「何の取り柄もない姉より、妹をよこせ」と婚約破棄されましたが、妹を守るためなら私は「国一番の淑女」にでも這い上がってみせます

放浪人

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第5話:最初の「武器」

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地下への階段を降りきった先には、冷んやりとした空気が漂う石造りの広間があった。

そこは、まるで巨大な金庫の中のようだった。 壁一面に埋め込まれた無数の引き出し。 それぞれに真鍮のプレートが貼られ、日付と個人名らしきものが刻まれている。

「ここは……?」

私の問いに、前を歩くクラウス公爵が足を止めずに答える。

「『影の書庫』だ。我がラインハルト家が代々収集してきた、この国の貴族、王族、豪商、そして他国の要人たちの『秘密』が眠っている」

「秘密……」

「横領、密輸、不倫、殺人教唆、裏帳簿。表には出せない汚泥のような真実だ。これが私の力の源泉であり、同時にこの国を裏から支える楔(くさび)でもある」

公爵は一つの引き出しに手をかけ、愛おしそうに撫でた。

「平和とは、綺麗な言葉や理想だけで保たれるものではない。誰かが泥を被り、誰かの喉元にナイフを突きつけておくことで、初めて均衡が保たれる。私はそのナイフの柄を握っているに過ぎない」

彼は振り返り、氷のような瞳で私を射抜いた。

「アリア。お前が私の『道具』になるということは、この薄汚い泥の中に手を突っ込むということだ。綺麗なドレスを着てお茶を飲むだけの令嬢には戻れない。……それでも、踏み込むか?」

試されている。 この人は、常に私を試す。 崖っぷちに立たせ、落ちるか、飛ぶか、それを見極めようとしている。

私は迷わず一歩前に出た。

「泥なら、もう全身に被っています。今さら指先が汚れるくらい、どうということはありません」

「……フッ。言うようになったな」

公爵は満足げに口元を歪めると、懐から一枚の羊皮紙を取り出し、私に放った。

「受け取れ」

「これは?」

「小切手だ。金貨二千枚分。王都中央銀行の、私の個人口座から引き出せるようにサインしてある」

心臓が跳ね上がった。 震える手で羊皮紙を開く。 そこには確かに、夢にまで見た金額と、公爵の流麗な署名があった。

「これで……」

「カミロへの借金は返せる。妹も守れるだろう。約束は守ったぞ」

「……ありがとうございます、閣下!」

私はその場で深く頭を下げた。 涙が出そうだったが、こらえた。 ここで泣いては、ただの弱い女に戻ってしまう。

「礼は仕事で返せ。明日からお前の業務が変わる。雑用係は卒業だ」

「では、私は……」

「私の『見習い秘書』として動いてもらう。表向きはただのお茶汲みだが、裏では私の目となり耳となれ。……まずは、この書庫にある主要な貴族の『弱み』をすべて頭に叩き込め。期限は三日だ」

「み、三日!? この量をですか!?」

見渡す限りの引き出し。数千はあるだろう。

「お前の記憶力なら可能だろう? それとも、ハッタリだったか?」

意地悪な笑みを浮かべる公爵。 私は羊皮紙を懐にしまい、顔を上げた。

「……やってみせます。私の脳みそがパンクするのが先か、閣下の秘密が尽きるのが先か、勝負ですね」

「威勢だけはいいな。……死ぬ気で励め」

公爵は踵を返し、闇の中へと消えていった。

残された私は、膨大な情報の海を前に、武者震いをした。 これは地獄だ。 でも、希望のある地獄だ。

「見てなさい……全部、私の血肉にしてやるわ」

私は一番端の引き出しに手をかけた。

          ◇

それから三日間。 私は文字通り、不眠不休で情報を貪った。

侯爵家の隠し子騒動。 伯爵夫人の浪費癖。 大臣の裏金疑惑。 騎士団長の賭博借金。

ドロドロとした欲望と裏切りの記録。 普通なら気分が悪くなるような内容だが、今の私にはそれが煌めく「弾丸」に見えた。 これを知っていれば、誰もが私にひれ伏す。 そんな万能感すら覚え始めた頃――事件は起きた。

