31 / 36
31
しおりを挟む
『鷹ノ巣城』は、その名の通りまるで鷲の巣だった。
切り立った崖の上に、しがみつくようにして建てられた灰色の城。
空を突くようなその姿は、近づく者を拒む強い意志を感じさせた。
城へと続く道は、細く険しい山道が一本だけだ。
その道も、いくつもの見張り台と頑丈な柵によって固く守られている。
あれを正面から突破するのは、戦いに慣れた軍隊であっても不可能だろう。
ましてや、私たちはたったの六人と二匹だ。
「……こいつは、思った以上に厄介な城だな。」
森の中に馬車を隠し、遠眼鏡で城の様子を見ていたゼロ兄様がため息まじりに言った。
その声には、珍しく困難を楽しむ色はない。
「どうするんだい、ボス。あんな場所、空でも飛ばなきゃ入れねえぜ。」
小柄な盗賊のピップが、木の枝に座って面白そうに言った。
彼は、こういう状況ほど燃えるタイプだ。
元傭兵のバルガスも、腕を組んで唸っている。
その顔は、とても険しい。
「ううむ、あの守りは本物だ。噂通りの、臆病な皇子様らしい。あれでは、こちらから話し合いを持ちかけることすらできんな。」
紅一点のリラも、美しい眉をひそめていた。
長い髪を、風が揺らしている。
「無理に近づけば、矢の的にされるのがオチね。どうするの、リリアちゃん。」
仲間たちの視線が、私に集まった。
彼らは、この絶望的な状況を私がどうやって乗り越えるのか見ている。
その目には、期待と好奇心が混じっていた。
私は、遠眼鏡から目を離した。
そして、にっこりと微笑んでみせた。
「ええ、本当に完璧な守りですわ。だからこそ、こちらの作戦がうまくいくのです。」
「作戦、だと?」
ゼロ兄様が、不思議そうな顔で私を見る。
「はい。あの城に閉じこもっているフランツ皇子は、噂によれば『病弱』で『気弱』。そして、二人の兄君にひどく怯えている、とのことでしたわね。」
「ああ、それがどうした。」
ゼロ兄様の声は、少し尖っていた。
「臆病で、怯えている人間が一番欲しいものは何だと思いますか?」
私の問いかけに、仲間たちは首をひねった。
森の木々が、風にざわめいている。
「そりゃ、金か、兵隊だろう。」
バルガスが、単純に答える。
「それもそうですが、もっと根本的なものですわ。それは、『安心』と『奇跡』よ。」
私は、きっぱりと言い切った。
私の言葉に、みんなが集中する。
「病弱な彼には、自分の体を癒す奇跡の薬を。臆病な彼には、自分を守ってくれる絶対的な力を。私たちは、その両方を彼に差し出すのです。」
「だが、どうやってだ。門が、閉まっているんだぞ。」
バルガスが、もどかしそうに言った。
「だから、正面から行く必要はないのですわ。」
私は、盗賊のピップに視線を向けた。
彼は、枝の上で楽しそうに足を振っている。
「ピップ、あなたにしかできない仕事があります。あの城に、こっそり忍び込んでほしいのです。」
「忍び込む!?」
ピップは、目を輝かせた。
不可能に思える挑戦ほど、彼の心をくすぐるものはないらしい。
「面白そうだ、やってやろうじゃないか。だが、目的は何だ。」
「これをお城の、できるだけ皇子に近い場所に届けてほしいのです。例えば、厨房や侍従の部屋などにね。」
私は、荷馬車から小さな木箱を取り出した。
中には、私が昨夜のうちに用意しておいたものが二つ入っている。
一つは、青白く光る不思議な液体が入った小瓶。
『虹色の涙』のポーションとは比べ物にならない。
光る苔と薬草を混ぜ合わせただけの、ただ見た目が派手なだけの偽物の薬だ。
しかし、これに添えるもう一つが本物だった。
「そして、この手紙を一緒に。」
私が差し出した手紙には、こう書かれていた。
『病に苦しむ、気高き鷹ノ巣城の主君へ。
我らは、旅の薬師。
あなた様の苦しみを癒す、奇跡の薬を携えて参りました。
これは、ほんのしるし。
もし、本物の奇跡をお望みならば、明日の正午、城の門を開け我らを迎え入れよ。
