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第一章 暗闇は深く
第1話 逃げ場のない叱責
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壁掛け時計の針が、いつもより重く回る。
普段ならちらほらと雑談が聞こえる室内は、様子をうかがうように静まり返っていた。
それが更に居心地の悪さを助長させ、私は呼吸を浅くする。
目の前に座った直属の上司である村上さんは、慣れた手つきで書類をバサリと机に投げ出した。
「これ、なんとかならなかったの?」
指差された書類には、部下である夏目さんの小さなミスが赤字で囲まれていた。
夏目さんは私よりも三年後輩の社員。
入社三年目の彼女は、いわゆる今どきの女の子で、チケット管理や手順書の更新といった地味な作業に、どうしても熱量が感じられなかった。
ただ、愛嬌は人一倍あって、エンジニアや取引先からの受けはいい。
仕様の確認や軽い問い合わせ対応もそつなくこなすため、評価自体は悪くないのだ。
その分、現場を仕切る立場の村上さんからは、あまり良く思われていないようだった。
そして、そのしわ寄せは教育係の私に回ってくる。
コツコツと机を指先で叩きながらわざとらしいため息をつく村上さんに私は「すみません」と小さく呟いた。
私、木崎茉莉は、この会社に勤めて6年目のITアシスタントだ。
当たり障りのないオフィスカジュアルに髪をひとつにまとめ、視力のあまり良くない目には大きめの黒縁メガネをかけている。
正直地味な私は、自分に自信があるとは決して言えない性格をしていた。
「あなたの教育が悪いからこうなるのよ。来月からは新入社員が増えるっていうのに、ちゃんと指導してるの?」
この会社でITアシスタントと呼ばれているのは、私と村上さん、夏目さんの三人だけ。
一方で、開発や保守を担うエンジニアは十人在籍していて、私たちは三人でその全員を支えなければならないのだから、村上さんがピリピリするのには納得している。
「はい……申し訳ありません」
もう一度頭を下げると、村上さんは息をついて続けた。
「本当に分かってるの?あなたたち若い人は、ほんと責任感がないわね。私の時代には考えられなかった」
その内容は、夏目さんのことから聞きなれたいつもの説教へと変わっていった。
始まると止まらなくなる村上さんの話は、頭が痛くなるほど聞いていた。
実際に改善点がどうとかの話ではなく、とにかく嫌味が止まらないような話の内容。
それもオフィスに響き渡るような大きな声で言われるものだから、私は肩身が狭い思いで「すみません」と小声で相槌を続けた。
どれだけその内容が納得のいかないものでも、村上さんに反発するほど私に自我はない。
実際、私は人を叱るのが得意ではないし、言われても仕方ないとすら思っていた。
学生時代の友人に「茉莉は控えめすぎるよ」と言われたことをぼんやりと思い出したけれど、それを変えられるほどの自信は未だ身につけられていない。
そうしている間にも、時計の針はずしりずしりと重たい音を立てながら進んでいた。
「こういうことが続くと、周りからも信頼を失うって言ってるの。分かっている?」
「はい……」
窓の外では小雨が降り続いている。
3月になったというのに、少しも暖かくならない気候は私の心にもどんよりと影を落としていた。
_/_/_/_/_/_/
やっとのことで解放された私は、逃げるようにオフィスを出た。
「やっと終わったみたい、毎日毎日辞めてほしいよね」
「木崎さんももう少し上手くやったらいいのにね」
扉を出るまでのあいだ、ひそひそと囁かれる小声に、私は俯いて視線を逸らすしかできなかった。
要領が悪いと囁かれていることは私の耳にも入っている。
けれど実際には、三人で分担して回さなければならない業務を、私はほとんど一人で抱え込んでいた。
厄介な御局様として知られる村上さんは、判断や責任をこちらに投げたまま、結果だけを見て声を荒らげる。
一方で後輩の夏目さんは、定時になればさっさと席を立ち、面倒な対応やトラブル処理は、当然のように私のところへ回してくる。
それでも評価されるのは、声を上げる人間か、要領よく立ち回る人間だけ。
静かに破綻を埋めている私は、ただ「仕事が遅い人」として扱われていた。
損な性格をしている。
それは、私自身も自覚している、紛れもない事実だった。
_/_/_/_/_/_/
昼下がりの給湯室では、いつものように夏目さんが笑顔を振りまいていた。
もうすぐやってくる春を連想させるラベンダーカラーのブラウスに、小ぶりのアクセサリー。
派手ではないが、男性社員の視線を集めるには十分の魅力的な姿。
憂鬱な気持ちを無理やり引き上げ、彼女に声をかける。
「夏目さん、ちょっといい?」
「はいっ!どうかしました?」
彼女はいつものように後輩らしい人懐っこい笑顔を向けた。
けれど緩やかに細められた視線は、給湯室の外にふわりと流れる。
そんな小さな仕草から勝手に本心を読み取って何も言えなくなる自分に、また情けなくなった。
「アカウント発行依頼の書類、もう少し丁寧に確認してほしいの。それと……」
言いづらい指摘を前に、言葉を詰まらせる。
どう伝えたら、彼女にちゃんと届くのだろう。
彼女が入社してから三年間ずっと、私は夏目さんを見てきた。
直接伝えたこともあったし、食事をしながら柔らかく話したこともある。
それでも何も変わらなくて、帰り道で涙が止まらなくなった日もあった。
結局、彼女にとっては気にするほどのことではないのだろう。
そう思うようになってからは、どれだけ村上さんに口酸っぱく言われても、私が我慢すれば仕事は回ると、自分に言い聞かせていた。
それでも今日は……。
これだけ大きく騒がれた以上、形だけでも伝えなければならない。
私は深く息を吸い、覚悟を決めてから、もう一度彼女を見つめた。
「前にも少し言ったけど、村上さんが、夏目さんのこと気にしてるみたいだから、社内の雰囲気も考えて行動してくれると助かる」
結局口から出たのはそんなふんわりとした言葉だった。
大事なところで踏み込めないのは、私の悪い癖だ。
上昇意欲もなく、強い意思もない私は、周りにとって都合のいい存在なのだと思う。
「はーい、気をつけますね。でも……」
夏目さんは少し考える素振りを見せてから、続けた。
「私、そんなに悪いことしてるつもりはなくて。
木崎さんも、村上さんのこと、そこまで気にしなくていいんじゃないですか?
村上さんって結構、厄介だって言われてますし……目つけられてて大変そうですね」
困ったように首を傾げるその仕草に、私は一瞬言葉を失った。
私が村上さんに目をつけられているのは事実だ。
けれど、その理由に彼女自身が深く関わっていることには、まるで興味がない。
「わかった。でも、お願いね」
その衝撃をも飲み込むことしかできない自分が嫌になる。
胸の奥に小さな虚しさを抱えたまま、私は話を切り上げた。
普段ならちらほらと雑談が聞こえる室内は、様子をうかがうように静まり返っていた。
それが更に居心地の悪さを助長させ、私は呼吸を浅くする。
目の前に座った直属の上司である村上さんは、慣れた手つきで書類をバサリと机に投げ出した。
「これ、なんとかならなかったの?」
指差された書類には、部下である夏目さんの小さなミスが赤字で囲まれていた。
夏目さんは私よりも三年後輩の社員。
入社三年目の彼女は、いわゆる今どきの女の子で、チケット管理や手順書の更新といった地味な作業に、どうしても熱量が感じられなかった。
ただ、愛嬌は人一倍あって、エンジニアや取引先からの受けはいい。
仕様の確認や軽い問い合わせ対応もそつなくこなすため、評価自体は悪くないのだ。
その分、現場を仕切る立場の村上さんからは、あまり良く思われていないようだった。
そして、そのしわ寄せは教育係の私に回ってくる。
コツコツと机を指先で叩きながらわざとらしいため息をつく村上さんに私は「すみません」と小さく呟いた。
私、木崎茉莉は、この会社に勤めて6年目のITアシスタントだ。
当たり障りのないオフィスカジュアルに髪をひとつにまとめ、視力のあまり良くない目には大きめの黒縁メガネをかけている。
正直地味な私は、自分に自信があるとは決して言えない性格をしていた。
「あなたの教育が悪いからこうなるのよ。来月からは新入社員が増えるっていうのに、ちゃんと指導してるの?」
この会社でITアシスタントと呼ばれているのは、私と村上さん、夏目さんの三人だけ。
一方で、開発や保守を担うエンジニアは十人在籍していて、私たちは三人でその全員を支えなければならないのだから、村上さんがピリピリするのには納得している。
「はい……申し訳ありません」
もう一度頭を下げると、村上さんは息をついて続けた。
「本当に分かってるの?あなたたち若い人は、ほんと責任感がないわね。私の時代には考えられなかった」
その内容は、夏目さんのことから聞きなれたいつもの説教へと変わっていった。
始まると止まらなくなる村上さんの話は、頭が痛くなるほど聞いていた。
実際に改善点がどうとかの話ではなく、とにかく嫌味が止まらないような話の内容。
それもオフィスに響き渡るような大きな声で言われるものだから、私は肩身が狭い思いで「すみません」と小声で相槌を続けた。
どれだけその内容が納得のいかないものでも、村上さんに反発するほど私に自我はない。
実際、私は人を叱るのが得意ではないし、言われても仕方ないとすら思っていた。
学生時代の友人に「茉莉は控えめすぎるよ」と言われたことをぼんやりと思い出したけれど、それを変えられるほどの自信は未だ身につけられていない。
そうしている間にも、時計の針はずしりずしりと重たい音を立てながら進んでいた。
「こういうことが続くと、周りからも信頼を失うって言ってるの。分かっている?」
「はい……」
窓の外では小雨が降り続いている。
3月になったというのに、少しも暖かくならない気候は私の心にもどんよりと影を落としていた。
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やっとのことで解放された私は、逃げるようにオフィスを出た。
「やっと終わったみたい、毎日毎日辞めてほしいよね」
「木崎さんももう少し上手くやったらいいのにね」
扉を出るまでのあいだ、ひそひそと囁かれる小声に、私は俯いて視線を逸らすしかできなかった。
要領が悪いと囁かれていることは私の耳にも入っている。
けれど実際には、三人で分担して回さなければならない業務を、私はほとんど一人で抱え込んでいた。
厄介な御局様として知られる村上さんは、判断や責任をこちらに投げたまま、結果だけを見て声を荒らげる。
一方で後輩の夏目さんは、定時になればさっさと席を立ち、面倒な対応やトラブル処理は、当然のように私のところへ回してくる。
それでも評価されるのは、声を上げる人間か、要領よく立ち回る人間だけ。
静かに破綻を埋めている私は、ただ「仕事が遅い人」として扱われていた。
損な性格をしている。
それは、私自身も自覚している、紛れもない事実だった。
_/_/_/_/_/_/
昼下がりの給湯室では、いつものように夏目さんが笑顔を振りまいていた。
もうすぐやってくる春を連想させるラベンダーカラーのブラウスに、小ぶりのアクセサリー。
派手ではないが、男性社員の視線を集めるには十分の魅力的な姿。
憂鬱な気持ちを無理やり引き上げ、彼女に声をかける。
「夏目さん、ちょっといい?」
「はいっ!どうかしました?」
彼女はいつものように後輩らしい人懐っこい笑顔を向けた。
けれど緩やかに細められた視線は、給湯室の外にふわりと流れる。
そんな小さな仕草から勝手に本心を読み取って何も言えなくなる自分に、また情けなくなった。
「アカウント発行依頼の書類、もう少し丁寧に確認してほしいの。それと……」
言いづらい指摘を前に、言葉を詰まらせる。
どう伝えたら、彼女にちゃんと届くのだろう。
彼女が入社してから三年間ずっと、私は夏目さんを見てきた。
直接伝えたこともあったし、食事をしながら柔らかく話したこともある。
それでも何も変わらなくて、帰り道で涙が止まらなくなった日もあった。
結局、彼女にとっては気にするほどのことではないのだろう。
そう思うようになってからは、どれだけ村上さんに口酸っぱく言われても、私が我慢すれば仕事は回ると、自分に言い聞かせていた。
それでも今日は……。
これだけ大きく騒がれた以上、形だけでも伝えなければならない。
私は深く息を吸い、覚悟を決めてから、もう一度彼女を見つめた。
「前にも少し言ったけど、村上さんが、夏目さんのこと気にしてるみたいだから、社内の雰囲気も考えて行動してくれると助かる」
結局口から出たのはそんなふんわりとした言葉だった。
大事なところで踏み込めないのは、私の悪い癖だ。
上昇意欲もなく、強い意思もない私は、周りにとって都合のいい存在なのだと思う。
「はーい、気をつけますね。でも……」
夏目さんは少し考える素振りを見せてから、続けた。
「私、そんなに悪いことしてるつもりはなくて。
木崎さんも、村上さんのこと、そこまで気にしなくていいんじゃないですか?
村上さんって結構、厄介だって言われてますし……目つけられてて大変そうですね」
困ったように首を傾げるその仕草に、私は一瞬言葉を失った。
私が村上さんに目をつけられているのは事実だ。
けれど、その理由に彼女自身が深く関わっていることには、まるで興味がない。
「わかった。でも、お願いね」
その衝撃をも飲み込むことしかできない自分が嫌になる。
胸の奥に小さな虚しさを抱えたまま、私は話を切り上げた。
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