冷酷な旦那様が記憶喪失になったら溺愛モードに入りましたが、愛される覚えはありません!

香月文香

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7 夜の会話(2)

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「まず家族の話をさせてくれ。……俺の母親は後添えなんだ。前妻は若くして流行病で亡くなってしまったそうだ。とはいえ、後妻を娶るのは貴族にはままある話だ」

「まあ……。旦那様にはお兄様がいると伺いましたが、その方とはどのような仲で?」

「異母兄だ。この兄が優秀で、家督を継いでくれるから、俺は騎士の道に進めた。もし俺が最初に生まれて、騎士ではなく当主になれと言われていたら、おそらく俺は当主の務めなど果たせなかっただろうな。向こうも剣術はからきしだから、兄弟仲はさほど悪くない」

「素敵ですね」

 最悪の姉妹関係を持つリゼルからすれば、羨ましい限りである。しかし、ここからグレンの社交嫌いにどう繋がるのだろう。

「母が嫁いだ後も、父は前妻を深く愛していた。もちろん母を蔑ろにするようなことはなかったが、当人には堪えたんだろう。母は、どうしても父から愛されたいと渇望するようになった。もとから夢見がちな人ではあった」

 グレンは足を組み、憂鬱そうに肘掛けに肘をつく。

「父は善処していた。高価な贈り物をしたり、ともに晩餐会に出たり。だが母は満足していないようだった。おそらく、母が求めていたのはそういうものではなかったのだろう」

 話の行方にあたりをつけて、リゼルは呟いた。

「お父上からの愛……が、欲しかったのでしょうか」

「それなら、もっと話は簡単だったな」

 グレンが苦笑する。それから過去を見晴るかすように、遠くへ目線を投げた。

「何をしても父から愛してもらえず、母は次第に心を病んでいき、いつしか俺にあたるようになった。自分が愛されないのは、お前が生まれたせいだと言って。どうやら子供が生まれなければ、父の気を引けたと思い込んでいたようだな。出産で容色が衰えたとも思っていたらしい」

 それが何でもないような口調だったから、リゼルは胸をつかれた。無意識のうちに両手を組み合わせる。理由は違っても、家族から疎まれる痛みは知っていた。

「酷いことを……そんなわけないのに……」

 血の気の引いたリゼルに、グレンは緩く首を振る。炉の炎が風に押されてたわんだ。足元まで飛んできた火の粉が、地面に落ちて光を失った。

「もう過去の話だ。心を痛めなくてもいい」

「ですが……」

「いいから、聞いてくれ。……それでも父が母を女性として愛することはなかった。とうとう痺れを切らした母は、よその男と不倫を繰り返すようになった」

「……えっ? なぜでしょうか」

 心の動きが全くわからない。彼女が愛しているのは夫ではなかったのか。

「母が本当に欲しかったのは、父からの愛情ではなく、何をせずとも自分を愛してくれる男だったんだろう」

 グレンが唇の端だけを吊り上げ、皮肉っぽく笑う。リゼルは小首を傾げた。

「……失礼ながら、そのような人は世にはいないのでは? それとも私が知らないだけで、王都にはそういう慈悲に溢れた方が闊歩していらっしゃるのでしょうか?」

 生家にはいなかったが、広い王都にはいるのかもしれない。満面に疑念を浮かべたリゼルに、グレンが太く息を吐き出した。

「その通り、存在しない。そんな男は王都では詐欺師と呼ばれる。だが俺の母は今日もそういう男を求めて社交界に繰り出しているわけだ。そして――肩書と外見に惹かれて俺に近寄ってくるご令嬢達も、そういう勝手な性質の人間が多かった。兄には女難と言われたよ」

「そ、そうなのですか」

 それには自分との結婚も含まれているのではないか――と冷や汗が流れる。しかしグレンは濃淡のない口調で続けた。

「顔も知らぬ令嬢に突然手紙を送られるのは日常茶飯事で、勝手に私物を盗まれたり、飲み物に薬を盛られたり。どこぞの未亡人が知らない間に俺名義で土地を買っていたのはやや面白かったな。別荘も建っていた」

(それは面白いのかしら!?)

