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第一章 暗闇は深く
第2話 離れられない感情
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残業を終え、私はとぼとぼと重い足取りで帰路に着いた。
「慣れてる、大丈夫……」
そう心の中で唱えてみるものの、仕事終わりの心はどんよりと冷え切っている。
玄関のドアを開けた瞬間、むせ返るような空気が喉に絡みついた。
暖房の熱とこもった匂いが混ざり合った空気の重たさが、疲れた体に容赦なくのしかかる。
「はあ……」
ため息がこぼれる。
自宅に帰ったからといって、この暗い気持ちが解き放たれるわけではないのだ。
靴を脱ぎ捨て、荷物を置きながらリビングを覗き込む。
無造作に放り投げられた男物のジャケットと、床に散らばるゲームのケースが視界に入り、私は思わず視線を逸らした。
「ただいま」
リビングに一歩足を踏み入れ口にしたその言葉は、虚しく壁に吸い込まれていった。
返事がないことなんてずっとわかっているのに。
住み始めた頃とはかなり違うこの家を、私の帰る場所だと言い聞かせないと立っていられないのだ。
ふと目に入ったカーペットの上には、脱ぎっぱなしの靴下と洗濯物。
拾い上げた瞬間、湿った感触が手に伝わり、なんだか心まで汚された気分になった。
いつもなら、反射的に片付け始めるはずの私の体は、今日ばかりは動かなかった。
代わりに散らかったソファへと倒れ込む。
「いつからこんなふうになっちゃったんだろう……」
この家の同居人である篠田京介とは三年前から付き合っている。
付き合って一年目に同棲を始めた私たちは、周りから羨ましがられるようなカップルだったはずだ。
休日を合わせて遊びに行き、些細なことで笑い合った幸せな毎日。
確かに、この部屋にはそんな時間が存在していた。
「疲れてるなら座ってていいよ」
そう言って、私のためにキッチンでフライパンを振る彼の姿を思い出す。
コンビニのゴミや空き缶で散らかったキッチンを見ながら思い出したオムライスの味は、今でも幸せな香りを纏っていた。
そのとき、静まり返っていたリビングに脱衣所の扉が開く音が聞こえた。
途端に、脱力していた身体に力が入り、背筋が凍るような感覚が走る。
反射的に身体を起こした私は、手の届く範囲にある洗濯物を片付け始めていた。
足音がドスドスとリビングに近づいてくる。
リビングに入ってきた彼は何も言わず冷蔵庫を開けた。
そして、中を覗き込んだまま、振り返りもせず低い声が呟かれた。
「あのさ、洗濯物くらい朝回せない?」
また何か嫌味を言われるだろう。
覚悟はしていたけれど、その冷たい一言に胸がズキンと痛む。
「……ごめん」
消え入りそうな声で謝ると、彼は一瞬だけ振り返った。
その目には、抑えきれない苛立ちが滲んでいた。
「冷蔵庫にも何もないし。朝も昼も夜もコンビニ弁当だよ。さすがに飽きるわ」
嫌味たっぷりに吐き捨てる彼に、私は何も言い返せなかった。
しばらく冷蔵庫の前から冷たい視線を向けていた彼は、やがてまたため息をつく。
「……もういい。寝る。灯り鬱陶しいからリビングの電気消して」
冷たくそう言い残し、寝室の扉をバタンと閉めた。
残された私は、小さく震える息を吐くしかなかった。
ソファに崩れ落ちるように腰を下ろし、頭を抱える。
どうして、こんな風になってしまったんだろう――。
優しかった京介が変わり始めたのは、彼の仕事がうまくいかなくなった頃からだった。
言葉も行動も、とげとげしくなり、以前の穏やかな彼はどこかに消えてしまった。
口論になり、無視される日があったかと思えば、急に謝られて抱きしめられる日もある。
すべては彼の気分次第で、私はただ振り回されるようになっていった。
言われるままにリビングの電気を消し、小さな常夜灯の下で、散らかったゴミを片付ける。
情けなさが押し寄せてきて、唇を噛み締めた。
今の私はもう、言い返す気力すらなくなっていた。
物に当たる音や荒い仕草が記憶に残り、思い出すたびに背筋が冷えるのだ。
反論すれば、もっと関係が悪くなる気がして怖かった。
それでも、どれだけ怖くても。
もう一度、彼があの頃の優しい京介に戻ってくれるかもしれない。
そんな淡い希望を捨てきれずに、私は毎日ここに帰ってくる。
京介に「ごめん」と言い続ける。
