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第4話:地獄の教養講座
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カンカンカンカン!!
早朝四時。 耳をつんざくような鐘の音が、屋根裏部屋に響き渡った。
私は薄い毛布を跳ね除け、反射的に飛び起きた。 板張りの床は冷たく、足の裏から心臓まで凍りつくような冷気が這い上がってくる。
「……ううっ、寒い……」
息を吐くと、白い霧になった。 窓の隙間からは容赦なく北風が吹き込んでいる。 ここは貴族の邸宅の屋根裏部屋。 夏は蒸し風呂、冬は冷凍庫という、まさに使用人のヒエラルキーの最底辺を示す場所だ。
けれど、不満を言っている暇はない。 鐘が鳴ってから十分以内に着替え、中庭に整列しなければ、その日の食事は抜きになる。 それが、このラインハルト公爵家の鉄の掟だ。
私は洗面器に汲み置きしていた水で顔を洗った。 氷が張っている。 冷たいを通り越して痛い。 だが、その痛みが眠気を強制的に吹き飛ばしてくれた。
支給された制服に袖を通す。 制服と言っても、それは雑用係専用の、麻袋を縫い合わせたようなゴワゴワしたワンピースだ。 色は灰色。 汚れが目立たないように、という配慮だろうが、私の目には囚人服にしか見えなかった。
「よし」
鏡の代わりに、窓ガラスに映る自分に向かって頷く。 隈ができているし、髪もパサついている。 でも、目は死んでいない。
「おはよう、アリア。今日も生き残るわよ」
私は自分自身に号令をかけ、階段を駆け下りた。
◇
公爵家の朝は、戦争だ。
「おい、そこの新入り! 何をしている、手が止まっているぞ!」 「すみません!」 「廊下の拭き掃除が終わったら、次は窓だ! 一枚でも曇りが残っていたら、夕飯は抜きだと思え!」 「はい!」
私は冷たい水に雑巾を浸し、固く絞って床を這いつくばる。 大理石の床は広大で、果てしなく続いているように見えた。
私の指先はすでに赤く腫れ上がり、あかぎれが切れて血が滲んでいる。 貴族令嬢だった頃は、ペンより重いものを持ったことがなかった手だ。 それが今では、冷水と洗剤と摩擦でボロボロになっている。
「あらあら、ベルンシュタインのお嬢様。ずいぶんと腰が入っていませんこと?」
頭上から、ねっとりとした声が降ってきた。 顔を上げると、メイド長のマーサが仁王立ちで見下ろしていた。 彼女はこの屋敷の古株で、新入りいびりが趣味という厄介な人物だ。
「貴族のプライドが邪魔をして、床にキスするような真似はできませんか? これだから没落貴族は使えないのよ」
周囲のメイドたちが、クスクスと忍び笑いをする。
私は雑巾を握りしめ、ゆっくりと顔を上げた。 ここで言い返せば、クビだ。 公爵との契約期間は一週間。 まだ三日目。 耐えなければならない。
「……ご指導、ありがとうございます、マーサ様。ですが、ご安心ください」
私はニッコリと微笑んだ。 精一杯の皮肉を込めて。
「床への口づけは、マーサ様の靴を舐めるよりはずっと清潔で快適ですので、喜んで励ませていただきます」
「なっ……!?」
マーサが顔を真っ赤にして絶句する。 その隙に、私は猛スピードで雑巾を走らせた。 悔しいなら、仕事で見返すしかない。 私は人間モップと化して、廊下を磨き上げた。
正午。 昼食は固い黒パンと、具のないスープだけ。 味もしないそれを胃袋に流し込み、午後の業務へ。
洗濯、皿洗い、庭の草むしり、馬小屋の掃除。 ありとあらゆる肉体労働が私に降りかかる。 公爵が言った「地獄」というのは、比喩でもなんでもなかった。
夜十時。 ようやく業務が終了する。 他の使用人たちは、死んだようにベッドへ倒れ込む時間だ。 私も体は限界で、足は棒のようになり、背中は悲鳴を上げていた。
けれど。
(まだだ……まだ、終われない)
私は重い体を引きずり、屋根裏部屋には戻らず、本館のとある場所へと向かった。 皆が寝静まった深夜こそが、私の本当の戦いの時間なのだ。
向かった先は、図書室。
公爵邸の図書室は、王立図書館にも匹敵する蔵書数を誇ると言われている。 歴史、政治、経済、魔法理論、そして各国の礼法書。 知識の宝庫だ。
