「何の取り柄もない姉より、妹をよこせ」と婚約破棄されましたが、妹を守るためなら私は「国一番の淑女」にでも這い上がってみせます

放浪人

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第3話:氷の公爵との面接

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執事長の後ろ姿を見失わないよう、私は必死についていく。

案内された廊下は、どこまでも続いていた。 足音だけがカツ、カツと響く。 壁に飾られた絵画はどれも名画なのだろうが、描かれている人物の目が、すべて私を監視しているように感じられた。

(息が詰まる……)

これが、公爵家の空気か。 カミロの家もそれなりに裕福だったが、こことは格が違う。 空気に重さがあるのだ。 歴史の重みと、それを維持するための冷徹な規律の重みが。

「ここです」

長い廊下の突き当たりにある、巨大な黒檀の扉の前で執事長が立ち止まった。 扉には、精巧なライオンの彫刻が施されており、その目はまるで生きているかのように私を威嚇していた。

「この中に、ラインハルト公爵閣下がいらっしゃいます。よろしいですか、お嬢さん。閣下の言葉は絶対です。口答えは許されません。また、閣下が『下がれ』と言えば、即座に退室すること。それが五体満足で帰るための唯一の条件です」

執事長の忠告は、脅しではなく事実なのだろう。 私は生唾を飲み込み、震える膝に力を入れた。

「はい。肝に銘じます」

「……では」

執事長が重々しくノックをする。

「閣下、セバスチャンでございます。面接希望者を連れてまいりました」

中からの返事はない。 ただ、ピリリとした肌を刺すような冷気が、扉の隙間から漏れ出してきた気がした。

セバスチャンと呼ばれた執事長は、返事を待たずに静かに扉を開けた。

「失礼いたします。入れ」

促され、私は部屋へと足を踏み入れた。

そこは、部屋というよりは図書館のようだった。 壁一面の本棚には、天井まで届くほど無数の書物が詰め込まれている。 部屋の中央には、執務机と思われる巨大なマホガニーの机があり、書類の山が築かれていた。

そして、その書類の山の向こうに、一人の男が座っていた。

「……」

男は、顔を上げなかった。 ただひたすらに、手元の書類にペンを走らせている。

窓から差し込む月明かりが、彼のアッシュグレーの髪を照らし、銀色に輝かせていた。 整いすぎた横顔は、彫刻家が一生をかけて掘り出した大理石の作品のように美しく、そして冷たい。

彼こそが、クラウス・フォン・ラインハルト公爵。 この国の影の支配者とも噂される、『氷の公爵』だ。

私は息をするのも忘れて、その姿に見入ってしまった。 美しい。 けれど、怖い。 生物としての格の違いを、本能が察知して警鐘を鳴らしている。

セバスチャンが一歩進み出る。

「閣下、こちらが……」

「セバスチャン」

初めて、公爵が口を開いた。 その声は、低く、滑らかで、それでいて絶対零度の響きを持っていた。 聞く者の背筋を凍らせるような、魔性の声だ。

「はい」

「私は言ったはずだ。ゴミを部屋に入れるなと」

公爵は、依然として顔を上げないまま言った。 ペンを走らせる手すら止めていない。

「時間の無駄だ。追い出せ」

私の存在など、視界に入れる価値もない。 そう断言されたのだ。

セバスチャンが困ったように眉をひそめ、私の方を見た。 『言った通りだろう?』という目が語っている。

普通なら、ここで心が折れて泣いて帰るのだろう。 あるいは、恐怖で腰を抜かすのかもしれない。

けれど、私の中で何かが弾けた。

ゴミ。 まただ。 カミロも、銀行員も、パメラも、みんな私をそう呼んだ。

(私はゴミじゃない……!)

私は一歩、前に踏み出した。

「お言葉ですが、閣下!」

私の声が、広い執務室に響き渡った。

セバスチャンが驚愕に目を見開く。 書類をめくる公爵の手が、初めてピタリと止まった。

「私はゴミではありません。アリア・ベルンシュタインと申します」

沈黙が落ちた。 部屋の温度が、一気に五度くらい下がった気がした。

公爵が、ゆっくりと顔を上げた。

その瞳と目が合った瞬間、私は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。 アイスブルーの瞳。 極寒の湖面のように透き通り、底知れない深淵を宿した瞳が、私を射抜いていた。