 社交界とは恐ろしい場所だ、と腕に鳥肌が立って思わずさすってしまう。「持ちこまれる縁談を片端から断っていたらそうなっていた」とグレンは笑みを消し、きっぱりと話を結んだ。

「だから俺は社交と同様に、女性もあまり好ましく思っていない。リゼルと結婚して酷い態度を取っていたのはそのせいだろう。……俺の方こそ、俺を苦しめた者達と同じことをしていたのに、それに気づかなかった」

 少しのあいだ瞑目した後、グレンは言った。

「俺は人の心の機微には疎いから、リゼルに教えてほしい。どうしたら不安を取り除けるのか。何が好きで、何が嫌いなのか。そういうことを、リゼルの口から聞きたい」

 こちらに向けられる面持ちは生真面目だった。真剣な瞳はリゼルをこの場に縫い止めるようで、ぐ、と息が詰まる。

 唐突に投げられた問いは今まで考えたこともないもので、即座に答えられない。沈黙を埋めるように魔力炉の小鍋に目を向けた。まだ湯は沸きそうになく、どこにも逃げ場はなかった。

 それに、とリゼルは唾を飲みこむ。逃げてはいけないと思った。グレンは過去を明かしてくれたのだ。ならばリゼルだって話すのが公平というものだろう。

「わ、私は……」

 膝に置いた手が小刻みに震える。俯くと、銀の髪がさらりと垂れ落ちた。流星の尾のような一房を無意識に握りしめ、ぎこちなく伝える。

「まず、嫌いなのは……狭い場所。窓のない部屋」

 グレンが不審げに顔をしかめた。

「今までに、そういう場所にいたことが?」

「実家、で……」

 離れの様子が脳裏に蘇る。黴びて黒ずんだ壁、梁の腐った天井、鬱屈が凝ったような湿気た空気。羽目板の隙間から差す光と、ネイの励ましの声。

 髪を握る手のひらに爪が食いこんで、鈍い痛みが走る。と、上から拳を包まれてリゼルははっと顔を上げた。

 拳をほどくようにグレンがそっと指を絡める。肌に触れる温もりが、凍りついたリゼルの過去を端から溶かしていくようだった。

「わかった。それ以上は言わなくていい」

「も、申し訳……」

「謝罪は必要ない。俺が不躾だった。……他に好きなものはないのか?」

 指を絡めたまま、そっと訊ねられる。リゼルは唇を噛み、心の隅々まで目を配ってから、ぽつりぽつりと言葉を紡いだ。

「私は、魔法が好きで」

「ああ」

「色んなものを見るのも、好きです。知らないこと、見たことのない景色。行き交う人の流れだとか……」

 未知と未踏。それこそがリゼルの心を躍らせるスパイスだったが、今まではっきりと口にはできなかった。これが罪ある性質だと思っていたから、マギナ家で蔑まれても、リゼルは冷遇に甘んじていた。そうされて当然の罪深い娘なのだと信じていた。

 けれど今、グレンに対して言葉にできたのは。

(旦那様は、私の家族とは違う。……きっと、不気味がったりしない)

 絡む指の力強さが、そう伝えてくれるからだ。

 果たしてグレンは一つ瞬きしただけで「そうなのか」とあっさり頷いた。

 そして、どこか悪戯っぽい目つきでリゼルを仰ぐように見る。

「リゼルは、王都はあらかた見て回ったか?」

 唐突な問いかけに、リゼルはぽけっと瞬く。

「いえ……魔法書店以外は、特に」

 それも二、三度の話だ。あまり街をうろうろするのは良くないかと、賑やかな王都の大通りに後ろ髪を引かれながらも慎んでいた。

 グレンの笑顔が深くなる。手に力がこめられ、秘密を囁くように顔を近寄せられた。

「なら、次の休みに二人で出かけるぞ。まだここにはリゼルの見たことのないものがたくさんある。楽しみにしていろ」

 ようやく小鍋に湯が沸く。水泡が膨らんでは弾ける音を聞きながら、リゼルは記憶喪失の夫の目を見つめ返した。手は強く握られているはずなのに、指の隙間から砂が零れてゆくような心地がする。

 わかっている。これは今だけの特権で、遠くないうちに確実に失われるものだと。

 目の奥がじわりと熱くなる。喉元にこみ上げるものを必死に飲み下し、リゼルは「ありがとうございます」と呟いた。

(私はいつか、この手を離せるかしら)

 一度与えられた温もりを、手放すのはとても難しい。

 リゼルはもう、この微睡むような心地を知ってしまったのだ。

 いつか別れるその時には、旦那様を困らせないようにしなければならない、とリゼルは揺れる心に言い聞かせた。
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