私はこっそりと忍び込み、ランプの明かりだけを頼りに本棚を漁った。
なぜ、こんなことをするのか。 それは、三日間の労働で痛感したからだ。 「雑用係」として優秀であるだけでは、公爵の目には留まらないと。
床をどれだけ綺麗に磨いても、皿をどれだけ速く洗っても、それは「代わりの利く労働力」でしかない。 公爵が必要としているのは、もっと別の価値だ。 あの面接の時、彼が私の「記憶力」に興味を示したこと。 それがヒントだ。
彼は「使える道具」を求めている。 ならば、私はただの雑巾ではなく、辞書であり、参謀であり、外交官になれる道具にならなければならない。
「……あった」
私は一冊の分厚い本を抜き出した。 『周辺諸国貴族名鑑・改訂版』 そしてもう一冊。 『宮廷作法と外交プロトコルの基礎』
私は床に座り込み、ページを開いた。
「……サザランド王国、第三王女、リリアーナ。好物はイチゴのタルト。特技はハープ……」
ブツブツと呟きながら、情報を脳に叩き込む。 文字を目で追うのではない。 ページ全体を画像として脳裏に焼き付ける。 私の特技、瞬間記憶。 これを最大限に活用して、この図書室の知識をすべて私の頭の中に移し替えるのだ。
眠い。 瞼が鉛のように重い。 意識が飛びそうになる。
(寝るな……寝たら、ミラが……)
妹の笑顔を思い浮かべる。 自分の太ももを爪で強くつねる。 鋭い痛みが脳を覚醒させる。
「……次は、帝国の通商条約について……」
ページをめくる音が、静寂な部屋に響く。
「……熱心だな」
不意に、背後から声をかけられた。
「ひっ!?」
私は心臓が飛び出るほど驚き、本を取り落としそうになった。 慌てて振り返ると、そこには影のように佇む人影があった。
執事長のセバスチャンだ。
「せ、セバスチャン様……!」
私は慌てて立ち上がり、最敬礼をした。 見つかった。 無断で図書室に入ったことがバレれば、厳罰ものだ。 クビかもしれない。
「申し訳ありません! 盗むつもりはありませんでした! ただ、少し勉強を……」
「盗むつもりがないのは分かっています。貴女が懐に入れているのは本ではなく、知識だけでしょうから」
セバスチャンは呆れたようにため息をつき、私の手元にある本を覗き込んだ。
「……貴族名鑑に、外交プロトコル。雑用係が読むには、いささか分不相応な書物ですね」
「……はい。ですが、必要だと思いました」
「なぜです?」
「私は公爵閣下に『能力』を売り込みました。ですが、今の私はただの掃除婦です。閣下の役に立つためには、閣下が見ている世界を理解しなければなりません。そのためには、教養が必要です」
私はセバスチャンを真っ直ぐに見つめて言った。
「掃除ができるだけのメイドなら、いくらでもいます。でも、閣下の隣で、各国の要人の顔と名前、そして弱点まで即座に言えるメイドはいません。私は、それになりたいのです」
セバスチャンは、モノクルの奥の瞳を細めた。 私を値踏みしている。 面接の時と同じ目だ。
やがて、彼は小さく、けれど確かに口角を上げた。
「……呆れましたね。三日間、あれほどの重労働をこなしながら、睡眠時間を削って勉強とは。死に急ぐつもりですか?」
「生き残るための投資です」
「投資、ですか」
セバスチャンは近くの椅子に腰を下ろした。
「アリア。貴女のその根性、嫌いではありません。ですが……」
彼は厳しい声色で続けた。
「知識があるだけでは、淑女とは呼べません。貴女の今の立ち居振る舞い……まるで市場の売り子のようです。背筋が曲がっている。言葉遣いに品がない。視線の配り方が粗雑だ」
「うっ……」
痛いところを突かれた。 生活に追われ、なりふり構わず生きてきた弊害だ。
「知識は武器ですが、それを振るう器が錆びついていては、誰も貴女を認めません。特に、我が主であるラインハルト公爵閣下は、美しくないものを極端に嫌います」
「……では、どうすれば」
「どうすれば、ではありません」
セバスチャンが立ち上がり、私の前に立った。 そして、持っていた杖で、私の背中をパンッ! と叩いた。
「いたっ!」
「背筋を伸ばす。顎を引く。視線は常に水平に。……私が教えます」
「え……?」
私は目を丸くした。 今、なんて言った?
