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山賊を退けた後、馬車の中は奇妙な静けさに包まれていた。
御者の男とバエルさんが、倒木をなんとか脇にどかす。
馬車は再び、ゆっくりと走り出した。
しかし、以前のような軽口を叩く者は誰もいない。
皆ちらちらと私の膝の上で丸くなるフェンに視線を送り、すぐに目を逸らすのだった。
「リリア……嬢ちゃん。いや、リリア様」
不意にバエルさんが、改まった口調で話しかけてきた。
その顔は、まだ少し青ざめている。
「様、なんてやめてください。リリアで結構です」
「しかし……あのフェン殿は、もしや……」
バエルさんの言いたいことは、分かっていた。
聖獣ではないか、と聞きたいのだろう。
「フェンは、私の大事な家族です。それだけですよ」
私は敢えて、聖獣という言葉は口にしなかった。
面倒なことになるのは、目に見えているからだ。
聖獣を連れているとなれば、貴族や神殿関係者が黙ってはいないだろう。
私はただ、穏やかに美味しく暮らしたいだけなのだ。
私の意図を察したのか、バエルさんはそれ以上深くは聞いてこなかった。
だが私に対する態度は、以前とは比べ物にならないほど丁寧なものに変わっていた。
「リリア殿、ポルタに着いたら、宿はお決まりですかな」
「いいえ、まだです。着いてから探そうかと」
「でしたら、ぜひ私の馴染みの宿を紹介させてください。女将さんもいい人で、安全な宿です」
「もちろん、フェン殿も一緒に泊まれるよう、私が口添えいたします」
「それは、ありがたいです」
渡りに船とは、このことだろう。
土地勘のない街で、安全な宿を紹介してもらえるのは非常に助かる。
「いやいや、礼を言うのはこちらの方です。あなた方のおかげで、命拾いをしたのですから」
「このご恩は、決して忘れません」
バエルさんは、深々と頭を下げた。
他の乗客たちも、こくこくと頷いている。
フードの女も痩せた老人も、私とフェンに感謝と畏敬の念を抱いているのが空気で伝わってきた。
厄介なことになったと思う反面、これでポルタでの活動が少しはやりやすくなるかもしれないという計算も働いていた。
信用は、金では買えない。
思いがけない形で、強力な武器を手に入れたようなものだ。
馬車の旅は、その後何事もなく続いた。
夕暮れ時、地平線の向こうに巨大な城壁が見えてくる。
あれが、商業都市ポルタに違いない。
その威容は、遠くからでもはっきりと分かるほどだった。
「おお、見えてきたぞ。あれがポルタだ」
バエルさんが、興奮したように声を上げた。
馬車が近づくにつれて、その巨大さが実感できる。
高さ十メートルはあろうかという城壁が、どこまでも続いていた。
街道は人の往来が激しくなり、同じようにポルタを目指す荷馬車や旅人たちの姿が増えていく。
城門の前では、入市を待つ人々の長い列ができていた。
門の脇には鎧を着た兵士たちが数人立ち、出入りする人々を厳しく検めている。
「入市には、身分証の提示と入市税が必要になるんだ」
バエルさんが、教えてくれた。
その言葉に、私は少しだけ眉をひそめる。
「身分証……」
私は、そんなもの持っていなかった。
アークライト家を追い出された身だ。
子爵家の娘であるという証明など、できるはずもない。
「ご心配なく、私が保証人になります」
「私の店の者だと言えば、問題なく通れるでしょう」
バエルさんが、にっこりと笑いかけてくれた。
どうやら私の懸念は、先刻お見通しだったらしい。
この商人は、人の顔色を読むのが非常にうまい。
味方につければ、これほど頼もしいことはないだろう。
長い順番待ちを経て、ようやく私たちの馬車が城門の前までたどり着いた。
兵士の一人が、御者と何事か言葉を交わしている。
やがて兵士が客室のドアを開け、中の私たちを検分し始めた。
その目は、鋭く油断がない。
「こいつらが乗客か。……なんだ、このガキは」
兵士の無遠慮な視線が、私に突き刺さる。
その目に、侮りの色が浮かんだのが分かった。
「その子は、私の店で使い走りをさせている子でしてね。ポルタに新しく出す支店の手伝いに、連れてきたんですよ」
バエルさんが、すかさず助け舟を出してくれた。
