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第三話 国境の検問は、前世の知識(物理)と賄賂(菓子)で突破します
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王都を出発してから二日目の昼下がり。 私は、西の国境に位置する宿場町『ラクス』に到着していた。
「……何、この行列」
乗合馬車から降りた私は、目の前に広がる光景に絶句した。 ラクスは隣国との交易で栄える町だが、それにしても人が多すぎる。 国境の巨大な関所へと続く大通りは、馬車と人で埋め尽くされ、全く動く気配がない。 まるで、年末のバーゲンセール会場だ。
「おいおい、こりゃあたまげたな。検問が強化されてるって噂は本当だったか」
ここまで一緒に旅をしてきた行商人のオヤジさんが、荷台から降りながら渋い顔をする。 私はフードを目深に被り直し、努めて平静な声を装った。
「検問の強化……ですか? 何か事件でも?」
「ああ、あんた知らねえのか? 王都から緊急のお触れが出たんだよ。『国家の存亡に関わる聖女様が行方不明になった』ってな」
「聖女様……」
私の頬がピクリと引きつる。 間違いない。私のことだ。 いつから私は聖女になったのだろう。一昨日までは「生意気な悪役令嬢」だったはずなのに。 アレクセイ殿下の脳内変換機能は、国の公文書さえも改竄するらしい。
「なんでも、その聖女様は絶世の美女で、慈悲深く、王太子殿下が命よりも大切に想っている方だそうだ。殿下は悲しみのあまり、食事も喉を通らないらしいぜ」
「……へえ、それはお気の毒ですね(棒読み)」
嘘だ。 あの殿下が食事を抜くわけがない。 きっと「リゼがいないと食事が美味しくない」とか言いながら、最高級ステーキを「味気ない」と完食しているに決まっている。 私は過去9回の人生で、彼の頑丈すぎる胃袋を知り尽くしているのだ。
「で、その聖女様を探すために、国境の警備が最高レベルに引き上げられたってわけだ。アリの這い出る隙間もねえらしいぞ」
オヤジさんの言葉に、私は心の中で舌打ちをした。 最高レベルの警備。 それはつまり、身分証の徹底確認に加え、魔導具による魔力検査、さらには嘘発見の魔法まで使われるフルコースだということだ。 偽造した身分証と変装魔法だけで突破するのは、非常にリスキーだ。
「困りましたね……。私、急いでいるのに」
「アリスちゃん(私の偽名)もか? 俺もだよ。この野菜、早く届けねえと腐っちまう」
オヤジさんは困り顔で頭を掻いた。 その時、通りの壁に貼られた一枚のポスターが目に入った。 黄金の枠で囲まれた、やけに豪華な手配書だ。
【至急求む! 愛しの逃走者】 名前:リーゼロッテ・フォン・エーデル(通称:我が魂の片割れ) 特徴:女神アフロディーテも裸足で逃げ出す美貌。夜空の星々を詰め込んだような瞳。触れるもの全てを浄化する聖なるオーラ。 備考:見つけた者には金貨一億枚。ただし、彼女の機嫌を損ねた者は極刑。
そこに描かれている肖像画を見て、私は思わず吹き出しそうになった。 誰だこれ。 私の特徴を捉えてはいるが、フィルター加工を50回くらい重ねたような、キラキラしい美少女が描かれている。 背景には薔薇の花が舞い、後光まで差している始末だ。
「……まあ、実物がこれなら、今の私とは似ても似つかないわね」
私は自分の姿を見下ろした。 今の私は、変装魔法で茶髪にそばかす、服も地味な村娘スタイルだ。 あの肖像画の「女神」と同一人物だと見破れる人間は、まずいないだろう。 問題は、魔力検査だ。 私の魔力波長は王宮に登録されている。 検査機に通されれば一発でアウトだ。
「どうする……?」
思考を巡らせる。 強行突破? いや、目立ちすぎる。 裏ルート? 時間がかかるし、今は裏社会の人間も警戒しているだろう。
