「何の取り柄もない姉より、妹をよこせ」と婚約破棄されましたが、妹を守るためなら私は「国一番の淑女」にでも這い上がってみせます

放浪人

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第7話:情報の支配者

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夜会の翌朝。 私はいつものように早朝四時に目を覚ました。

しかし、以前とは違うことが一つだけある。 屋根裏部屋の硬いベッドではなく、使用人棟にある個室の、ふかふかとは言えないまでも清潔なベッドの上だということだ。

「……夢じゃ、ないわよね」

私は枕元に置かれた銀色のバッジ――『秘書官代理』の記章を手に取り、その冷たい感触を確かめた。

昨夜の出来事は、まるで魔法のようだった。 光り輝くシャンデリア、美しい音楽、そして私の腰を抱いて踊った氷の公爵。 カミロたちの間抜けな顔を思い出すだけで、朝から白湯を三杯は飲めそうなほど気分が良い。

けれど、魔法は十二時で解けるものだ。 今日からはまた、現実という名の戦場が待っている。

私は新しい制服に袖を通し、髪をきっちりとまとめ上げた。 鏡に映る自分に向かって、パンと頬を叩く。

「浮かれている場合じゃないわ。契約は更新されたばかりなんだから」

私はバッジを胸につけ、部屋を出た。

          ◇

公爵の執務室に入ると、すでにクラウス様は机に向かっていた。 この人はいつ寝ているのだろうか。

「おはようございます、閣下」

「……遅い」

クラウス様は顔も上げずに言った。 時計を見ると、まだ六時前だ。

「始業時間は七時のはずですが」

「私の時計では、私が起きた時間が始業時間だ」

理不尽極まりない。 だが、この暴君に仕えると決めたのは私だ。

「承知いたしました。では、今後は閣下の寝室の前にテントでも張って待機いたします」

「……相変わらず、可愛げのない口だ」

クラウス様はようやく顔を上げ、呆れたように、しかし微かに口元を緩めて私を見た。

「昨夜の余韻に浸っている暇はないぞ、アリア。仕事だ」

彼は机の上に積み上げられた、山のような手紙の束を指差した。

「これは……?」

「昨夜の夜会以降、届いた招待状と釣書の山だ。すべてお前宛てのな」

「私宛て、ですか?」

私は手紙の山に近づき、一通を手に取った。 『親愛なるアリア様へ。ぜひ一度、我が家のお茶会に……』 『アリア嬢、君の知性に心を射抜かれた……』

「……気持ち悪いですね」

私は正直な感想を漏らしてしまった。

「一週間前まで『貧乏神』と呼んでいた口で、よくもまあこれだけの美辞麗句が並べられるものです」

「貴族とはそういう生き物だ。風向きが変われば、昨日の敵でも平気で靴を舐める。……だが、利用できる風は利用しろ」

クラウス様は立ち上がり、巨大な地図の前へと移動した。 そこには、王都の勢力図が色分けされたピンで示されている。

「アリア。お前の初任務だ」

彼の声色が、執務モードの冷徹なものに変わる。

「ターゲットは、財務大臣補佐のラグラン伯爵だ」

「ラグラン伯爵……保守派の重鎮で、最近、軍事予算の削減を強硬に主張している方ですね?」

私の脳内データベースが即座に情報を弾き出す。

「そうだ。奴は『平和維持』を名目に、国境警備の予算を削り、その分を公共事業――具体的には、自分の息のかかった建設ギルドへの発注に回そうとしている」

「なるほど。私腹を肥やすための平和論、ですか。ありふれた話です」

「だが、厄介なことに奴は尻尾を出さない。帳簿は完璧、表向きの評判も清廉潔白だ。愛妻家で子煩悩、教会への寄付も欠かさない『聖人』として通っている」

クラウス様が、地図上のラグラン伯爵邸の位置に、黒いピンを突き刺した。

「私が直接動けば、政敵への弾圧だと騒がれる。だから、お前の出番だ」

「私に、尻尾を掴んで来いと?」

「そうだ。聖人の仮面の下にある、腐った素顔を暴き出せ。期限は三日」

「……報酬は?」

「今月のボーナスを弾んでやる。最高級の紅茶葉付きでな」

「交渉成立です」

私はニヤリと笑った。 紅茶葉とは、また私の好みを的確に突いてくる。

「では、行ってまいります。……『聖人』の皮剥ぎに」

          ◇

情報収集の基本は、女性たちのネットワークだ。 男たちが表舞台で政治の話をしている間、裏庭やサロンでは、もっと生々しく、致命的な情報が飛び交っている。

