人ですわ」

そのまま、お互いに言葉を交わさぬまま、香りだけを頼りに時間を過ごしましたの。

ランタンの灯りが少し揺れて、棚の瓶に反射した光が、ゆらゆらと壁を彩っております。

彼が椅子の背に身を預けて目を閉じたとき、わたくしは静かに立ち上がり、ティーカップを下げました。

音を立てぬよう、カップを棚に戻し、残った茶を小さな薬草鉢に注いであげましたの。

香草にも、おすそ分けを。

お礼の意味と、明日も健やかでいてほしいという願いを込めて。

すると、ミントの葉がふわりと揺れて、小さな風が足元を撫でましたの。

ふと、扉の外に人の気配がいたしました。

森に動物は多いものの、人の足音はまた別物でしてよ。

耳を澄ませば、柔らかく、しかし確実な踏みしめ。

誰かが近づいてきている音。

わたくしは静かに扉を開けましたの。

そこには、旅装束を身にまとった小柄な女性がひとり、立っておりましたの。

帽子を目深に被っていて顔は見えませんでしたが、手には干し草の編み込み袋、背には地図と冊子が束ねられております。

「まあ、遅いお時間に珍しいお客様ですこと」

「……香りに、導かれて……まいりました……」

その声に、わたくしはほんの少しだけ目を見開きましたの。

「お入りなさいな。もしかして……“蒼銀の帳”の方で?」

「エレノアの名を出されましたね。なら、私の身分は隠しませんわ」

女性は帽子を取り、胸元のリボンを解いて、しなやかに頭を下げましたの。

青灰色の瞳と、すらりとした輪郭。

その仕草の端々に、教養と知識の重なりを感じさせる動きがございました。

「わたくしはマルグリット。エレノアの娘です。……あなたが、アナスタシア様ですね」

「ええ、そう名乗っておりますわ」

「手紙は届いております。母から“香草の令嬢に備えろ”とだけ」

「まあ、それは随分と大袈裟な」

「ですが実際、香りを辿って、ここに来てしまったのですもの。評判通りでしたわ」

わたくしは彼女を奥の椅子へと案内し、新しいポットを生成いたしましたの。

ミルフォリウムにカルダモン、少しばかりのナツメグ。

旅の疲れを癒しつつ、頭を冴えさせる“文書の灯火”という調合ですわ。

「まあ、これは……深い香りですこと」

「文字を扱う方には、特にお勧めいたしますのよ」

「光栄です。……さて、本題ですが」

マルグリットは腰の袋から、分厚い封筒を取り出しましたの。

「王都方面の事情、すでに母からある程度聞いております。魔石庫の件、記録の改ざん、それと黒曜魔石の非公式搬入。……そして、その証拠があると」

「ええ、こちらにございますわ」

わたくしはそっと、布の断片を差し出しました。

マルグリットはそれを受け取り、器用な指先で裏返し、光にかざして読み始めましたの。

「……ローゼン文字。こんな旧符を読める人がまだいたなんて、感動ですわ」

「家訓が、意外なところで役立ちましたの」

「これ……本物です。間違いなく、重要書類の複写。しかも記録された印字の重なり方が改ざんの痕跡を裏付けてます」

「それなら、王都に渡してもよろしいかしら?」

「ええ、ですが安全なルートで。……母が言ってました。“アナスタシアは、もう誰の駒にもならない”と」

「ふふ、それは理解のある方ですこと」

「記録は、わたくしが確実に母の元へ届けます。その後は、第三者を通じて公表される形になるはずです」

「それが、この小屋に騒がしさを呼ばない形ならば、何よりですわ」

「静寂を守りながらも、香りが誰かを変える。その境地、少し憧れてしまいます」

「マルグリットさん。あなたも、一杯、おかわりいかが?」

「ぜひ。……次は“夢路の前庭”など、いただけますか?」

「まあ、良い趣味ですこと。ラベンダーとオレンジフラワーでよろしければ」

「最高です」

わたくしは微笑み、再び香草棚に向かいましたの。

彼女の背には、確かな知識の気配と、柔らかな香りの余韻がありました。

“静寂の香り亭”に、新たな香りが加わっていくのを、確かに感じた瞬間でございましたわ。
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