その時、私の脳裏に3回目の人生の記憶が蘇った。 あの時、私は聖女を目指して各地を巡礼していた。 その際、国境の警備隊長が『極度の甘党』だという情報を得ていたはずだ。 賄賂……いや、心付けだ。 それに、今は幸いにも混乱状態。 どさくさに紛れれば、正規の手続きをショートカットできるかもしれない。
「オヤジさん、私にいい考えがあります」
私はニヤリと笑い、オヤジさんの袖を引いた。
「協力してくれたら、この行列を一気にパスできるかもしれませんよ」
◇
30分後。 私とオヤジさんは、検問の最前列近くにいた。 オヤジさんの荷車には、「緊急支援物資」と書かれた札が貼られている。 もちろん、私が即席で偽造したものだ。
「お、おいアリスちゃん、本当に大丈夫なのか? バレたら打ち首もんだぞ」
「大丈夫です。堂々としていてください」
私は小声で励ましつつ、周囲を観察する。 関所の門の前には、重装備の騎士たちが十数名。 その中央には、魔導具を手にした厳格そうな隊長がいる。 彼だ。甘党のベルン隊長。 強面だが、実は机の引き出しにクッキーを隠し持っていることを私は知っている。
「次! 身分証を出せ! 魔力検査もだ!」
列が進む。 私の番が近づいてくる。 心臓が少しだけ速く打つ。 恐怖ではない。 これから始まる「仕掛け」への武者震いだ。
私は懐から、小瓶を取り出した。 中に入っているのは、今朝がた調合した特製のシロップだ。 ただの甘味料ではない。 疲労回復効果と、精神安定作用、そして何より『脳がとろけるような極上の甘み』を持つ、悪魔的なシロップだ。
これを、どう使うか。 私がタイミングを計っていた、その時だった。
ズズズ……ッ。
地鳴りのような音が響いた。 地面が小刻みに揺れる。 行列の人々がざわめき始める。
「な、なんだ? 地震か?」 「いや、森の方からだ!」
誰かの叫び声と共に、関所の横にある森の木々が、バキバキと音を立ててなぎ倒された。 現れたのは、巨大な影。 身長3メートルはあろうかという、赤銅色の肌を持つ巨鬼――オーガだ。 しかも、ただのオーガではない。 目が赤く発光し、全身から瘴気を放っている。 『暴走種(スタンピード・タイプ)』だ。
「グオオオオオオオッ!!」
鼓膜を破るような咆哮。 関所は一瞬でパニックに陥った。
「オーガだ! しかも暴走種だぞ!」 「逃げろ! 食われるぞ!」 「騎士団! 迎撃せよ! 市民を守れ!」
ベルン隊長が叫び、騎士たちが剣を抜いて駆け出す。 だが、暴走種のオーガは強敵だ。 通常の個体よりも皮膚が硬く、力も桁違い。 騎士たちの剣は弾かれ、逆に一薙ぎで数人が吹き飛ばされた。
「ひ、ひえええっ!」
オヤジさんが荷車の影に隠れて震え上がる。 私も咄嗟に身を屈めた。
(タイミングが悪すぎる……! いや、待てよ?)
私は冷静に戦況を分析した。 このままでは、関所は壊滅し、検問どころではなくなる。 国境が封鎖されれば、私の逃亡計画も頓挫する。 かといって、私が魔法を使って派手に倒せば、正体がバレる。
「……物理でいくか」
私は足元の石ころを拾った。 拳大の、どこにでもあるただの石だ。
私は深呼吸をする。 体内の魔力回路を、筋肉繊維にだけ接続する。 魔法の光を漏らさないよう、体内だけで循環させる『身体強化・内燃型』。 これは4回目の人生、暗殺者ギルドで習得した技術だ。 見た目はただの村娘が石を投げるだけ。 だが、その威力は攻城兵器に匹敵する。
狙うは一点。 オーガの眉間にある、直径数センチの急所『魔石核』だ。
「(アリス、行きます)」
騎士たちが吹き飛ばされ、オーガが次の標的――逃げ遅れた子供――に棍棒を振り上げた瞬間。 私はオヤジさんの荷車の影から、無造作に腕を振った。
シュッ。
風切り音すら置き去りにする速度で、石が放たれた。
ドォォォォォン!!