その口調は、実に堂々としている。
「ふうん、お前さんが言うならいいだろう。入市税は一人銀貨一枚だ」
「そこのガキの分も、ちゃんと払えよ」
「へいへい、承知しております」
バエルさんは慣れた様子で銀貨を支払い、私たちは無事にポルタ市内へ入ることを許可された。
巨大な城門をくぐり抜けた瞬間、私の目に飛び込んできたのは今まで見たこともないような活気に満ちた光景だった。
石畳の道がどこまでも続き、その両脇には三階建てや四階建ての建物が隙間なく立ち並んでいる。
道の両側には露店がずらりと並び、様々な品物が売られていた。
果物や野菜、焼き菓子の甘い匂いや香辛料のエキゾチックな香り。
そして人々の熱気が混ざり合って、むわりとした空気を生み出している。
行き交う人々の数も、アルム村とは比べ物にならない。
立派な服を着た商人、荷物を運ぶ屈強な労働者や着飾った貴婦人。
そして私のような、旅人もいる。
様々な身分の人々が、それぞれの目的を持ってこの街を歩いていた。
誰もが、生き生きとした表情をしている。
「すごい……」
思わず、感嘆の声が漏れた。
これこそが、私が目指していた場所。
美味しいものがたくさんあり、そして金が動く場所だ。
私の知識と能力を試すには、これ以上ない舞台だろう。
「ははは、驚いたかい。ポルタは王国でも一番の商業都市だからな」
バエルさんが、得意げに笑った。
自分の故郷を、誇りに思う気持ちが伝わってくる。
馬車は街の喧騒の中を、ゆっくりと進んでいく。
やがて大通りから少し入った、比較的穏やかな地区で馬車は止まった。
乗り合い馬車の終点である、馬車宿だ。
多くの旅人たちが、ここで荷物を降ろしたり新たな旅の準備をしたりしている。
「さあ、着いたぞ。まずは、宿に行こう。ここから歩いてすぐだ」
バエルさんに案内され、私たちは馬車を降りた。
他の乗客たちは私たちに改めて礼を言うと、人混みの中へと消えていく。
「こっちだ、リリア殿」
バエルさんの後について、石畳の道を歩く。
フェンは物珍しそうにきょろきょろと周りを見渡しているが、決して私の側を離れようとはしない。
人混みの中でも、本当におりこうさんだ。
その賢さに、私は何度も助けられている。
数分ほど歩くと、一軒の宿屋の前に着いた。
「木漏れ日亭」と書かれた、木製の看板が掲げられている。
三階建ての、こぢんまりとしているが清潔そうな印象の宿だ。
窓辺には、可愛らしい花が飾られていた。
「ここが、俺の馴染みの宿さ。女将さん、いるかい」
バエルさんが中に入っていくと、カウンターの奥から人の良さそうな初老の女性が顔を出した。
その笑顔は、とても穏やかだ。
「あら、バエルさん。お帰りなさい、ずいぶん早いお着きで」
「ああ、道中色々とあってな。それより、部屋は空いてるかい。この子と、このワンちゃんが泊まれる部屋を頼む」
女将さんは私とフェンを見て、少しだけ驚いたような顔をした。
無理もないだろう、こんな小さな子供が犬を連れて旅をしているのだから。
「まあ、可愛らしいお客さん。それに、銀色のワンちゃん……珍しい毛並みね」
「この子たちは、俺の命の恩人なんだ。だから、一番いい部屋を用意してやってくれないか」
「もちろん、宿代は俺が持つ」
「命の恩人、いったい何があったんだい」
女将さんの問いに、バエルさんは山賊に襲われたことを語り始めた。
そしてフェンがたった一吠えで山賊を追い払ってくれたことを、身振り手振りを交えて熱く語る。
話を聞き終えた女将さんは、私とフェンを見る目を完全に変えていた。
その瞳には、驚きと尊敬の色が浮かんでいる。
「まあ、なんてことでしょう。こんなに小さいのに……」
「それにこのワンちゃんは、ただの犬じゃないんだねえ」
女将さんはカウンターから出てくると、私の前にしゃがみこみ優しい手つきで私の頭を撫でた。
その手は、とても温かかった。
「大変だったねえ、怖い思いをしたでしょう。ゆっくり休んでいきなさい」
「お部屋は、一番日当たりのいい角部屋を用意してあげるからね。もちろん、この賢いワンちゃんも一緒でいいよ」
「ありがとうございます」
私は、素直に頭を下げた。
人の善意は、ありがたく受け取っておくに限る。
