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第二話「最初の戦場は食堂」
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氷の礫が、頬をかすめた。 鋭い痛みが走るけれど、私は足を止めなかった。
部屋の中は猛吹雪のようだった。 三歳の幼子が放出しているとは思えないほど、濃密で鋭利な冷気。 それは物理的な温度の低さだけでなく、彼が抱える拒絶と恐怖そのものだった。
「……うぅ……ママ……」
ノア様は泣いていた。 閉じた瞼の隙間から涙が溢れ、その涙さえも瞬時に凍りついていく。
私はドレスの裾を翻し、さらに一歩踏み出した。 バキバキと音を立てて、私の足元まで氷が侵食してくる。
普通の令嬢なら、悲鳴を上げて逃げ出していただろう。 けれど、私は逃げない。 昨日、そう宣言したばかりだ。それに何より――こんなに小さな子が、たった一人で「寒さ」と戦っているのを見過ごせるわけがない。
私は深く息を吸い込み、体内の魔力を練り上げた。 攻撃魔法ではない。防御魔法でもない。 私が得意とするのは、もっと生活に根ざした、地味だけれど温かい魔法だ。
「――『灯(ともしび)』よ」
私が呟くと、掌からふわりとオレンジ色の光が生まれた。 それは暖炉の火のように優しく、春の日差しのように柔らかい。 生活魔法の一つである『灯』は、本来は明かりを灯したり、部屋を温めたりするための初歩的な魔法だ。
けれど、使い方次第で、それは冷え切った心を溶かす熱になる。
私はその光を胸に抱き、躊躇なくベッドへと飛び込んだ。 吹き荒れる冷気をオレンジ色の光が押し返していく。 私はノア様の小さな体を、毛布ごと強く抱きしめた。
「大丈夫。もう寒くないわ」
私の腕の中で、ノア様がビクリと震えた。 氷のように冷たい体。 私は体温と魔力を分け与えるように、背中をゆっくりと撫でた。
「怖い夢を見たのね。でも、もう大丈夫。私がいます」
耳元で、繰り返し囁く。 これは魔法の呪文ではない。ただの言葉だ。 けれど、どんな高度な魔術よりも、今の彼には必要な「音」だと思った。
次第に、部屋を覆っていた氷が溶け出し、水滴となって床を濡らし始めた。 狂い咲いていた冷気の嵐が収束していく。
ノア様の呼吸が、ヒック、ヒックとしゃくりあげる音に変わった。 強張っていた小さな指が、私のガウンを頼りなげに握りしめる。
「……あ……」
彼が薄目を開けた。 涙に濡れた瞳が、私を見上げる。 私は努めて穏やかに、安心させるような微笑みを向けた。
その時だった。
「ノア!」
バンッ! と扉が乱暴に開かれ、誰かが飛び込んできた。 レオンハルト様だ。 剣を帯び、騎士団の制服を乱した姿。おそらく、魔力の暴走を感じ取って飛び起きたのだろう。
彼の背後には、アルフォンス様とミレイユ様の姿もあった。二人とも顔色が悪い。
「……レオンハルト様」
私はノア様を抱いたまま、振り返った。 レオンハルト様は、部屋の惨状――溶け出した氷の水溜まりと、私の腕の中で安らかになりつつある息子の姿を見て、呆然と立ち尽くしていた。
「君が……鎮めたのか?」
「『灯』で温めただけです。ノア様は、ただ怖い夢をご覧になっていただけですから」
私はこともなげに答えた。 ここで「私の魔法のおかげです」なんて恩着せがましく言うのは、三流の悪役令嬢だ。 あくまで、母親代わりとして当然のことをしたまで。
レオンハルト様は、何か言いたげに口を開きかけ、そして閉じた。 そのアイスブルーの瞳に、わずかな戸惑いと、隠しきれない安堵の色が浮かぶ。
「……すまない。助かった」
「礼には及びません。それより、お着替えを。このままでは風邪を召されてしまいます」
私は使用人たちに指示を出し、濡れたシーツを交換させ、ノア様を乾いた服に着替えさせた。 その間、ノア様はずっと私の袖を離そうとしなかった。 結局、彼が完全に眠りに落ちるまで、私はベッドの端に座り、その背中をトントンと叩き続けることになった。