私はまず、届いた招待状の中から、ラグラン伯爵夫人が主催する「慈善お茶会」の案内状を選び出した。

本来なら、新参者の私が潜り込むのは難しい。 だが、今の私には「時の人」という称号がある。

          ◇

午後二時。ラグラン伯爵邸の庭園。

「まあ! アリア様、よくいらしてくださいましたわ!」

主催者であるラグラン伯爵夫人が、満面の笑みで私を出迎えた。 ふくよかで優しげな、いかにも「良き母」といった風情の女性だ。

「お招きいただき光栄です、夫人。素敵なお庭ですね。特にこの白百合……ご主人の伯爵様がお好きだと伺っております」

「ええ、主人は白がお気に入りなの。『純潔の象徴だから』って。本当に、真面目すぎる人なんですのよ」

夫人は恥ずかしそうに頬を染める。 周囲の夫人たちも「まあ、素敵なご夫婦」「羨ましいですわ」と相槌を打つ。

だが、私は見逃さなかった。 夫人の笑顔の裏にある、わずかな陰りを。 そして、彼女が身につけているドレスが、昨年の流行遅れのものであることを。

財務大臣補佐の妻が、流行遅れのドレス? 「清廉潔白」をアピールするためか? それとも、本当にお金がないのか?

私は紅茶を一口飲み、さりげなく会話の舵を切った。

「そういえば、先日街で奇妙な噂を聞きましたの。最近、南方の珍しい『香木』が高値で取引されているとか」

「香木、ですの?」

ある夫人が食いついてきた。

「ええ。なんでも、精神を昂らせる効果があるとかで、一部の殿方の間で秘密裏に流行しているそうですわ。……もしかして、伯爵様もご興味がおありなのでは?」

ラグラン夫人の眉が、ピクリと動いた。 カップを持つ手がわずかに震え、紅茶の波紋が広がる。

「……いいえ。主人はそのような贅沢品には興味がありませんわ。仕事一筋の人ですから」

否定が、早すぎる。 そして、目が泳いだ。

「そうですわよね。失礼いたしました。伯爵様のような人格者が、そのような怪しげなものに手を出すはずがありませんもの」

私は笑顔で謝罪しつつ、確信を深めた。 何かある。 「香木」はカマをかけただけだが、夫人の反応は明らかに「夫の隠し事」に心当たりがある反応だった。

お茶会の後、私はトイレに立つふりをして、屋敷の中を少しだけ探索した。 使用人たちの動き。 飾られている調度品。

廊下ですれ違った若いメイドが、ひどく疲れた顔をしていた。 そして、その手首に、隠しきれない痣があるのを私は見逃さなかった。

「……あら、痛そう」

私が声をかけると、メイドはビクリと肩を震わせ、慌てて袖を伸ばして隠した。

「な、なんでもありません! 転んだだけです!」

「気をつけてね。……伯爵様は、使用人にもお優しいのでしょう?」

「は、はい……とても……」

彼女は目を伏せ、逃げるように去っていった。 その背中は、恐怖に縮こまっているように見えた。

(愛妻家で、使用人にも優しい聖人……ね)

屋敷を出た私は、馬車の中で手帳を開き、得られた情報を整理した。

夫人のドレスは古い。夫が財務大臣補佐であることを考えると不自然なほど質素。

夫人は夫の「何か」に怯えている、あるいは不安を感じている。

メイドの手首の痣。そして過剰な怯え。

屋敷の調度品は高価だが、どこか統一感がない。最近買い足されたような、成金趣味の壺や絵画が混ざっている。

「……金遣いが荒いくせに、妻には金を渡していない。そして、家庭内暴力の疑い」

だが、これだけでは決定打にはならない。 「公的な不正」の証拠が必要だ。 奴がどこから金を得て、何に使っているのか。

私は御者に声をかけた。

「行き先変更。下町の歓楽街へ」

「えっ? お嬢様、あのような場所に?」

「ええ。……ネズミの巣穴を探るには、ネズミに聞くのが一番ですもの」

          ◇

その夜。 私は公爵邸の執務室に戻り、報告を行った。

「……報告は以上です。ラグラン伯爵は、違法賭博にハマっています」

クラウス様は書類から顔を上げ、興味深そうに眉を上げた。

「賭博か。ありきたりだな」

「ええ。ですが、ただの賭博ではありません。彼が出入りしているのは、会員制の『闇闘技場』です」

私は下町の情報屋(かつて実家の借金取りから逃げる際に覚えた裏ルート)から買い取った、証拠の入場チケットを机の上に置いた。

「ここでは、猛獣と奴隷を戦わせる残虐な見世物が行われています。ラグラン伯爵は、そこのVIP会員。しかも、ただ客として楽しむだけでなく、自分が飼っている『猛獣』を出場させています」