「バエルさん、宿代は自分で払います。それに、一番いい部屋でなくても結構です」
「いやいや、そういう訳にはいかん。俺の気が済まないんだ」
バエルさんは、頑として譲らなかった。
あまり強情に断るのも、かえって失礼だろう。
「……分かりました。では、お言葉に甘えさせていただきます」
「その代わりと言っては何ですが、バエルさんのお店を今度見せてもらえませんか」
「俺の店、ああもちろん構わんが……どうしてまた」
「少し、気になったものですから。帳簿の付け方とか」
私の言葉に、バエルさんは目を丸くした。
そして、すぐに合点がいったという顔になる。
「ははっ、そうだったな。嬢ちゃんは、数字に強いんだった」
「もちろんだ、ぜひ見てくれ。そして、この儲からない店をどうにかしてくれ」
バエルさんは、心底嬉しそうに笑った。
これで、ポルタでの最初の仕事も確保できた。
計画通りだ。
女将さんに案内され、私たちは三階の部屋へと向かった。
木の階段は、磨きこまれていて艶がある。
部屋は広くはないが、必要なものは全て揃っていた。
ふかふかのベッドに、小さなテーブルと椅子。
窓からはポルタの街並みと、オレンジ色に染まり始めた空が見えた。
たくさんの家々の屋根が、夕日に照らされて輝いている。
「お風呂は一階にあるから、いつでも使いなさい。夕食ができたら、声をかけるからね」
女将さんはそう言い残して、部屋を出ていった。
一人と一匹きりになった部屋で、私はベッドにどさりと倒れ込む。
柔らかい感触が、疲れた体を優しく包み込んだ。
「着いたね、フェン」
フェンはベッドに飛び乗ると、私の隣にごろんと寝転んだ。
そして、私の顔をぺろりと舐める。
くすぐったくて、思わず笑みがこぼれた。
アークライト家を追い出されてから、まだ十日も経っていない。
森で迷い、村で働き山賊に襲われ、そして今私は大都市ポルタの一室にいる。
目まぐるしい日々だったが、不思議と心は落ち着いていた。
これから、この街で何が待っているだろうか。
美味しい食べ物、新しい出会い、そして私の知識を活かせる仕事。
胸が高鳴るのを感じながら、私は窓の外の夕焼けを眺めていた。
私の新しい人生が、今この場所から始まろうとしている。
まずは、この街の市場を徹底的に調査することから始めよう。
御者の男とバエルさんが、倒木をなんとか脇にどかす。
馬車は再び、ゆっくりと走り出した。
しかし、以前のような軽口を叩く者は誰もいない。
皆ちらちらと私の膝の上で丸くなるフェンに視線を送り、すぐに目を逸らすのだった。
「リリア……嬢ちゃん。いや、リリア様」
不意にバエルさんが、改まった口調で話しかけてきた。
その顔は、まだ少し青ざめている。
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面倒なことになるのは、目に見えているからだ。
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私はただ、穏やかに美味しく暮らしたいだけなのだ。
私の意図を察したのか、バエルさんはそれ以上深くは聞いてこなかった。
だが私に対する態度は、以前とは比べ物にならないほど丁寧なものに変わっていた。
「リリア殿、ポルタに着いたら、宿はお決まりですかな」
「いいえ、まだです。着いてから探そうかと」
「でしたら、ぜひ私の馴染みの宿を紹介させてください。女将さんもいい人で、安全な宿です」
「もちろん、フェン殿も一緒に泊まれるよう、私が口添えいたします」
「それは、ありがたいです」
渡りに船とは、このことだろう。
土地勘のない街で、安全な宿を紹介してもらえるのは非常に助かる。
「いやいや、礼を言うのはこちらの方です。あなた方のおかげで、命拾いをしたのですから」
「このご恩は、決して忘れません」
バエルさんは、深々と頭を下げた。
他の乗客たちも、こくこくと頷いている。
フードの女も痩せた老人も、私とフェンに感謝と畏敬の念を抱いているのが空気で伝わってきた。
厄介なことになったと思う反面、これでポルタでの活動が少しはやりやすくなるかもしれないという計算も働いていた。
信用は、金では買えない。
思いがけない形で、強力な武器を手に入れたようなものだ。
