愛と猛毒(仮)

万里

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 土曜の朝、和弥が目を覚ましたとき、隣の枕はすでに冷え切っていた。
 七瀬の姿はどこにもない。
 ただ、部屋の空気に煙草と微かなシトラスが混ざったような、あの独特の残り香だけが、薄い膜のように漂っていた。

 その匂いが、昨夜の記憶を否応なく呼び起こす。
 だが、触れた感覚も、言葉も、息遣いも、すべてが曖昧で、夢の断片のようにぼやけている。
 確かに一緒にいたはずなのに、その痕跡は、七瀬の残り香と、乱れたシーツ以外、どこにも残っていない。

 まるで――金曜の夜の狂乱そのものが、最初から存在しなかった幻だったかのようだ。

 そう思い込まなければ、和弥はあの空虚な週末をやり過ごすことができなかった。

 七瀬からの連絡は、何もない。

 スマホは沈黙したまま、画面は一度も光らない。
 通知音が鳴るたびに反射的に手を伸ばしてしまう自分が情けなくて、途中で電源を切ろうとした。
 だが、切ることもできなかった。


 月曜日。
 出社したオフィスには、週明け特有のざわつきが漂っていたが、和弥にとってはその空気すら遠く感じられた。

 斜め向かいのデスクに座る七瀬は、あの夜のことなど微塵も思い出させないほど、いつも通り冷徹な横顔で淡々と業務をこなしていた。
 キーボードを叩く音も、資料をめくる仕草も、金曜までと何ひとつ変わらない。

(……あれは、本当に現実だったのか?)

 和泉の結婚と異動という絶望。居酒屋で七瀬に嫌味を言われながら、溢れ出した涙。そして、それらすべてを強引に塞ぐように触れられた、熱くて苦しい感触。

 あれは――自分への気まぐれな「慰め」だったのか。
 それとも、あまりに見苦しい失恋を晒した部下への、残酷な「処罰」だったのか。

 考えれば考えるほど、わからない。

 確認したくても、今の七瀬は分厚い鉄のカーテンを下ろしたような無機質さで、和弥と一度も目を合わせようとしなかった。
 視線が交わりそうになるたび、七瀬はわずかに顔をそらし、淡々と書類に目を落とす。

  糊のきいた真っ白なワイシャツ。その襟元のすぐ下には――自分が怒りに任せて刻みつけた、どす黒い痕が隠れているはずだった。

 だが七瀬は、それを微塵も感じさせない涼しい顔で、完璧に「課長」という役割を演じている。
 姿勢は正しく、声は冷静で、表情には一切の揺らぎがない。

 まるで、金曜の夜の出来事など最初から存在しなかったかのように。

「村上。先週頼んでいた修正案、まだか」

 不意に投げかけられた声に、和弥の心臓が跳ねた。その声はいつも通りの七瀬だった。

「あ、すみません……。今、送ります」

「……遅い。週明けからそんな調子でどうする。集中しろ」

 短く吐き捨てられた言葉が、胸の奥に小さな棘のように刺さる。

 先週までの和弥なら、この冷遇に「うるせえな」と内心で毒づくか、和泉との思い出に逃げ込んで聞き流していただろう。

 だが今は、その突き放すような冷たさが、冬の風のように妙に肌寒く感じる。
 七瀬の声が、距離が、視線の逸らし方が――どれもこれも、和弥の胸をざわつかせた。



 そんな昼下がり。
 静まり返ったフロアの入り口から、場にそぐわないほど快活で明るい声が響いた。

「七瀬! 帰国したその足で会いに来たぞ!」

 その声だけで、空気が一瞬ざわつく。
 振り向いた社員たちの視線の先に立っていたのは、仕立ての良いスリーピースを着こなした、華やかな男だった。

 七瀬より少し年上だろうか。
 洗練された身のこなし、無駄のない動き、自然と周囲の視線を集める存在感。
 隠しきれない育ちの良さと、成功者特有の絶対的な自信が全身から滲み出ている。

