「何の取り柄もない姉より、妹をよこせ」と婚約破棄されましたが、妹を守るためなら私は「国一番の淑女」にでも這い上がってみせます

放浪人

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第4話:地獄の教養講座

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カンカンカンカン!!

早朝四時。 耳をつんざくような鐘の音が、屋根裏部屋に響き渡った。

私は薄い毛布を跳ね除け、反射的に飛び起きた。 板張りの床は冷たく、足の裏から心臓まで凍りつくような冷気が這い上がってくる。

「……ううっ、寒い……」

息を吐くと、白い霧になった。 窓の隙間からは容赦なく北風が吹き込んでいる。 ここは貴族の邸宅の屋根裏部屋。 夏は蒸し風呂、冬は冷凍庫という、まさに使用人のヒエラルキーの最底辺を示す場所だ。

けれど、不満を言っている暇はない。 鐘が鳴ってから十分以内に着替え、中庭に整列しなければ、その日の食事は抜きになる。 それが、このラインハルト公爵家の鉄の掟だ。

私は洗面器に汲み置きしていた水で顔を洗った。 氷が張っている。 冷たいを通り越して痛い。 だが、その痛みが眠気を強制的に吹き飛ばしてくれた。

支給された制服に袖を通す。 制服と言っても、それは雑用係専用の、麻袋を縫い合わせたようなゴワゴワしたワンピースだ。 色は灰色。 汚れが目立たないように、という配慮だろうが、私の目には囚人服にしか見えなかった。

「よし」

鏡の代わりに、窓ガラスに映る自分に向かって頷く。 隈ができているし、髪もパサついている。 でも、目は死んでいない。

「おはよう、アリア。今日も生き残るわよ」

私は自分自身に号令をかけ、階段を駆け下りた。

          ◇

公爵家の朝は、戦争だ。

「おい、そこの新入り! 何をしている、手が止まっているぞ!」 「すみません!」 「廊下の拭き掃除が終わったら、次は窓だ! 一枚でも曇りが残っていたら、夕飯は抜きだと思え!」 「はい!」

私は冷たい水に雑巾を浸し、固く絞って床を這いつくばる。 大理石の床は広大で、果てしなく続いているように見えた。

私の指先はすでに赤く腫れ上がり、あかぎれが切れて血が滲んでいる。 貴族令嬢だった頃は、ペンより重いものを持ったことがなかった手だ。 それが今では、冷水と洗剤と摩擦でボロボロになっている。

「あらあら、ベルンシュタインのお嬢様。ずいぶんと腰が入っていませんこと?」

頭上から、ねっとりとした声が降ってきた。 顔を上げると、メイド長のマーサが仁王立ちで見下ろしていた。 彼女はこの屋敷の古株で、新入りいびりが趣味という厄介な人物だ。

「貴族のプライドが邪魔をして、床にキスするような真似はできませんか? これだから没落貴族は使えないのよ」

周囲のメイドたちが、クスクスと忍び笑いをする。

私は雑巾を握りしめ、ゆっくりと顔を上げた。 ここで言い返せば、クビだ。 公爵との契約期間は一週間。 まだ三日目。 耐えなければならない。

「……ご指導、ありがとうございます、マーサ様。ですが、ご安心ください」

私はニッコリと微笑んだ。 精一杯の皮肉を込めて。

「床への口づけは、マーサ様の靴を舐めるよりはずっと清潔で快適ですので、喜んで励ませていただきます」

「なっ……!?」

マーサが顔を真っ赤にして絶句する。 その隙に、私は猛スピードで雑巾を走らせた。 悔しいなら、仕事で見返すしかない。 私は人間モップと化して、廊下を磨き上げた。

正午。 昼食は固い黒パンと、具のないスープだけ。 味もしないそれを胃袋に流し込み、午後の業務へ。

洗濯、皿洗い、庭の草むしり、馬小屋の掃除。 ありとあらゆる肉体労働が私に降りかかる。 公爵が言った「地獄」というのは、比喩でもなんでもなかった。

夜十時。 ようやく業務が終了する。 他の使用人たちは、死んだようにベッドへ倒れ込む時間だ。 私も体は限界で、足は棒のようになり、背中は悲鳴を上げていた。

けれど。

(まだだ……まだ、終われない)