次の瞬間、爆発音が響いた。 子供を襲おうとしていたオーガの首から上が、弾け飛んだのだ。 まるで熟れたトマトのように。 巨大な体が、ゆらりと揺れて、ズシンと地面に倒れ伏す。
静寂。 誰も何が起きたのか理解できていない。 騎士たちも、逃げ惑う人々も、ぽかんと口を開けてオーガの死体を見つめている。
「……え? 何?」 「頭が……爆発した?」 「魔法か? いや、詠唱も光も見えなかったぞ……」
今だ。 この混乱こそが最大のチャンス。
私は素早く立ち上がり、呆然としているベルン隊長のもとへ駆け寄った。 そして、怯える少女(演技)の顔で、彼の手に小瓶と、偽造した通行証を握らせた。
「た、隊長さん! 怖かったですぅ! これ、お守りの甘いシロップです! 舐めて元気出してください! あと、これ通行証です! ハンコください!」
「え? あ、ああ……」
ベルン隊長は、まだ状況が飲み込めていない様子で、反射的に私の通行証にスタンプを押した。 長年の職業病だ。 書類を突きつけられると、無意識に処理してしまうのだ。
「ありがとうございます! オヤジさん、急いで!」
「へ? あ、おう!」
私はスタンプ付きの通行証をひったくり、オヤジさんの荷車を押して関所を駆け抜けた。 背後では、まだ騎士たちが「一体何が起きたんだ……」とざわめいている。 誰かが私を怪しむ前に、国境線の向こう側へ。
「やった……!」
石畳の橋を渡りきり、隣国の土を踏んだ瞬間、私は小さくガッツポーズをした。 これで、アレクセイ殿下の支配権から脱出した。 物理的にも、法的にも。
「アリスちゃん、あんたすげえな。あの隊長からハンコもらうなんて」 「えへへ、私の笑顔に免じてくれたみたいです」
私は可愛く舌を出した。 オヤジさんは「若い子は度胸があるねえ」と笑ったが、彼も気づいていない。 私が投げた石が、実は彼の荷車の車輪止め用の石だったことに。
◇
それから数時間後。 夕闇が迫るラクス関所に、王都からの精鋭部隊が到着した。 率いるのは、近衛騎士団のエリートたち。 そして、その中には、黒いマントを目深に被った一人の男がいた。
「報告します! 先ほど、暴走種のオーガが出現しましたが、何者かによって瞬殺されました!」
関所の騎士が、冷や汗を流しながら報告する。 マントの男――変装したアレクセイ殿下だ――は、興味深そうにオーガの死体に歩み寄った。
「瞬殺だと? 魔法か?」
「いえ、それが……目撃証言によると、突然頭部が破裂したと。魔力の痕跡は一切ありません」
アレクセイは、オーガの死体のそばにしゃがみ込んだ。 そして、砕け散った頭部の肉片の中に埋もれていた、ある物体を拾い上げた。
それは、変形し、ひび割れた、ただの石ころだった。 だが、アレクセイの鋭い観察眼は、その石に残された微かな痕跡を見逃さなかった。 石の表面が、超高速での大気摩擦によって、わずかにガラス化している。
「……ほう」
アレクセイの口元が、三日月形に歪んだ。
「魔力を使わず、ただの投擲だけでオーガの頭蓋と魔石核を粉砕したというのか。これほどの身体能力と、針の穴を通すような精密なコントロール……」
彼は立ち上がり、その石を愛おしげに頬に押し当てた。
「間違いない。リゼだ」
「は?」
報告していた騎士が目を丸くする。 「いや、リーゼロッテ様は深窓の令嬢で、か弱い女性のはずでは……」
「馬鹿者」
アレクセイは一蹴した。
「彼女はただの令嬢ではない。私の婚約者だぞ? これくらいの芸当、できて当然だ。……ああ、想像できるぞ。か弱いフリをして、こっそりと民衆を守るために力を振るう彼女の姿が。なんて奥ゆかしいんだ。尊い……!」
