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その日は、朝からオフィスに落ち着かない空気が流れていた。
ざわざわとした期待と好奇心が、フロアの隅々まで満ちている。
七瀬は、部長席に呼ばれて戻ってきた和泉が、周囲に囲まれながら「結婚と海外支店への異動」を報告するのを、冷めた目で眺めていた。
「えっ、結婚?」
「おめでとうございます!」
「海外支店って、すごいじゃないですか!」
祝福の声が次々と上がり、フロアは一気に華やいだ空気に包まれる。
和泉は照れくさそうに笑いながら、左手を軽く上げた。
その薬指には、真新しいプラチナのリングが光っていた。
蛍光灯の下で、指輪はいやに眩しく輝き、まるで周囲の祝福を反射しているかのようだった。
だが七瀬には、その光が“ある一人の男の心を粉砕するための凶器”にしか見えなかった。
(……最悪だな)
七瀬は視線を横に滑らせる。
そこには、デスクの影に隠れるように立ち尽くす和弥の姿があった。
表情は――ない。
ただ、顔から血の気が完全に失せ、紙のように白くなっている。
心臓の鼓動だけが辛うじて彼をこの世界に繋ぎ止めているようだった。
周囲の祝福の声が、和弥には遠くの雑音のようにしか聞こえていないのだろう。
視線はただ一点――和泉の薬指のリングに釘付けになっていた。
定時後、誰も残っていない時間帯。
静まり返ったフロアに、七瀬の靴音だけが乾いた音を響かせる。
「……おい、村上」
その声に、和弥の肩がびくりと跳ねた。
振り返った顔は、怒りとも悲しみともつかない、壊れかけた表情をしている。
「聞いたか? 和泉は海外だってさ。追いかけていけばいいんじゃないか?飛行機代くらい、お前の退職金で賄えるだろ。……ああ、でも結婚するんだったな。お前が行ったところで、邪魔者扱いされるだけか」
刺すような言葉を、淡々と並べる。
だが今日の和弥は、いつものように黙って耐える男ではなかった。
「……黙れよ」
低く、震えた声。
七瀬は一瞬だけ目を細める。
「なんだ?」
「黙れって言ってんだよ!!」
和弥がデスクを叩いた。乾いた音がフロアに響く。和弥の目は真っ赤に充血し、涙が滲んでいる。
「いつもいつもうるせえんだよ!そんなに俺のことを馬鹿にして楽しいか?!俺がどんな気持ちで今日一日……!」
声が震え、言葉が途切れる。
拳は白くなるほど握りしめられ、肩は怒りで上下している。
七瀬は、そんな和弥を見下ろしながら――ゆっくりと、口角を上げた。
「……ああ、楽しいよ」
その一言は、火に油を注ぐように和弥の怒りをさらに煽った。
和弥は息を呑み、七瀬を睨みつける。
七瀬は肩をすくめ、ため息をつくような仕草を見せた。
だがその目は、和弥の怒りを楽しむように細められている。
「……おい、飲みに行くぞ、ついてこい」
「は……? はぁ!? なんで俺があんたなんかと――」
七瀬は和弥の耳元に顔を寄せ、低く囁いた。
「……じゃあいいのか?お前が和泉と“そういう関係”だったことを言っても……。知られたくないだろ?和泉のためにもよくないだろうな」
和弥の喉がひゅっと鳴る。
怒りが一瞬で引き、代わりに羞恥と恐怖が混ざった複雑な表情が浮かぶ。
「……最低だな、あんた……」
「わかってるよ」
和弥は悔しそうに唇を噛み、視線を逸らした。
「……行けばいいんだろ……行けば……」
その声は、怒りと屈辱で震えていた。
だが七瀬は満足そうに口角を上げる。
「最初から素直にそう言え」
七瀬は和弥の腕を軽く引き、エレベーターへ向かう。
和弥は渋々ついていくが、その背中にはどうしようもない敗北感が滲んでいた。
*