私は重い体を引きずり、屋根裏部屋には戻らず、本館のとある場所へと向かった。 皆が寝静まった深夜こそが、私の本当の戦いの時間なのだ。

向かった先は、図書室。

公爵邸の図書室は、王立図書館にも匹敵する蔵書数を誇ると言われている。 歴史、政治、経済、魔法理論、そして各国の礼法書。 知識の宝庫だ。

私はこっそりと忍び込み、ランプの明かりだけを頼りに本棚を漁った。

なぜ、こんなことをするのか。 それは、三日間の労働で痛感したからだ。 「雑用係」として優秀であるだけでは、公爵の目には留まらないと。

床をどれだけ綺麗に磨いても、皿をどれだけ速く洗っても、それは「代わりの利く労働力」でしかない。 公爵が必要としているのは、もっと別の価値だ。 あの面接の時、彼が私の「記憶力」に興味を示したこと。 それがヒントだ。

彼は「使える道具」を求めている。 ならば、私はただの雑巾ではなく、辞書であり、参謀であり、外交官になれる道具にならなければならない。

「……あった」

私は一冊の分厚い本を抜き出した。 『周辺諸国貴族名鑑・改訂版』 そしてもう一冊。 『宮廷作法と外交プロトコルの基礎』

私は床に座り込み、ページを開いた。

「……サザランド王国、第三王女、リリアーナ。好物はイチゴのタルト。特技はハープ……」

ブツブツと呟きながら、情報を脳に叩き込む。 文字を目で追うのではない。 ページ全体を画像として脳裏に焼き付ける。 私の特技、瞬間記憶。 これを最大限に活用して、この図書室の知識をすべて私の頭の中に移し替えるのだ。

眠い。 瞼が鉛のように重い。 意識が飛びそうになる。

(寝るな……寝たら、ミラが……)

妹の笑顔を思い浮かべる。 自分の太ももを爪で強くつねる。 鋭い痛みが脳を覚醒させる。

「……次は、帝国の通商条約について……」

ページをめくる音が、静寂な部屋に響く。

「……熱心だな」

不意に、背後から声をかけられた。

「ひっ!?」

私は心臓が飛び出るほど驚き、本を取り落としそうになった。 慌てて振り返ると、そこには影のように佇む人影があった。

執事長のセバスチャンだ。

「せ、セバスチャン様……!」

私は慌てて立ち上がり、最敬礼をした。 見つかった。 無断で図書室に入ったことがバレれば、厳罰ものだ。 クビかもしれない。

「申し訳ありません! 盗むつもりはありませんでした! ただ、少し勉強を……」

「盗むつもりがないのは分かっています。貴女が懐に入れているのは本ではなく、知識だけでしょうから」

セバスチャンは呆れたようにため息をつき、私の手元にある本を覗き込んだ。

「……貴族名鑑に、外交プロトコル。雑用係が読むには、いささか分不相応な書物ですね」

「……はい。ですが、必要だと思いました」

「なぜです?」

「私は公爵閣下に『能力』を売り込みました。ですが、今の私はただの掃除婦です。閣下の役に立つためには、閣下が見ている世界を理解しなければなりません。そのためには、教養が必要です」

私はセバスチャンを真っ直ぐに見つめて言った。

「掃除ができるだけのメイドなら、いくらでもいます。でも、閣下の隣で、各国の要人の顔と名前、そして弱点まで即座に言えるメイドはいません。私は、それになりたいのです」

セバスチャンは、モノクルの奥の瞳を細めた。 私を値踏みしている。 面接の時と同じ目だ。

やがて、彼は小さく、けれど確かに口角を上げた。

「……呆れましたね。三日間、あれほどの重労働をこなしながら、睡眠時間を削って勉強とは。死に急ぐつもりですか?」

「生き残るための投資です」

「投資、ですか」

セバスチャンは近くの椅子に腰を下ろした。

「アリア。貴女のその根性、嫌いではありません。ですが……」

彼は厳しい声色で続けた。

「知識があるだけでは、淑女とは呼べません。貴女の今の立ち居振る舞い……まるで市場の売り子のようです。背筋が曲がっている。言葉遣いに品がない。視線の配り方が粗雑だ」

「うっ……」

痛いところを突かれた。 生活に追われ、なりふり構わず生きてきた弊害だ。

「知識は武器ですが、それを振るう器が錆びついていては、誰も貴女を認めません。特に、我が主であるラインハルト公爵閣下は、美しくないものを極端に嫌います」

「……では、どうすれば」

「どうすれば、ではありません」

セバスチャンが立ち上がり、私の前に立った。 そして、持っていた杖で、私の背中をパンッ! と叩いた。

「いたっ!」

「背筋を伸ばす。顎を引く。視線は常に水平に。……私が教えます」

「え……?」

私は目を丸くした。 今、なんて言った?