彼は身悶えした。 騎士たちはドン引きしたが、誰も何も言えない。
「それに、この石……彼女の匂いがする」
「石に匂いなんてありますか!?」
「ある。私にはわかる。これは彼女が触れた聖遺物だ。家宝にしよう」
アレクセイは石を丁寧にハンカチに包み、懐にしまった。 そして、国境の向こうに広がる闇を見据える。
「検問の記録を見せろ。ここを通った者の中に、彼女がいる」
ベルン隊長が震える手で通行記録を差し出す。 アレクセイはそれを高速でめくり、ある一点で指を止めた。
『アリス 村娘 16歳』
「アリス……。『不思議の国のアリス』か。異界の物語を引用するとは、教養溢れる彼女らしい偽名だ」
(注:この世界にその物語があるかは不明だが、アレクセイの中では設定されている)
「この『アリス』という娘、何をした?」
アレクセイがベルン隊長に問う。 隊長は、夢見心地の表情で答えた。
「ああ、その娘なら……とても可愛らしい子でして。私に『元気が出るシロップ』をくれました。これを舐めたら、不思議と疲れが吹き飛んで……」
隊長が空になった小瓶を見せる。 アレクセイはその小瓶をひったくった。 蓋を開け、残り香を嗅ぐ。
「……っ!!」
彼の瞳孔が開いた。
「この洗練された調合……。ただの甘味ではない。最高級の薬草と、絶妙な配分で魔力が込められている。これは宮廷薬師でも作れない、伝説の『エリクサー・シロップ』だ!」
「エ、エリクサー!?」
周囲がざわつく。 伝説の万能薬を、ただのシロップとして渡したというのか。
「間違いない。リゼだ。彼女はここにいた」
アレクセイは確信した。 そして、その顔には恍惚と、狩人の獰猛な笑みが浮かんでいた。
「逃がさないよ、アリス。いや、リゼ。君は国境を越えたと思っているだろうが、それは私の腕の中という名の、もっと広い檻に入っただけだ」
彼はマントを翻し、騎士団に命令を下した。
「全軍、越境する! 隣国への侵入許可など後回しだ! 外交問題になったら私が金で解決する! 急げ! 彼女の残り香が消える前に!」
「「「イエッサー!!」」」
王国の精鋭たちが、雪崩を打って国境を越えていく。 それはもはや捜索隊ではない。 愛に狂った侵略軍だった。
◇
国境を越え、隣国の街道を進む馬車の中で。 私は突然、背筋に悪寒が走って身震いした。
「……寒い」
「どうした、アリスちゃん。風邪か?」
「いえ……なんか、すごく嫌な予感がして……」
私は後ろを振り返った。 闇に沈む国境の山々。 あそこにはもう、私の知る日常はない。 あるのは自由な未来だけ。
そう言い聞かせて、私は前を向いた。 大丈夫。 いくら殿下でも、石ころ一つで私がやったとバレるはずがない。 私は完全犯罪を成し遂げたのだ。
「次はどんな町かしら。美味しいもの、あるといいな」
私は呑気に伸びをした。 しかし、私のポケットに入っていた「通行証の控え」。 そこに押されたスタンプが、微かに魔力を帯びて点滅していることに、私はまだ気づいていなかった。
それは、入国管理用のただのスタンプではない。 ベルン隊長がうっかり押し間違えた、重要人物監視用の『追跡魔法印(トレーシング・マーク)』だったのだ。
私が動けば動くほど、その信号はアレクセイの手元にある受信機へと、正確な位置情報を送り続けていた。
夜空に浮かぶ月が、まるで哀れむように私を見下ろしていた。 逃亡生活2日目。 私の居場所は、既に完全にバレていた。
「……何、この行列」