          ◇

公爵邸の正面玄関が、物々しい空気に包まれていた。 多数の馬車と、武装した護衛兵たち。 彼らが纏う鎧は、この国のものとは違う。 黒鉄(くろがね)色に輝く、重厚な甲冑。

北の軍事大国、「ガリア帝国」の外交団だ。

「おい、急げ! 粗相のないようにしろ!」

セバスチャンが珍しく声を張り上げ、使用人たちに指示を飛ばしている。 私も新しい制服――雑用係のボロ布ではなく、シンプルだが仕立ての良い紺色のメイド服に身を包み、広間の隅に控えていた。

今日行われるのは、両国の国境付近にある鉱山地帯の採掘権を巡る交渉だという。 一歩間違えれば戦争にもなりかねない、極めて重要な会談だ。

「アリア、お前は控えの間で待機だ。余計なことはするなよ」

通りがかりにセバスチャンが釘を刺す。

「はい、承知しております」

私は殊勝に頷いた。 だが、胸の内では別のことを考えていた。 (ガリア帝国……『影の書庫』によれば、今回の代表団を率いるバルバロス将軍は、極度の女嫌いで有名。そして、大の酒好き……)

知識が、頭の中でリンクする。

やがて、重い足音と共に代表団が入ってきた。 先頭を歩くのは、熊のような大男。 顔には古傷があり、猛禽類のような鋭い眼光を放っている。 彼がバルバロス将軍だ。

出迎えた公爵は、完璧な礼儀で彼らを出迎えた。 だが、将軍は挨拶もそこそこに、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「フン。相変わらず軟弱な国だ。空気まで甘ったるい」

ガリア語だ。 独特の喉を鳴らすような発音。 公爵はガリア語も堪能だと聞いているが、公式の場では通訳を介するのがルールだ。

ところが。

「……おい、通訳はどうした?」

公爵が低い声でセバスチャンに問う。

「そ、それが……急な腹痛で倒れまして……代わりの者が今、こちらに向かっておりますが、到着まであと一時間はかかると……」

「一時間だと? この短気な将軍を待たせるつもりか?」

公爵の眉間にシワが寄る。 最悪のタイミングだ。 これも敵対派閥の妨害工作かもしれない。

「なんだ、通訳も用意できんのか? 我々を愚弄しているのか!」

バルバロス将軍が声を荒らげた。 通訳がいなくても、怒っていることくらいは誰にでも分かる。

「将軍、少々トラブルがありまして。すぐに代わりを用意させます」

公爵が流暢なガリア語で答える。 しかし、将軍の機嫌は直らない。

「貴様が喋れるのは知っている。だが、対等な交渉の場において、当事者が通訳を兼ねるなど聞いたことがない! これは外交儀礼への侮辱だ! 帰らせてもらう!」

将軍が踵を返そうとする。 まずい。 ここで帰られたら、交渉決裂どころか、外交問題に発展する。 公爵のメンツも丸潰れだ。

公爵の目が、凍てつくような殺気を帯びる。 無理やり引き止めるか? いや、それでは火に油だ。

その時。 私の足が、勝手に動いていた。

「お待ちください、閣下!」

凛とした声が、広間に響き渡った。 全員の視線が、私に集中する。

「……アリア?」

公爵が目を見開く。 セバスチャンが青ざめる。 「馬鹿な、下がれ!」というセバスチャンの声が聞こえたが、私は止まらなかった。

私は将軍の前に進み出ると、ガリア式の軍礼――右拳を左胸に当てるポーズ――を完璧な角度で決めた。

「バルバロス将軍閣下。遠路はるばるのご来訪、心より歓迎いたします。本日の通訳を務めさせていただきます、アリアと申します」

私の口から出たのは、滑らかなガリア語だった。

将軍が足を止め、怪訝そうに私を見下ろした。

「……女? しかも、メイドか? 貴様のような小娘に、我々の言葉が分かるのか」

「はい。私の亡き母はガリアの北地方出身でして、幼い頃より子守唄代わりにガリアの英雄譚を聞いて育ちました」

嘘だ。 母は生粋の王国貴族だ。 ガリア語は、この三日間、図書室の辞書と文法書を丸暗記して叩き込んだものだ。 発音は、たまたま屋敷にいたガリア出身の庭師に、休憩時間にしつこく話しかけて矯正してもらった。 「北地方出身」という設定にしたのは、私の方言(訛り)をごまかすためだ。

