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深夜1時のオフィス。 鳴り止まない空調の低音だけが、墓標のように整然と並ぶデスクの間を這い回り、無機質な空間を支配していた。 窓の外では、眠らない街のネオンが瞬き続けているというのに、このフロアだけは深海の底のように静まり返っている。 青白いモニターの光が、向かい合う二人の顔を冷たく照らし出し、影を濃く落としていた。
七瀬は、書類をめくる手を止め、眼鏡の奥から斜め向かいの男をじっと観察した。
眩しいほどの営業スマイルを武器に、フロアの空気を軽くしていた男。 その面影は、今やどこにも残っていない。
この一週間で、彼は目に見えて削り取られていた。 頬はこけ、皮膚は不健康なほど青白く、浮き出たクマが充血した瞳をより一層痛々しく際立たせている。 キーボードを叩く指先は、時折ふっと空を泳ぎ、まるで幽霊の残像を追いかけているかのようだった。 思考の糸がぷつりと切れているのは明白で、画面に映る文字列も、彼の意識を繋ぎ止めるには弱すぎる。
七瀬は、そんな和弥の姿を静かに眺めていた。
疲労か、絶望か、あるいはその両方か。 彼の背中からは、明るさや自信は完全に剥がれ落ち、残っているのは、愛する人に置き去りにされた男の影だけだった。
「おい、村上」
七瀬の低い声が、冷たい水に石を投じたようにフロアへ響いた。静寂を破るその一言に、和弥はびくりと肩を震わせ、焦点の定まらない虚ろな目をゆっくりと七瀬へ向ける。
「……はい、課長」
声は掠れ、喉の奥でひっかかっている。 七瀬は椅子にもたれ、眼鏡の奥から鋭い視線を投げつけた。
「さっきから同じ画面を眺めてるな。脳みそまで和泉に引きちぎられて捨ててきたのか?」
その瞬間、和弥の顔が屈辱に歪む。
「すみません。……すぐ、終わらせます」
「口だけは達者だな」
七瀬は鼻で笑い、書類を机に叩きつけるように置いた。
「たかが失恋したくらいで仕事ができなくなるとは、新入社員以下だ。仕事に私情を持ち込むなと言ったはずだ。お前がそうやって深夜まで無能を晒している間も、あいつ――和泉は、今頃新しい恋人と温かいベッドで寝てるだろうよ」
「……っ、やめてください」
掠れた、懇願するような声。
「何が? 事実だろう」
七瀬は立ち上がり、ゆっくりと和弥のデスクへ歩み寄る。 蛍光灯の青白い光が、和弥の疲れ切った横顔を照らし出す。
「お前がここで泥を啜るような思いで仕事をしていても、あいつにはもう届かない。お前がどんなに傷ついても、どれだけ睡眠を削っても、和泉の世界にお前という登場人物はもう存在しないんだ」
七瀬は和弥の肩越しに画面を覗き込み、低く囁く。
「……あいつにとってお前は、読み終わって捨てられた古雑誌と同じなんだよ」
和弥は奥歯を噛み締め、逃げるように視線をモニターへ戻した。 机の下で拳が白くなるほど握りしめられているのを、七瀬は見逃さない。
酷い言葉を吐くたびに、七瀬自身の喉が焼けるような鋭い痛みが走る。 鏡を見ずともわかる。 今、自分の顔はきっと醜悪に歪み、憎しみと欲望を混ぜたような、救いようのない表情をしているはずだ。
それでも、やめられなかった。
ここで優しく手を差し伸べれば、和弥は救われたような顔をして七瀬に感謝するだろう。
だが次の瞬間には、また思い出すのだ。
――自分を捨てた男のことを。
――自分が選ばれなかった現実を。
七瀬にとって、それは死ぬよりも耐えがたい。
感謝されるくらいなら、憎まれたい。 憐れまれるくらいなら、呪われたい。