「……ベルンシュタイン?」

公爵が、私の名を反芻する。

「ああ、あの没落寸前の? 父親が残した借金で首が回らなくなり、婚約者にも捨てられたという、あのベルンシュタイン家の娘か」

なぜ、そこまで知っているのか。 私が婚約破棄されたのは、つい昨日のことなのに。

「……情報の早さには、恐れ入ります」

「私の耳には、王都のドブネズミの鳴き声すら届くようになっている」

公爵は椅子に深く寄りかかり、組んだ両手を顎の下に添えた。 私を見る目は、珍しい虫を見るような、無感情な観察眼だ。

「それで? そのベルンシュタインの令嬢が、なぜこんな薄汚れた格好で、私の屋敷に迷い込んだ? ここは慈善事業のスープ配給所ではないぞ」

「仕事を探しに参りました。雑用係を募集していると伺いましたので」

「雑用係?」

公爵の片眉が器用に跳ね上がる。

「貴族の令嬢が雑用だと? 笑えない冗談だ。お前のような温室育ちの花に、床磨きができるとでも? それとも、私のベッドを温めるつもりで来たのか? だとしたら、鏡を見てから出直すがいい。その泥だらけの顔では、私の食指は動かん」

強烈な侮辱。 カミロの言葉よりも、知性がある分だけ鋭利な刃物となって突き刺さる。

私は拳を握りしめ、爪が食い込む痛みで理性を保った。

「ベッドを温めるつもりはありません。床磨きでも、皿洗いでも、ドブ掃除でも何でもします。私には金が必要なのです」

「金か。つまらん」

公爵は興味を失ったように、再び書類に視線を落とした。

「セバスチャン、つまみ出せ。二度と敷居をまたがせるな」

「はっ。……さあ、アリア様、こちらへ」

セバスチャンが私の腕を掴む。 強い力だ。 引きずり出されそうになる。

ダメだ。 ここで追い出されたら、すべてが終わる。 ミラの笑顔も、未来も、全部消えてしまう。

私は必死に足を踏ん張り、叫んだ。

「待ってください!! 私には能力があります!!」

「ほう?」

公爵の手が再び止まる。

「能力だと? 何の能もないと評判のベルンシュタイン令嬢にか?」

「評判など、所詮は他人の勝手な評価です! 私を使って見なければ、本当の価値など分からないはずです!」

「……面白い」

公爵は椅子から立ち上がった。 背が高い。 見上げるほどの長身が、私に近づいてくる。 その圧迫感に、セバスチャンが思わず私の腕を離して一歩下がった。

公爵は私の目の前まで来ると、私の顎を冷たい指先で持ち上げ、強引に上を向かせた。

至近距離で見るその顔は、息を呑むほど美しく、そして恐ろしかった。

「いいだろう。プレゼンしてみろ」

公爵の吐息がかかる距離。

「お前に何ができる? 計算は? 魔法は? 剣術は? 他国の言語は話せるか?」

「……計算は、家計簿程度なら。魔法は使えません。剣も持ったことがありません。外国語は……挨拶程度なら」

「無能だな」

公爵は吐き捨てるように言った。

「それが貴族令嬢の平均かもしれんが、私の屋敷では『無能』は『罪』だ。お前を雇うメリットが、私には一ミリも見出せん」

顎を掴む指に力がこもる。痛い。

「お引き取り願おうか、元・令嬢」

公爵が手を離し、背を向けようとした。

その瞬間、私の口が勝手に動いていた。

「記憶力!!」

「……あ?」

「記憶力です! 私、一度見たものや聞いたことは、決して忘れません! 人の顔も、名前も、帳簿の数字も、一度目を通せばすべて頭に入ります!」

公爵が立ち止まり、ゆっくりと振り返る。 その目に、初めて『無関心』以外の色が宿った。 『懐疑』の色だ。

「……絶対記憶か? まさか」

「本当です! 幼い頃から、本の内容を丸暗記するのが得意でした。父の領地経営の書類も、すべて頭に入っています!」

これは賭けだった。 私の記憶力は確かに良いが、『絶対記憶』と呼べるほど完璧なものかは分からない。 でも、今はハッタリでも何でも噛ますしかない。

公爵は目を細め、机の上の書類の山から一枚の紙を無造作に抜き出した。

「なら、試してやる」

彼はその紙を私の目の前に突きつけた。 それは、どこかの商会との取引明細書のようだった。 細かい数字と商品名がびっしりと羅列されている。

「見ろ。十秒だけやる」

「えっ、十秒!?」

「もう二秒経過した」

私は慌てて紙に食らいついた。 文字を追うのではない。 紙全体を『画像』として脳に焼き付けるのだ。

商品名、単価、数量、合計金額、日付、署名……。 集中しろ。 集中しろ、アリア! ミラの顔を思い浮かべろ!