我らは、あなた様の唯一の味方となる者。
――月の薬師団より』
「月の薬師団、ねえ。なかなか、詩的な名前じゃないか。」
リラが、面白そうに言った。
「ええ、少しは相手の心を引く名前でないと。ピップ、お願いできますか。」
「へへっ、任せておきな。あの程度の城、俺にかかれば庭を散歩するようなもんだぜ。」
ピップは、そう言うと黒い影のように森の中へ消えていった。
その動きは、本当にリスのように身軽で音一つ立てない。
彼なら、きっとうまくやってくれるだろう。
「さて、私たちは明日の正午まで、ここで待つだけですわ。」
「リリア、もしこの作戦が失敗したらどうする。」
ゼロ兄様が、低い声で尋ねた。
「その時は、その時よ。もっと面白い、別の作戦を考えればいいだけですわ。」
私の落ち着いた様子に、ゼロ兄様はあきれたようにため息をついた。
バルガスとリラも、この四歳の少女の度胸に改めて驚いているようだった。
私たちは、森の中で静かに夜が明けるのを待った。
フェンとノクスが、交代で私たちの周りを警戒してくれている。
そのおかげで、私は馬車の中でぐっすりと眠ることができた。
朝になり、ピップが何事もなかったかのように森から戻ってきた。
その手は、空っぽだ。
彼は、軽くあくびをしている。
「どうだった、ピップ。」
私が、小さな声で尋ねた。
「楽なもんさ。昨夜のうちに、厨房の裏口から忍び込んだ。食料庫の、一番目立つワイン樽の上に、例の箱を置いてきてやったぜ。あれなら、今朝には誰かが見つけているはずだ。」
ピップは、得意げに胸を張った。
これで、私たちの準備は全て整った。
あとは、相手がこちらの仕掛けた罠にどう食いついてくるかだ。
私たちは、馬車を森の中から引き出す。
そして、城へと続く街道の見える開けた場所で待機した。
城の見張り台から、私たちの馬車がはっきりと見えているはずだ。
『月の薬師団』と名乗る、怪しい一団が姿を現した。
城の中は、今ごろ大騒ぎになっているに違いない。
時間は、ゆっくりと流れていった。
太陽が、空の真上へと近づいてくる。
正午が、刻一刻と近づいていた。
バルガスが、緊張したようにゴクリと唾を飲み込む音が聞こえる。
彼の額には、汗が浮かんでいた。
「……本当に、門が開くのかね。」
「開きますわ、必ず。」
私は、自信を持って答えた。
病弱で、臆病。
そして、兄たちに怯えて砦に閉じこもっている皇子。
彼が、藁にもすがりたい気持ちでいることは間違いない。
そこに、『奇跡の薬』と『唯一の味方』という言葉が書かれた手紙が届いたのだ。
彼が、この誘いに乗らないはずがなかった。
そして、ついにその時が来た。
正午の鐘が、遠くの村からかすかに聞こえてくる。
それと、ほぼ同時だった。
ギイイイイ……。
重々しい、鉄がこすれるような音が響いた。
固く閉ざされていた、『鷹ノ巣城』の巨大な城門が、ゆっくりと開き始めたのだ。
「……開いた、本当に開いたぞ!」
バルガスが、興奮したように叫んだ。
リラとピップも、信じられないといった表情でその光景を見つめている。
ゼロ兄様だけが、つまらなそうに鼻を鳴らした。
城門の向こうから、一人の騎士が馬に乗ってこちらへやってくる。
その手には、白い旗が掲げられていた。
戦うつもりはない、というしるしだ。
騎士は、私たちの馬車の前で止まると、緊張した面持ちで口を開いた。
鎧が、太陽の光を反射している。
「『月の薬師団』の、方々でお間違いないかな。」
「はい、さようでございます。」
私が、馬車の窓から顔を出して答えた。
私の幼い姿を見て、騎士は一瞬だけひどく驚いた顔をした。
しかし、すぐに気を取り直して言葉を続ける。
彼は、咳を一つした。
「我が主、フランツ皇子殿下が、あなた方とお会いになるそうだ。ただし、城の中へ入れるのは、薬師団の代表者と、護衛の者一名のみ。そして、武器は全て置いてきてもらう。」
予想通りの、慎重な答えだった。