「ほう……北の出身か。どおりで、懐かしい訛りがあると思った」

将軍の表情が、わずかに緩んだ。 賭けに勝った。

「公爵閣下は、将軍との会談を何よりも重要視しており、本来の通訳では力不足と判断されました。そこで、将軍の故郷の言葉を解する私ごときを、あえて抜擢されたのです」

私は公爵の方をチラリと見た。 公爵は無表情を貫いているが、その目は「うまくやれ」と語っていた。

「私の未熟なガリア語が、将軍の偉大さを損なうことがあれば、その場で首を刎ねていただいて構いません。……どうか、お席についていただけないでしょうか」

私は深く頭を下げた。 首を差し出す覚悟。 それが、武人である将軍の琴線に触れたようだ。

「……いい度胸だ。女にしておくには惜しい」

将軍は豪快に笑い、公爵に向き直った。

「ラインハルト公。面白い隠し玉を持っていたな。よかろう、話を聞こうではないか」

          ◇

会談は、応接室で行われた。 私は公爵と将軍の間に立ち、言葉の橋渡しを行った。

「我が帝国は、鉄鉱石の関税撤廃を要求する」

「撤廃は無理です。我が国の鍛冶ギルドが反発します」

内容はシビアなものだった。 専門用語が飛び交う。 だが、私の頭の中には『影の書庫』の知識がある。 両国の経済状況、将軍の性格、裏の事情。 それらをフル活用し、単なる直訳ではなく、相手の感情を逆撫でしない「意訳」を瞬時に組み立てていく。