「……終わりだ」

公爵が無慈悲に紙を取り上げた。

「さて、上から三番目の品目と、その単価、数量を言ってみろ」

私は目を閉じ、脳裏に焼き付けた残像を呼び起こす。

「……『北国産・白銀狐の毛皮』……単価、金貨三枚……数量、十二……」

「合計は?」

「金貨、三十六枚」

「一番下の署名は?」

「……『ゴルド商会代表、バルガス』……日付は、今月の三日……」

沈黙。

私は恐る恐る目を開けた。 公爵は手元の紙を見つめ、そして私を見た。

その表情は変わらない。 だが、その瞳の奥にある氷が、ほんの少しだけ溶けかかっているように見えた。

「……合っているな」

公爵は紙を机に放り投げた。

「悪くない。その程度の記憶力があれば、伝書鳩よりは役に立つかもしれん」

「では……!」

「だが、それだけだ」

公爵は冷たく言い放つ。

「記憶力が良いだけの人間なら、他にもいる。それだけでお前に高額な報酬を払う理由にはならん。ましてや、お前は危険分子だ」

「危険、分子……?」

「借金まみれの貴族など、スパイの格好の的だからな。私の情報を敵に売れば、大金になるぞ? お前がそうしないという保証がどこにある?」

痛いところを突かれた。 確かに、今の私は金のためなら何でもしそうな状況だ。 信用されるわけがない。

「信用は……これから作ります」

「信用とは、積み上げるには十年かかるが、崩れるのは一瞬だ。私はギャンブルは嫌いでね」

公爵は机に戻り、再びペンを執ろうとした。

万事休すか。 記憶力だけでは、足りない。 もっと、もっと彼にとって決定的な『利益』か、あるいは『保証』を提示しなければ。

私は焦った。 思考をフル回転させる。 彼が求めているものは? 『氷の公爵』と呼ばれる彼が、誰も寄せ付けない彼が、必要とするもの。

それは、能力だけではない。 『絶対的な服従』だ。

私はスカートを捲り、その場に膝をついた。 汚れた床に、貴族の娘が膝をつくなど、本来ならあり得ない屈辱だ。 だが、私は頭を垂れた。

「閣下。取引をさせてください」

「取引?」

「私を雇ってください。そして、給金を前借りさせてください。金貨……二千枚」

セバスチャンが「っ!?」と声を上げた。 公爵の手が止まる。

「……ほう。雑用係の分際で、金貨二千枚の前借りだと? 王国の年間予算の一部にも匹敵する大金を?」

公爵の声には、呆れを通り越して殺気すら混じっていた。

「私の命がいくら安いと言っても、そこまでふざけた要求を聞かされる覚えはないぞ。殺されたいのか?」

「命なら、差し上げます」

私は顔を上げ、公爵を睨みつけた。 懇願ではない。 これは、魂を懸けた交渉だ。

「私の命、私の人生、私の能力、そして私の『未来』。すべてを担保として、閣下に差し出します」

「……なんだと?」

「金貨二千枚で、私という人間のすべてをお買い上げください。私は一生、閣下の所有物となり、犬のように働き、奴隷のように尽くします。裏切れば、即座に殺していただいて構いません。私の妹も人質に取っていただいても結構です!」