 そんな男を見た瞬間――鉄のカーテンを下ろしていたはずの七瀬が、あからさまに目を見開いて顔を上げた。

「……成川か。連絡もなしに、何だ」

「サプライズだよ。ニューヨークの仕事がひと段落ついてね。君の顔が見たくてたまらなくなったんだ」

 成川と呼ばれた男は、周囲の視線などまるで気にせず、七瀬のデスクへ歩み寄り、ためらいもなく七瀬の肩に腕を回した。

「……離せ」

 七瀬は不快そうに眉をひそめ、身を捩る。
 だがその声には、いつものような鋭い刺がない。

 むしろ――和弥が一度も見たことのない、微かな苦笑が唇の端に浮かんでいた。七瀬の柔らかい表情に、和弥の胸が、ぎゅっと縮む。

(……誰だよ、こいつ)

 自分には向けられたことのない、表情に眉をしかめる。

「相変わらず綺麗だね、七瀬。少し痩せた?今夜は空けておいてくれよ。積もる話もあるし、君の好きそうな店を予約してある」

「……仕事が終わったらな」

 七瀬は淡々と返すが、その声には柔らかさが混じっている。

「課長職がそんなに忙しいのか?優秀な部下もいるんだろう、彼らに任せればいい」

 その言葉と同時に、成川の視線が鋭く和弥へ向けられた。
 それは、獲物を値踏みするような冷たい光と、“七瀬は俺のものだ”とでも言いたげな、勝者の余裕が混ざり合った笑み。

「なあ、俺のこと、みんなに紹介してくれないのか?」

 成川がわざとらしく言うと、七瀬は深くため息をついた。
 面倒くさそうに眉を寄せ、しかし拒むでもなく、仕方なく口を開く。

「……成川。年上だが俺の同期だ。今はニューヨークにいる」

 紹介というより、最低限の説明。
 だが成川は満足げに笑い、さらに一歩前へ出た。

「初めまして。成川だ。七瀬には学生時代から、公私ともに世話になっている。よろしくな」

 “公私ともに”。その一言が、鋭い針となって和弥の胸に突き刺さる。
 成川の笑みは、まるで“俺の物に手を出すな”と無言で告げているようだった。

 七瀬は何も言わない。否定もしない。

 二人はしばらく、周囲の存在など透明人間であるかのように、楽しげな談笑を続けていた。
 成川が七瀬の耳元で何事かを囁くと、七瀬はわずかに頬を緩め、拒絶するでもなく彼の胸を軽く押し返す。
 その仕草は、親しさと距離感の絶妙なバランスを知り尽くした者同士のものだった。

 その光景を見た瞬間――和弥の視界が真っ赤に染まるような錯覚に陥った。

(なんだ、その顔……。そんな顔するのかよ、あんたは)

 和泉が他の誰かと笑っているのを見た時に感じたのは、胸が締め付けられるような純粋な「悲しみ」だった。
 だが今、内臓の底からせり上がってくるのは、それとはまったく違っていた。

 内臓を直接掴み上げられ、煮え繰り返る熱い油を注がれたような、どす黒い「怒り」と「焦燥」。
 胸の奥で何かが暴れ、喉の奥が焼けるように熱い。

(なんで……成川には、そんな顔を見せてるんだ)

 七瀬の頬の緩み。
 成川の胸に触れた指先。
 耳元で囁かれても拒まない距離の近さ。
 そのすべてが、和弥の神経を逆撫でした。

 あの熱を知っているのは、俺だ。俺だけのはずだ。

(……ふざけんなよ)