「私が貴女に、ラインハルト家の使用人として恥ずかしくない、完璧な所作を叩き込みます。ただし……」
セバスチャンの目が、妖しく光った。
「私の指導は、閣下のそれよりも厳しいですよ? 泣いても叫んでも止めません。睡眠時間はさらに減るでしょう。それでも、やりますか?」
これはチャンスだ。 公爵の側近中の側近である彼から、直々に指導を受けられるなんて。
私は即座に頭を下げた。 いいえ、カーテシーをした。 まだ不格好だけれど、精一杯の敬意を込めて。
「お願いします! 私を……『国一番の淑女』に叩き上げてください!」
「……フッ、大きく出ましたね。いいでしょう、その契約、乗りましょう」
こうして、私の「地獄の教養講座」が開幕した。
◇
それからの四日間は、記憶が曖昧になるほど過酷だった。
昼間は通常の雑用業務。 そして深夜二時までは、セバスチャンによるスパルタ教育。 睡眠時間は二時間。 限界なんてとっくに超えていた。
「アリア! 紅茶の注ぎ方がなっていません! 角度が一度ずれている!」
バシンッ! 杖が飛んでくる。
「もう一度!」
「はい!」
「歩き方! 足音がうるさい! 猫のように、空気のように歩きなさい! 頭に乗せた本を落としたら、最初からやり直しです!」
ドサッ。 重い本が頭から落ちる。 拾って、乗せて、歩く。 落ちる。 拾う。 歩く。
足の裏の皮が剥け、血が滲んで靴下を赤く染める。 それでも、私は止まらなかった。
「アリア、サザランド王国の主要輸出品目は?」
「羊毛、鉄鉱石、そしてガラス細工です!」
「正解。では、その関税率は?」
「羊毛が五パーセント、鉄鉱石が八パーセント、ガラス細工は……特例措置で免税です!」
「遅い! 即答しなさい!」
歩く練習をしながら、口頭試問が飛んでくる。 肉体と頭脳、両方を同時に極限まで追い込むトレーニングだ。
意識が朦朧とする。 目の前がチカチカする。
(もう、無理かも……)
弱音が頭をもたげる。 ふらり、と体が傾いた。
「おっと」
倒れそうになった私を、セバスチャンが杖で支えた。
「限界ですか? アリア。諦めますか?」
優しい声ではない。 試すような声だ。
「諦めたら、楽になれますよ。屋根裏部屋で朝までぐっすり眠れます。……その代わり、一週間後には妹さんと共に路頭に迷うことになりますが」
妹。 その言葉が、私の心臓に火をつけた。
「……やり、ます」
私は歯を食いしばり、体勢を立て直した。
「まだ、やれます。……今の歩き方、左足の重心が甘かったです。もう一度、指導をお願いします!」
私は血走った目でセバスチャンを睨みつけた。
セバスチャンは一瞬驚いたような顔をし、それから満足げに頷いた。
「……よろしい。その目です。その目が死なない限り、貴女は伸びる」
彼は懐中時計を取り出し、確認した。
「今夜はここまで。あと二時間で起床の鐘が鳴ります。少しでも休みなさい」
「……ありがとうございました」
私は深くお辞儀をした。 四日前とは見違えるほど、その角度は洗練され始めていた。
◇
そして、運命の七日目。 公爵との契約期間の最終日。
私は公爵の執務室に呼ばれた。 一週間前と同じ、重厚な扉の前。 けれど、私の心持ちは全く違っていた。
恐怖はない。 あるのは、静かな闘志だけ。
「入りなさい」
中から公爵の声がする。 私は深呼吸をし、扉を開けた。
「失礼いたします」
音もなく部屋に入り、完璧な角度でカーテシーを行う。 背筋は伸び、視線は伏せすぎず、真っ直ぐすぎず、公爵の喉元あたりを見据える。
公爵は机で書類を見ていたが、手を止めて顔を上げた。 そのアイスブルーの瞳が、私をじっと見つめる。
「……ほう」
公爵が小さく声を漏らした。
「見違えたな。ドブネズミかと思ったが、今は……少しは身ぎれいな猫くらいには見える」
彼なりの最上級の褒め言葉だろうか。 私は表情を崩さず、静かに答えた。
「恐縮です、閣下」
「一週間だ。生き残っただけでなく、セバスチャンを手懐けて教育まで受けたそうだな」
「手懐けたなど、滅相もございません。セバスチャン様の御慈悲にすがったまでです」
「フン。あの堅物が、見込みのない人間に時間を割くわけがない。お前には、それだけの価値があったということだ」