「……妹を人質に?」

「はい。私にとって、妹は命よりも重い存在です。その妹の命を閣下に預けるということは、私が絶対に裏切らないという何よりの証明になるはずです」

狂っている。 自分でもそう思う。 最愛のミラを人質にするなんて。 でも、こうでも言わなければ、この鉄壁の男の心は動かせない。

公爵は椅子から立ち上がり、ゆっくりと私に近づいてきた。 そして、跪く私の前に立ち、見下ろした。

「……面白い女だ」

公爵は私の髪を掴み、強引に顔を上げさせた。 痛い。けれど、私は目を逸らさない。

「金貨二千枚で、己の人生を売るか。安いものだな、貴族の矜持とやらは」

「矜持で妹は守れません。守れるなら、ドブにでも捨てます」

「フッ……」

公爵の口元が、わずかに歪んだ。 それは、初めて見せる『笑み』だった。 ただし、獲物を見つけた肉食獣の、残忍な笑みだが。

「気に入った。その眼が良い。飢えた野良犬の眼だ」

公爵は髪から手を離し、懐から一枚の硬貨を取り出した。 それを親指で弾き、宙に舞わせる。 キラリと光る金貨が、私の目の前に落ちた。 カラン、と高い音が響く。

「採用だ、アリア・ベルンシュタイン」

「……っ! 本当、ですか!?」

「ただし」

公爵は低い声で釘を刺す。

「勘違いするな。金貨二千枚は、そう簡単に貸せる額ではない。まずはお試しだ。一ヶ月……いや、一週間だ」

「一週間……?」

「一週間、この屋敷で生き残ってみせろ。私の出す無理難題をすべてこなし、雑用係として完璧な成果を上げろ。それができたら、正式な契約を結び、金を貸してやる」

「一週間……」

カミロの期限まで、あと一ヶ月。 一週間なら、間に合う。

「もし、一週間もたずに逃げ出したり、無能さを露呈したりすれば……」

公爵が私の耳元に顔を寄せ、囁いた。 その息遣いは氷のように冷たく、私の鼓膜を震わせた。

「その時は、違約金としてお前の眼球と、その可愛らしい妹の心臓をもらう。……それでも、契約するか?」

背筋がゾッとした。 この人は本気だ。 冗談や比喩ではない。 失敗すれば、私は本当に殺され、ミラも失う。

これは、悪魔との契約だ。

私は震える手を抑え、ゴクリと唾を飲み込んだ。

逃げたい。 今すぐ「やっぱりやめます」と言って逃げ出したい。 でも、逃げた先に待っているのは、カミロという別の悪魔だ。

ならば。 私は、より強く、より美しい悪魔を選ぶ。

「……謹んで、お受けいたします」

私は床に落ちた金貨を拾い上げ、握りしめた。 冷たい金属の感触が、私の覚悟を焼き付ける。

「後悔するなよ」

公爵は楽しそうに目を細め、セバスチャンに向き直った。

「セバスチャン、こいつを一番下の部屋へ案内しろ。制服は……そうだな、ボロ布で十分だ」

「承知いたしました」

セバスチャンが私に手を差し伸べる。 その目は、先ほどよりも少しだけ、哀れみを含んでいるように見えた。

「立ちなさい、アリア。……地獄へようこそ」

私はふらつく足で立ち上がった。 足の感覚がない。 極度の緊張から解放された反動で、めまいがする。

けれど、私は勝ったのだ。 第一関門を突破したのだ。

「ありがとうございます、閣下。……失礼いたします」

私は深々と頭を下げ、部屋を後にしようとした。

「おい」

背後から声がかかる。

「はい」

振り返ると、公爵はすでに書類に向き直っていた。 その横顔は、再び氷の彫像のように無表情に戻っている。

「名前だ」

「え?」

「ゴミではなく、アリアと呼んでやる。……精々、死なないように足掻け」

「……はい!」

私は力強く返事をして、重い扉を閉めた。

廊下に出た瞬間、私は壁に手をついて崩れ落ちた。 心臓が破裂しそうだ。 冷や汗でドレスが肌に張り付いている。

(怖かった……)

本当に、殺されるかと思った。 あの目は、人間を見る目じゃなかった。

けれど、手の中には確かな重みがある。 拾った金貨一枚。 これが、私の新しい人生の契約金だ。

「立てますか、アリア」

セバスチャンが声をかけてくる。 口調が少しだけ柔らかくなっていた。 「様」が取れて呼び捨てになったのは、私が正式に使用人――つまり部下になったからだろう。

「はい……大丈夫です」

私は壁を伝って立ち上がる。

「では、案内します。あなたの寝床は屋根裏部屋です。ネズミが出ますが、まあ、すぐに慣れるでしょう」

「……ネズミなら、友達になれそうです」

私が軽口を叩くと、セバスチャンは口の端をほんの少しだけ上げた。

「その減らず口があれば、三日は持つかもしれませんな」

こうして、私の公爵邸での生活が始まった。 それは、噂通り、いや噂以上の地獄の日々の幕開けだった。

『氷の公爵』クラウス。 彼が求めているのは、ただの雑用係ではない。 それに気づくのは、もう少し先の話だ。

今はただ、この命が繋がったことに感謝しよう。 そして、絶対に勝ち残ってやる。

私は窓の外、遠くに見える暗闇に向かって、心の中で叫んだ。

(待ってて、ミラ。お姉ちゃん、まずは一歩、進んだよ)

手の中の金貨が、月明かりを浴びて、希望のように輝いていた。
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