騒がしい居酒屋の片隅で、和弥は完全に泥酔していた。
ビール、日本酒、ウイスキー――節操なくちゃんぽんで煽る和弥を、七瀬は一度も止めなかった。
止めるどころか、グラスが空けば無言で次を注文してやった。
「海外ですよ? 結婚ですよ? 笑っちゃいますよね……」
和弥は笑おうとするが、うまく笑えず、顔がひきつる。
「……ああ。笑えるな。お前の人生、今日で二回くらい終わったんじゃないか?」
「課長の……言う通りでした。俺、ただの……当て馬、だった……」
「当て馬どころか、予備の予備だろ。あいつの人生にとって、お前なんて“その他大勢”の一人だな」
その言葉に、和弥はテーブルに突っ伏し、肩を震わせながら嗚咽を漏らした。
涙と酒で濡れた声が、七瀬の胸の奥を鋭く刺す。
七瀬は黙って酒を飲み続けた。
「……俺、何してんだろ……なんで……なんで俺じゃなかったんだよ……」
「知らねぇよ。選ばれなかった理由なんて、お前が一番わかってんだろ」
「……っ、うるさい……」
「うるさいのはお前だよ。俺は“捨てられた元セフレです”って、そんなに言いたいのか?」
和弥は顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃのまま七瀬を睨む。
「……最低だ……」
「はいはい。でも最低なのは俺じゃなくて、お前の見る目だろ」
和弥はもう返す言葉もなく、ただ泣き続けた。
結局、立てなくなった和弥を引きずるようにして店を出た頃には、終電はとっくに過ぎていた。
夜風が酔いの熱を奪っていくが、和弥の体温だけは七瀬の腕にしっかりと残っている。
「……おい、歩け」
「むり……っす……課長……」
「知るか。みっともないな……」
吐き捨てるように言いながらも、七瀬の腕は和弥を落とすまいとしっかり支えていた。
タクシーを拾おうとしたが――和弥の家がわからない。
その瞬間――
「……いずみ……」
ぽつりと、和弥が呟いた。
七瀬の全身が、電流を流されたように強張る。
(っ……、それでもまだ、あいつの名前呼ぶのかよ)
七瀬は、押し殺した怒りで震えた。
だが和弥は気づかない。
「……いずみ……どこ……」
その無自覚な甘えが、七瀬の胸を容赦なく抉る。
(ふざけんな……今、お前を支えてるのは誰だと思ってんだよ)
怒りとも、嫉妬とも、諦めともつかない感情が、七瀬の背中にずしりと重くのしかかる。
(……どこまで俺を馬鹿にすれば気が済むんだ)
吸い寄せられるように、ビジネスホテルへとチェックインした。
案内されたのは、狭苦しい空間に不釣り合いな大きさのダブルベッドが鎮座する一室。七瀬は、足元の覚束ない和弥を乱暴にベッドへ放り投げた。和弥は抵抗する力もなく、シーツに顔を埋めたまま、うわ言のようにまたあの名前を溢す。
「……いずみ……っ」
その名前を、七瀬はもう聞きたくなかった。胸の奥で、どす黒い感情が疼きを上げる。
七瀬はベッドの縁に腰掛け、自分を見失っている和弥を見下ろした。 きつく締められていたはずのネクタイは無惨に緩み、涙と汗で上気した肌が、空調の効いた室内で微かに震えている。無防備で、今にも壊れそうな、どうしようもなく愛しい男。
「……いい加減、その名前を呼ぶのをやめろ」
低く突き放すような声とは裏腹に、七瀬の手は和弥の体を強引に仰向けにさせた。逃げ場を奪うように、その上から重なり、覆い被さる。
「村上、よく見ろ。今お前のそばにいるのは誰だ?……お前が嫌いな、俺だろう」
視界が定まらない和弥の瞳が、至近距離でようやく七瀬を捉えた。 そこに映るのは、いつも自分を冷徹な言葉で傷つけ、支配する傲慢な上司。けれど、今自分を見下ろすその瞳は、和弥が知るどの表情よりも、驚くほど悲しげに、揺れていた。