公爵は立ち上がり、窓際へと歩いた。 外には、美しいローズガーデンが広がっている。
「アリア。テストだ」
公爵は外を見ながら言った。
「今日、隣国から通商大使が来る。重要な会談だ。お前には、その席でお茶を淹れてもらう」
「……お茶、ですか?」
「そうだ。ただのお茶くみではない。大使は気難しい男だ。少しでも不手際があれば、交渉は決裂するかもしれん。……できるか?」
これは罠だ。 ただお茶を出すだけなら、ベテランのメイドに任せればいい。 私を指名したということは、そこで何かを「見極め」ようとしているのだ。
私の度胸か。 それとも、この一週間で身につけた所作か。
「……謹んで、お受けいたします」
私は即答した。 断る選択肢などない。
「よろしい。失敗すれば……分かっているな?」
「はい。私の眼球と、妹の心臓。でしたね」
私が平然と言うと、公爵は振り返り、ニヤリと笑った。
「記憶力も良いままだ。……期待しているぞ、アリア」
◇
午後二時。 応接室。
そこには、恰幅の良い中年男性――隣国の通商大使と、公爵が向かい合って座っていた。 空気は重い。 どうやら交渉は難航しているらしい。
「ですから、公爵。関税の引き下げは譲れませんな。我が国の特産品であるワインを、もっと安く卸したいのです」
「大使。貴国のワインは質が良いが、我が国のブドウ農家を守るためには、これ以上の引き下げは不可能です」
平行線だ。 大使はイライラして、貧乏ゆすりをしている。
「失礼いたします」
私はタイミングを見計らい、ワゴンを押して入室した。 音もなく近づき、テーブルの横に立つ。
緊張で手が震えそうになる。 でも、セバスチャンの言葉を思い出す。 『手元を見るな。相手の心を見ろ』
私は優雅な手つきでティーポットを持ち上げた。 熱い紅茶が、美しい弧を描いてカップに注がれる。 一滴も跳ねさせない。 完璧な所作。
カップを大使の前に置く。
「……どうぞ」
大使は一瞬、私を見た。 そして、カップに手を伸ばし、香りを嗅いだ。
「……ん? これは……」
大使の表情が変わった。
「これは、我が国の……『アルマン地方』の茶葉か?」
「はい、左様でございます」
私は微笑んで答えた。
「大使の故郷であるアルマン地方では、この時期、新茶の収穫を祝う祭りがあると伺いました。故郷を離れてお仕事に励む大使に、少しでも安らぎを感じていただければと思い、特別にご用意いたしました」
「おお……なんと」
大使の顔が、ほころんだ。
「よく知っているね。そうだ、今頃は村中が茶の香りに包まれる時期だ……懐かしいな」
ピリピリしていた空気が、一瞬で和らいだ。 大使は紅茶を一口飲み、満足げにため息をついた。
「うむ、美味い。淹れ方も完璧だ。……公爵、良い使用人をお持ちですな」
「ええ。自慢の部下です」
公爵が、さらりと答えた。 その言葉に、私の心臓が跳ねた。 自慢の、部下。 彼が、私を認めた。
「さて、公爵。先ほどの話だが……私も少々、頑固になりすぎていたかもしれん。お互いの妥協点を探りましょうか」
「賢明なご判断です、大使」
交渉が動き出した。 たった一杯の紅茶と、私の小さな知識が、国と国との歯車を回したのだ。
私は静かに一礼し、部屋の隅へと下がった。
公爵がチラリと私を見た。 その目は、もう「ゴミ」を見る目ではなかった。 「使える道具」を見る目。 いや、それ以上に……「共犯者」を見るような、微かな熱を帯びていた。
(やった……)
私は震える手を押さえ、心の中でガッツポーズをした。
第一関門突破。 そして、私は手に入れたのだ。 「国一番の淑女」への、最初の一歩となる武器を。
だが、これはまだ序章に過ぎない。 公爵の無理難題は、これからさらに加速していくのだから。
「アリア」
大使が帰った後、公爵が私を呼んだ。
「はい、閣下」
「合格だ。……ついてこい。お前に見せたいものがある」
公爵は執務室の奥にある、隠し扉を開けた。 そこには、地下へと続く暗い階段があった。
「ここから先は、この国の闇だ。お前が本当に『すべて』を私に捧げる覚悟があるなら……踏み込んでこい」