「猛獣?」

「はい。南方大陸から密輸された、狂暴な『キメラパンサー』です。彼はその餌代と維持費、そして賭け金の負け分を補填するために、公共事業の予算を横領していました」

夫人のドレスが古いのも、メイドの痣も、すべて辻褄が合う。 彼は家庭では暴君であり、外では違法な興行の胴元に金を吸い取られている中毒者なのだ。

「……裏取りは?」

「ばっちりです。彼が横領に使った架空の建設会社の登記簿と、その会社から闇闘技場の運営元へ資金が流れた記録。銀行の裏帳簿の写しを入手しました」

私は分厚い封筒を差し出した。 これこそが、私の「記憶力」と「行動力」の結晶だ。 昼間のうちに銀行へ忍び込み……ではなく、銀行に勤めるかつての知人(私に求婚して振られた男だが、背に腹は代えられない)を脅し……説得して手に入れたものだ。

クラウス様は書類に目を通し、ふっと冷笑した。

「完璧だ。……たった一日で、ここまで暴くとはな」

「お褒めにあずかり光栄です。……それで、どう料理しますか? 監査局に突き出しますか?」

「いいや」

クラウス様は書類を放り投げ、立ち上がった。

「それでは面白くない。奴は明日の議会で、予算削減案の最終演説を行う予定だ。その最高の舞台で、踊ってもらおう」

「……性格が悪いですわね、閣下」

「お前ほどではない。……アリア、明日、お前が議会へ行け」

「私が、ですか?」

「ああ。私の名代として、この資料を奴に『差し入れ』してやれ。演説の直前にな」

クラウス様の目は、愉悦に輝いていた。 それは、獲物を追い詰める捕食者の目だ。

「奴がどんな顔をするか、しっかりと目に焼き付けてこい」

          ◇

翌日。王宮の議会場。

ラグラン伯爵は、演壇の袖で出番を待っていた。 自信満々の表情だ。 今日の演説で反対派を黙らせ、予算を我が物にすれば、借金も返せるし、新しい猛獣も買える。 そんな欲望が、脂ぎった顔から透けて見える。

「失礼いたします、ラグラン伯爵閣下」

私は音もなく近づき、声をかけた。

「ん? なんだ、君は。ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ」

伯爵は不機嫌そうに私を見下ろした。

「ラインハルト公爵閣下の代理で参りました、アリアと申します」

「ラインハルトだと? ……フン、あの若造、ついに私に屈して、和解の使者でも寄越したか?」

伯爵は下卑た笑みを浮かべた。

「ええ、ある意味では。……閣下より、こちらの『応援資料』をお渡しするようにと」

私は封筒を差し出した。 伯爵は鼻を鳴らし、乱暴に封筒を受け取って中身を改めた。

その瞬間。 伯爵の動きが止まった。

「……な、……あ……?」

目が見開かれ、顔から血の気が引いていく。 呼吸が荒くなり、脂汗が滝のように噴き出す。

そこに入っているのは、彼が闇闘技場に出入りしている写真。 横領の証拠書類。 そして、彼が溺愛するキメラパンサーが、檻の中で肉を貪っている隠し撮り写真。

「こ、これは……なんの冗談だ……!?」

「冗談ではありません。真実(ファクト)です」

私はニッコリと微笑んだ。 あくまで優雅に、淑女として。

「公爵閣下は仰いました。『このような素晴らしい趣味をお持ちとは知らなかった。ぜひ、この感動を議会の皆様、そして愛する奥様とも共有すべきではないか』と」

「き、貴様ッ……! 脅すつもりか!?」

伯爵が小声で唸り、書類を握りつぶした。

「脅し? とんでもない。ただの提案ですわ」

私は一歩踏み込み、伯爵の耳元で囁いた。

「今から五分後、貴方の演説が始まります。もし、その演説の内容が……『予算削減案の撤回』と『自身の引退表明』に変更されるのであれば、この資料は公爵閣下の暖炉で灰になるでしょう」

「い、引退だと……!? ふざけるな! 私がどれだけ苦労してこの地位を……!」

「ですが、刑務所の独房よりはマシではありませんか? ……ああ、それとも、奥様に知られる方が怖いかしら? 貴方がお子様の教育資金を使い込んで、化け物の餌代にしていたことを」

