「何の取り柄もない姉より、妹をよこせ」と婚約破棄されましたが、妹を守るためなら私は「国一番の淑女」にでも這い上がってみせます

放浪人

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第6話:社交界デビュー

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「……息が、できません」

私は鏡の前で呻き声を上げた。

「我慢なさい、アリア。ウエストをあと二センチ絞らなければ、このラインは出ません」

私の背後で、メイド長のマーサが容赦なくコルセットの紐を締め上げる。 肋骨が軋み、内臓が悲鳴を上げている。

「マーサ様、これは拷問の類いではないでしょうか……?」

「あら、公爵閣下の隣を歩くのですもの。この程度で音を上げてどうしますか。さあ、背筋を伸ばして!」

バシンッ! マーサの手が私の背中を叩く。 痛い。けれど、不思議と悪い気分ではない。

一週間前、私はこの部屋で「ゴミ」扱いされていた。 それが今では、こうして公爵家の威信をかけた「作品」として仕上げられている。 その事実が、私の心の奥底にある自尊心をくすぐるのだ。

「……はい、出来上がりです」

マーサが一歩下がり、満足げに頷いた。

私は恐る恐る鏡を見た。

「……これが、私?」

そこに映っていたのは、疲れ切った没落令嬢ではなかった。

身に纏っているのは、深い夜空のようなミッドナイトブルーのドレス。 装飾は控えめで、レースも宝石も最小限だ。 しかし、その生地は最高級のシルクであり、動くたびに濡れたような光沢を放つ。 あえて派手さを抑えることで、着る人間の「素材」を引き立てる計算がなされていた。

肌は、この数日間の適切な食事と、高級な美容クリーム(セバスチャンが「業務命令です」と言って渡してきた)のおかげで、透き通るような白さを取り戻している。 丁寧に結い上げられたプラチナブロンドの髪には、小さなサファイアの髪飾りが一つだけ。

「悪くありませんね」

入り口で声がした。 セバスチャンだ。 彼は燕尾服に身を包み、手には白い手袋を持っている。

「素材の悪さを、技術と金でカバーした……といったところでしょうか」

「素直に褒めてくださってもよろしくてよ? セバスチャン様」

私が口角を上げて返すと、彼はフンと鼻を鳴らした。

「口答えする余裕があるなら大丈夫でしょう。……さあ、参りましょう。閣下がお待ちです」

私は深呼吸をし、ヒールの音を響かせて部屋を出た。

          ◇

正面玄関には、王家の紋章が入った漆黒の馬車が待機していた。 その横に、クラウス公爵が立っている。

今日の彼は、正装の軍服姿だった。 黒を基調とした生地に、銀色の刺繍と勲章が輝いている。 腰には儀礼用のサーベル。 その圧倒的な美貌と冷徹なオーラは、夜の闇の中でも発光しているかのようだ。