「将軍は『撤廃しろ』と仰っていますが、本音では『七割減』あたりが落とし所かと。彼の領地では最近、ストライキが起きているそうですから、成果を焦っているようです」

私は公爵に耳打ちをする。 公爵は眉一つ動かさず、小さく頷く。

「ならば、こう伝えろ。『撤廃はできないが、技術提携という形で、加工済みの鉄製品を優先的に輸出する枠を設ける』と」

「かしこまりました」

私がそれを伝えると、将軍は腕を組み、考え込んだ。

「……技術提携か。悪くない話だ。だが、それだけでは部下への示しがつかん」

将軍がテーブルを指先で叩く。 空気が張り詰める。

その時、私は思い出した。 『影の書庫』にあった、将軍の個人的な秘密を。

私はお茶を注ぎ足すふりをして、将軍に近づいた。

「将軍閣下。……余談ではございますが、この屋敷の地下には、百年物の『火竜の血(ドラゴンブラッド)』という希少なワインが眠っているそうです」

「なに? 『火竜の血』だと?」

将軍の目が輝いた。 酒好きの彼にとって、それは伝説の美酒だ。

「公爵閣下は、もし本日の交渉が円滑にまとまりましたら、そのワインを祝い酒として開けようと考えておられるようです。……あくまで、私の独り言ですが」

これは公爵への無茶振りだ。 そんなワインがあるかどうか、私は知らない。 でも、公爵の財力なら、似たようなものはあるはずだ。

将軍はゴクリと喉を鳴らし、公爵を見た。

「……公爵。貴殿はなかなか、話の分かる男のようだな」

公爵は何のことか分かっていないはずだが、私の目配せを見て、即座に話を合わせた。

「ええ。友と酌み交わす酒は、古ければ古いほど良いと言いますからな」

「ガハハ! 違いない!」

将軍は上機嫌でテーブルを叩いた。

「よかろう! その条件で手を打つ! 細かい詰めは部下に任せるとして、我々は酒宴と行こうではないか!」

          ◇

嵐のような数時間が過ぎた。 将軍たちは、公爵秘蔵のヴィンテージワイン(セバスチャンが慌てて用意した最高級品)に舌鼓を打ち、千鳥足で帰っていった。

夜の静寂が戻った応接室。 残されたのは、私と公爵だけだった。

私は、どっと疲れが出て、その場に座り込みそうになった。 だが、まだ終わっていない。 公爵の「審判」が残っている。

「……アリア」

公爵が、ワイングラスを片手に私を呼んだ。 その声には、怒りは感じられない。 だが、油断はできない。

「はい、閣下」

「今の発言、誰の許可を得てした?」

公爵が私の前に立ち、見下ろす。 「火竜の血」の件だ。 勝手な約束を取り付けたことへの追求。

私は背筋を伸ばし、公爵を真っ直ぐに見上げた。

「許可は得ておりません」

「……」

「ですが、閣下の利益を守るためです。あの場面、将軍の虚栄心と欲望を満たすには、理屈よりも感情に訴える必要がありました。結果として、関税撤廃という最悪の事態を回避し、技術提携という有利な条件を引き出せました」

言い訳はしない。 結果だけを提示する。 それが、この男に対する唯一の正解だと学んだからだ。

沈黙が流れる。 公爵はグラスの中の赤い液体を見つめ、それからふっと笑った。

「……『火竜の血』なんて酒は、ウチにはないぞ」

「あら。セバスチャン様がお持ちになったのは、ラベルを張り替えたただの古酒でしたか?」

「口の減らない女だ」

公爵はグラスを置き、私の肩に手を置いた。 その手は、冷たいけれど、どこか認めるような重みがあった。

「お前のハッタリに、救われたな」

「……!」

公爵が、私を認めた。 「道具」としてではなく、一人の「戦力」として。

「ガリア語、どこで覚えた?」

「図書室の本と、庭師の爺やからです」

「たった三日でか?」

「死ぬ気でやりましたから」

「……化け物め」

公爵は呆れたように笑い、それから私の顎を指で持ち上げた。

「アリア。そのメイド服は脱げ」

「えっ……」

まさか、ここで? 私が身構えると、公爵は私の額を指でピンと弾いた。

「痛っ!」

「馬鹿な想像をするな。明日から、その服を着る必要はないと言ったんだ」

公爵は机の引き出しから、小さな箱を取り出した。 中には、銀色に輝くバッジが入っていた。 氷の結晶を模した、ラインハルト家の紋章。 その中央には、小さな青い宝石が埋め込まれている。

「これは、公爵家直属の『秘書官』の証だ。これをつけていれば、屋敷のどこへでも入れるし、私の代理として発言する権限も与えられる」

「秘書官……私が?」

「見習いだがな。今日の働きへの報酬だ。……受け取れ」

公爵が私の胸元にバッジをつけてくれた。 冷たい銀の感触が、胸の鼓動と重なる。

「ありがとうございます……閣下」

「勘違いするなよ。権限が増えるということは、それだけ責任も重くなるということだ。次に失敗すれば、眼球と心臓だけでは済まさんぞ」

「はい。肝に銘じます」

私はバッジに手を添え、深く一礼した。 雑用係アリアは、今日で死んだ。 ここからは、氷の公爵の懐刀、アリアとしての人生が始まる。

「さて、アリア。仕事だ」

公爵はすでに切り替えていた。 彼は窓の外、王都の夜景を見据えながら言った。

「来週、王宮で夜会がある」

「夜会、ですか」

「ああ。そこがお前の社交界デビューだ。私のパートナーとして同行しろ」

「えっ!? パートナー!?」

「壁の花避けだ。うるさい有象無象の令嬢どもを追い払うのに、お前のような気の強い番犬はうってつけだろう?」

公爵は意地悪く微笑んだ。

「それに、あの元婚約者……カミロも来るはずだ」

カミロ。 その名を聞いた瞬間、私の中で眠っていた怒りの炎が揺らめいた。

「……分かりました。お供します」

「準備をしておけ。ダンス、マナー、会話術。セバスチャンの特訓は、これからが本番だぞ」

「望むところです」

私は窓ガラスに映る自分を見た。 胸に光る銀のバッジ。 そして、その瞳は、もはや「助けを求める少女」のものではなかった。

獲物を狩る、狼の目だ。

(待っていなさい、カミロ。そして、私を笑った社交界の皆さま)

私はニヤリと笑った。

「倍返し……いえ、百倍返しにして差し上げますわ」

私の復讐劇は、ここから加速する。 公爵という最強の盾と、知識という最強の矛を手にして。
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