「……課長、……なんで、そんな……」
和弥の手が、震えながら七瀬の頬に触れた。熱を持った指先が、七瀬の肌をなぞる。
「……課長も、誰かを……想ってるんですか……?」
その問いに、七瀬は答えなかった。答える代わりに、和弥の言葉ごと、その唇を乱暴に塞いだ。
驚きで目を見開く和弥を、七瀬は決して逃がさない。これは、傷ついた部下への慰めなどではない。心の隙間に強引に割り込み、どろどろとした感情で塗り潰す――侵食であり、略奪だった。
和弥の口内に、混ざり合った酒の苦味と、七瀬の剥き出しの執着が流れ込む。
「……お前がそんな腑抜けだから、和泉に捨てられたんだよ」
呪詛のような言葉。七瀬の鋭い指先が、和弥の喉元をひっかくように、獲物を品定めする手つきで這い上がった。
「……っ、やめろ……」
「ほら、どうした。言い返してみろよ。それとも、中身はもう空っぽか? 和泉に心も体も吸い尽くされて、あいつの残り香を抱いて死ぬのを待つだけの、絞りカスか?」
七瀬の罵倒は止まらない。彼は和弥の胸元を拳で小突き、抉るように言葉を重ねる。
「そんなに和泉が良かったか? 和泉の代わりに、俺が慰めてやろうか。憐れな村上くん……誰からも愛されず、選ばれもしない。ただの身代わりの野良犬だ、お前は」
「……黙れ」
和弥の声が低く、地這うような響きに変わる。しかし、七瀬は止まらない。むしろその反応を愉しむように、薄い唇に嘲笑を浮かべた。
「黙らないよ。お前がその惨めな現実を受け入れるまで、何度でも言ってやる。お前は一生、あいつの影を追って、独りぼっちで――」
「黙れって言ってんだよ……!!」
和弥の中で、何かが決壊した。理性が吹き飛び、本能が目を覚ます。
和弥は、自分に跨っていた七瀬の細い腰を強引に掴むと、恐ろしいほどの力で彼をシーツへと叩きつけた。形勢は一瞬で逆転する。 上下が入れ替わり、今度は和弥の影が七瀬を覆い尽くした。
「……っ、村上……?!」
七瀬の驚愕を封じるように、和弥は彼のシャツの襟元に手をかけ、力任せに引き裂いた。ブチブチと硬い音を立ててボタンが弾け飛び、床に転がる。 露わになった七瀬の白い肌が、ホテルの照明に晒され、ひどく艶かしく浮かび上がった。
和弥は七瀬の両手首を片手でまとめ、頭上へ乱暴にねじ伏せた。鉄格子のようにはめ殺された腕が、七瀬の細い体が逃げられないことを無情に告げている。
「……あんたが、煽ったんだ。だったら、後悔させてやるよ」
和弥の瞳は、もはや絶望に濡れた「捨てられた犬」のものではなかった。七瀬の執拗な挑発によって火をつけられた、飢えた獣の眼差しだ。
「な、に……っ、やれるもんなら、やってみろって――」
「ああ、やってやるよ。あんたがそのうるさい口で、二度と俺を馬鹿にできないくらい、めちゃくちゃにしてやる」
和弥の大きな掌が七瀬の脇腹を強く掴み、食い込むほどに爪を立てた。陶器のような白い肌に、鮮やかな赤色の痕が深く刻まれていく。
「んんっ、あ、ぐ……っ、む、らかみ……っ!」
七瀬の鼻にかかった声が、快楽と痛みの混濁した悲鳴に変わる。 和弥は七瀬のズボンを乱暴に剥ぎ取ると、抵抗しようともがく脚を自身の重みで封じ込め、剥き出しになった柔らかな内腿に、深く、深く歯を立てた。
「痛っ……あ、ぁっ!」
「痛いか? ……あんたが俺にしてることは、もっと痛いんだよ……俺を弄んで、踏みにじって、そんなに楽しいかよ?!」
和弥の低い声が、慟哭のように七瀬の耳元で震える。
「……あ、はは……っ。そうだよ、村上……。もっと、殺す気で、やれよ……。俺が、お前を壊してやる……っ!」
「……壊れるのは、あんたの方だ」