公爵が闇の中で手を差し伸べる。 私は迷わず、その手を取った。
「どこまでも、お供します。……私の主人(マスター)」
闇へと消えていく私たちの背中を、セバスチャンだけが静かに見送っていた。
早朝四時。 耳をつんざくような鐘の音が、屋根裏部屋に響き渡った。
私は薄い毛布を跳ね除け、反射的に飛び起きた。 板張りの床は冷たく、足の裏から心臓まで凍りつくような冷気が這い上がってくる。
「……ううっ、寒い……」
息を吐くと、白い霧になった。 窓の隙間からは容赦なく北風が吹き込んでいる。 ここは貴族の邸宅の屋根裏部屋。 夏は蒸し風呂、冬は冷凍庫という、まさに使用人のヒエラルキーの最底辺を示す場所だ。
けれど、不満を言っている暇はない。 鐘が鳴ってから十分以内に着替え、中庭に整列しなければ、その日の食事は抜きになる。 それが、このラインハルト公爵家の鉄の掟だ。
私は洗面器に汲み置きしていた水で顔を洗った。 氷が張っている。 冷たいを通り越して痛い。 だが、その痛みが眠気を強制的に吹き飛ばしてくれた。
支給された制服に袖を通す。 制服と言っても、それは雑用係専用の、麻袋を縫い合わせたようなゴワゴワしたワンピースだ。 色は灰色。 汚れが目立たないように、という配慮だろうが、私の目には囚人服にしか見えなかった。
「よし」
鏡の代わりに、窓ガラスに映る自分に向かって頷く。 隈ができているし、髪もパサついている。 でも、目は死んでいない。
「おはよう、アリア。今日も生き残るわよ」
私は自分自身に号令をかけ、階段を駆け下りた。
◇
公爵家の朝は、戦争だ。
「おい、そこの新入り! 何をしている、手が止まっているぞ!」 「すみません!」 「廊下の拭き掃除が終わったら、次は窓だ! 一枚でも曇りが残っていたら、夕飯は抜きだと思え!」 「はい!」
私は冷たい水に雑巾を浸し、固く絞って床を這いつくばる。 大理石の床は広大で、果てしなく続いているように見えた。
私の指先はすでに赤く腫れ上がり、あかぎれが切れて血が滲んでいる。 貴族令嬢だった頃は、ペンより重いものを持ったことがなかった手だ。 それが今では、冷水と洗剤と摩擦でボロボロになっている。
「あらあら、ベルンシュタインのお嬢様。ずいぶんと腰が入っていませんこと?」
頭上から、ねっとりとした声が降ってきた。 顔を上げると、メイド長のマーサが仁王立ちで見下ろしていた。 彼女はこの屋敷の古株で、新入りいびりが趣味という厄介な人物だ。
「貴族のプライドが邪魔をして、床にキスするような真似はできませんか? これだから没落貴族は使えないのよ」
周囲のメイドたちが、クスクスと忍び笑いをする。
私は雑巾を握りしめ、ゆっくりと顔を上げた。 ここで言い返せば、クビだ。 公爵との契約期間は一週間。 まだ三日目。 耐えなければならない。
「……ご指導、ありがとうございます、マーサ様。ですが、ご安心ください」
私はニッコリと微笑んだ。 精一杯の皮肉を込めて。
「床への口づけは、マーサ様の靴を舐めるよりはずっと清潔で快適ですので、喜んで励ませていただきます」
「なっ……!?」
マーサが顔を真っ赤にして絶句する。 その隙に、私は猛スピードで雑巾を走らせた。 悔しいなら、仕事で見返すしかない。 私は人間モップと化して、廊下を磨き上げた。
正午。 昼食は固い黒パンと、具のないスープだけ。 味もしないそれを胃袋に流し込み、午後の業務へ。
洗濯、皿洗い、庭の草むしり、馬小屋の掃除。 ありとあらゆる肉体労働が私に降りかかる。 公爵が言った「地獄」というのは、比喩でもなんでもなかった。
夜十時。 ようやく業務が終了する。 他の使用人たちは、死んだようにベッドへ倒れ込む時間だ。 私も体は限界で、足は棒のようになり、背中は悲鳴を上げていた。
けれど。
(まだだ……まだ、終われない)
私は重い体を引きずり、屋根裏部屋には戻らず、本館のとある場所へと向かった。 皆が寝静まった深夜こそが、私の本当の戦いの時間なのだ。
向かった先は、図書室。
公爵邸の図書室は、王立図書館にも匹敵する蔵書数を誇ると言われている。 歴史、政治、経済、魔法理論、そして各国の礼法書。 知識の宝庫だ。