「分かりました、その条件を飲みましょう。」
私は、ためらうことなく答えた。
「おい、リリア。正気か。武器もなしに、敵の城へ二人きりで行くなんて。」
ゼロ兄様が、私の耳元でささやいた。
「大丈夫よ、兄様。私の本当の武器は、これなのですから。」
私は、自分の頭を指差してみせた。
そして、ゼロ兄様に向かってきっぱりと言う。
「兄様、護衛として私と一緒に来てください。」
「……チッ、分かったよ。お前の、好きにしろ。」
ゼロ兄様は、ぶっきらぼうにそう言う。
彼は、腰の剣を外してバルガスに預けた。
私も、フェンとノクスに馬車の留守番を頼む。
二匹は、とても心配そうな顔で私を見つめていた。
「いい子にしていてね。すぐに、戻ってくるから。」
私は、二匹の頭を優しく撫でた。
フェンの毛は、ふさふさだ。
ノクスの喉も、優しく撫でる。
そして、ゼロ兄様と共に馬を降りた。
「バルガス、ピップ、リラ。私たちが、もし日没までに戻らなかったら。その時は、計画通りこの城を捨てて王都へ戻りなさい。アーノルド殿下に、全てのことを報告するのよ。」
「リリア様、縁起でもないことを言わんでください。」
バルガスが、泣きそうな顔で言った。
「これは、最悪の場合の話よ。大丈夫、必ずうまくいきますわ。」
私は、仲間たちに力強い笑みを向けた。
そして、案内役の騎士と共に、開かれた城門へと向かって歩き出す。
城の中は、想像していたよりもずっと質素だった。
飾り気のあるものは、何一つない。
石がむき出しになった、冷たい廊下がどこまでも続いていた。
窓から差し込む光も、わずかだ。
すれ違う兵士たちの数も、驚くほど少ない。
しかし、その一人一人の目には、強い忠誠心の光が宿っていた。
彼らは、金や力ではなく、フランツ皇子という人間個人に仕えているのだ。
これは、少し予想外だった。
やがて、私たちは城の奥にある一つの小さな部屋へと案内された。
そこは、玉座の間のような立派な場所ではない。
書斎、と呼ぶべき部屋だった。
壁には、古い地図やたくさんの本がぎっしりと並んでいる。
部屋の真ん中には、大きな机が一つ。
そして、その向こう側に一人の青年が静かに座っていた。
彼が、三男のフランツ皇子。
年は、まだ十六か十七歳くらいだろうか。
噂に聞いていた通り、その体は細く顔色も少し青白い。
しかし、その瞳は違っていた。
気弱などでは、まったくない。
そこには、全てを見通すかのような、驚くほど冷静で知的な光が宿っていた。
彼は、病弱な学者のふりをしている、賢い狼だ。
私は、一目見てそれを理解した。
「……君が、『月の薬師団』の代表か。」
フランツ皇子が、静かな声で尋ねた。
その声は、細いが見事に鍛えられた鋼の糸のように、強い響きを持っていた。
「はい、殿下。私が、リリアと申します。この度は、お目にかかれて光栄ですわ。」
私は、優雅にスカートの裾をつまんでお辞儀をした。
フランツ皇子は、私の四歳の姿を見ても少しも驚いた様子を見せない。
ただ、じっと私を見つめている。
彼の隣には、白髪の老騎士が一人だけ、剣を握って控えていた。
部屋には、私たち四人だけだ。
「君が、この薬を送ってきたのだな。」
フランツ皇子は、机の上に置かれた偽物の薬瓶を指差した。
「はい、さようでございます。」
「フン、見事な偽物だ。こんなもので、この私をだませるとでも思ったのか。」
彼の冷たい言葉に、私の背後にいたゼロ兄様の空気がピリッと変わった。
しかし、私は慌てない。
むしろ、笑みを深くした。
「あら、偽物だとお気づきでしたか。さすがは、噂に違わぬ賢いお方ですわね。」
「お世辞は、よせ。本物の奇跡の薬、『虹色の涙』の噂は、私の耳にも届いている。君たちは、それを持っているのだろう。エルドラシア王国の、回し者め。」
フランツ皇子の言葉は、全てを言い当てていた。
彼は、私たちの正体にすでに気づいていたのだ。
最初から、全てお見通しだったというわけか。