和弥は七瀬の首筋を、強く噛み締めた。 七瀬が叫びにも似た嬌声をあげ、シーツの上でぶつかり合う。それはもはや愛と呼べるものではなかった。
ざわざわとした期待と好奇心が、フロアの隅々まで満ちている。
七瀬は、部長席に呼ばれて戻ってきた和泉が、周囲に囲まれながら「結婚と海外支店への異動」を報告するのを、冷めた目で眺めていた。
「えっ、結婚?」
「おめでとうございます!」
「海外支店って、すごいじゃないですか!」
祝福の声が次々と上がり、フロアは一気に華やいだ空気に包まれる。
和泉は照れくさそうに笑いながら、左手を軽く上げた。
その薬指には、真新しいプラチナのリングが光っていた。
蛍光灯の下で、指輪はいやに眩しく輝き、まるで周囲の祝福を反射しているかのようだった。
だが七瀬には、その光が“ある一人の男の心を粉砕するための凶器”にしか見えなかった。
(……最悪だな)
七瀬は視線を横に滑らせる。
そこには、デスクの影に隠れるように立ち尽くす和弥の姿があった。
表情は――ない。
ただ、顔から血の気が完全に失せ、紙のように白くなっている。
心臓の鼓動だけが辛うじて彼をこの世界に繋ぎ止めているようだった。
周囲の祝福の声が、和弥には遠くの雑音のようにしか聞こえていないのだろう。
視線はただ一点――和泉の薬指のリングに釘付けになっていた。
定時後、誰も残っていない時間帯。
静まり返ったフロアに、七瀬の靴音だけが乾いた音を響かせる。
「……おい、村上」
その声に、和弥の肩がびくりと跳ねた。
振り返った顔は、怒りとも悲しみともつかない、壊れかけた表情をしている。
「聞いたか? 和泉は海外だってさ。追いかけていけばいいんじゃないか?飛行機代くらい、お前の退職金で賄えるだろ。……ああ、でも結婚するんだったな。お前が行ったところで、邪魔者扱いされるだけか」
刺すような言葉を、淡々と並べる。
だが今日の和弥は、いつものように黙って耐える男ではなかった。
「……黙れよ」
低く、震えた声。
七瀬は一瞬だけ目を細める。
「なんだ?」
「黙れって言ってんだよ!!」
和弥がデスクを叩いた。乾いた音がフロアに響く。和弥の目は真っ赤に充血し、涙が滲んでいる。
「いつもいつもうるせえんだよ!そんなに俺のことを馬鹿にして楽しいか?!俺がどんな気持ちで今日一日……!」
声が震え、言葉が途切れる。
拳は白くなるほど握りしめられ、肩は怒りで上下している。
七瀬は、そんな和弥を見下ろしながら――ゆっくりと、口角を上げた。
「……ああ、楽しいよ」
その一言は、火に油を注ぐように和弥の怒りをさらに煽った。
和弥は息を呑み、七瀬を睨みつける。
七瀬は肩をすくめ、ため息をつくような仕草を見せた。
だがその目は、和弥の怒りを楽しむように細められている。
「……おい、飲みに行くぞ、ついてこい」
「は……? はぁ!? なんで俺があんたなんかと――」
七瀬は和弥の耳元に顔を寄せ、低く囁いた。
「……じゃあいいのか?お前が和泉と“そういう関係”だったことを言っても……。知られたくないだろ?和泉のためにもよくないだろうな」
和弥の喉がひゅっと鳴る。
怒りが一瞬で引き、代わりに羞恥と恐怖が混ざった複雑な表情が浮かぶ。
「……最低だな、あんた……」
「わかってるよ」
和弥は悔しそうに唇を噛み、視線を逸らした。
「……行けばいいんだろ……行けば……」
その声は、怒りと屈辱で震えていた。
だが七瀬は満足そうに口角を上げる。
「最初から素直にそう言え」
七瀬は和弥の腕を軽く引き、エレベーターへ向かう。
和弥は渋々ついていくが、その背中にはどうしようもない敗北感が滲んでいた。
*
騒がしい居酒屋の片隅で、和弥は完全に泥酔していた。
ビール、日本酒、ウイスキー――節操なくちゃんぽんで煽る和弥を、七瀬は一度も止めなかった。