私はこっそりと忍び込み、ランプの明かりだけを頼りに本棚を漁った。
なぜ、こんなことをするのか。 それは、三日間の労働で痛感したからだ。 「雑用係」として優秀であるだけでは、公爵の目には留まらないと。
床をどれだけ綺麗に磨いても、皿をどれだけ速く洗っても、それは「代わりの利く労働力」でしかない。 公爵が必要としているのは、もっと別の価値だ。 あの面接の時、彼が私の「記憶力」に興味を示したこと。 それがヒントだ。
彼は「使える道具」を求めている。 ならば、私はただの雑巾ではなく、辞書であり、参謀であり、外交官になれる道具にならなければならない。
「……あった」
私は一冊の分厚い本を抜き出した。 『周辺諸国貴族名鑑・改訂版』 そしてもう一冊。 『宮廷作法と外交プロトコルの基礎』
私は床に座り込み、ページを開いた。
「……サザランド王国、第三王女、リリアーナ。好物はイチゴのタルト。特技はハープ……」
ブツブツと呟きながら、情報を脳に叩き込む。 文字を目で追うのではない。 ページ全体を画像として脳裏に焼き付ける。 私の特技、瞬間記憶。 これを最大限に活用して、この図書室の知識をすべて私の頭の中に移し替えるのだ。
眠い。 瞼が鉛のように重い。 意識が飛びそうになる。
(寝るな……寝たら、ミラが……)
妹の笑顔を思い浮かべる。 自分の太ももを爪で強くつねる。 鋭い痛みが脳を覚醒させる。
「……次は、帝国の通商条約について……」
ページをめくる音が、静寂な部屋に響く。
「……熱心だな」
不意に、背後から声をかけられた。
「ひっ!?」
私は心臓が飛び出るほど驚き、本を取り落としそうになった。 慌てて振り返ると、そこには影のように佇む人影があった。
執事長のセバスチャンだ。
「せ、セバスチャン様……!」
私は慌てて立ち上がり、最敬礼をした。 見つかった。 無断で図書室に入ったことがバレれば、厳罰ものだ。 クビかもしれない。
「申し訳ありません! 盗むつもりはありませんでした! ただ、少し勉強を……」
「盗むつもりがないのは分かっています。貴女が懐に入れているのは本ではなく、知識だけでしょうから」
セバスチャンは呆れたようにため息をつき、私の手元にある本を覗き込んだ。
「……貴族名鑑に、外交プロトコル。雑用係が読むには、いささか分不相応な書物ですね」
「……はい。ですが、必要だと思いました」
「なぜです?」
「私は公爵閣下に『能力』を売り込みました。ですが、今の私はただの掃除婦です。閣下の役に立つためには、閣下が見ている世界を理解しなければなりません。そのためには、教養が必要です」
私はセバスチャンを真っ直ぐに見つめて言った。
「掃除ができるだけのメイドなら、いくらでもいます。でも、閣下の隣で、各国の要人の顔と名前、そして弱点まで即座に言えるメイドはいません。私は、それになりたいのです」
セバスチャンは、モノクルの奥の瞳を細めた。 私を値踏みしている。 面接の時と同じ目だ。
やがて、彼は小さく、けれど確かに口角を上げた。
「……呆れましたね。三日間、あれほどの重労働をこなしながら、睡眠時間を削って勉強とは。死に急ぐつもりですか?」
「生き残るための投資です」
「投資、ですか」
セバスチャンは近くの椅子に腰を下ろした。
「アリア。貴女のその根性、嫌いではありません。ですが……」
彼は厳しい声色で続けた。
「知識があるだけでは、淑女とは呼べません。貴女の今の立ち居振る舞い……まるで市場の売り子のようです。背筋が曲がっている。言葉遣いに品がない。視線の配り方が粗雑だ」
「うっ……」
痛いところを突かれた。 生活に追われ、なりふり構わず生きてきた弊害だ。
「知識は武器ですが、それを振るう器が錆びついていては、誰も貴女を認めません。特に、我が主であるラインハルト公爵閣下は、美しくないものを極端に嫌います」
「……では、どうすれば」
「どうすれば、ではありません」
セバスチャンが立ち上がり、私の前に立った。 そして、持っていた杖で、私の背中をパンッ! と叩いた。
「いたっ!」
「背筋を伸ばす。顎を引く。視線は常に水平に。……私が教えます」
「え……?」
私は目を丸くした。 今、なんて言った?