和弥の脳内を、自分へのどす黒い怒りと憎悪だけで塗りつぶしてやればいい。 和泉の入る隙間など、一ミリも残らないほどに。
七瀬は冷たく言い放つ。
「……明日の朝までにその資料を完璧にまとめろ。終わるまで帰るなよ。お前には、その程度の価値しか残っていないんだからな」
「……わかってます」
絞り出すような和弥の返答。 その声は、擦り切れた紙のように薄く、今にも破れそうだった。
七瀬は席を立ち、給湯室へ向かった。 視界から和弥の姿が完全に消えた瞬間、張り付けていた冷酷な仮面が音を立てて剥がれ落ちる。
七瀬は深く息を吐き、背中の力を抜くように壁へもたれかかった。 後頭部を軽く打ち付けると、鈍い痛みがじんわりと広がる。
「……クソが。俺は何をやってるんだ」
吐き捨てるような声。 だがその響きには、怒りよりも自己嫌悪の色が濃かった。
ポケットから取り出したのは、未開封の栄養ドリンクと、ビタミン剤のシート。 今日の夕方、誰にも気づかれないように買っておいたものだ。
七瀬は自嘲気味に笑う。
(こんなもん買ってる時点で、俺の方がよっぽど惨めだろ…)
和弥の苦手なデータの山。 七瀬は自分のPCからリモートでこっそり修正しておいた。 和弥はきっと、明日になって自分のミスが少なかったことに首を傾げるだろう。 だがそれでいい。 気づかれなくていい。 むしろ、気づかれては困る。
七瀬は給湯室を出て、自販機の前に立つ。 冷たい缶コーヒーを二本買い、一本を自分の席へ戻る途中で、和弥の視界に入らないキャビネットの陰にそっと置いた。
(どうせ飲まないだろうけど……それでも、置かずにはいられないんだよ)
そして、和弥がトイレに立った一瞬の隙を突き、彼のデスクの隅に栄養ドリンクを置く。
七瀬はすぐに自席へ戻り、何事もなかったようにキーボードを叩き始めた。
――数分後。
席に戻ってきた和弥が、デスクの上に置かれた栄養ドリンクを見て、ぽかんと目を見開いた。
「……え?」
その声は、壊れた玩具のように頼りなく震えていた。 和弥は周囲を見渡すが、深夜のフロアには七瀬と自分しかいない。 七瀬はわざとらしく、モニターを睨みつけながらタイピングを続けていた。 その横顔は、まるで「俺は何も知らない」と言わんばかりに無関心を装っている。
和弥はドリンクをそっと手に取り、唇を震わせながら呟いた。
「……和泉?」
その名前が空気を震わせた瞬間、七瀬の指がピタリと止まった。 だが和弥は気づかない。 彼の瞳には、場違いなほどの微かな希望が灯っていた。
「……和泉が、置いてくれたのかな……」
その声は、まるで溺れかけた人間が藁を掴むような、痛々しいほどの期待に満ちていた。
『まだ自分を気にかけてくれているのではないか』
そんな救いようのない妄想が、和弥の瞳をキラキラと輝かせていく。
その瞬間―― 七瀬の胸の奥で、何かがパチンと音を立てて切れた。
「……村上、お前いい加減にしろよ」
椅子を蹴るような勢いで立ち上がり、七瀬は鋭い足取りで和弥のデスクへ詰め寄った。 深夜の静寂が一気に破られ、空気が張り詰める。
「それが、あいつからだと本気で思ってるのか?」
七瀬の声は低く、怒りを押し殺したように震えていた。
「お前を捨てた男が、わざわざ深夜に差し入れ? めでたい頭だな。あいつはお前のことなんて、もう一秒も考えてないって言ってるだろ!」
「っ、課長には関係ないでしょう! それに、和泉は、そんなに冷たい人じゃない!」
和弥は必死に反論するが、七瀬は鼻で笑った。
「冷たくない? 自分の幸せのために、お前の長年の想いを踏みにじって去った男が…? お前、本当に救いようのない馬鹿だな!」
