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2章:王都に降る雨
神に逆らうもの
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大聖堂に併設された、アルトラディアの司教館。
そこには、まるで王宮かと見紛うほどに全てがあった。
磨き上げられた石の床、祈りの歌声、聖油の香り──
すべてが規則どおりに整い、“神の秩序”が目に見えるような世界。
だが、ある日を境に、その秩序にわずかな”ずれ”が生じていた。
「……司教長様、本当にこれでよろしいのでしょうか」
控えめに発せられた声の主は、近隣の教区でも人望が厚いことで知られている中年の司教だった。おそらく彼のもとに、嘆願に来た者も少なからずいたのであろう。
「決定はすでに下されたのです。これに異を唱えることは、神意に逆らう行いと取られかねません」
司教長の答えに、彼は顔をしかめながらも、なお諦めきれぬように問う。
「王太子殿下のご発言は、実に明晰であられます。ですが──我々教会が、それを受け入れるには、もう少し時間をかけて、お考えいただいた方がよろしいのではないでしょうか。聖女様が、王太子妃との兼任などとなれば、聖務はいったいどうなるのかと、民より声が上がるは必定」
その言葉に、司教長は小さく息を吐いた。
「司教殿のお考えはよく分かりました。ですがこれ以上は……あなたご自身の立場を損ねるだけですよ」
実際、この数日間で、教会内の雰囲気は一変した。
異論を唱えた者は、一人また一人と「地方任務」や「長期修養会での研鑽」といったような名目で王都やその近隣地域からは姿を消し、内心はどうあれ、王太子と聖女に祝福の祈りを捧げる者だけが、王都に出入りするようになった。
神意に異を唱えた者──その烙印は、信仰の場において致命的だった。
* * *
司教館内には、高位の神官用の部屋がいくつか設けられていたが、そのうち、歴代の聖女も使用した「加護の泉」と呼ばれる聖女専用の一室があった。
特に巡礼や視察などで王都を離れる時を除いて、聖女はこの部屋にて多くの時間を過ごす。この日のミラも例外ではなかった。
「……それでその方は?」
湯気の立ち上る椀を手に取ると、ミラは静かに口をつける。
薬草湯を出した若き修道士は、顔をあげ答えた。
「はい。もしそういった方がいらっしゃったのなら、地方教区への配属、転属をお勧めするようにとの大司教猊下からの御触れが出ておりますので。本日いらっしゃった司教様もそのように」
「大司教猊下が? それは、素晴らしいお考えなのではないでしょうか……王都から離れるにつれ、祈りの声は届きにくくなるもの。そうした地にこそ、勇気ある信仰心高き者の力が必要とお考えなのでしょう」
修道士は、否定も肯定もできず、困った様子をしていたが、思いついたように切り出した。
「……そういえば、教会だけでなく、貴族や、領主様の中にも王太子殿下のお考えに眉をひそめる方がいらっしゃるようですね」
その言葉を聞くと、ミラは顔を曇らせた。
「今はまだ、王太子殿下との婚姻の件が、決して全ての方に望まれていないというのはわかります……きっと、誰もが不安なのです……ですが、これは神の御言葉、そう思えば心も穏やかになるというもの。皆にも神の御心が伝わればよいのですが……」
「あ、あの!そういった声のある事を憂いた王太子殿下が、騎士団を動かされるらしいです」
若い修道士は、慌てていう。
「あら、騎士団が?」
「はい! ですから、聖女様もそのようなお顔をなさらないで下さい……」
「ふふ……心配してくださっていたのですね」
修道士が照れたようにうつむく。
「ありがとう……あなたお名前は?」
その声に、修道士の整ってはいるがまだ少年のような幼さが残る顔がほころぶ。
「ルジェンです。聖女様」
「ありがとう、ルジェン──聖女などと呼ばれてはいますが……今、あなたがご覧になったように、私は決して完全ではないのです。そのように励ましていただけると──とても心強いですわ」