「私が貴女に、ラインハルト家の使用人として恥ずかしくない、完璧な所作を叩き込みます。ただし……」
セバスチャンの目が、妖しく光った。
「私の指導は、閣下のそれよりも厳しいですよ? 泣いても叫んでも止めません。睡眠時間はさらに減るでしょう。それでも、やりますか?」
これはチャンスだ。 公爵の側近中の側近である彼から、直々に指導を受けられるなんて。
私は即座に頭を下げた。 いいえ、カーテシーをした。 まだ不格好だけれど、精一杯の敬意を込めて。
「お願いします! 私を……『国一番の淑女』に叩き上げてください!」
「……フッ、大きく出ましたね。いいでしょう、その契約、乗りましょう」
こうして、私の「地獄の教養講座」が開幕した。
◇
それからの四日間は、記憶が曖昧になるほど過酷だった。
昼間は通常の雑用業務。 そして深夜二時までは、セバスチャンによるスパルタ教育。 睡眠時間は二時間。 限界なんてとっくに超えていた。
「アリア! 紅茶の注ぎ方がなっていません! 角度が一度ずれている!」
バシンッ! 杖が飛んでくる。
「もう一度!」
「はい!」
「歩き方! 足音がうるさい! 猫のように、空気のように歩きなさい! 頭に乗せた本を落としたら、最初からやり直しです!」
ドサッ。 重い本が頭から落ちる。 拾って、乗せて、歩く。 落ちる。 拾う。 歩く。
足の裏の皮が剥け、血が滲んで靴下を赤く染める。 それでも、私は止まらなかった。
「アリア、サザランド王国の主要輸出品目は?」
「羊毛、鉄鉱石、そしてガラス細工です!」
「正解。では、その関税率は?」
「羊毛が五パーセント、鉄鉱石が八パーセント、ガラス細工は……特例措置で免税です!」
「遅い! 即答しなさい!」
歩く練習をしながら、口頭試問が飛んでくる。 肉体と頭脳、両方を同時に極限まで追い込むトレーニングだ。
意識が朦朧とする。 目の前がチカチカする。
(もう、無理かも……)
弱音が頭をもたげる。 ふらり、と体が傾いた。
「おっと」
倒れそうになった私を、セバスチャンが杖で支えた。
「限界ですか? アリア。諦めますか?」
優しい声ではない。 試すような声だ。
「諦めたら、楽になれますよ。屋根裏部屋で朝までぐっすり眠れます。……その代わり、一週間後には妹さんと共に路頭に迷うことになりますが」
妹。 その言葉が、私の心臓に火をつけた。
「……やり、ます」
私は歯を食いしばり、体勢を立て直した。
「まだ、やれます。……今の歩き方、左足の重心が甘かったです。もう一度、指導をお願いします!」
私は血走った目でセバスチャンを睨みつけた。
セバスチャンは一瞬驚いたような顔をし、それから満足げに頷いた。
「……よろしい。その目です。その目が死なない限り、貴女は伸びる」
彼は懐中時計を取り出し、確認した。
「今夜はここまで。あと二時間で起床の鐘が鳴ります。少しでも休みなさい」
「……ありがとうございました」
私は深くお辞儀をした。 四日前とは見違えるほど、その角度は洗練され始めていた。
◇
そして、運命の七日目。 公爵との契約期間の最終日。
私は公爵の執務室に呼ばれた。 一週間前と同じ、重厚な扉の前。 けれど、私の心持ちは全く違っていた。
恐怖はない。 あるのは、静かな闘志だけ。
「入りなさい」
中から公爵の声がする。 私は深呼吸をし、扉を開けた。
「失礼いたします」
音もなく部屋に入り、完璧な角度でカーテシーを行う。 背筋は伸び、視線は伏せすぎず、真っ直ぐすぎず、公爵の喉元あたりを見据える。
公爵は机で書類を見ていたが、手を止めて顔を上げた。 そのアイスブルーの瞳が、私をじっと見つめる。
「……ほう」
公爵が小さく声を漏らした。
「見違えたな。ドブネズミかと思ったが、今は……少しは身ぎれいな猫くらいには見える」
彼なりの最上級の褒め言葉だろうか。 私は表情を崩さず、静かに答えた。
「恐縮です、閣下」
「一週間だ。生き残っただけでなく、セバスチャンを手懐けて教育まで受けたそうだな」
「手懐けたなど、滅相もございません。セバスチャン様の御慈悲にすがったまでです」
「フン。あの堅物が、見込みのない人間に時間を割くわけがない。お前には、それだけの価値があったということだ」
公爵は立ち上がり、窓際へと歩いた。 外には、美しいローズガーデンが広がっている。
