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34惑わないで
しおりを挟む何よりも愛おしい。
ハヤセを蝶のように愛でる気持ちは、アルベールの中で変わることはない。幼馴染で、かつての親友。今では狂おしいほど想い焦がれる意中の相手でもある。
乾いた魂が潤いを取り戻すかのように、ハヤセはアルベールの心身を癒す存在であった。彼のどんな願いも、いかに高価な宝玉でもハヤセが望めば惜し気もなく与える気構えでいる。
いつだって暇さえあれば見ていた。アルベールの意識はハヤセへ傾倒していくばかりだった。ハヤセが何を見て、どのような反応をするか。どこに彼の関心事があり、何に感動を覚えるのかまで。
際限なく情報を更新していくと、だんだんとわかってくることがあった。
ハヤセの感性は昔とあまり変わらないらしいこと。あの頃と見た目は様変わりしているが、本質を突き詰めれば慣れ親しんだかつてのハヤセその人だということを。
場所や状況によって笑い方を変える品のよさがあること。
アルベールの留学話をまるで少年のような顔色で聞き入っていたこと。
身長を揶揄うと可愛らしく不貞腐れること。
おいしかった料理の献立をしきりにメモしていたこと。
庭園で時を過ごせば、咲き誇る花よりも、それにまとわりつく虫に興味津々なところ。アルベールが止めなければ延々と女官たちを褒めちぎるところ。忍耐強く、しかし我儘もつい口に出してしまうところ。頑固すぎて侍従長をたじたじにさせることもある。
「俺は好きだったんだ」
アルベールは空元気でそう言った。
大地に咲くどんな花も、比べるには役不足すぎる。天上で戯れる冬の女神がいるのだとしたら、きっと御姿はハヤセと酷似しているに違いない。たとえ百個の誉め言葉を使ってもハヤセを満足に表すことはできないだろう。
堰を切った感情が外に漏れ出さないように理性で押し留めている。どれだけ愛を語ろうと気が済まないなと、アルベールは己自身を皮肉った。
「ごめん……なさいアルベール」
まともに目を合わさないでいたことが、どれだけ相手に不信感を抱かせていたことか。ハヤセはアルベールに指摘されるまで気がつくことはできなかった。
小洒落た部屋の一室に、憂鬱な空気が漂う。外の燦燦とした陽気が白昼夢のようにハヤセの眼界をかすめた。
「愛の言葉も…………あぁ、嘘だったんだよな」
アルベールの心が崩れ落ちていく。その瞳にどっと影が差すことを、ハヤセは絶対に見過ごすことはできなかった。
顔をほのかに紅潮させているアルベール。その頬にそっと手を伸ばすと、熱い、滾るような肌の温度を感じられた。
「俺を利用して、行き着く先は……どこだったんだ?」
「いいえ、いいえそんな利用するなんて」
「もう隠さないでいい。ハヤセが妃になりたいことはわかったよ。だから……、その先を教えてくれ」
先、妃に成り上がった先なんてわからない。ハヤセは思いもかけない問いに慌てた。
「先……その先……」
誰よりも偉くなって、父や家からのしがらみから抜け出すことができれば、あとは先のことなんて何も望まない。
望む権利すら無いことはわかっている。どれだけ業の深い、欲に塗れたことをしているか。反射的にのけぞってしまうほど自分が一番感じている。
「父親と同じ名誉は望むまい。皇家の財産にだって、お前はまるで興味がなかったはずだ」
全て見てきた今ならわかる。ハヤセが何かとんでもないことを考えていることが。理性のもとでハヤセを見れば、アルベールは手に取るように相手の心が読み取れた。
ゆえに警戒もしていたはずであった。
つとハヤセは大きな双眸を、初めて自発的にアルベールに差し向ける。
「なにも…………」
どちらから手を回したのか。二人は互いにきつく抱き合っていた。
ハヤセの髪が風に撫でつけられる。その黒い一片、さらさらと揺蕩う振分髪がはらりとハヤセの肩に降りていく。
熱を帯びるアルベールの頬に、触れるだけのひかえめな口づけがなされた。
「ハヤセ」
「なにもいらなかったの。僕は……私は」
相手の狼狽を感知しないで、ハヤセはその勢いのままに唇を寄せた。先まで石のように固まっていた彼が背伸びして、対する男にわざとらしい笑みを見せつける。
唇どうしが触れ合う時、アルベールは途端に息を止めた。避けることも、手で遮ることも可能だったのに身体は壊れた人形のように軋むだけ。
ただ甘い。五感が鋭く信号を送ってくるだけである。
「ふ……んっ…………」
熱を帯びた視線は、アルベールの制止が及ぶところではない。ハヤセがここまで暴走することを見越してはいなかったのである。
「やめ……っろ、ハヤセ」
「私を……ん……そう拒絶してほしいの。アルベール」
その行為にもはや意味はない。肩を揺すり、アルベールは相手の正気を確かめる。ハヤセはずいぶんと熱気に染まっているが、意を決したその眼光には、まだ人の心が幾分あるように見えた。
甘く慎ましいキス、それが次第に激化されていく。アルベールの理性の糸は途切れる寸前であった。
「んっ……、ん…………拒んでくれないと、止めない……から」
「なんでだよ!ハヤセ、そんなっ」
アルベールが危惧する「誘惑」の二文字。それが現実の身に降りかかろうとしていた。
「いいの……うっ……怖いのはもうたくさん」
ハヤセがうわ言のようにそう呟く。辺りをちりちりと照らす光の下に、彼の細い顔の輪郭が、影となって浮かんでいく。張り詰めた意識と場の空気を、さもあざ笑うかのように美人が口をつく。
「アルベール。お願い。私を……拒んで。それかもう、ぜんぶめちゃくちゃにしてほしいの」
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