乗合馬車から降りた私は、目の前に広がる光景に絶句した。 ラクスは隣国との交易で栄える町だが、それにしても人が多すぎる。 国境の巨大な関所へと続く大通りは、馬車と人で埋め尽くされ、全く動く気配がない。 まるで、年末のバーゲンセール会場だ。
「おいおい、こりゃあたまげたな。検問が強化されてるって噂は本当だったか」
ここまで一緒に旅をしてきた行商人のオヤジさんが、荷台から降りながら渋い顔をする。 私はフードを目深に被り直し、努めて平静な声を装った。
「検問の強化……ですか? 何か事件でも?」
「ああ、あんた知らねえのか? 王都から緊急のお触れが出たんだよ。『国家の存亡に関わる聖女様が行方不明になった』ってな」
「聖女様……」
私の頬がピクリと引きつる。 間違いない。私のことだ。 いつから私は聖女になったのだろう。一昨日までは「生意気な悪役令嬢」だったはずなのに。 アレクセイ殿下の脳内変換機能は、国の公文書さえも改竄するらしい。
「なんでも、その聖女様は絶世の美女で、慈悲深く、王太子殿下が命よりも大切に想っている方だそうだ。殿下は悲しみのあまり、食事も喉を通らないらしいぜ」
「……へえ、それはお気の毒ですね(棒読み)」
嘘だ。 あの殿下が食事を抜くわけがない。 きっと「リゼがいないと食事が美味しくない」とか言いながら、最高級ステーキを「味気ない」と完食しているに決まっている。 私は過去9回の人生で、彼の頑丈すぎる胃袋を知り尽くしているのだ。
「で、その聖女様を探すために、国境の警備が最高レベルに引き上げられたってわけだ。アリの這い出る隙間もねえらしいぞ」
オヤジさんの言葉に、私は心の中で舌打ちをした。 最高レベルの警備。 それはつまり、身分証の徹底確認に加え、魔導具による魔力検査、さらには嘘発見の魔法まで使われるフルコースだということだ。 偽造した身分証と変装魔法だけで突破するのは、非常にリスキーだ。
「困りましたね……。私、急いでいるのに」
「アリスちゃん(私の偽名)もか? 俺もだよ。この野菜、早く届けねえと腐っちまう」
オヤジさんは困り顔で頭を掻いた。 その時、通りの壁に貼られた一枚のポスターが目に入った。 黄金の枠で囲まれた、やけに豪華な手配書だ。
【至急求む! 愛しの逃走者】 名前:リーゼロッテ・フォン・エーデル(通称:我が魂の片割れ) 特徴:女神アフロディーテも裸足で逃げ出す美貌。夜空の星々を詰め込んだような瞳。触れるもの全てを浄化する聖なるオーラ。 備考:見つけた者には金貨一億枚。ただし、彼女の機嫌を損ねた者は極刑。
そこに描かれている肖像画を見て、私は思わず吹き出しそうになった。 誰だこれ。 私の特徴を捉えてはいるが、フィルター加工を50回くらい重ねたような、キラキラしい美少女が描かれている。 背景には薔薇の花が舞い、後光まで差している始末だ。
「……まあ、実物がこれなら、今の私とは似ても似つかないわね」
私は自分の姿を見下ろした。 今の私は、変装魔法で茶髪にそばかす、服も地味な村娘スタイルだ。 あの肖像画の「女神」と同一人物だと見破れる人間は、まずいないだろう。 問題は、魔力検査だ。 私の魔力波長は王宮に登録されている。 検査機に通されれば一発でアウトだ。
「どうする……?」
思考を巡らせる。 強行突破? いや、目立ちすぎる。 裏ルート? 時間がかかるし、今は裏社会の人間も警戒しているだろう。
その時、私の脳裏に3回目の人生の記憶が蘇った。 あの時、私は聖女を目指して各地を巡礼していた。 その際、国境の警備隊長が『極度の甘党』だという情報を得ていたはずだ。 賄賂……いや、心付けだ。 それに、今は幸いにも混乱状態。 どさくさに紛れれば、正規の手続きをショートカットできるかもしれない。