「アリア。テストだ」
公爵は外を見ながら言った。
「今日、隣国から通商大使が来る。重要な会談だ。お前には、その席でお茶を淹れてもらう」
「……お茶、ですか?」
「そうだ。ただのお茶くみではない。大使は気難しい男だ。少しでも不手際があれば、交渉は決裂するかもしれん。……できるか?」
これは罠だ。 ただお茶を出すだけなら、ベテランのメイドに任せればいい。 私を指名したということは、そこで何かを「見極め」ようとしているのだ。
私の度胸か。 それとも、この一週間で身につけた所作か。
「……謹んで、お受けいたします」
私は即答した。 断る選択肢などない。
「よろしい。失敗すれば……分かっているな?」
「はい。私の眼球と、妹の心臓。でしたね」
私が平然と言うと、公爵は振り返り、ニヤリと笑った。
「記憶力も良いままだ。……期待しているぞ、アリア」
◇
午後二時。 応接室。
そこには、恰幅の良い中年男性――隣国の通商大使と、公爵が向かい合って座っていた。 空気は重い。 どうやら交渉は難航しているらしい。
「ですから、公爵。関税の引き下げは譲れませんな。我が国の特産品であるワインを、もっと安く卸したいのです」
「大使。貴国のワインは質が良いが、我が国のブドウ農家を守るためには、これ以上の引き下げは不可能です」
平行線だ。 大使はイライラして、貧乏ゆすりをしている。
「失礼いたします」
私はタイミングを見計らい、ワゴンを押して入室した。 音もなく近づき、テーブルの横に立つ。
緊張で手が震えそうになる。 でも、セバスチャンの言葉を思い出す。 『手元を見るな。相手の心を見ろ』
私は優雅な手つきでティーポットを持ち上げた。 熱い紅茶が、美しい弧を描いてカップに注がれる。 一滴も跳ねさせない。 完璧な所作。
カップを大使の前に置く。
「……どうぞ」
大使は一瞬、私を見た。 そして、カップに手を伸ばし、香りを嗅いだ。
「……ん? これは……」
大使の表情が変わった。
「これは、我が国の……『アルマン地方』の茶葉か?」
「はい、左様でございます」
私は微笑んで答えた。
「大使の故郷であるアルマン地方では、この時期、新茶の収穫を祝う祭りがあると伺いました。故郷を離れてお仕事に励む大使に、少しでも安らぎを感じていただければと思い、特別にご用意いたしました」
「おお……なんと」
大使の顔が、ほころんだ。
「よく知っているね。そうだ、今頃は村中が茶の香りに包まれる時期だ……懐かしいな」
ピリピリしていた空気が、一瞬で和らいだ。 大使は紅茶を一口飲み、満足げにため息をついた。
「うむ、美味い。淹れ方も完璧だ。……公爵、良い使用人をお持ちですな」
「ええ。自慢の部下です」
公爵が、さらりと答えた。 その言葉に、私の心臓が跳ねた。 自慢の、部下。 彼が、私を認めた。
「さて、公爵。先ほどの話だが……私も少々、頑固になりすぎていたかもしれん。お互いの妥協点を探りましょうか」
「賢明なご判断です、大使」
交渉が動き出した。 たった一杯の紅茶と、私の小さな知識が、国と国との歯車を回したのだ。
私は静かに一礼し、部屋の隅へと下がった。
公爵がチラリと私を見た。 その目は、もう「ゴミ」を見る目ではなかった。 「使える道具」を見る目。 いや、それ以上に……「共犯者」を見るような、微かな熱を帯びていた。
(やった……)
私は震える手を押さえ、心の中でガッツポーズをした。
第一関門突破。 そして、私は手に入れたのだ。 「国一番の淑女」への、最初の一歩となる武器を。
だが、これはまだ序章に過ぎない。 公爵の無理難題は、これからさらに加速していくのだから。
「アリア」
大使が帰った後、公爵が私を呼んだ。
「はい、閣下」
「合格だ。……ついてこい。お前に見せたいものがある」
公爵は執務室の奥にある、隠し扉を開けた。 そこには、地下へと続く暗い階段があった。
「ここから先は、この国の闇だ。お前が本当に『すべて』を私に捧げる覚悟があるなら……踏み込んでこい」
公爵が闇の中で手を差し伸べる。 私は迷わず、その手を取った。
「どこまでも、お供します。……私の主人(マスター)」
闇へと消えていく私たちの背中を、セバスチャンだけが静かに見送っていた。
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