次の瞬間、七瀬は和弥の胸ぐらを掴み、無理やり顔を至近距離まで引き寄せた。 二人の呼吸が触れ合うほどの距離。
七瀬の声は、低く、鋭く、そして震えていた。
「……現実を見ろよ、村上。お前の希望なんて、全部ただの妄想だ」
その言葉は、刃物のように鋭く和弥の胸に突き刺さった。
本当は言いたかった。
――「それを置いたのは俺だ。お前の体調を心配して、お前の仕事を裏で支えているのは、あいつじゃなくて俺だ」と。
だが、それを言えば、この歪な関係すら壊れてしまう。
「……離してください」
和弥が、消え入りそうな声で言う。 だがその次の瞬間、彼は七瀬の腕を乱暴に掴んだ。
「俺だって……わかってます。でも、今は……そう思わないと、やってられないんです……!」
声は震えているのに、掴む手は強い。 七瀬の腕に爪が食い込み、皮膚がきしむ。
七瀬の身体が硬直した。
今、このまま抱きしめて「俺がそばにいる」と言えたなら。 その一言で、和弥の崩れた心を少しは支えられるかもしれない。
だが七瀬の手は宙を彷徨い―― 結局、和弥の肩を乱暴に突き飛ばした。
「……汚い手で触るな!」
七瀬は背を向け、自分のデスクへ戻る。 心臓がうるさくて、吐き気がするほどだった。
和弥は力なく椅子に座り直し、栄養ドリンクの瓶を、宝物のように両手で握りしめている。 その優しさが七瀬によるものだとは、露ほども思わずに。
七瀬は乱暴に資料を和弥のデスクへ放り投げた。
「……残り、半分だ。さっさと片付けろ。……お前の無能な計算ミスの修正は、俺がやってやった。それくらい自分で気づけ、無能」
和弥は返ってきた資料を見て、目を見開いた。 そこには、彼が苦手とする関数の修正が、完璧な精度で施されていた。
「これ……課長が?」
「……うるさい。進捗が遅れて俺の睡眠時間が削られるのが嫌なだけだ。勘違いするなよ」
七瀬はモニターを見つめたまま、冷たく言い放つ。 だが耳の奥では、まだ和弥の掴んだ腕の感触が熱を帯びて残っていた。
和弥は戸惑ったように、栄養ドリンクと、目の前の厳しい上司を交互に見つめていた。
七瀬は、書類をめくる手を止め、眼鏡の奥から斜め向かいの男をじっと観察した。
眩しいほどの営業スマイルを武器に、フロアの空気を軽くしていた男。 その面影は、今やどこにも残っていない。
この一週間で、彼は目に見えて削り取られていた。 頬はこけ、皮膚は不健康なほど青白く、浮き出たクマが充血した瞳をより一層痛々しく際立たせている。 キーボードを叩く指先は、時折ふっと空を泳ぎ、まるで幽霊の残像を追いかけているかのようだった。 思考の糸がぷつりと切れているのは明白で、画面に映る文字列も、彼の意識を繋ぎ止めるには弱すぎる。
七瀬は、そんな和弥の姿を静かに眺めていた。
疲労か、絶望か、あるいはその両方か。 彼の背中からは、明るさや自信は完全に剥がれ落ち、残っているのは、愛する人に置き去りにされた男の影だけだった。
「おい、村上」
七瀬の低い声が、冷たい水に石を投じたようにフロアへ響いた。静寂を破るその一言に、和弥はびくりと肩を震わせ、焦点の定まらない虚ろな目をゆっくりと七瀬へ向ける。
「……はい、課長」
声は掠れ、喉の奥でひっかかっている。 七瀬は椅子にもたれ、眼鏡の奥から鋭い視線を投げつけた。
「さっきから同じ画面を眺めてるな。脳みそまで和泉に引きちぎられて捨ててきたのか?」
その瞬間、和弥の顔が屈辱に歪む。
「すみません。……すぐ、終わらせます」
「口だけは達者だな」
七瀬は鼻で笑い、書類を机に叩きつけるように置いた。