これは、思った以上に手ごわい相手らしい。
「でしたら、話は早いですわね。」
私は、ふところから本物の『虹色の涙』のポーションが入った小瓶を取り出した。
七色に輝く液体が、薄暗い部屋の中で不思議な光を放つ。
フランツ皇子と、老騎士の目がその小瓶に釘付けになった。
「そうですわ、私たちはエルドラシア王国から参りました。そして、これが本物の『虹色の涙』です。」
フランツ皇子は、ゴクリと唾を飲んだ。
その瞳に、初めて抑えきれない欲望の色が浮かぶ。
「……それを、私にくれると。その代償は、何だ。」
「私の代償は、とてもシンプルですわ。」
私は、フランツ皇子の目をまっすぐに見つめ返した。
そして、はっきりと告げる。
「私は、あなたをガルディナ帝国の、次の皇帝にして差し上げますわ。」
切り立った崖の上に、しがみつくようにして建てられた灰色の城。
空を突くようなその姿は、近づく者を拒む強い意志を感じさせた。
城へと続く道は、細く険しい山道が一本だけだ。
その道も、いくつもの見張り台と頑丈な柵によって固く守られている。
あれを正面から突破するのは、戦いに慣れた軍隊であっても不可能だろう。
ましてや、私たちはたったの六人と二匹だ。
「……こいつは、思った以上に厄介な城だな。」
森の中に馬車を隠し、遠眼鏡で城の様子を見ていたゼロ兄様がため息まじりに言った。
その声には、珍しく困難を楽しむ色はない。
「どうするんだい、ボス。あんな場所、空でも飛ばなきゃ入れねえぜ。」
小柄な盗賊のピップが、木の枝に座って面白そうに言った。
彼は、こういう状況ほど燃えるタイプだ。
元傭兵のバルガスも、腕を組んで唸っている。
その顔は、とても険しい。
「ううむ、あの守りは本物だ。噂通りの、臆病な皇子様らしい。あれでは、こちらから話し合いを持ちかけることすらできんな。」
紅一点のリラも、美しい眉をひそめていた。
長い髪を、風が揺らしている。
「無理に近づけば、矢の的にされるのがオチね。どうするの、リリアちゃん。」
仲間たちの視線が、私に集まった。
彼らは、この絶望的な状況を私がどうやって乗り越えるのか見ている。
その目には、期待と好奇心が混じっていた。
私は、遠眼鏡から目を離した。
そして、にっこりと微笑んでみせた。
「ええ、本当に完璧な守りですわ。だからこそ、こちらの作戦がうまくいくのです。」
「作戦、だと?」
ゼロ兄様が、不思議そうな顔で私を見る。
「はい。あの城に閉じこもっているフランツ皇子は、噂によれば『病弱』で『気弱』。そして、二人の兄君にひどく怯えている、とのことでしたわね。」
「ああ、それがどうした。」
ゼロ兄様の声は、少し尖っていた。
「臆病で、怯えている人間が一番欲しいものは何だと思いますか?」
私の問いかけに、仲間たちは首をひねった。
森の木々が、風にざわめいている。
「そりゃ、金か、兵隊だろう。」
バルガスが、単純に答える。
「それもそうですが、もっと根本的なものですわ。それは、『安心』と『奇跡』よ。」
私は、きっぱりと言い切った。
私の言葉に、みんなが集中する。
「病弱な彼には、自分の体を癒す奇跡の薬を。臆病な彼には、自分を守ってくれる絶対的な力を。私たちは、その両方を彼に差し出すのです。」
「だが、どうやってだ。門が、閉まっているんだぞ。」
バルガスが、もどかしそうに言った。
「だから、正面から行く必要はないのですわ。」
私は、盗賊のピップに視線を向けた。
彼は、枝の上で楽しそうに足を振っている。
「ピップ、あなたにしかできない仕事があります。あの城に、こっそり忍び込んでほしいのです。」
「忍び込む!?」
ピップは、目を輝かせた。
不可能に思える挑戦ほど、彼の心をくすぐるものはないらしい。
「面白そうだ、やってやろうじゃないか。だが、目的は何だ。」
「これをお城の、できるだけ皇子に近い場所に届けてほしいのです。例えば、厨房や侍従の部屋などにね。」