部屋の隅で、アルフォンス様とミレイユ様が、何か得体の知れないものを見るような目で私を見ていたことに、私は気づかないふりをした。
◇
翌朝。 嵐のような夜が明けて、グレイフ公爵家での最初の朝がやってきた。
窓の外は相変わらずの曇天だが、屋敷の中は昨日とは違う種類の緊張感に包まれていた。 それは、朝食の時間のせいだ。
公爵家の食堂は、無駄に広かった。 長いテーブルの上には、豪華な燭台と、銀食器が並べられている。 上座にレオンハルト様。 その右手に私。 左手には、アルフォンス様、ミレイユ様、そして昨夜のことが嘘のように大人しくなったノア様が座っている。
「……いただきます」
レオンハルト様の低い声と共に、食事が始まった。 しかし、カチャリ、カチャリと食器が触れ合う音だけが響き、誰一人として言葉を発しない。
(……何なの、このお通夜みたいな空気は)
私はスープを口に運びながら、密かにため息をついた。 食事の内容も問題だった。 冷製スープに、固いパン。冷めた肉料理。 栄養バランスは考えられているのかもしれないが、彩りがなく、何より「温かみ」がない。 北方の冬の朝に、こんな冷えた食事を出されて、誰が喜ぶというのだろう。
ちらりと子どもたちを見る。 アルフォンス様は、義務のように機械的にパンを口に運んでいる。 ノア様は、スプーンを持ったまま俯いている。 そしてミレイユ様は――皿の中身をフォークでつつき回しているだけで、一口も食べていない。
「……ミレイユ。食べなさい」
レオンハルト様が注意する。 命令口調だ。 ミレイユ様はビクリと肩を震わせ、不満げに唇を尖らせた。
「……いらない」
「食事を残すなと教えたはずだ」
「だっていらないの! これ、嫌い!」
「我儘を言うな」
会話と呼ぶにはあまりに殺伐としたやり取り。 レオンハルト様は眉間に皺を寄せている。彼は子どもを愛しているはずだが、どう接していいか分からず、どうしても軍人のような命令口調になってしまうらしい。
場の空気が重くなる。 アルフォンス様が、助け船を出そうとして口を開きかけるが、言葉が見つからない様子だ。
私は静かにナプキンで口元を拭った。 これが、この家の日常なのだろう。 機能的で、規律正しくて、そして決定的に何かが欠落している。
食事とは、ただ栄養を摂取する作業ではない。 一日の始まりに、心と体を温めるための儀式だ。 それがこんなに冷え切っていては、子どもたちの心も育たない。
(まずは、ここからね)
私が口を開こうとした、その時だった。
ガシャン!!
甲高い音が食堂に響き渡った。 ミレイユ様の手元から、スープ皿が床に落ちていた。 高価そうな磁器が砕け散り、中身が絨毯に広がる。
事故ではない。 明らかに、彼女の手が皿を押しやったのを、私は見ていた。
「あっ……」
給仕をしていたメイドが息を呑む。 レオンハルト様の顔色が厳しくなる。
「ミレイユ!」
怒声が飛ぶ。 しかし、ミレイユ様は悪びれる様子もなく、挑戦的な瞳で私を見た。 その瞳は、はっきりとこう言っていた。 『怒るでしょ? 新しいお母様も、私のこと、我儘な悪い子だって怒るんでしょ?』と。
これは、試し行為だ。 昨日の挨拶の時と同じ。 わざと悪いことをして、大人の反応を試している。 ここでヒステリックに怒れば、私は「予想通りの継母」になる。 かといって、見過ごせば「無関心な継母」だ。
レオンハルト様が立ち上がろうとする気配を感じた。 私は片手を上げてそれを制し、ゆっくりと席を立った。
コツ、コツ、コツ。 ヒールの音が静寂に響く。 私はミレイユ様のそばまで歩み寄り、その前に膝をついた。 彼女の顔が強張る。罵声を浴びる準備をしている顔だ。
私は砕けた皿の破片には目もくれず、ミレイユ様の目を見つめた。
「……お洋服は、汚れませんでしたか?」
私の第一声に、ミレイユ様がきょとんとした。
「え……?」
「お怪我はありませんか? 破片が跳ねたりして」
「な、ないわよ。そんなの」
「そうですか。それは良かった」
私はふわりと微笑んだ。 そして、床に散らばったスープを見やり、わざと困ったような顔を作ってみせた。