止めるどころか、グラスが空けば無言で次を注文してやった。
「海外ですよ? 結婚ですよ? 笑っちゃいますよね……」
和弥は笑おうとするが、うまく笑えず、顔がひきつる。
「……ああ。笑えるな。お前の人生、今日で二回くらい終わったんじゃないか?」
「課長の……言う通りでした。俺、ただの……当て馬、だった……」
「当て馬どころか、予備の予備だろ。あいつの人生にとって、お前なんて“その他大勢”の一人だな」
その言葉に、和弥はテーブルに突っ伏し、肩を震わせながら嗚咽を漏らした。
涙と酒で濡れた声が、七瀬の胸の奥を鋭く刺す。
七瀬は黙って酒を飲み続けた。
「……俺、何してんだろ……なんで……なんで俺じゃなかったんだよ……」
「知らねぇよ。選ばれなかった理由なんて、お前が一番わかってんだろ」
「……っ、うるさい……」
「うるさいのはお前だよ。俺は“捨てられた元セフレです”って、そんなに言いたいのか?」
和弥は顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃのまま七瀬を睨む。
「……最低だ……」
「はいはい。でも最低なのは俺じゃなくて、お前の見る目だろ」
和弥はもう返す言葉もなく、ただ泣き続けた。
結局、立てなくなった和弥を引きずるようにして店を出た頃には、終電はとっくに過ぎていた。
夜風が酔いの熱を奪っていくが、和弥の体温だけは七瀬の腕にしっかりと残っている。
「……おい、歩け」
「むり……っす……課長……」
「知るか。みっともないな……」
吐き捨てるように言いながらも、七瀬の腕は和弥を落とすまいとしっかり支えていた。
タクシーを拾おうとしたが――和弥の家がわからない。
その瞬間――
「……いずみ……」
ぽつりと、和弥が呟いた。
七瀬の全身が、電流を流されたように強張る。
(っ……、それでもまだ、あいつの名前呼ぶのかよ)
七瀬は、押し殺した怒りで震えた。
だが和弥は気づかない。
「……いずみ……どこ……」
その無自覚な甘えが、七瀬の胸を容赦なく抉る。
(ふざけんな……今、お前を支えてるのは誰だと思ってんだよ)
怒りとも、嫉妬とも、諦めともつかない感情が、七瀬の背中にずしりと重くのしかかる。
(……どこまで俺を馬鹿にすれば気が済むんだ)
吸い寄せられるように、ビジネスホテルへとチェックインした。
案内されたのは、狭苦しい空間に不釣り合いな大きさのダブルベッドが鎮座する一室。七瀬は、足元の覚束ない和弥を乱暴にベッドへ放り投げた。和弥は抵抗する力もなく、シーツに顔を埋めたまま、うわ言のようにまたあの名前を溢す。
「……いずみ……っ」
その名前を、七瀬はもう聞きたくなかった。胸の奥で、どす黒い感情が疼きを上げる。
七瀬はベッドの縁に腰掛け、自分を見失っている和弥を見下ろした。 きつく締められていたはずのネクタイは無惨に緩み、涙と汗で上気した肌が、空調の効いた室内で微かに震えている。無防備で、今にも壊れそうな、どうしようもなく愛しい男。
「……いい加減、その名前を呼ぶのをやめろ」
低く突き放すような声とは裏腹に、七瀬の手は和弥の体を強引に仰向けにさせた。逃げ場を奪うように、その上から重なり、覆い被さる。
「村上、よく見ろ。今お前のそばにいるのは誰だ?……お前が嫌いな、俺だろう」
視界が定まらない和弥の瞳が、至近距離でようやく七瀬を捉えた。 そこに映るのは、いつも自分を冷徹な言葉で傷つけ、支配する傲慢な上司。けれど、今自分を見下ろすその瞳は、和弥が知るどの表情よりも、驚くほど悲しげに、揺れていた。
「……課長、……なんで、そんな……」
和弥の手が、震えながら七瀬の頬に触れた。熱を持った指先が、七瀬の肌をなぞる。