私は、荷馬車から小さな木箱を取り出した。
中には、私が昨夜のうちに用意しておいたものが二つ入っている。
一つは、青白く光る不思議な液体が入った小瓶。
『虹色の涙』のポーションとは比べ物にならない。
光る苔と薬草を混ぜ合わせただけの、ただ見た目が派手なだけの偽物の薬だ。
しかし、これに添えるもう一つが本物だった。
「そして、この手紙を一緒に。」
私が差し出した手紙には、こう書かれていた。
『病に苦しむ、気高き鷹ノ巣城の主君へ。
我らは、旅の薬師。
あなた様の苦しみを癒す、奇跡の薬を携えて参りました。
これは、ほんのしるし。
もし、本物の奇跡をお望みならば、明日の正午、城の門を開け我らを迎え入れよ。
我らは、あなた様の唯一の味方となる者。
――月の薬師団より』
「月の薬師団、ねえ。なかなか、詩的な名前じゃないか。」
リラが、面白そうに言った。
「ええ、少しは相手の心を引く名前でないと。ピップ、お願いできますか。」
「へへっ、任せておきな。あの程度の城、俺にかかれば庭を散歩するようなもんだぜ。」
ピップは、そう言うと黒い影のように森の中へ消えていった。
その動きは、本当にリスのように身軽で音一つ立てない。
彼なら、きっとうまくやってくれるだろう。
「さて、私たちは明日の正午まで、ここで待つだけですわ。」
「リリア、もしこの作戦が失敗したらどうする。」
ゼロ兄様が、低い声で尋ねた。
「その時は、その時よ。もっと面白い、別の作戦を考えればいいだけですわ。」
私の落ち着いた様子に、ゼロ兄様はあきれたようにため息をついた。
バルガスとリラも、この四歳の少女の度胸に改めて驚いているようだった。
私たちは、森の中で静かに夜が明けるのを待った。
フェンとノクスが、交代で私たちの周りを警戒してくれている。
そのおかげで、私は馬車の中でぐっすりと眠ることができた。
朝になり、ピップが何事もなかったかのように森から戻ってきた。
その手は、空っぽだ。
彼は、軽くあくびをしている。
「どうだった、ピップ。」
私が、小さな声で尋ねた。
「楽なもんさ。昨夜のうちに、厨房の裏口から忍び込んだ。食料庫の、一番目立つワイン樽の上に、例の箱を置いてきてやったぜ。あれなら、今朝には誰かが見つけているはずだ。」
ピップは、得意げに胸を張った。
これで、私たちの準備は全て整った。
あとは、相手がこちらの仕掛けた罠にどう食いついてくるかだ。
私たちは、馬車を森の中から引き出す。
そして、城へと続く街道の見える開けた場所で待機した。
城の見張り台から、私たちの馬車がはっきりと見えているはずだ。
『月の薬師団』と名乗る、怪しい一団が姿を現した。
城の中は、今ごろ大騒ぎになっているに違いない。
時間は、ゆっくりと流れていった。
太陽が、空の真上へと近づいてくる。
正午が、刻一刻と近づいていた。
バルガスが、緊張したようにゴクリと唾を飲み込む音が聞こえる。
彼の額には、汗が浮かんでいた。
「……本当に、門が開くのかね。」
「開きますわ、必ず。」
私は、自信を持って答えた。
病弱で、臆病。
そして、兄たちに怯えて砦に閉じこもっている皇子。
彼が、藁にもすがりたい気持ちでいることは間違いない。
そこに、『奇跡の薬』と『唯一の味方』という言葉が書かれた手紙が届いたのだ。
彼が、この誘いに乗らないはずがなかった。
そして、ついにその時が来た。
正午の鐘が、遠くの村からかすかに聞こえてくる。
それと、ほぼ同時だった。
ギイイイイ……。
重々しい、鉄がこすれるような音が響いた。
固く閉ざされていた、『鷹ノ巣城』の巨大な城門が、ゆっくりと開き始めたのだ。
「……開いた、本当に開いたぞ!」
バルガスが、興奮したように叫んだ。
リラとピップも、信じられないといった表情でその光景を見つめている。
ゼロ兄様だけが、つまらなそうに鼻を鳴らした。
城門の向こうから、一人の騎士が馬に乗ってこちらへやってくる。