「たかが失恋したくらいで仕事ができなくなるとは、新入社員以下だ。仕事に私情を持ち込むなと言ったはずだ。お前がそうやって深夜まで無能を晒している間も、あいつ――和泉は、今頃新しい恋人と温かいベッドで寝てるだろうよ」
「……っ、やめてください」
掠れた、懇願するような声。
「何が? 事実だろう」
七瀬は立ち上がり、ゆっくりと和弥のデスクへ歩み寄る。 蛍光灯の青白い光が、和弥の疲れ切った横顔を照らし出す。
「お前がここで泥を啜るような思いで仕事をしていても、あいつにはもう届かない。お前がどんなに傷ついても、どれだけ睡眠を削っても、和泉の世界にお前という登場人物はもう存在しないんだ」
七瀬は和弥の肩越しに画面を覗き込み、低く囁く。
「……あいつにとってお前は、読み終わって捨てられた古雑誌と同じなんだよ」
和弥は奥歯を噛み締め、逃げるように視線をモニターへ戻した。 机の下で拳が白くなるほど握りしめられているのを、七瀬は見逃さない。
酷い言葉を吐くたびに、七瀬自身の喉が焼けるような鋭い痛みが走る。 鏡を見ずともわかる。 今、自分の顔はきっと醜悪に歪み、憎しみと欲望を混ぜたような、救いようのない表情をしているはずだ。
それでも、やめられなかった。
ここで優しく手を差し伸べれば、和弥は救われたような顔をして七瀬に感謝するだろう。
だが次の瞬間には、また思い出すのだ。
――自分を捨てた男のことを。
――自分が選ばれなかった現実を。
七瀬にとって、それは死ぬよりも耐えがたい。
感謝されるくらいなら、憎まれたい。 憐れまれるくらいなら、呪われたい。
和弥の脳内を、自分へのどす黒い怒りと憎悪だけで塗りつぶしてやればいい。 和泉の入る隙間など、一ミリも残らないほどに。
七瀬は冷たく言い放つ。
「……明日の朝までにその資料を完璧にまとめろ。終わるまで帰るなよ。お前には、その程度の価値しか残っていないんだからな」
「……わかってます」
絞り出すような和弥の返答。 その声は、擦り切れた紙のように薄く、今にも破れそうだった。
七瀬は席を立ち、給湯室へ向かった。 視界から和弥の姿が完全に消えた瞬間、張り付けていた冷酷な仮面が音を立てて剥がれ落ちる。
七瀬は深く息を吐き、背中の力を抜くように壁へもたれかかった。 後頭部を軽く打ち付けると、鈍い痛みがじんわりと広がる。
「……クソが。俺は何をやってるんだ」
吐き捨てるような声。 だがその響きには、怒りよりも自己嫌悪の色が濃かった。
ポケットから取り出したのは、未開封の栄養ドリンクと、ビタミン剤のシート。 今日の夕方、誰にも気づかれないように買っておいたものだ。
七瀬は自嘲気味に笑う。
(こんなもん買ってる時点で、俺の方がよっぽど惨めだろ…)
和弥の苦手なデータの山。 七瀬は自分のPCからリモートでこっそり修正しておいた。 和弥はきっと、明日になって自分のミスが少なかったことに首を傾げるだろう。 だがそれでいい。 気づかれなくていい。 むしろ、気づかれては困る。
七瀬は給湯室を出て、自販機の前に立つ。 冷たい缶コーヒーを二本買い、一本を自分の席へ戻る途中で、和弥の視界に入らないキャビネットの陰にそっと置いた。
(どうせ飲まないだろうけど……それでも、置かずにはいられないんだよ)
そして、和弥がトイレに立った一瞬の隙を突き、彼のデスクの隅に栄養ドリンクを置く。
七瀬はすぐに自席へ戻り、何事もなかったようにキーボードを叩き始めた。
――数分後。
席に戻ってきた和弥が、デスクの上に置かれた栄養ドリンクを見て、ぽかんと目を見開いた。
「……え?」
その声は、壊れた玩具のように頼りなく震えていた。 和弥は周囲を見渡すが、深夜のフロアには七瀬と自分しかいない。 七瀬はわざとらしく、モニターを睨みつけながらタイピングを続けていた。 その横顔は、まるで「俺は何も知らない」と言わんばかりに無関心を装っている。