「オヤジさん、私にいい考えがあります」
私はニヤリと笑い、オヤジさんの袖を引いた。
「協力してくれたら、この行列を一気にパスできるかもしれませんよ」
◇
30分後。 私とオヤジさんは、検問の最前列近くにいた。 オヤジさんの荷車には、「緊急支援物資」と書かれた札が貼られている。 もちろん、私が即席で偽造したものだ。
「お、おいアリスちゃん、本当に大丈夫なのか? バレたら打ち首もんだぞ」
「大丈夫です。堂々としていてください」
私は小声で励ましつつ、周囲を観察する。 関所の門の前には、重装備の騎士たちが十数名。 その中央には、魔導具を手にした厳格そうな隊長がいる。 彼だ。甘党のベルン隊長。 強面だが、実は机の引き出しにクッキーを隠し持っていることを私は知っている。
「次! 身分証を出せ! 魔力検査もだ!」
列が進む。 私の番が近づいてくる。 心臓が少しだけ速く打つ。 恐怖ではない。 これから始まる「仕掛け」への武者震いだ。
私は懐から、小瓶を取り出した。 中に入っているのは、今朝がた調合した特製のシロップだ。 ただの甘味料ではない。 疲労回復効果と、精神安定作用、そして何より『脳がとろけるような極上の甘み』を持つ、悪魔的なシロップだ。
これを、どう使うか。 私がタイミングを計っていた、その時だった。
ズズズ……ッ。
地鳴りのような音が響いた。 地面が小刻みに揺れる。 行列の人々がざわめき始める。
「な、なんだ? 地震か?」 「いや、森の方からだ!」
誰かの叫び声と共に、関所の横にある森の木々が、バキバキと音を立ててなぎ倒された。 現れたのは、巨大な影。 身長3メートルはあろうかという、赤銅色の肌を持つ巨鬼――オーガだ。 しかも、ただのオーガではない。 目が赤く発光し、全身から瘴気を放っている。 『暴走種(スタンピード・タイプ)』だ。
「グオオオオオオオッ!!」
鼓膜を破るような咆哮。 関所は一瞬でパニックに陥った。
「オーガだ! しかも暴走種だぞ!」 「逃げろ! 食われるぞ!」 「騎士団! 迎撃せよ! 市民を守れ!」
ベルン隊長が叫び、騎士たちが剣を抜いて駆け出す。 だが、暴走種のオーガは強敵だ。 通常の個体よりも皮膚が硬く、力も桁違い。 騎士たちの剣は弾かれ、逆に一薙ぎで数人が吹き飛ばされた。
「ひ、ひえええっ!」
オヤジさんが荷車の影に隠れて震え上がる。 私も咄嗟に身を屈めた。
(タイミングが悪すぎる……! いや、待てよ?)
私は冷静に戦況を分析した。 このままでは、関所は壊滅し、検問どころではなくなる。 国境が封鎖されれば、私の逃亡計画も頓挫する。 かといって、私が魔法を使って派手に倒せば、正体がバレる。
「……物理でいくか」
私は足元の石ころを拾った。 拳大の、どこにでもあるただの石だ。
私は深呼吸をする。 体内の魔力回路を、筋肉繊維にだけ接続する。 魔法の光を漏らさないよう、体内だけで循環させる『身体強化・内燃型』。 これは4回目の人生、暗殺者ギルドで習得した技術だ。 見た目はただの村娘が石を投げるだけ。 だが、その威力は攻城兵器に匹敵する。
狙うは一点。 オーガの眉間にある、直径数センチの急所『魔石核』だ。
「(アリス、行きます)」
騎士たちが吹き飛ばされ、オーガが次の標的――逃げ遅れた子供――に棍棒を振り上げた瞬間。 私はオヤジさんの荷車の影から、無造作に腕を振った。
シュッ。
風切り音すら置き去りにする速度で、石が放たれた。
ドォォォォォン!!