その手には、白い旗が掲げられていた。
戦うつもりはない、というしるしだ。
騎士は、私たちの馬車の前で止まると、緊張した面持ちで口を開いた。
鎧が、太陽の光を反射している。
「『月の薬師団』の、方々でお間違いないかな。」
「はい、さようでございます。」
私が、馬車の窓から顔を出して答えた。
私の幼い姿を見て、騎士は一瞬だけひどく驚いた顔をした。
しかし、すぐに気を取り直して言葉を続ける。
彼は、咳を一つした。
「我が主、フランツ皇子殿下が、あなた方とお会いになるそうだ。ただし、城の中へ入れるのは、薬師団の代表者と、護衛の者一名のみ。そして、武器は全て置いてきてもらう。」
予想通りの、慎重な答えだった。
「分かりました、その条件を飲みましょう。」
私は、ためらうことなく答えた。
「おい、リリア。正気か。武器もなしに、敵の城へ二人きりで行くなんて。」
ゼロ兄様が、私の耳元でささやいた。
「大丈夫よ、兄様。私の本当の武器は、これなのですから。」
私は、自分の頭を指差してみせた。
そして、ゼロ兄様に向かってきっぱりと言う。
「兄様、護衛として私と一緒に来てください。」
「……チッ、分かったよ。お前の、好きにしろ。」
ゼロ兄様は、ぶっきらぼうにそう言う。
彼は、腰の剣を外してバルガスに預けた。
私も、フェンとノクスに馬車の留守番を頼む。
二匹は、とても心配そうな顔で私を見つめていた。
「いい子にしていてね。すぐに、戻ってくるから。」
私は、二匹の頭を優しく撫でた。
フェンの毛は、ふさふさだ。
ノクスの喉も、優しく撫でる。
そして、ゼロ兄様と共に馬を降りた。
「バルガス、ピップ、リラ。私たちが、もし日没までに戻らなかったら。その時は、計画通りこの城を捨てて王都へ戻りなさい。アーノルド殿下に、全てのことを報告するのよ。」
「リリア様、縁起でもないことを言わんでください。」
バルガスが、泣きそうな顔で言った。
「これは、最悪の場合の話よ。大丈夫、必ずうまくいきますわ。」
私は、仲間たちに力強い笑みを向けた。
そして、案内役の騎士と共に、開かれた城門へと向かって歩き出す。
城の中は、想像していたよりもずっと質素だった。
飾り気のあるものは、何一つない。
石がむき出しになった、冷たい廊下がどこまでも続いていた。
窓から差し込む光も、わずかだ。
すれ違う兵士たちの数も、驚くほど少ない。
しかし、その一人一人の目には、強い忠誠心の光が宿っていた。
彼らは、金や力ではなく、フランツ皇子という人間個人に仕えているのだ。
これは、少し予想外だった。
やがて、私たちは城の奥にある一つの小さな部屋へと案内された。
そこは、玉座の間のような立派な場所ではない。
書斎、と呼ぶべき部屋だった。
壁には、古い地図やたくさんの本がぎっしりと並んでいる。
部屋の真ん中には、大きな机が一つ。
そして、その向こう側に一人の青年が静かに座っていた。
彼が、三男のフランツ皇子。
年は、まだ十六か十七歳くらいだろうか。
噂に聞いていた通り、その体は細く顔色も少し青白い。
しかし、その瞳は違っていた。
気弱などでは、まったくない。
そこには、全てを見通すかのような、驚くほど冷静で知的な光が宿っていた。
彼は、病弱な学者のふりをしている、賢い狼だ。
私は、一目見てそれを理解した。
「……君が、『月の薬師団』の代表か。」
フランツ皇子が、静かな声で尋ねた。
その声は、細いが見事に鍛えられた鋼の糸のように、強い響きを持っていた。
「はい、殿下。私が、リリアと申します。この度は、お目にかかれて光栄ですわ。」
私は、優雅にスカートの裾をつまんでお辞儀をした。
フランツ皇子は、私の四歳の姿を見ても少しも驚いた様子を見せない。
ただ、じっと私を見つめている。
彼の隣には、白髪の老騎士が一人だけ、剣を握って控えていた。
部屋には、私たち四人だけだ。
「君が、この薬を送ってきたのだな。」