「ヒッ……!」

伯爵が喉の奥で悲鳴を上げた。 図星だ。 この男にとって、社会的な死よりも、家庭内での「聖人」の仮面が剥がれることの方が恐怖なのだ。

「お時間です、伯爵」

会場から、進行役の声が聞こえた。 『次は、ラグラン伯爵による、予算案についての演説です!』

拍手が起こる。

伯爵はガタガタと震え、私と、会場への入り口を交互に見た。 その目は、罠にかかった獣のようだった。

「……賢明なご判断を期待しております」

私は一礼し、道を譲った。

伯爵はふらつく足取りで演壇へと向かっていった。 その背中は、数分前までの威厳など見る影もなく、小さく萎んでいた。

          ◇

結果は、公爵の思惑通りだった。

ラグラン伯爵は演壇で突然泣き崩れ、「体調不良による引退」と「予算案への反対取り下げ」を叫んで気絶した。 議場は騒然となったが、予算案はそのまま廃案となり、公爵の勝利が決まった。

その夜。 公爵邸のテラスで、私はクラウス様と祝杯を上げていた。

「……見事な手際だ」

クラウス様が、琥珀色の液体が入ったグラスを揺らす。

「ラグランは田舎の領地へ引き籠もることになったそうだ。妻には『事業の失敗』とだけ伝えたらしいが、まあ、二度と表舞台には出てこないだろう」

「後味の悪い勝利ですね」

私は月を見上げながら呟いた。

「あの伯爵夫人の笑顔を守るために、夫を社会的に抹殺した……そう思うことにします」

「詭弁だな」

「ええ、詭弁です。でも、そうでも思わないと、自分がただの悪党になった気がして」

私が自嘲気味に笑うと、クラウス様は静かに私を見た。

「悪党でいいじゃないか」

「え?」

「清廉潔白な善人など、何も守れない。泥を被り、血に濡れる覚悟のある者だけが、大切なものを守れる」

クラウス様がグラスを置き、手すりに寄りかかった。 夜風が彼の銀髪を揺らす。

「お前は妹を守るために、悪魔に魂を売った。私は国を守るために、氷の怪物になった。……似た者同士だ」

「……閣下と私が、似ている?」

「ああ。目的のためなら手段を選ばず、感情を切り捨てて冷徹になれる。……お前は、私に似てきたな」

それは、最大の賛辞であり、同時に呪いの言葉のようにも聞こえた。

「……光栄です。ですが、一つだけ訂正を」

「なんだ?」

「私は感情を切り捨ててはいません。今でも、伯爵夫人の悲しむ顔を想像すると心が痛みます。……ただ、それを押し殺す術を覚えただけです」

「……そうか」

クラウス様は少しだけ目を細め、それから優しく微笑んだ。 いつもの冷笑ではない。 穏やかな、人間味のある笑みだった。

「その痛みがあるうちは、お前は怪物にはならないだろう。……そのままでいろ、アリア」

ドキリ、とした。 その笑顔があまりにも無防備で、あまりにも美しかったからだ。 胸の奥が、温かいもので満たされる感覚。

これは……憧れ? それとも、同志としての信頼? あるいは……。

私は慌てて視線を逸らし、グラスを煽った。

「……酔いが回ったようです。失礼いたします」

「逃げるのか?」

「戦略的撤退です!」

私は赤くなった顔を見られないように、早足でテラスを去った。 背後で、クラウス様の楽しげな笑い声が聞こえた。

          ◇

部屋に戻った私は、ベッドに飛び込んだ。 心臓がうるさい。

「……だめよ、アリア」

自分に言い聞かせる。

「あの人は公爵。雲の上の人。私はただの契約上の『道具』。勘違いしちゃだめ」

でも、あの言葉が頭から離れない。 『お前は、私に似てきたな』

私たちは共犯者だ。 秘密を共有し、背中を預け合うパートナー。 それ以上の関係を望んではいけない。 望めば、いつか傷つくことになる。

私は目を閉じ、ミラの顔を思い浮かべて眠りにつこうとした。

しかし。 運命は、私に安息を与えてはくれなかった。

翌日。 公爵邸に、王宮からの使者が現れた。 その使者が持ってきたのは、金色の封蝋がされた豪奢な手紙。

差出人は――第一王女、エリザベート殿下。

「……嫌な予感がします」

私が呟くと、手紙を受け取ったクラウス様も、渋い顔をして頷いた。

「ああ。この国の『最強のわがまま娘』からのお呼び出しだ。……アリア、覚悟しろ。昨日の古狸退治より、百倍厄介な相手だぞ」

新たな嵐の予感。 私はため息をつきつつも、どこかで武者震いをしている自分に気づいていた。

今の私なら、王女様相手でも渡り合えるかもしれない。 だって私は、氷の公爵の「共犯者」なのだから。
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