私が階段を降りていくと、公爵がちらりとこちらを見た。

「……」

無言だ。 何か言ってほしいわけではないが、この沈黙は心臓に悪い。 変だろうか。 やはり、身の丈に合っていないだろうか。

不安がよぎったその時、公爵が短く言った。

「……地味だな」

「っ……!」

やはりか。 私は唇を噛んだ。

「ですが、悪くない。主役は私だ。お前が変に目立って、ハエが寄ってきても困るからな。壁の花としては合格点だ」

公爵はそう言って、私に手を差し出した。

「乗れ。戦場へ向かうぞ」

その言葉は冷たいが、差し出された手は紳士的だった。 私はその手を借りて、馬車に乗り込んだ。

これはデートではない。 出撃なのだ。

          ◇

馬車の中は、重苦しい沈黙に包まれていた。 車輪が石畳を叩く音だけが響く。

「アリア。今日の作戦を確認する」

公爵が腕を組み、目を閉じたまま口を開く。

「今日の夜会は、国王陛下の誕生祝賀会だ。国内の有力貴族は全員集まる。当然、私に媚びを売ろうとする連中や、娘を押し付けようとする狸親父どももな」

「はい。私の役目は、それら『有象無象』を閣下に近づけないこと。物理的な壁となり、時には言葉の盾となること。ですね?」

「そうだ。私は陛下との密談がある。その前後、無駄な挨拶に時間を割きたくない。……お前の頭には、招待客リストが入っているな?」

「もちろんです。参加予定者三百名。名前、爵位、派閥、そして『弱点』まで、すべて頭に入っています」

私は自分のこめかみを指先でトントンと叩いた。 この数日、またしても睡眠時間を削って詰め込んだデータだ。

「よろしい。……それと」

公爵が目を開け、私を見た。

「カミロ・バンデラスも来る」

ピクリ、と私の肩が反応する。

「奴は最近、新しい事業に手を出して失敗し、金策に走っているようだ。おそらく、私にも接触してくるだろう」

「……あの方が、閣下に?」

「ああ。お前を捨てて、お前の妹を狙っている男だ。私の前に現れたら、どうする?」

試されている。 私情を挟んで取り乱すか、それとも「公爵のパートナー」として振る舞えるか。

私は扇をパチリと開き、口元を隠して微笑んだ。

「ご心配には及びません、閣下。……ゴミの処理は、掃除婦の仕事ですから」

公爵は私の目を見て、ニヤリと笑った。

「その意気だ。……到着したぞ」

          ◇

王宮の大広間は、光の洪水だった。

天井からは巨大なシャンデリアが幾つも吊り下げられ、数千本の蝋燭が昼間のような明るさを作り出している。 生演奏のワルツ。 色とりどりのドレスを着た貴婦人たち。 宝石の輝き。 香水の匂いと、料理の香り、そして人々の欲望が入り混じった、むせ返るような熱気。

「ラインハルト公爵閣下、ご到着!」

入り口の衛兵が高らかに告げる。

その瞬間、ざわめきがピタリと止まった。 数百人の視線が、一斉に入り口――つまり、私たちに向けられる。

畏怖、羨望、嫉妬、好奇心。 それらが物理的な圧力となって押し寄せてくる。 普通の令嬢なら、この視線だけで足がすくむだろう。

けれど。

「……行くぞ」

公爵が、私の腰に手を回した。 その手から、冷たい力が伝わってくる。 『背筋を伸ばせ』という無言の命令だ。

「はい」

私は顎を引き、公爵に寄り添って歩き出した。 カツ、カツ、カツ。 私たちの足音に合わせて、人垣が海のように割れていく。

「あれは……ラインハルト公爵?」 「相変わらず、氷の彫像のような美しさだわ……」 「おい、隣にいる女は誰だ?」 「見たことのない顔だな。どこかの国の姫君か?」 「いや、あのドレス……地味だが、品がある。どこの名家だ?」

ひそひそ話が聞こえてくる。 まだ、誰も私が「あの没落したベルンシュタイン家の娘」だとは気づいていないようだ。 磨き上げられた所作と、公爵という圧倒的なブランドが、私を別人のように見せているのだ。

(気持ちいい……)

私は内心で舌を出した。 一週間前、私を門前払いした連中が、今は私を「高貴な女性」として見ている。 人間など、所詮は外見と雰囲気に騙される生き物なのだ。

私たちは会場の中央に進み、国王陛下への挨拶を済ませた。 そして、そこからが本当の戦いだった。

「おお、ラインハルト公! お久しぶりですな!」

「閣下! 先日の件ですが……」

「まあ、閣下! 今夜は一段と素敵ですわ!」

挨拶が終わった瞬間、公爵を目がけて貴族たちが群がってきた。 まるで砂糖に群がる蟻だ。 公爵の眉間に、わずかにシワが寄る。 不快指数のサインだ。

私の出番だ。

私はすっと公爵の前に半歩出た。 扇を優雅に使い、物理的な距離を作る。

「皆様、恐れ入りますが、閣下はこれよりご公務の予定がございます。ご挨拶は手短にお願いいたします」

鈴を転がすような、しかし凛とした声で制する。

「なんだ君は? 私は公爵と話があるんだ! どきたまえ!」

肥満体の男が、私を睨みつけた。 男爵だ。 私の脳内データベースが瞬時に検索結果を弾き出す。 『ポルク男爵。領地経営は赤字。最近、違法な森林伐採で告発寸前』

私は男爵に向かって、慈母のような微笑みを向けた。

「ポルク男爵様でいらっしゃいますね。……森の木々は、今年も豊かでしょうか? 最近は『自然保護』の機運が高まっておりますゆえ、あまり無理な伐採は……監査局の耳に入ると厄介ですわよ?」