フランツ皇子は、机の上に置かれた偽物の薬瓶を指差した。
「はい、さようでございます。」
「フン、見事な偽物だ。こんなもので、この私をだませるとでも思ったのか。」
彼の冷たい言葉に、私の背後にいたゼロ兄様の空気がピリッと変わった。
しかし、私は慌てない。
むしろ、笑みを深くした。
「あら、偽物だとお気づきでしたか。さすがは、噂に違わぬ賢いお方ですわね。」
「お世辞は、よせ。本物の奇跡の薬、『虹色の涙』の噂は、私の耳にも届いている。君たちは、それを持っているのだろう。エルドラシア王国の、回し者め。」
フランツ皇子の言葉は、全てを言い当てていた。
彼は、私たちの正体にすでに気づいていたのだ。
最初から、全てお見通しだったというわけか。
これは、思った以上に手ごわい相手らしい。
「でしたら、話は早いですわね。」
私は、ふところから本物の『虹色の涙』のポーションが入った小瓶を取り出した。
七色に輝く液体が、薄暗い部屋の中で不思議な光を放つ。
フランツ皇子と、老騎士の目がその小瓶に釘付けになった。
「そうですわ、私たちはエルドラシア王国から参りました。そして、これが本物の『虹色の涙』です。」
フランツ皇子は、ゴクリと唾を飲んだ。
その瞳に、初めて抑えきれない欲望の色が浮かぶ。
「……それを、私にくれると。その代償は、何だ。」
「私の代償は、とてもシンプルですわ。」
私は、フランツ皇子の目をまっすぐに見つめ返した。
そして、はっきりと告げる。
「私は、あなたをガルディナ帝国の、次の皇帝にして差し上げますわ。」
503
あなたにおすすめの小説
役立たずの【清浄】スキルと追放された私、聖女の浄化が効かない『呪われた森』を清めたら、もふもふ達と精霊に囲まれる楽園になりました
☆ほしい
ファンタジー
侯爵令嬢のエリアーナは、ただ汚れを落とすだけの地味なスキル【清浄】を持つことから、役立たずと蔑まれていた。
ある日、絶大な聖なる力を持つ「聖女」が現れたことで、婚約者である王太子から婚約破棄と国外追放を言い渡されてしまう。
行くあてもなく、誰も近づかない『呪われた森』へと逃げ込んだエリアーナ。
しかし、彼女が何気なくスキルを使うと、森を覆っていた邪悪な呪いがみるみる浄化されていく。
実は彼女の【清浄】は、あらゆる穢れや呪いを根源から消し去る、伝説級の浄化能力だったのだ。
呪いが解けた森は本来の美しい姿を取り戻し、伝説の聖域として蘇る。
その力に引き寄せられ、エリアーナのもとには聖獣の子供や精霊、もふもふの動物たちが次々と集まってきて……。
一方その頃、聖女の力では浄化できない災厄に見舞われた王国は、エリアーナを追放したことを激しく後悔し始めていた。
聖水が「無味無臭」というだけで能無しと追放された聖女ですが、前世が化学研究者だったので、相棒のスライムと辺境でポーション醸造所を始めます
☆ほしい
ファンタジー
聖女エリアーナの生み出す聖水は、万物を浄化する力を持つものの「無味無臭」で効果が分かりにくいため、「能無し」の烙印を押され王都から追放されてしまう。
絶望の淵で彼女は思い出す。前世が、物質の配合を極めた化学研究者だったことを。
「この完璧な純水……これ以上の溶媒はないじゃない!」
辺境の地で助けたスライムを相棒に、エリアーナは前世の知識と「能無し」の聖水を組み合わせ、常識を覆す高品質なポーション作りを始める。やがて彼女の作るポーションは国を揺るがす大ヒット商品となり、彼女を追放した者たちが手のひらを返して戻ってくるよう懇願するが――もう遅い。
いらない子のようなので、出ていきます。さようなら♪
ねこまんまときみどりのことり
ファンタジー
魔力がないと決めつけられ、乳母アズメロウと共に彼女の嫁ぎ先に捨てられたラミュレン。だが乳母の夫は、想像以上の嫌な奴だった。
乳母の息子であるリュミアンもまた、実母のことを知らず、父とその愛人のいる冷たい家庭で生きていた。