 和弥は、無意識のうちに手に持っていたペンを握りしめ、パキッ、と乾いた音を立てて折ってしまった。

「……村上?」

 音に気づいた七瀬が、不審そうにこちらを見る。
 成川もまた、場違いな闖入者を見るような、いや、それ以上に“面白い玩具を見つけた”ような視線を和弥へ向けた。

「君、大丈夫かい? 随分と怖い顔をしているけれど。ペンが可哀想だよ」

 軽く笑いながら言う成川の声が、和弥の神経を更に逆撫でする。

「……何でもありません。課長、明日の会議の資料、今すぐ確認をお願いしてもいいですか?」

 和弥は立ち上がり、成川の存在を強引に押しのけるようにして、七瀬のデスクへ資料を叩きつけた。
 紙の束がバサリと鈍い音を立てる。七瀬が、驚いたように和弥を見上げた。

「……今じゃなくてもいいだろう。後にしろ」
「今じゃないとダメなんです。早くしてくれないと、仕事になりません」

 和弥の声は異様なほど静かで、冷たかった。
 七瀬の瞳がわずかに揺れる。

 成川はそんな二人の空気を愉快そうに眺め、
「じゃあ、また夜に。仕事が終わったら連絡して、七瀬」
 と親愛の情を込めた声を残して去っていった。

 成川の足音が遠ざかり、ドアが閉まる音がフロアに響く。
 ――嵐が去った。
 空気が張りつめ、呼吸すら重く感じる。

 七瀬は叩きつけられた資料に目を落としたまま、微動だにしない。その指先は、わずかに震えていた。

 *

 夜のオフィスに二人きりになった途端、七瀬の声は氷のように冷たく落ちた。

「……お前、一体何様のつもりだ。成川は単なる社員じゃない。重要な取引先の担当でもあるんだぞ。自分の立場を弁えろ。これ以上、公私混同で恥をさらすな」

 その声音は、いつもよりも数段鋭かった。
 だが、和弥は一歩も引かない。

「あんた、……あいつと、付き合ってるのか?」

「は……?」

「あいつと、寝たのかって聞いてんだよ?!」

「……はあ?」

 七瀬は心底呆れたように鼻で笑った。

「俺が誰とどうなろうと、お前に関係ないだろ。……それとも何だ、和泉に相手にされなかった腹いせに、今度は俺の私生活にまでケチをつけるつもりか?」

 七瀬はわざとゆっくりとため息をつく。

「惨めすぎて見ていられないな。よっぽど誰かに縋っていないと、自分を保てないのか、村上」

 容赦なく急所を突く七瀬の言葉。だが、和弥は言った。
「関係、あるだろ」

 和弥は七瀬のデスクに両手を叩きつけるように突き、逃げ場を塞ぐように身を乗り出した。

 至近距離でぶつかり合う視線。
 七瀬の瞳に、初めて明らかな動揺が走る。

「この前……あんなことしておいて、他人事みたいな顔してんじゃねえよ!忘れたなんて、絶対に言わせないからな」

「……あれは、お前があまりに無様で、反吐が出るほど見苦しかったから、無理やり黙らせるために――」

「嘘だ!」

 和弥の声が、オフィスの空気を震わせた。

「黙らせるため?だったらあんな事する必要ねえだろ!」

 胸の奥で渦巻いていた感情が、ようやく形を持ち始める。
 和泉への憧れは、遠くから美しい絵画を眺めるような、静かで清らかな救いだった。
 だが、七瀬へのこれは――もっと泥臭くて、生々しくて、反吐が出るほど独占的で、醜い。
 相手を引きずり下ろし、自分と同じ深みに沈めたいという、狂おしい支配欲。

「俺……あんたのせいで…!」

「……っ、人のせいにするな……!」

 七瀬の声が揺れる。

「いいから、他の奴の前で、あんな顔で笑うの、やめろ。……すげえ、ムカつくんだよ!」

 剥き出しの独占欲を叩きつけられ、七瀬は息を呑み、ほんの一瞬だけ力負けしたように顔を背けた。

「……お前には関係ない」

 七瀬は低く吐き捨てた。

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