「なっ……!?」

男爵の顔が青ざめた。 なぜそれを知っている、という顔だ。

「さあ、あちらに美味しいお酒があるようですわ。喉を潤してきてはいかがですか?」

「う、うむ……そうさせてもらおう……」

男爵は逃げるように去っていった。

次は、派手なドレスを着た夫人だ。 『ラマン伯爵夫人。若いツバメにお金を貢いでいる』

「まあ、ラマン伯爵夫人。そのネックレス、素敵ですわね。……先日、宝石商の『青い鳥』でご購入されたものでしょうか? あそこの若い店員さんは、接客がお上手だと評判ですものね」

「えっ……ご、ご存知なの……?」

夫人は顔を赤くして、扇で顔を隠して後退った。

次。 『貿易商のダルマ氏。脱税疑惑あり』

「ダルマ様、帳簿の整理はお済みですか? 数字は嘘をつきませんから、お気をつけあそばせ」

私は次々と襲来する「敵」を、笑顔と一言の毒で撃退していった。 誰も傷つけず、騒ぎにもせず、ただ「私にはあなたの秘密が見えていますよ」と匂わせるだけで十分だ。 彼らは脛に傷を持つ者ほど、その傷に触れられることを恐れる。

公爵は私の背後で、優雅にグラスを傾けていた。 一言も発しない。 だが、その目が「やるじゃないか」と笑っているのが分かった。

「……ふう」

一通りの迎撃を終え、私は小さく息を吐いた。 喉が渇いた。

「アリア」

公爵が、自分のグラスを私に差し出した。

「飲め。私の飲みかけだが、毒見はしてある」

「……間接キスになりますが、よろしいのですか?」

「自意識過剰だ。喉が渇いて死なれると困るだけだ」

私はありがたくグラスを受け取り、一口だけ口をつけた。 冷たいシャンパンが、乾いた喉に染み渡る。

その時だった。

「……アリア?」

聞き覚えのある、粘着質な声。 背筋が凍るような、それでいて怒りで血が沸騰するような声。

ゆっくりと振り返る。

そこには、豪奢なスーツを着込んだカミロ・バンデラスが立っていた。 その隣には、彼の父親である子爵もいる。

「やはり、アリアか……! 見間違えるはずがない、その貧乏くさい顔!」

カミロが大きな声を上げた。 周囲の視線が集まる。

「カミロ様。……お久しぶりです」

私は努めて冷静に、グラスをウェイターに返した。 手は震えていない。 今の私には、公爵という後ろ盾がある。 そして何より、私自身がもう、あの頃の弱虫ではない。

「貴様、ここで何をしている! 招待状もないくせに、紛れ込んだのか!?」

カミロが私に詰め寄ろうとする。 だが、公爵が半歩前に出て、私を背に庇うような位置に立った。 その威圧感に、カミロがたじろぐ。

「……ラインハルト公爵……?」

カミロが呆然と呟く。 彼にとって、公爵は雲の上の存在だ。

「カミロ・バンデラス子爵令息だな」

公爵が氷点下の声で言った。 カミロは直立不動になり、冷や汗を流す。

「は、はい! お目にかかれて光栄です! 実は、公爵閣下に新しい事業の出資を……」

「その女は、私の連れだ」

公爵はカミロの言葉を遮り、言い放った。

「私のパートナーに対し、『貧乏くさい』とはどういう意味だ? それは、私の審美眼が狂っていると言いたいのか?」

「へ……?」

カミロの思考が追いついていないようだ。 アリア=元婚約者の貧乏令嬢。 公爵の連れ=高貴な女性。 この二つが、彼の頭の中でリンクしないのだ。

「い、いえ! 滅相もございません! ですが、そいつは……そいつは、我が家が金を貸している没落伯爵の娘でして……その、泥棒猫のような女で……」

「泥棒猫?」

私が口を開いた。 扇を閉じる音が、パチンと響く。

「カミロ様。人聞きの悪いことを仰らないでください。私は泥棒などしておりません。……泥棒をしているのは、どちらでしょう?」

「な、なんだと!?」

「バンデラス商会。先月の決算報告書を拝見しました。在庫の水増し計上によって、銀行から不正融資を受けていますわね? これは立派な詐欺罪……つまり、銀行のお金を盗んでいるのと同じではありませんか?」