馬車の旅は、その後何事もなく続いた。
夕暮れ時、地平線の向こうに巨大な城壁が見えてくる。
あれが、商業都市ポルタに違いない。
その威容は、遠くからでもはっきりと分かるほどだった。
「おお、見えてきたぞ。あれがポルタだ」
バエルさんが、興奮したように声を上げた。
馬車が近づくにつれて、その巨大さが実感できる。
高さ十メートルはあろうかという城壁が、どこまでも続いていた。
街道は人の往来が激しくなり、同じようにポルタを目指す荷馬車や旅人たちの姿が増えていく。
城門の前では、入市を待つ人々の長い列ができていた。
門の脇には鎧を着た兵士たちが数人立ち、出入りする人々を厳しく検めている。
「入市には、身分証の提示と入市税が必要になるんだ」
バエルさんが、教えてくれた。
その言葉に、私は少しだけ眉をひそめる。
「身分証……」
私は、そんなもの持っていなかった。
アークライト家を追い出された身だ。
子爵家の娘であるという証明など、できるはずもない。
「ご心配なく、私が保証人になります」
「私の店の者だと言えば、問題なく通れるでしょう」
バエルさんが、にっこりと笑いかけてくれた。
どうやら私の懸念は、先刻お見通しだったらしい。
この商人は、人の顔色を読むのが非常にうまい。
味方につければ、これほど頼もしいことはないだろう。
長い順番待ちを経て、ようやく私たちの馬車が城門の前までたどり着いた。
兵士の一人が、御者と何事か言葉を交わしている。
やがて兵士が客室のドアを開け、中の私たちを検分し始めた。
その目は、鋭く油断がない。
「こいつらが乗客か。……なんだ、このガキは」
兵士の無遠慮な視線が、私に突き刺さる。
その目に、侮りの色が浮かんだのが分かった。
「その子は、私の店で使い走りをさせている子でしてね。ポルタに新しく出す支店の手伝いに、連れてきたんですよ」
バエルさんが、すかさず助け舟を出してくれた。
その口調は、実に堂々としている。
「ふうん、お前さんが言うならいいだろう。入市税は一人銀貨一枚だ」
「そこのガキの分も、ちゃんと払えよ」
「へいへい、承知しております」
バエルさんは慣れた様子で銀貨を支払い、私たちは無事にポルタ市内へ入ることを許可された。
巨大な城門をくぐり抜けた瞬間、私の目に飛び込んできたのは今まで見たこともないような活気に満ちた光景だった。
石畳の道がどこまでも続き、その両脇には三階建てや四階建ての建物が隙間なく立ち並んでいる。
道の両側には露店がずらりと並び、様々な品物が売られていた。
果物や野菜、焼き菓子の甘い匂いや香辛料のエキゾチックな香り。
そして人々の熱気が混ざり合って、むわりとした空気を生み出している。
行き交う人々の数も、アルム村とは比べ物にならない。
立派な服を着た商人、荷物を運ぶ屈強な労働者や着飾った貴婦人。
そして私のような、旅人もいる。
様々な身分の人々が、それぞれの目的を持ってこの街を歩いていた。
誰もが、生き生きとした表情をしている。
「すごい……」
思わず、感嘆の声が漏れた。
これこそが、私が目指していた場所。
美味しいものがたくさんあり、そして金が動く場所だ。
私の知識と能力を試すには、これ以上ない舞台だろう。
「ははは、驚いたかい。ポルタは王国でも一番の商業都市だからな」
バエルさんが、得意げに笑った。
自分の故郷を、誇りに思う気持ちが伝わってくる。
馬車は街の喧騒の中を、ゆっくりと進んでいく。
やがて大通りから少し入った、比較的穏やかな地区で馬車は止まった。
乗り合い馬車の終点である、馬車宿だ。
多くの旅人たちが、ここで荷物を降ろしたり新たな旅の準備をしたりしている。
「さあ、着いたぞ。まずは、宿に行こう。ここから歩いてすぐだ」
バエルさんに案内され、私たちは馬車を降りた。
他の乗客たちは私たちに改めて礼を言うと、人混みの中へと消えていく。
「こっちだ、リリア殿」
バエルさんの後について、石畳の道を歩く。
フェンは物珍しそうにきょろきょろと周りを見渡しているが、決して私の側を離れようとはしない。
人混みの中でも、本当におりこうさんだ。
その賢さに、私は何度も助けられている。
数分ほど歩くと、一軒の宿屋の前に着いた。
