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44.胸が苦しいような
しおりを挟むつけ狙う人物がいなくなったため、外歩きが許されるようになったフロレルは、アントワーヌに誘われて街歩きに出かけた。絶対に安全ということはないであろうが、護衛につく者の訓練は強化されているし、護衛の数も増えている。
フロレルは王都市街の石畳の上をアントワーヌにエスコートされて歩く。フロレルにすれば、以前よりも身体が密着してエスコートされているような気がするが「婚約者になったのですから」とアントワーヌに良い笑顔で言われてしまっては、何も言えない。
アントワーヌから白檀のような香りがするのを感じながら、それほど接近しているのだということにフロレルは気恥しさを覚えた。
書籍や文具を見て回り暫しの買い物を楽しみ、少しばかりの疲労を感じて二人は馬車へと戻った。
「フロレル、そろそろ休憩にしましょう。カフェに席をとってあります」
「ありがとう、アントワーヌ」
二人が向かうのは、以前にも訪れたアントワーヌの出資しているカフェだ。
美しいフロレルとアントワーヌが店を訪れることは、カフェのイメージを良くすると店長は喜んで良い席を確保してくれていた。他の客からフロレルとアントワーヌの姿は見えるものの、間には腰ぐらいの高さのフェンスが設置されている。フェンスの前後には護衛が配置されているので、一般客は簡単に近づくことはできない。
護衛がいることで物々しい雰囲気になりそうなものだが、フェンスには花などの装飾が施されていて、カフェのイメージを崩さないように配慮されている。
美しいフロレルとアントワーヌが優雅な所作で席に座り、話をする様子に、一般客の目は釘付けになっていた。もっとも二人は人に見られることに慣れているためか、全く動じる様子もなくメニューを開いているのだが。
「フロレル、桃のショートケーキがお勧めのようだよ」
「ああ、それが良いな。紅茶はアールグレイにしよう」
フロレルはアントワーヌとケーキを選び、紅茶を指定する。カフェでくつろぐのも久しぶりのことだ。
「今度は、クロディーヌとルイーズを誘って来たいな」
「良い席を予約できるように手配するよ」
「ありがとう、アントワーヌ」
学友のことを思い出したフロレルは、過去を懐かしむような表情を浮かべた。クロディーヌとルイーズも間もなく婚姻の儀を控えているが、二人とは手紙のやり取りをしているし、婚姻の後も友人としての付き合いは続くことだろうとフロレルは考えている。
ただし、執着心の強いアルファである配偶者たちがどれほどの自由を与えてくれるかはわからないが。
美味しいケーキを堪能し、紅茶のお代わりを淹れさせたところで、店のマネージャーがアントワーヌに挨拶に来た。
「パネ、おじゃましているよ」
「アントワーヌ様、ご感想についてはまたお聞かせくださいね」
「ふふ、名前で呼ぶのを許可した覚えはないけれどね」
「あら、ショコラ公爵令息とお呼びしたら、お兄様と区別がつかないじゃありませんか。ねえ」
アントワーヌにパネと呼ばれた女性は黒髪に褐色の肌、琥珀色の瞳をしたエキゾチックな女性だった。ネックガードがないことからベータであると思われる。それも確実なことではないが。
パネに、ねえ、という言葉とともに流し目を送られたフロレルが長い睫毛を瞬かせた。パネはフロレルの様子を睨むような目つきで見た後、明らかな作り笑いを浮かべた。フロレルは、それに応えるように高位貴族の微笑みを顔に作り出した。貴族社会で生きてきたフロレルといえど、初対面でこのような敵意を向けられたことはない。
お互いを紹介したアントワーヌは、ローレン・パネと名乗った女性には貴族らしい感情を隠した笑みを浮かべている。しかし、パネの方はアントワーヌに媚びるような視線を向けているのだ。パネがアントワーヌを慕っているのは明らかだろう。それがフロレルに向けている敵意の理由だと思われる。
そう、アントワーヌに好意を向けているから、フロレルのことは邪魔者に見えるのだろう。
フロレルはそう考えながら、不快な思いが胸に湧き上がってくるのを感じていた。
パネは懸命に店のコンセプトについての話をして、アントワーヌを放そうとしない。椅子を勧めても良かったのだが、アントワーヌはそのまま立たせていたし、フロレルも口を出すつもりはなかった。
「フロレル、そろそろ出ようか」
「そうだね、アントワーヌ」
話の切れ目をやっと見つけたアントワーヌは、フロレルにそう言った。
「あら、まだいいじゃありませんか。新しいお茶を淹れさせますから」
「いや、もう失礼するよ。パティシエにケーキが美味しかったことを伝えておいてくれ」
「では、これにて失礼する」
パネはアントワーヌとまだ話したそうにしていたが、フロレルは短く挨拶をしてさっさと立ち上がると出口に向かった。
フロレルを話に立ち入れないようにと、アントワーヌに話題を振るパネの無礼な態度。それによってフロレルは、この場に長くいたくないと思ってしまったのだ。
「フロレル、待ってよ」
アントワーヌは引き留めようとするパネの手を軽く振り払ってフロレルに追いつくと、愛しい婚約者の手を取って、少しばかり強引にエスコートした。
支払いの手続きは侍従に任せ、フロレルとアントワーヌは馬車に向かった。
「フロル、怒っているの?」
「いや、アンヌ、怒っているわけではないよ」
アントワーヌのすがるような声を聞いて怒ってはいないと答えたフロレルだが、何とも言えない不快な感情が自分の中にあるのはわかっていた。
フロレルの胸が苦しいような不快な感情が、パネの無礼な態度によるものだけではないと気づくのは、もう少ししてからになる。
「傷物のオメガのくせに……」
パネがフロレルの後ろ姿を睨みながら呟く。それを聞いていた者がいたことを、パネは気づいていなかった。
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