「……課長も、誰かを……想ってるんですか……?」
その問いに、七瀬は答えなかった。答える代わりに、和弥の言葉ごと、その唇を乱暴に塞いだ。
驚きで目を見開く和弥を、七瀬は決して逃がさない。これは、傷ついた部下への慰めなどではない。心の隙間に強引に割り込み、どろどろとした感情で塗り潰す――侵食であり、略奪だった。
和弥の口内に、混ざり合った酒の苦味と、七瀬の剥き出しの執着が流れ込む。
「……お前がそんな腑抜けだから、和泉に捨てられたんだよ」
呪詛のような言葉。七瀬の鋭い指先が、和弥の喉元をひっかくように、獲物を品定めする手つきで這い上がった。
「……っ、やめろ……」
「ほら、どうした。言い返してみろよ。それとも、中身はもう空っぽか? 和泉に心も体も吸い尽くされて、あいつの残り香を抱いて死ぬのを待つだけの、絞りカスか?」
七瀬の罵倒は止まらない。彼は和弥の胸元を拳で小突き、抉るように言葉を重ねる。
「そんなに和泉が良かったか? 和泉の代わりに、俺が慰めてやろうか。憐れな村上くん……誰からも愛されず、選ばれもしない。ただの身代わりの野良犬だ、お前は」
「……黙れ」
和弥の声が低く、地這うような響きに変わる。しかし、七瀬は止まらない。むしろその反応を愉しむように、薄い唇に嘲笑を浮かべた。
「黙らないよ。お前がその惨めな現実を受け入れるまで、何度でも言ってやる。お前は一生、あいつの影を追って、独りぼっちで――」
「黙れって言ってんだよ……!!」
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和弥は、自分に跨っていた七瀬の細い腰を強引に掴むと、恐ろしいほどの力で彼をシーツへと叩きつけた。形勢は一瞬で逆転する。 上下が入れ替わり、今度は和弥の影が七瀬を覆い尽くした。
「……っ、村上……?!」
七瀬の驚愕を封じるように、和弥は彼のシャツの襟元に手をかけ、力任せに引き裂いた。ブチブチと硬い音を立ててボタンが弾け飛び、床に転がる。 露わになった七瀬の白い肌が、ホテルの照明に晒され、ひどく艶かしく浮かび上がった。
和弥は七瀬の両手首を片手でまとめ、頭上へ乱暴にねじ伏せた。鉄格子のようにはめ殺された腕が、七瀬の細い体が逃げられないことを無情に告げている。
「……あんたが、煽ったんだ。だったら、後悔させてやるよ」
和弥の瞳は、もはや絶望に濡れた「捨てられた犬」のものではなかった。七瀬の執拗な挑発によって火をつけられた、飢えた獣の眼差しだ。
「な、に……っ、やれるもんなら、やってみろって――」
「ああ、やってやるよ。あんたがそのうるさい口で、二度と俺を馬鹿にできないくらい、めちゃくちゃにしてやる」
和弥の大きな掌が七瀬の脇腹を強く掴み、食い込むほどに爪を立てた。陶器のような白い肌に、鮮やかな赤色の痕が深く刻まれていく。
「んんっ、あ、ぐ……っ、む、らかみ……っ!」
七瀬の鼻にかかった声が、快楽と痛みの混濁した悲鳴に変わる。 和弥は七瀬のズボンを乱暴に剥ぎ取ると、抵抗しようともがく脚を自身の重みで封じ込め、剥き出しになった柔らかな内腿に、深く、深く歯を立てた。
「痛っ……あ、ぁっ!」
「痛いか? ……あんたが俺にしてることは、もっと痛いんだよ……俺を弄んで、踏みにじって、そんなに楽しいかよ?!」
和弥の低い声が、慟哭のように七瀬の耳元で震える。
「……あ、はは……っ。そうだよ、村上……。もっと、殺す気で、やれよ……。俺が、お前を壊してやる……っ!」
「……壊れるのは、あんたの方だ」
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