次の瞬間、爆発音が響いた。 子供を襲おうとしていたオーガの首から上が、弾け飛んだのだ。 まるで熟れたトマトのように。 巨大な体が、ゆらりと揺れて、ズシンと地面に倒れ伏す。
静寂。 誰も何が起きたのか理解できていない。 騎士たちも、逃げ惑う人々も、ぽかんと口を開けてオーガの死体を見つめている。
「……え? 何?」 「頭が……爆発した?」 「魔法か? いや、詠唱も光も見えなかったぞ……」
今だ。 この混乱こそが最大のチャンス。
私は素早く立ち上がり、呆然としているベルン隊長のもとへ駆け寄った。 そして、怯える少女(演技)の顔で、彼の手に小瓶と、偽造した通行証を握らせた。
「た、隊長さん! 怖かったですぅ! これ、お守りの甘いシロップです! 舐めて元気出してください! あと、これ通行証です! ハンコください!」
「え? あ、ああ……」
ベルン隊長は、まだ状況が飲み込めていない様子で、反射的に私の通行証にスタンプを押した。 長年の職業病だ。 書類を突きつけられると、無意識に処理してしまうのだ。
「ありがとうございます! オヤジさん、急いで!」
「へ? あ、おう!」
私はスタンプ付きの通行証をひったくり、オヤジさんの荷車を押して関所を駆け抜けた。 背後では、まだ騎士たちが「一体何が起きたんだ……」とざわめいている。 誰かが私を怪しむ前に、国境線の向こう側へ。
「やった……!」
石畳の橋を渡りきり、隣国の土を踏んだ瞬間、私は小さくガッツポーズをした。 これで、アレクセイ殿下の支配権から脱出した。 物理的にも、法的にも。
「アリスちゃん、あんたすげえな。あの隊長からハンコもらうなんて」 「えへへ、私の笑顔に免じてくれたみたいです」
私は可愛く舌を出した。 オヤジさんは「若い子は度胸があるねえ」と笑ったが、彼も気づいていない。 私が投げた石が、実は彼の荷車の車輪止め用の石だったことに。
◇
それから数時間後。 夕闇が迫るラクス関所に、王都からの精鋭部隊が到着した。 率いるのは、近衛騎士団のエリートたち。 そして、その中には、黒いマントを目深に被った一人の男がいた。
「報告します! 先ほど、暴走種のオーガが出現しましたが、何者かによって瞬殺されました!」
関所の騎士が、冷や汗を流しながら報告する。 マントの男――変装したアレクセイ殿下だ――は、興味深そうにオーガの死体に歩み寄った。
「瞬殺だと? 魔法か?」
「いえ、それが……目撃証言によると、突然頭部が破裂したと。魔力の痕跡は一切ありません」
アレクセイは、オーガの死体のそばにしゃがみ込んだ。 そして、砕け散った頭部の肉片の中に埋もれていた、ある物体を拾い上げた。
それは、変形し、ひび割れた、ただの石ころだった。 だが、アレクセイの鋭い観察眼は、その石に残された微かな痕跡を見逃さなかった。 石の表面が、超高速での大気摩擦によって、わずかにガラス化している。
「……ほう」
アレクセイの口元が、三日月形に歪んだ。
「魔力を使わず、ただの投擲だけでオーガの頭蓋と魔石核を粉砕したというのか。これほどの身体能力と、針の穴を通すような精密なコントロール……」
彼は立ち上がり、その石を愛おしげに頬に押し当てた。
「間違いない。リゼだ」
「は?」
報告していた騎士が目を丸くする。 「いや、リーゼロッテ様は深窓の令嬢で、か弱い女性のはずでは……」
「馬鹿者」
アレクセイは一蹴した。
「彼女はただの令嬢ではない。私の婚約者だぞ? これくらいの芸当、できて当然だ。……ああ、想像できるぞ。か弱いフリをして、こっそりと民衆を守るために力を振るう彼女の姿が。なんて奥ゆかしいんだ。尊い……!」
彼は身悶えした。 騎士たちはドン引きしたが、誰も何も言えない。