聖女の微笑みに、ルジェンは耳を真っ赤にし、大聖堂に飾られた彫像のように固まった。
そこには、まるで王宮かと見紛うほどに全てがあった。
磨き上げられた石の床、祈りの歌声、聖油の香り──
すべてが規則どおりに整い、“神の秩序”が目に見えるような世界。
だが、ある日を境に、その秩序にわずかな”ずれ”が生じていた。
「……司教長様、本当にこれでよろしいのでしょうか」
控えめに発せられた声の主は、近隣の教区でも人望が厚いことで知られている中年の司教だった。おそらく彼のもとに、嘆願に来た者も少なからずいたのであろう。
「決定はすでに下されたのです。これに異を唱えることは、神意に逆らう行いと取られかねません」
司教長の答えに、彼は顔をしかめながらも、なお諦めきれぬように問う。
「王太子殿下のご発言は、実に明晰であられます。ですが──我々教会が、それを受け入れるには、もう少し時間をかけて、お考えいただいた方がよろしいのではないでしょうか。聖女様が、王太子妃との兼任などとなれば、聖務はいったいどうなるのかと、民より声が上がるは必定」
その言葉に、司教長は小さく息を吐いた。
「司教殿のお考えはよく分かりました。ですがこれ以上は……あなたご自身の立場を損ねるだけですよ」
実際、この数日間で、教会内の雰囲気は一変した。
異論を唱えた者は、一人また一人と「地方任務」や「長期修養会での研鑽」といったような名目で王都やその近隣地域からは姿を消し、内心はどうあれ、王太子と聖女に祝福の祈りを捧げる者だけが、王都に出入りするようになった。
神意に異を唱えた者──その烙印は、信仰の場において致命的だった。
* * *
司教館内には、高位の神官用の部屋がいくつか設けられていたが、そのうち、歴代の聖女も使用した「加護の泉」と呼ばれる聖女専用の一室があった。
特に巡礼や視察などで王都を離れる時を除いて、聖女はこの部屋にて多くの時間を過ごす。この日のミラも例外ではなかった。
「……それでその方は?」
湯気の立ち上る椀を手に取ると、ミラは静かに口をつける。
薬草湯を出した若き修道士は、顔をあげ答えた。
「はい。もしそういった方がいらっしゃったのなら、地方教区への配属、転属をお勧めするようにとの大司教猊下からの御触れが出ておりますので。本日いらっしゃった司教様もそのように」
「大司教猊下が? それは、素晴らしいお考えなのではないでしょうか……王都から離れるにつれ、祈りの声は届きにくくなるもの。そうした地にこそ、勇気ある信仰心高き者の力が必要とお考えなのでしょう」
修道士は、否定も肯定もできず、困った様子をしていたが、思いついたように切り出した。
「……そういえば、教会だけでなく、貴族や、領主様の中にも王太子殿下のお考えに眉をひそめる方がいらっしゃるようですね」
その言葉を聞くと、ミラは顔を曇らせた。
「今はまだ、王太子殿下との婚姻の件が、決して全ての方に望まれていないというのはわかります……きっと、誰もが不安なのです……ですが、これは神の御言葉、そう思えば心も穏やかになるというもの。皆にも神の御心が伝わればよいのですが……」
「あ、あの!そういった声のある事を憂いた王太子殿下が、騎士団を動かされるらしいです」
若い修道士は、慌てていう。
「あら、騎士団が?」
「はい! ですから、聖女様もそのようなお顔をなさらないで下さい……」
「ふふ……心配してくださっていたのですね」
修道士が照れたようにうつむく。
「ありがとう……あなたお名前は?」
その声に、修道士の整ってはいるがまだ少年のような幼さが残る顔がほころぶ。
「ルジェンです。聖女様」
「ありがとう、ルジェン──聖女などと呼ばれてはいますが……今、あなたがご覧になったように、私は決して完全ではないのです。そのように励ましていただけると──とても心強いですわ」
聖女の微笑みに、ルジェンは耳を真っ赤にし、大聖堂に飾られた彫像のように固まった。
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