そんなに邪魔なら、お望み通りに消えましょう。
(小説家になろうさん、カクヨムさんにも載せています)
『ゴミ溜め場の聖女』と蔑まれた浄化師の私、一族に使い潰されかけたので前世の知識で独立します
☆ほしい
ファンタジー
呪いを浄化する『浄化師』の一族に生まれたセレン。
しかし、微弱な魔力しか持たない彼女は『ゴミ溜め場の聖女』と蔑まれ、命を削る危険な呪具の浄化ばかりを押し付けられる日々を送っていた。
ある日、一族の次期当主である兄に、身代わりとして死の呪いがかかった遺物の浄化を強要される。
死を覚悟した瞬間、セレンは前世の記憶を思い出す。――自分が、歴史的な遺物を修復する『文化財修復師』だったことを。
「これは、呪いじゃない。……経年劣化による、素材の悲鳴だ」
化学知識と修復技術。前世のスキルを応用し、奇跡的に生還したセレンは、搾取されるだけの人生に別れを告げる。
これは、ガラクタ同然の呪具に秘められた真の価値を見出す少女が、自らの工房を立ち上げ、やがて国中の誰もが無視できない存在へと成り上がっていく物語。
結婚しても別居して私は楽しくくらしたいので、どうぞ好きな女性を作ってください
シンさん
ファンタジー
サナス伯爵の娘、ニーナは隣国のアルデーテ王国の王太子との婚約が決まる。
国に行ったはいいけど、王都から程遠い別邸に放置され、1度も会いに来る事はない。
溺愛する女性がいるとの噂も!
それって最高!好きでもない男の子供をつくらなくていいかもしれないし。
それに私は、最初から別居して楽しく暮らしたかったんだから!
そんな別居願望たっぷりの伯爵令嬢と王子の恋愛ストーリー
最後まで書きあがっていますので、随時更新します。
表紙はエブリスタでBeeさんに描いて頂きました!綺麗なイラストが沢山ございます。リンク貼らせていただきました。
屋台飯! いらない子認定されたので、旅に出たいと思います。
彩世幻夜
ファンタジー
母が死にました。
父が連れてきた継母と異母弟に家を追い出されました。
わー、凄いテンプレ展開ですね!
ふふふ、私はこの時を待っていた!
いざ行かん、正義の旅へ!
え? 魔王? 知りませんよ、私は勇者でも聖女でも賢者でもありませんから。
でも……美味しいは正義、ですよね?
2021/02/19 第一部完結
2021/02/21 第二部連載開始
2021/05/05 第二部完結
新作
【あやかしたちのとまり木の日常】
連載開始しました。
王妃ですが都からの追放を言い渡されたので、田舎暮らしを楽しみます!
藤野ひま
ファンタジー
わたくし王妃の身でありながら、夫から婚姻破棄と王都から出て行く事を言い渡されました。
初めての田舎暮らしは……楽しいのですが?!
夫や、かの女性は王城でお元気かしら?
わたくしは元気にしておりますので、ご心配御無用です!
〔『仮面の王と風吹く国の姫君』の続編となります。できるだけこちらだけでわかるようにしています。が、気になったら前作にも立ち寄っていただけると嬉しいです〕〔ただ、ネタバレ的要素がありますのでご了承ください〕
追放された私の代わりに入った女、三日で国を滅ぼしたらしいですよ?
タマ マコト
ファンタジー
王国直属の宮廷魔導師・セレス・アルトレイン。
白銀の髪に琥珀の瞳を持つ、稀代の天才。
しかし、その才能はあまりに“美しすぎた”。
王妃リディアの嫉妬。
王太子レオンの盲信。
そして、セレスを庇うはずだった上官の沈黙。
「あなたの魔法は冷たい。心がこもっていないわ」
そう言われ、セレスは**『無能』の烙印**を押され、王国から追放される。
彼女はただ一言だけ残した。
「――この国の炎は、三日で尽きるでしょう。」
誰もそれを脅しとは受け取らなかった。
だがそれは、彼女が未来を見通す“預言魔法”の言葉だったのだ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる