10回目の婚約破棄。もう飽きたので、今回は断罪される前に自分で自分を追放します。二度と探さないでください(フリではありません)

放浪人

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第四話 リゼがいない王城、開始3日で機能不全に陥る

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国境を越え、隣国である『ガレリア帝国』に入ってから三日が経過した。

私は今、とある街道沿いの森で、優雅なティータイムを楽しんでいた。 焚き火の上でコトコトと音を立てる小鍋。 あたりに漂うのは、摘みたてのハーブと、市場で仕入れた乾燥肉を煮込んだスープの香りだ。

「……んー、いい匂い」

私は切り株に腰掛け、カップを手に取る。 青い空、白い雲、そして小鳥のさえずり。 目の前には、絵画のように美しい森の小径が続いている。

これぞ、スローライフ。 これぞ、自由。

王都での生活は、今思い返しても地獄だった。 朝は5時に起きて王妃教育、昼は公務の補佐、夜は夜会での社交。 その合間を縫って、アレクセイ殿下が溜め込んだ書類を秘密裏に処理し、彼の派閥の貴族たちの揉め事を仲裁し、さらに暗殺者やスパイへの対処までしていたのだ。 睡眠時間は平均3時間。 目の下のクマをコンシーラーで隠す技術だけが、無駄に上達していった日々。

それに比べて、今はどうだ。 誰にも指図されない。 書類の山もない。 何より、あのアレクセイ殿下の「愛が重すぎる視線(本人は隠しているつもり)」を感じなくて済む。

「平和って、素晴らしい」

私はスープを一口すする。 体中に染み渡る温かさ。 ふと、懐から地図を取り出して広げた。

目指す場所は、帝国と王国の中間に位置する緩衝地帯、通称『霧の谷』を越えた先にある辺境の村だ。 そこは地図にも詳しく載っていないような田舎で、ダンジョンの近くにあるため人も少ない。 だが、その分、王家の権力も及びにくい。 隠居するには最高の立地だ。

「あと二日くらいで着くかしら」

私はパンをちぎってスープに浸した。 このまま順調にいけば、憧れの引きこもり生活まであと少し。

――と、私は信じて疑わなかった。 自分の背中に、見えない『追跡魔法印』が張り付いていることも。 そして、私のいなくなった故郷が、今まさに物理的にも社会的にも炎上していることも知らずに。

   ◇

一方その頃、王国王都。 そこは、この世の終わりのような光景が広がっていた。

「た、助けてくれぇぇぇ!!」 「書類が! 書類が増殖しているぞ!」 「誰か! 決裁印を! このままでは物流が止まってしまう!」

王城の行政区画は、阿鼻叫喚の巷と化していた。 廊下を走り回る官僚たちの目は血走り、誰もが栄養失調の亡者のように頬がこけている。 彼らの手には、処理しきれない羊皮紙の束が抱えられ、床には未決裁の書類が雪崩のように散乱していた。

宰相執務室。 国の頭脳である宰相バルロは、机に突っ伏してピクリとも動かなかった。 死んでいるのではない。 気絶しているのだ。 彼のデスクには、天井に届くほどの書類タワーが三本も建設されており、その影が不吉な日時計のように彼を覆っていた。

「……う、うう……リゼ……様……」

バルロがうわ言のように呟く。 彼の目には涙が滲んでいた。

リーゼロッテ・フォン・エーデル。 彼女が王城から姿を消して、まだたったの数日。 しかし、その影響は甚大なんて言葉では済まされなかった。

実は、この国の行政機能の約7割は、彼女一人によって回されていたのだ。

アレクセイ王太子は優秀だ。 武術は達人級、魔力は規格外、カリスマ性も抜群。 だが、彼は『細かい事務処理』と『根回し』というものを、「王者の仕事ではない」として無意識に避ける傾向があった。 そして、その「王者が避けた雑務」の全てを、婚約者であるリーゼロッテが影で処理していたのである。

たとえば、予算案の最終チェック。 たとえば、貴族間の利権調整。 たとえば、他国との通商条約の条文修正。 さらには、王太子が視察に行く際の移動ルート確保、宿の手配、天候操作の手配に至るまで。

彼女はそれらを、「殿下の顔を立てるため」という名目で、誰にも気づかれないように完璧にこなしていた。 しかも、自分の名前は出さず、全て「殿下のご指示」として処理していたのだ。 そのおかげで、アレクセイは「全てを把握し、的確な指示を出す完璧な王太子」として君臨できていた。

だが、彼女はいなくなった。 その瞬間、歯車は狂った。 いや、エンジンそのものが消失したと言っていい。

「宰相閣下! 起きてください!」

部下の悲鳴で、バルロはハッと意識を取り戻した。

「ど、どうした!? また書類か!?」

「違います! 隣国からの抗議文です! 『王太子殿下の軍勢が、許可なく国境を越えて爆走している。これは宣戦布告か』と!」

「ひぃぃっ!!」

バルロは頭を抱えた。 そうだった。 この混乱の元凶である王太子アレクセイは今、国政を放り出して「リゼ探し」という名の個人的なストーキング行為に全力を注いでいるのだった。

「で、殿下に連絡を! 通信魔道具を持ってこい!」

バルロは震える手で、王家に伝わる緊急連絡用の水晶玉を起動させた。 ブゥン、という音と共に、水晶の中にアレクセイの姿が映し出される。

『……なんだ、宰相か。今、忙しいのだが』

映し出されたアレクセイは、馬上の人だった。 背景が凄まじい速度で流れている。 風切り音がうるさい。

「で、殿下! 今どこにいらっしゃるのですか!? 城が大変なことに!」

『城? ああ、書類の山か。そんなものは燃やしてしまえ』

「なっ……!?」

『冗談だ。適当にやっておけ。それより、朗報だぞバルロ』

アレクセイは、凶悪なほどに美しい笑顔を見せた。 その目は完全にイッていた。

『リゼの居場所がわかった』

「は?」

『彼女は今、帝国の街道沿いにいる。私の手元の受信機が、彼女の鼓動のように点滅しているのだ。ああ、愛しい。今すぐ飛んでいって抱きしめたい』

「そ、そんなことより戻ってきてください! 隣国が激怒しています! 戦争になりますよ!」

『金貨を積めば黙るだろう。財務省に言っておけ、予備費を全額解放しろと』

「予備費は昨日の『聖女探索キャンペーン』で使い果たしました!」

『チッ……使えないな。なら、私の私財を売れ。離宮の一つや二つ、くれてやる』

あまりの暴論に、バルロは言葉を失った。 この男、愛のためなら国を売りかねない。

『いいか、バルロ。私はこれからリゼを迎えに行く。彼女を見つけたら、そのまま新婚旅行(逃避行)に入る予定だ。帰りは来週……いや、来月になるかもしれん』

「ら、来月ぅ!? 国が滅びます!!」

『大丈夫だ。リゼがいれば、滅びた国の一つや二つ、三日で再建できる』

アレクセイは本気でそう信じていた。 そして実際、リーゼロッテなら可能なのが恐ろしいところだ。

『じゃあな。邪魔をするなよ』

プツン。 通信が切れた。 バルロの手から水晶玉が滑り落ち、床で砕け散った。

「……終わった」

バルロは天井を見上げた。 この国の未来は、もはや風前の灯火だ。 唯一の希望は、王太子がリーゼロッテを連れ戻してくれることだが、連れ戻された彼女が、果たしてこの地獄のような職場に復帰してくれるだろうか。 自分が彼女の立場なら、全力で拒否するだろう。

その時。 執務室のドアが控えめにノックされた。

「……誰だ。もう書類は受け付けんぞ」

「あ、あのぅ……」

入ってきたのは、ピンクブロンドのふわふわした髪を持つ、可愛らしい少女だった。 フリルたっぷりのドレスを着て、不安そうに上目遣いをしている。 男爵令嬢、ミナ。 本来の乙女ゲームにおける『正ヒロイン』であり、聖女の力を持つとされる少女だ。

「わ、私、今日からここで働くように言われたんですけどぉ……。あの、王太子殿下はいらっしゃいますか?」

彼女は頬を染めてモジモジしている。 その様子は、明らかに「素敵な王子様とのロマンス」を期待している乙女そのものだった。

バルロは、死んだ魚のような目で彼女を見た。 そして、机の上の書類の山を指差した。

「殿下は不在だ。代わりに、これが君の仕事だ」

「へ?」

「君は聖女候補だろう? リゼ様……リーゼロッテ嬢の代わりとして呼ばれたんだ。なら、彼女がやっていた仕事ができるはずだ」

バルロは、リーゼロッテが処理していた『魔獣被害対策予算案(修正版)』の束を、ドサリとミナの前に置いた。

「え、あ、あの……私、こういう難しいのは……」

「できない?」

バルロの声が低くなった。 長年の激務とストレスで限界を迎えていた彼の堪忍袋の緒が、音を立てて切れた。

「できないなら帰れェェェッ!! ここは遊び場じゃないんだ! キラキラした恋がしたいならよそへ行け! 我々に必要なのは、ときめきじゃない! 事務処理能力と決断力、そして徹夜に耐える体力だァァァッ!!」

「ひっ、ひぃぃぃっ!!」

ミナは悲鳴を上げて逃げ出した。 彼女は知らなかったのだ。 この城において、『王太子の婚約者』というポジションが、煌びやかなお飾りではなく、国家最強のブラック企業の社畜リーダーであることを。

廊下を走るミナの目から涙が溢れる。

(なんなのよこれぇ! 話が違うじゃない! 王子様は? 舞踏会は? どうして私は、おじさんに怒鳴られてるの!?)

彼女が期待していた異世界転生ライフは、開始3日で崩壊した。 そして彼女は、図らずもリーゼロッテの偉大さを(そして王子のポンコツさを)身をもって知ることになるのだった。

   ◇

一方、そんな城の惨状など知る由もないリーゼロッテ。

森での休憩を終えた私は、再び歩き出していた。 日が暮れる前に、次の宿場町に入りたい。

「ふふふ~ん♪」

鼻歌交じりに、私はスキップする。 この道を行けば、明日の昼には目的の村に近い分岐点に差し掛かるはずだ。 そこから山道に入れば、もう追っ手も来られない。

しかし。 私の『危機感知スキル』が、ピリリと反応した。

(……ん?)

立ち止まり、後ろを振り返る。 誰もいない。 ただの風の音。 木々のざわめき。

だが、私の長年の経験――特に、暗殺者として生きた4回目の人生の勘が告げている。 『何か』が来る。 それも、とてつもなく巨大で、とてつもなく厄介な『何か』が。

私は地面に耳を当てた。 遠くから響く、微かな振動。 ドンドンドン……という足音ではない。 もっとこう、地を這うような、あるいは風を切るような……。

その時、空が陰った。 雲ではない。 無数の黒い影が、夕日を遮ったのだ。

見上げると、そこには信じられない光景があった。

空を埋め尽くす、数十騎の飛竜(ワイバーン)部隊。 その先頭を飛ぶのは、通常の三倍はある巨大な黒竜。 そして、その背に乗っているのは――。

金色の髪を風になびかせ、望遠鏡をこちらに向けている、見覚えがありすぎる男。

「……嘘でしょ」

私は絶句した。

「見つけたぞォォォォォォッ!! リゼェェェェェェッ!!」

上空から降ってくる、アレクセイ殿下の絶叫。 それはもう、愛の言葉というよりは、獲物を見つけた怪獣の咆哮だった。

「なんで!? どうしてここがバレたの!?」

私はパニックになりかけた。 隠蔽魔法は完璧なはず。 変装も解いていない。 なのに、なぜピンポイントで私の位置を!?

その時、ポケットの中が熱を持った。 慌てて取り出すと、先日関所でもらった『通行証の控え』が、真っ赤に点滅しているではないか。

「……あいつ(ベルン隊長)ぅぅぅぅぅ!!」

私は全てを悟った。 あの甘党隊長、やりやがったな。 賄賂を渡したのに、ちゃっかり発信機付きのスタンプを押しやがったのか。 いや、あの隊長にそんな知能はない。 となると、これは最初からアレクセイ殿下が仕組んだ罠……!

「甘かった……! 私の10倍、彼の方が執念深かった……!」

感心している場合ではない。 距離はまだあるが、飛竜のスピードなら数分で追いつかれる。 しかも、殿下の後ろには精鋭部隊が控えている。 捕まったら終わりだ。 連れ戻され、あの書類地獄と、重すぎる愛の監禁生活に逆戻りだ。

「嫌よ! 私は絶対に寝るの! 昼まで寝るのよぉぉぉ!」

私は叫ぶと、足に魔力を集中させた。 もはや隠密など不要。 全開だ。 9回の人生で培った、全ての逃走スキルを解放する。

「『身体強化(フィジカル・ブースト)』『風精霊の加護(ウィンド・ウォーク)』『重力軽減(ゼロ・グラビティ)』!!」

私は弾丸のように加速した。 森の木々を縫うように疾走する。 その速度は、走るというより低空飛行に近い。

「待てリゼ! 逃げるな! 話を聞いてくれ! 愛しているんだ!」

上空から殿下の声が追いかけてくる。 拡声魔法を使っているらしく、森中に響き渡っている。 恥ずかしい。 死ぬほど恥ずかしい。 森の動物たちが「なんだなんだ」と顔を出しているのが見える。

「うるさいバカ王子! 愛してるなら放っておいて!」

「無理だ! 私の愛は束縛と同義語だ!」

「開き直るな!」

私は走りながら、背後に向けて魔法を放つ。 『閃光(フラッシュ)』。 目くらましだ。

カッと強烈な光が空中で炸裂する。 だが、殿下は止まらない。

「効かん! 愛の力で心眼が開いた私に、視覚など不要!」

「気持ち悪いわよ!」

殿下はサングラス(魔道具)をかけていた。 準備が良すぎる。

飛竜部隊が降下してくる。 網のようなものが投下された。 捕獲用ネットだ。 しかも、魔力を封じる特殊素材でできている。

「本気すぎるでしょ……!」

私はスライディングでネットを回避し、そのまま崖へと向かった。 前方の地形は把握している。 この先には深い渓谷がある。 そこを飛び越えれば、霧の谷へ逃げ込める。

霧の谷は魔力が乱れる地帯だ。 あそこに入れば、追跡魔法も無効化できるはず。 それに、大型の飛竜は濃霧の中では飛べない。

「賭けね」

私は崖の縁へ全力疾走した。

「リゼ! そこは危ない! 止まれ!」

殿下の焦った声が聞こえる。 心配してくれるのは嬉しいが、その原因はお前だ。

崖が迫る。 底は見えない。 対岸までは約50メートル。 普通の人間の脚力では不可能だ。

だが、私はリーゼロッテ。 10回も人生をやっている女だ。 50メートルくらい、気合いでなんとかなる!

「いっけぇぇぇぇぇッ!!」

私は崖の端で強く踏み切った。 同時に、足裏で爆発魔法を発動させ、その推進力で空へ飛び出す。

体が宙に浮く。 風を切る音。 眼下に広がる谷底の闇。

一瞬、空中で殿下と目が合った気がした。 彼は飛竜の上から身を乗り出し、手を伸ばしていた。 その表情は、必死で、そしてどこか楽しそうだった。

(このバカ……! 本当に鬼ごっこだと思ってるのね!)

私は空中でくるりと回転し、対岸の岩場へと着地した。 勢いを殺しきれず、ゴロゴロと転がるが、受け身をとって立ち上がる。

「……セーフ!」

対岸に渡りきった。 ここはもう、霧の谷の入り口だ。 濃密な白い霧が、私の体を包み込んでいく。

「リゼーーーッ!!」

谷の向こうから、殿下の絶叫が聞こえた。 さすがに飛竜でこの霧の中には突っ込めないらしい。 部隊が旋回しているのが影で見える。

「ふんだ。ここまで来ればこっちのものよ」

私は服についた土を払い、乱れた髪を直した。 心臓が早鐘を打っている。 怖かった。 でも、それ以上に――少しだけ、ワクワクしてしまった自分が悔しい。

「……さあ、行こう。私の楽園へ」

私は霧の中へと足を踏み入れた。 追跡マークの反応も消えたようだ。 今度こそ、本当の逃亡成功だ。

霧の奥へ進むにつれ、周囲の景色が変わっていく。 岩肌が目立ち、植生が変わる。 そして、その先には、私の目指す『辺境の村』が待っているはずだ。
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