「っ!? な、なぜそれを……!」

カミロの顔色が、赤から白、そして土気色へと変わっていく。

「デタラメを言うな! 証拠はあるのか!」

「証拠なら、公爵家の調査部が握っております。……ねえ、閣下?」

私が振り返ると、公爵は楽しそうに頷いた。

「ああ。明日にでも、監査局に提出する予定だったな」

「ひっ……!!」

カミロの父親が、悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。 不正がバレれば、子爵家は終わりだ。

カミロは震える指で私を指差した。

「き、貴様……! アリアごときが、調子に乗るなよ! 借金はどうした! 金がなければ、妹は……!」

「金なら、あります」

私は懐から、先日公爵にもらった小切手の写しを取り出し、カミロの目の前に突きつけた。

「金貨二千枚。すでに弁護士を通じて、貴方の家のメインバンクに供託してあります。手続きは完了していますので、借用書は無効です」

「に、二千枚……!?」

カミロが目を見開く。 信じられないという顔だ。

「どこでそんな金を……! 体を売ったのか!?」

「ええ、売りました」

私は堂々と言った。

「私の才能と、人生と、魂を、この国で最も偉大な方に高く買っていただきましたの。安売りしかできない貴方とは違います」

「くっ……!」

カミロが逆上し、私に手を上げようとした。 その瞬間。

バシィッ!!

乾いた音が響いた。 私が扇で、カミロの手を叩き落とした音だ。

「……触らないでください。その手は、汚れています」

私は冷ややかに見下ろした。 今のカミロは、ただの哀れな男にしか見えなかった。 かつて愛した面影など、微塵もない。

「失せろ」

公爵が低い声でトドメを刺した。 その全身から放たれる殺気に、カミロと父親は悲鳴を上げ、転がるようにして逃げ去っていった。

周囲の貴族たちは、今のやり取りを呆然と見ていた。 そして、ささやきが変わる。

「あの方が、噂のアリア嬢か……」 「氷の公爵が認めた才女……」 「あのバンデラスを一言で撃退するとは……」

評価が、覆った。 「地味な女」から、「公爵にふさわしい猛女」へ。

「……見事だ」

公爵が、私の耳元で囁いた。

「スカッとしましたか?」

「ああ。十年分の便秘が解消した気分だ」

公爵のジョークに、私は思わず吹き出しそうになった。

「さて、アリア。曲が変わった」

オーケストラが、優雅なワルツを奏で始めた。

「踊れるか?」

「セバスチャン様に、足の皮が剥けるほど仕込まれましたから」

「なら、証明してみせろ。お前が『国一番の淑女』への階段を登り始めたことを」

公爵が、うやうやしく手を差し出す。 今度は、馬車の時の「命令」の手ではない。 「誘い」の手だ。

私はその手を取り、最高の笑顔で答えた。

「喜んで。……私のステップについて来られますか? 閣下」

「誰に口を利いている」

私たちはホールの中心へと進み出た。 光と音楽の中、公爵の手が私の背中に添えられる。

ターン。 ドレスの裾が、夜空のように広がる。

私は回る。 かつての自分と決別するために。 そして、妹との約束を果たすために。

カミロに見せた借金返済は、ほんの序章。 私の戦いは、まだ始まったばかりだ。 公爵の腕の中で、私は強く、高く、舞い上がった。

(見ていて、ミラ。お姉ちゃん、今夜は誰よりも綺麗に咲いてみせるわ)

シャンデリアの光が、私の未来を祝福するように眩しく輝いていた。
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