和弥はドリンクをそっと手に取り、唇を震わせながら呟いた。
「……和泉?」
その名前が空気を震わせた瞬間、七瀬の指がピタリと止まった。 だが和弥は気づかない。 彼の瞳には、場違いなほどの微かな希望が灯っていた。
「……和泉が、置いてくれたのかな……」
その声は、まるで溺れかけた人間が藁を掴むような、痛々しいほどの期待に満ちていた。
『まだ自分を気にかけてくれているのではないか』
そんな救いようのない妄想が、和弥の瞳をキラキラと輝かせていく。
その瞬間―― 七瀬の胸の奥で、何かがパチンと音を立てて切れた。
「……村上、お前いい加減にしろよ」
椅子を蹴るような勢いで立ち上がり、七瀬は鋭い足取りで和弥のデスクへ詰め寄った。 深夜の静寂が一気に破られ、空気が張り詰める。
「それが、あいつからだと本気で思ってるのか?」
七瀬の声は低く、怒りを押し殺したように震えていた。
「お前を捨てた男が、わざわざ深夜に差し入れ? めでたい頭だな。あいつはお前のことなんて、もう一秒も考えてないって言ってるだろ!」
「っ、課長には関係ないでしょう! それに、和泉は、そんなに冷たい人じゃない!」
和弥は必死に反論するが、七瀬は鼻で笑った。
「冷たくない? 自分の幸せのために、お前の長年の想いを踏みにじって去った男が…? お前、本当に救いようのない馬鹿だな!」
次の瞬間、七瀬は和弥の胸ぐらを掴み、無理やり顔を至近距離まで引き寄せた。 二人の呼吸が触れ合うほどの距離。
七瀬の声は、低く、鋭く、そして震えていた。
「……現実を見ろよ、村上。お前の希望なんて、全部ただの妄想だ」
その言葉は、刃物のように鋭く和弥の胸に突き刺さった。
本当は言いたかった。
――「それを置いたのは俺だ。お前の体調を心配して、お前の仕事を裏で支えているのは、あいつじゃなくて俺だ」と。
だが、それを言えば、この歪な関係すら壊れてしまう。
「……離してください」
和弥が、消え入りそうな声で言う。 だがその次の瞬間、彼は七瀬の腕を乱暴に掴んだ。
「俺だって……わかってます。でも、今は……そう思わないと、やってられないんです……!」
声は震えているのに、掴む手は強い。 七瀬の腕に爪が食い込み、皮膚がきしむ。
七瀬の身体が硬直した。
今、このまま抱きしめて「俺がそばにいる」と言えたなら。 その一言で、和弥の崩れた心を少しは支えられるかもしれない。
だが七瀬の手は宙を彷徨い―― 結局、和弥の肩を乱暴に突き飛ばした。
「……汚い手で触るな!」
七瀬は背を向け、自分のデスクへ戻る。 心臓がうるさくて、吐き気がするほどだった。
和弥は力なく椅子に座り直し、栄養ドリンクの瓶を、宝物のように両手で握りしめている。 その優しさが七瀬によるものだとは、露ほども思わずに。
七瀬は乱暴に資料を和弥のデスクへ放り投げた。
「……残り、半分だ。さっさと片付けろ。……お前の無能な計算ミスの修正は、俺がやってやった。それくらい自分で気づけ、無能」
和弥は返ってきた資料を見て、目を見開いた。 そこには、彼が苦手とする関数の修正が、完璧な精度で施されていた。
「これ……課長が?」
「……うるさい。進捗が遅れて俺の睡眠時間が削られるのが嫌なだけだ。勘違いするなよ」
七瀬はモニターを見つめたまま、冷たく言い放つ。 だが耳の奥では、まだ和弥の掴んだ腕の感触が熱を帯びて残っていた。
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