「木漏れ日亭」と書かれた、木製の看板が掲げられている。
三階建ての、こぢんまりとしているが清潔そうな印象の宿だ。
窓辺には、可愛らしい花が飾られていた。
「ここが、俺の馴染みの宿さ。女将さん、いるかい」
バエルさんが中に入っていくと、カウンターの奥から人の良さそうな初老の女性が顔を出した。
その笑顔は、とても穏やかだ。
「あら、バエルさん。お帰りなさい、ずいぶん早いお着きで」
「ああ、道中色々とあってな。それより、部屋は空いてるかい。この子と、このワンちゃんが泊まれる部屋を頼む」
女将さんは私とフェンを見て、少しだけ驚いたような顔をした。
無理もないだろう、こんな小さな子供が犬を連れて旅をしているのだから。
「まあ、可愛らしいお客さん。それに、銀色のワンちゃん……珍しい毛並みね」
「この子たちは、俺の命の恩人なんだ。だから、一番いい部屋を用意してやってくれないか」
「もちろん、宿代は俺が持つ」
「命の恩人、いったい何があったんだい」
女将さんの問いに、バエルさんは山賊に襲われたことを語り始めた。
そしてフェンがたった一吠えで山賊を追い払ってくれたことを、身振り手振りを交えて熱く語る。
話を聞き終えた女将さんは、私とフェンを見る目を完全に変えていた。
その瞳には、驚きと尊敬の色が浮かんでいる。
「まあ、なんてことでしょう。こんなに小さいのに……」
「それにこのワンちゃんは、ただの犬じゃないんだねえ」
女将さんはカウンターから出てくると、私の前にしゃがみこみ優しい手つきで私の頭を撫でた。
その手は、とても温かかった。
「大変だったねえ、怖い思いをしたでしょう。ゆっくり休んでいきなさい」
「お部屋は、一番日当たりのいい角部屋を用意してあげるからね。もちろん、この賢いワンちゃんも一緒でいいよ」
「ありがとうございます」
私は、素直に頭を下げた。
人の善意は、ありがたく受け取っておくに限る。
「バエルさん、宿代は自分で払います。それに、一番いい部屋でなくても結構です」
「いやいや、そういう訳にはいかん。俺の気が済まないんだ」
バエルさんは、頑として譲らなかった。
あまり強情に断るのも、かえって失礼だろう。
「……分かりました。では、お言葉に甘えさせていただきます」
「その代わりと言っては何ですが、バエルさんのお店を今度見せてもらえませんか」
「俺の店、ああもちろん構わんが……どうしてまた」
「少し、気になったものですから。帳簿の付け方とか」
私の言葉に、バエルさんは目を丸くした。
そして、すぐに合点がいったという顔になる。
「ははっ、そうだったな。嬢ちゃんは、数字に強いんだった」
「もちろんだ、ぜひ見てくれ。そして、この儲からない店をどうにかしてくれ」
バエルさんは、心底嬉しそうに笑った。
これで、ポルタでの最初の仕事も確保できた。
計画通りだ。
女将さんに案内され、私たちは三階の部屋へと向かった。
木の階段は、磨きこまれていて艶がある。
部屋は広くはないが、必要なものは全て揃っていた。
ふかふかのベッドに、小さなテーブルと椅子。
窓からはポルタの街並みと、オレンジ色に染まり始めた空が見えた。
たくさんの家々の屋根が、夕日に照らされて輝いている。
「お風呂は一階にあるから、いつでも使いなさい。夕食ができたら、声をかけるからね」
女将さんはそう言い残して、部屋を出ていった。
一人と一匹きりになった部屋で、私はベッドにどさりと倒れ込む。
柔らかい感触が、疲れた体を優しく包み込んだ。
「着いたね、フェン」
フェンはベッドに飛び乗ると、私の隣にごろんと寝転んだ。
そして、私の顔をぺろりと舐める。
くすぐったくて、思わず笑みがこぼれた。
アークライト家を追い出されてから、まだ十日も経っていない。
森で迷い、村で働き山賊に襲われ、そして今私は大都市ポルタの一室にいる。
目まぐるしい日々だったが、不思議と心は落ち着いていた。
これから、この街で何が待っているだろうか。
美味しい食べ物、新しい出会い、そして私の知識を活かせる仕事。
胸が高鳴るのを感じながら、私は窓の外の夕焼けを眺めていた。
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