「私が貴女に、ラインハルト家の使用人として恥ずかしくない、完璧な所作を叩き込みます。ただし……」

セバスチャンの目が、妖しく光った。

「私の指導は、閣下のそれよりも厳しいですよ? 泣いても叫んでも止めません。睡眠時間はさらに減るでしょう。それでも、やりますか?」

これはチャンスだ。 公爵の側近中の側近である彼から、直々に指導を受けられるなんて。

私は即座に頭を下げた。 いいえ、カーテシーをした。 まだ不格好だけれど、精一杯の敬意を込めて。

「お願いします! 私を……『国一番の淑女』に叩き上げてください!」

「……フッ、大きく出ましたね。いいでしょう、その契約、乗りましょう」

こうして、私の「地獄の教養講座」が開幕した。

          ◇

それからの四日間は、記憶が曖昧になるほど過酷だった。

昼間は通常の雑用業務。 そして深夜二時までは、セバスチャンによるスパルタ教育。 睡眠時間は二時間。 限界なんてとっくに超えていた。

「アリア! 紅茶の注ぎ方がなっていません! 角度が一度ずれている!」

バシンッ! 杖が飛んでくる。

「もう一度!」

「はい!」

「歩き方! 足音がうるさい! 猫のように、空気のように歩きなさい! 頭に乗せた本を落としたら、最初からやり直しです!」

ドサッ。 重い本が頭から落ちる。 拾って、乗せて、歩く。 落ちる。 拾う。 歩く。

足の裏の皮が剥け、血が滲んで靴下を赤く染める。 それでも、私は止まらなかった。

「アリア、サザランド王国の主要輸出品目は?」

「羊毛、鉄鉱石、そしてガラス細工です!」

「正解。では、その関税率は?」

「羊毛が五パーセント、鉄鉱石が八パーセント、ガラス細工は……特例措置で免税です!」

「遅い! 即答しなさい!」

歩く練習をしながら、口頭試問が飛んでくる。 肉体と頭脳、両方を同時に極限まで追い込むトレーニングだ。

意識が朦朧とする。 目の前がチカチカする。

(もう、無理かも……)