片付いた部屋を見渡しても、満たされるものは何もなかった。
ただ、自分が惨めになっていくだけだった。
「慣れてる、大丈夫……」
そう心の中で唱えてみるものの、仕事終わりの心はどんよりと冷え切っている。
玄関のドアを開けた瞬間、むせ返るような空気が喉に絡みついた。
暖房の熱とこもった匂いが混ざり合った空気の重たさが、疲れた体に容赦なくのしかかる。
「はあ……」
ため息がこぼれる。
自宅に帰ったからといって、この暗い気持ちが解き放たれるわけではないのだ。
靴を脱ぎ捨て、荷物を置きながらリビングを覗き込む。
無造作に放り投げられた男物のジャケットと、床に散らばるゲームのケースが視界に入り、私は思わず視線を逸らした。
「ただいま」
リビングに一歩足を踏み入れ口にしたその言葉は、虚しく壁に吸い込まれていった。
返事がないことなんてずっとわかっているのに。
住み始めた頃とはかなり違うこの家を、私の帰る場所だと言い聞かせないと立っていられないのだ。
ふと目に入ったカーペットの上には、脱ぎっぱなしの靴下と洗濯物。
拾い上げた瞬間、湿った感触が手に伝わり、なんだか心まで汚された気分になった。
いつもなら、反射的に片付け始めるはずの私の体は、今日ばかりは動かなかった。
代わりに散らかったソファへと倒れ込む。
「いつからこんなふうになっちゃったんだろう……」
この家の同居人である篠田京介とは三年前から付き合っている。
付き合って一年目に同棲を始めた私たちは、周りから羨ましがられるようなカップルだったはずだ。
休日を合わせて遊びに行き、些細なことで笑い合った幸せな毎日。
確かに、この部屋にはそんな時間が存在していた。
「疲れてるなら座ってていいよ」
そう言って、私のためにキッチンでフライパンを振る彼の姿を思い出す。
コンビニのゴミや空き缶で散らかったキッチンを見ながら思い出したオムライスの味は、今でも幸せな香りを纏っていた。
そのとき、静まり返っていたリビングに脱衣所の扉が開く音が聞こえた。
途端に、脱力していた身体に力が入り、背筋が凍るような感覚が走る。
反射的に身体を起こした私は、手の届く範囲にある洗濯物を片付け始めていた。
足音がドスドスとリビングに近づいてくる。
リビングに入ってきた彼は何も言わず冷蔵庫を開けた。
そして、中を覗き込んだまま、振り返りもせず低い声が呟かれた。
「あのさ、洗濯物くらい朝回せない?」
また何か嫌味を言われるだろう。
覚悟はしていたけれど、その冷たい一言に胸がズキンと痛む。
「……ごめん」
消え入りそうな声で謝ると、彼は一瞬だけ振り返った。
その目には、抑えきれない苛立ちが滲んでいた。
「冷蔵庫にも何もないし。朝も昼も夜もコンビニ弁当だよ。さすがに飽きるわ」
嫌味たっぷりに吐き捨てる彼に、私は何も言い返せなかった。
しばらく冷蔵庫の前から冷たい視線を向けていた彼は、やがてまたため息をつく。
「……もういい。寝る。灯り鬱陶しいからリビングの電気消して」
冷たくそう言い残し、寝室の扉をバタンと閉めた。
残された私は、小さく震える息を吐くしかなかった。
ソファに崩れ落ちるように腰を下ろし、頭を抱える。
どうして、こんな風になってしまったんだろう――。
優しかった京介が変わり始めたのは、彼の仕事がうまくいかなくなった頃からだった。
言葉も行動も、とげとげしくなり、以前の穏やかな彼はどこかに消えてしまった。
口論になり、無視される日があったかと思えば、急に謝られて抱きしめられる日もある。
すべては彼の気分次第で、私はただ振り回されるようになっていった。
言われるままにリビングの電気を消し、小さな常夜灯の下で、散らかったゴミを片付ける。
情けなさが押し寄せてきて、唇を噛み締めた。
今の私はもう、言い返す気力すらなくなっていた。
物に当たる音や荒い仕草が記憶に残り、思い出すたびに背筋が冷えるのだ。
反論すれば、もっと関係が悪くなる気がして怖かった。
それでも、どれだけ怖くても。
もう一度、彼があの頃の優しい京介に戻ってくれるかもしれない。
そんな淡い希望を捨てきれずに、私は毎日ここに帰ってくる。
京介に「ごめん」と言い続ける。
片付いた部屋を見渡しても、満たされるものは何もなかった。
ただ、自分が惨めになっていくだけだった。
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