どうして許されると思ったの?

わらびもち

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信じていたのに……

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 邸の扉を開けると夜の静けさが広がっていた。
 石畳の道を革靴の音だけが規則正しく響く。庭を抜け、門を出ると、馬車がひっそりと待っているのが見えた。
 月明りでひそかに輝く馬車に施されたフレン伯爵家の家紋。ここに妻が──エルザが乗っているのだろう。馬車の窓には薄いカーテンが引かれ、その向こうに人の気配があった。
 子爵は一度立ち止まり、小さく息を吐いた。扉の取っ手に手をかけ、ゆっくりと開く。

「エルザ…………」

 中には、青褪めた顔で震えながら座る妻がいた。
 子爵に気づいた彼女は涙でぐちゃぐちゃになった顔で「あなた!」と叫んだ。

「……助けて! このままだと私、あの女に殺されてしまうわ!」

「…………お前は、自分が何をしたのか分かっているのか? 何の罪もない女性たちに危害を加え、他家の資産を横領するよう唆すなんて……よくもそんな悍ましい真似を……」

 恐怖に涙を流す妻に対して子爵は容赦のない言葉が投げつける。
 夫から滲み出る怒りに恐れをなしたエルザは喉をひゅっと鳴らし、息を呑む。
 
「あ、あの女から聞いたの? それは違うの!」

「違う? 何がだ?」

「わ、私は……ただ、思い上がった女に、己の立場というものを思い知らせてやろうとしただけなの……!」

 自分が悪いとこれっぽっちも思っていないエルザの言葉に子爵は愕然とした。
 もし先ほど聞いた話が事実であれば、妻は重大な犯罪を犯したことになる。
 それなのにまったく罪悪感を持っていない様子に、強い失望を覚えた。

「思いあがった女……か。それは誰のことだ?」

「え? そ、それは…………」

 さすがのエルザもそれを言えば夫から叱られると理解していた。
 口ごもる妻に子爵は「フレン伯爵夫人のことか?」と問いかける。

「そ、そう! そうよ! 年下のくせに生意気なあの女のことよ!」

 夫が自分の気持ちを理解してくれたと勘違いしたエルザは嬉々として答えた。

「現伯爵夫人であるシスティーナ様だけのことを指しているわけじゃないよな? 前妻の方々のことも指しているのだろう? その、”思いあがった女”というのは……」

 夫の責めるような口調に気づき、エルザの背中を冷や汗が伝った。
 マズイ、と思い夫の顔を見ると、ひどく冷ややかな目がこちらを見ている。

「お前は随分と”フレン伯爵夫人”という立場の女性を憎んでいるようだな……。なんの理由があって関係のない他家の奥方をそんなに憎む?」

「ちが……そうじゃなくて……」

「隠そうとしても無駄だ。お前の悪行は全て知っている」

「あ、あなた……あの女から何を聞いたの……?」

「……お前のしたこと、全部だ。聞いていて吐き気がしたよ。よくもそんな人の道を外れた真似ができたものだ……」

「ちが……それは嘘、嘘よ! あの女は私のことを貶めようと嘘をついているのよ……!」

「どうしてフレン伯爵夫人がお前を貶める必要がある? 何の理由があって、あの御方がお前にそんな真似を?」

「それはっ……! 私がレイモンド様をお慕いしているから……」

 ごとき、と言われカッとなったエルザは衝動のまま己の秘めた恋心を告白してしまった。
 
「あ…………こ、これは…………」

 はっと気づいたエルザだが、もう遅い。夫の顔からはすでに表情が消えていた。

「そうか…………。エルザ、お前はフレン伯爵にそんな気持ちを抱いていたのか……」

 システィーナから知らされていたとはいえ、妻の口から直接「他の男が好き」と告げられたことは子爵の心に深い傷を残した。いつまでも貴族の夫人にふさわしい振る舞いを身につけず、仕事も覚える気がない妻だったが、それでも彼女への情はあった。

「既婚者でありながら他所の男に恋慕するとは、まさしく倫理にもとる行為だ。しかも、それを離婚寸前とはいえ夫の前で告白するとは……」

 フレン伯爵の前妻がいた頃から好意を抱いていたとすると、もう何年間もそうだったことになる。
 それを気づかなかったことや、他所の男に惹かれている妻に情を捨てきれなかったという事実にひどく絶望した。
 まるで道化だ。自分以外の男に執着している妻を愛していたのだから……。

「だ、だって……あんな素敵な人に出会ったのは……生まれて初めてだったから……」

「…………………………」

 この期に及んでなお他所の男への想いを口にする妻に、子爵の中の最後の情さえも静かに消え去った。
 妻の目には自分の発言で酷く傷ついている夫の姿など見えないのだろう。
 他所の男を想って恥じらう妻の姿に、子爵は自身の存在そのものを否定されたような虚無感を味わった。

「だから”フレン伯爵夫人”の座に自分がつこうとでも考えたのか? 既にその座にいるご婦人方を汚い手を使い排除してまで、好いた男を手に入れたかったと?」

「そ……それは、だって、そうでもしないとレイモンド様と添い遂げられないから……」
 
「浅はかにもほどがある……。お前がそんな女だとは思っていなかったよ。貴族夫人としてなっていないとはいえ、そんな人道にもとるようなことをお前がするはずがないと――信じていたのに」

 最後には声がわずかに震えていた――悲しみを隠しきれないように。
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