「それに、この石……彼女の匂いがする」
「石に匂いなんてありますか!?」
「ある。私にはわかる。これは彼女が触れた聖遺物だ。家宝にしよう」
アレクセイは石を丁寧にハンカチに包み、懐にしまった。 そして、国境の向こうに広がる闇を見据える。
「検問の記録を見せろ。ここを通った者の中に、彼女がいる」
ベルン隊長が震える手で通行記録を差し出す。 アレクセイはそれを高速でめくり、ある一点で指を止めた。
『アリス 村娘 16歳』
「アリス……。『不思議の国のアリス』か。異界の物語を引用するとは、教養溢れる彼女らしい偽名だ」
(注:この世界にその物語があるかは不明だが、アレクセイの中では設定されている)
「この『アリス』という娘、何をした?」
アレクセイがベルン隊長に問う。 隊長は、夢見心地の表情で答えた。
「ああ、その娘なら……とても可愛らしい子でして。私に『元気が出るシロップ』をくれました。これを舐めたら、不思議と疲れが吹き飛んで……」
隊長が空になった小瓶を見せる。 アレクセイはその小瓶をひったくった。 蓋を開け、残り香を嗅ぐ。
「……っ!!」
彼の瞳孔が開いた。
「この洗練された調合……。ただの甘味ではない。最高級の薬草と、絶妙な配分で魔力が込められている。これは宮廷薬師でも作れない、伝説の『エリクサー・シロップ』だ!」
「エ、エリクサー!?」
周囲がざわつく。 伝説の万能薬を、ただのシロップとして渡したというのか。
「間違いない。リゼだ。彼女はここにいた」
アレクセイは確信した。 そして、その顔には恍惚と、狩人の獰猛な笑みが浮かんでいた。
「逃がさないよ、アリス。いや、リゼ。君は国境を越えたと思っているだろうが、それは私の腕の中という名の、もっと広い檻に入っただけだ」
彼はマントを翻し、騎士団に命令を下した。
「全軍、越境する! 隣国への侵入許可など後回しだ! 外交問題になったら私が金で解決する! 急げ! 彼女の残り香が消える前に!」
「「「イエッサー!!」」」
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◇
国境を越え、隣国の街道を進む馬車の中で。 私は突然、背筋に悪寒が走って身震いした。
「……寒い」
「どうした、アリスちゃん。風邪か?」
「いえ……なんか、すごく嫌な予感がして……」
私は後ろを振り返った。 闇に沈む国境の山々。 あそこにはもう、私の知る日常はない。 あるのは自由な未来だけ。
そう言い聞かせて、私は前を向いた。 大丈夫。 いくら殿下でも、石ころ一つで私がやったとバレるはずがない。 私は完全犯罪を成し遂げたのだ。
「次はどんな町かしら。美味しいもの、あるといいな」
私は呑気に伸びをした。 しかし、私のポケットに入っていた「通行証の控え」。 そこに押されたスタンプが、微かに魔力を帯びて点滅していることに、私はまだ気づいていなかった。
それは、入国管理用のただのスタンプではない。 ベルン隊長がうっかり押し間違えた、重要人物監視用の『追跡魔法印(トレーシング・マーク)』だったのだ。
私が動けば動くほど、その信号はアレクセイの手元にある受信機へと、正確な位置情報を送り続けていた。
夜空に浮かぶ月が、まるで哀れむように私を見下ろしていた。 逃亡生活2日目。 私の居場所は、既に完全にバレていた。
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封筒にそう書かれていた手紙は先日、処刑された悪女が書いたものだった。
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