弱音が頭をもたげる。 ふらり、と体が傾いた。

「おっと」

倒れそうになった私を、セバスチャンが杖で支えた。

「限界ですか? アリア。諦めますか?」

優しい声ではない。 試すような声だ。

「諦めたら、楽になれますよ。屋根裏部屋で朝までぐっすり眠れます。……その代わり、一週間後には妹さんと共に路頭に迷うことになりますが」

妹。 その言葉が、私の心臓に火をつけた。

「……やり、ます」

私は歯を食いしばり、体勢を立て直した。

「まだ、やれます。……今の歩き方、左足の重心が甘かったです。もう一度、指導をお願いします!」

私は血走った目でセバスチャンを睨みつけた。

セバスチャンは一瞬驚いたような顔をし、それから満足げに頷いた。

「……よろしい。その目です。その目が死なない限り、貴女は伸びる」

彼は懐中時計を取り出し、確認した。

「今夜はここまで。あと二時間で起床の鐘が鳴ります。少しでも休みなさい」

「……ありがとうございました」

私は深くお辞儀をした。 四日前とは見違えるほど、その角度は洗練され始めていた。

          ◇

そして、運命の七日目。 公爵との契約期間の最終日。

私は公爵の執務室に呼ばれた。 一週間前と同じ、重厚な扉の前。 けれど、私の心持ちは全く違っていた。

恐怖はない。 あるのは、静かな闘志だけ。

「入りなさい」

中から公爵の声がする。 私は深呼吸をし、扉を開けた。

「失礼いたします」

音もなく部屋に入り、完璧な角度でカーテシーを行う。 背筋は伸び、視線は伏せすぎず、真っ直ぐすぎず、公爵の喉元あたりを見据える。

公爵は机で書類を見ていたが、手を止めて顔を上げた。 そのアイスブルーの瞳が、私をじっと見つめる。

「……ほう」

公爵が小さく声を漏らした。

「見違えたな。ドブネズミかと思ったが、今は……少しは身ぎれいな猫くらいには見える」

彼なりの最上級の褒め言葉だろうか。 私は表情を崩さず、静かに答えた。

「恐縮です、閣下」

「一週間だ。生き残っただけでなく、セバスチャンを手懐けて教育まで受けたそうだな」

「手懐けたなど、滅相もございません。セバスチャン様の御慈悲にすがったまでです」

「フン。あの堅物が、見込みのない人間に時間を割くわけがない。お前には、それだけの価値があったということだ」

公爵は立ち上がり、窓際へと歩いた。 外には、美しいローズガーデンが広がっている。

「アリア。テストだ」

公爵は外を見ながら言った。

「今日、隣国から通商大使が来る。重要な会談だ。お前には、その席でお茶を淹れてもらう」

「……お茶、ですか?」

「そうだ。ただのお茶くみではない。大使は気難しい男だ。少しでも不手際があれば、交渉は決裂するかもしれん。……できるか?」

これは罠だ。 ただお茶を出すだけなら、ベテランのメイドに任せればいい。 私を指名したということは、そこで何かを「見極め」ようとしているのだ。

私の度胸か。 それとも、この一週間で身につけた所作か。

「……謹んで、お受けいたします」

私は即答した。 断る選択肢などない。

「よろしい。失敗すれば……分かっているな?」

「はい。私の眼球と、妹の心臓。でしたね」

私が平然と言うと、公爵は振り返り、ニヤリと笑った。

「記憶力も良いままだ。……期待しているぞ、アリア」

          ◇

午後二時。 応接室。

そこには、恰幅の良い中年男性――隣国の通商大使と、公爵が向かい合って座っていた。 空気は重い。 どうやら交渉は難航しているらしい。

「ですから、公爵。関税の引き下げは譲れませんな。我が国の特産品であるワインを、もっと安く卸したいのです」

「大使。貴国のワインは質が良いが、我が国のブドウ農家を守るためには、これ以上の引き下げは不可能です」

平行線だ。 大使はイライラして、貧乏ゆすりをしている。

「失礼いたします」

私はタイミングを見計らい、ワゴンを押して入室した。 音もなく近づき、テーブルの横に立つ。

緊張で手が震えそうになる。 でも、セバスチャンの言葉を思い出す。 『手元を見るな。相手の心を見ろ』

私は優雅な手つきでティーポットを持ち上げた。 熱い紅茶が、美しい弧を描いてカップに注がれる。 一滴も跳ねさせない。 完璧な所作。

カップを大使の前に置く。

「……どうぞ」

大使は一瞬、私を見た。 そして、カップに手を伸ばし、香りを嗅いだ。

「……ん? これは……」

大使の表情が変わった。

「これは、我が国の……『アルマン地方』の茶葉か?」

「はい、左様でございます」

私は微笑んで答えた。

「大使の故郷であるアルマン地方では、この時期、新茶の収穫を祝う祭りがあると伺いました。故郷を離れてお仕事に励む大使に、少しでも安らぎを感じていただければと思い、特別にご用意いたしました」

「おお……なんと」

大使の顔が、ほころんだ。

「よく知っているね。そうだ、今頃は村中が茶の香りに包まれる時期だ……懐かしいな」

ピリピリしていた空気が、一瞬で和らいだ。 大使は紅茶を一口飲み、満足げにため息をついた。

「うむ、美味い。淹れ方も完璧だ。……公爵、良い使用人をお持ちですな」

「ええ。自慢の部下です」

公爵が、さらりと答えた。 その言葉に、私の心臓が跳ねた。 自慢の、部下。 彼が、私を認めた。

「さて、公爵。先ほどの話だが……私も少々、頑固になりすぎていたかもしれん。お互いの妥協点を探りましょうか」

「賢明なご判断です、大使」

交渉が動き出した。 たった一杯の紅茶と、私の小さな知識が、国と国との歯車を回したのだ。

私は静かに一礼し、部屋の隅へと下がった。

公爵がチラリと私を見た。 その目は、もう「ゴミ」を見る目ではなかった。 「使える道具」を見る目。 いや、それ以上に……「共犯者」を見るような、微かな熱を帯びていた。

(やった……)

私は震える手を押さえ、心の中でガッツポーズをした。

第一関門突破。 そして、私は手に入れたのだ。 「国一番の淑女」への、最初の一歩となる武器を。

だが、これはまだ序章に過ぎない。 公爵の無理難題は、これからさらに加速していくのだから。

「アリア」

大使が帰った後、公爵が私を呼んだ。

「はい、閣下」

「合格だ。……ついてこい。お前に見せたいものがある」

公爵は執務室の奥にある、隠し扉を開けた。 そこには、地下へと続く暗い階段があった。

「ここから先は、この国の闇だ。お前が本当に『すべて』を私に捧げる覚悟があるなら……踏み込んでこい」

公爵が闇の中で手を差し伸べる。 私は迷わず、その手を取った。

「どこまでも、お供します。……私の主人(マスター)」

闇へと消えていく私たちの背中を、セバスチャンだけが静かに見送っていた。
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