「でも、もったいなかったですね。このスープ、あまりお好きではありませんでしたか?」
「……冷たいし、美味しくないもの」
「ええ、私もそう思いました。少し塩辛くて、朝には重たいですよね」
私が同意すると、ミレイユ様は目を丸くした。 まさか継母が、家の食事に文句をつけるとは思わなかったのだろう。
「ミレイユ様。お食事を美味しくないと感じるのは、あなたのせいではありません。でも、お皿を落としても、ご飯は美味しくなりませんよ」
私は優しく、しかし毅然と言い聞かせた。
「気に入らないなら、言葉で教えてください。『これが食べたい』と。そうすれば、私が料理長に伝えて、明日はもっと美味しいものを作らせますから」
「……ほんとう?」
「ええ、約束します。私はこの家の運営を任された妻ですから」
私は立ち上がり、唖然としている使用人たちに手早く指示を出した。
「床を片付けて。それから、ミレイユ様には温かいミルクと、焼き直したパンを持ってきてちょうだい。スープは下げて結構よ」
テキパキとした指示に、使用人たちが慌てて動き出す。 私は席に戻り、何事もなかったかのように紅茶を啜った。
レオンハルト様が、信じられないものを見る目で私を見ていた。
「……クラリス。今の対応は……」
「躾(しつけ)は必要ですが、食事の席で怒鳴り声を上げるのはマナー違反ですわ、旦那様」
私は小声でチクリと刺した。 「それに、不味いものを不味いと言って何が悪いのです? 明日の朝食からは、私が献立を見直します」
悪役令嬢らしく、不敵に微笑んでみせる。 レオンハルト様は虚を突かれたように瞬きをし、それから小さく咳払いをして、パンを齧った。
「……任せる」
その耳が、ほんのりと赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
ミレイユ様は、新しく運ばれてきた温かいミルクを、両手で包み込むようにして持っていた。 もう皿を落とそうとはしない。 時折、上目遣いで私を盗み見ている。 その瞳から、敵意の棘が一本だけ、抜けたような気がした。
だが、これで終わりではない。 執事のギルベルトが、私の背後で深く頭を下げながらも、どこか冷ややかな声で囁いた。
「奥様。甘すぎますな」
古株の執事の小言。 そして、その日の午後。 長女ミレイユ様が私の部屋を訪ねてきた時の、あの予想外の言葉。
まだまだ、この屋敷の攻略は一筋縄ではいかないようだ。
部屋の中は猛吹雪のようだった。 三歳の幼子が放出しているとは思えないほど、濃密で鋭利な冷気。 それは物理的な温度の低さだけでなく、彼が抱える拒絶と恐怖そのものだった。
「……うぅ……ママ……」
ノア様は泣いていた。 閉じた瞼の隙間から涙が溢れ、その涙さえも瞬時に凍りついていく。
私はドレスの裾を翻し、さらに一歩踏み出した。 バキバキと音を立てて、私の足元まで氷が侵食してくる。
普通の令嬢なら、悲鳴を上げて逃げ出していただろう。 けれど、私は逃げない。 昨日、そう宣言したばかりだ。それに何より――こんなに小さな子が、たった一人で「寒さ」と戦っているのを見過ごせるわけがない。
私は深く息を吸い込み、体内の魔力を練り上げた。 攻撃魔法ではない。防御魔法でもない。 私が得意とするのは、もっと生活に根ざした、地味だけれど温かい魔法だ。
「――『灯(ともしび)』よ」
私が呟くと、掌からふわりとオレンジ色の光が生まれた。 それは暖炉の火のように優しく、春の日差しのように柔らかい。 生活魔法の一つである『灯』は、本来は明かりを灯したり、部屋を温めたりするための初歩的な魔法だ。
けれど、使い方次第で、それは冷え切った心を溶かす熱になる。
私はその光を胸に抱き、躊躇なくベッドへと飛び込んだ。 吹き荒れる冷気をオレンジ色の光が押し返していく。 私はノア様の小さな体を、毛布ごと強く抱きしめた。
「大丈夫。もう寒くないわ」
私の腕の中で、ノア様がビクリと震えた。 氷のように冷たい体。 私は体温と魔力を分け与えるように、背中をゆっくりと撫でた。
「怖い夢を見たのね。でも、もう大丈夫。私がいます」
耳元で、繰り返し囁く。 これは魔法の呪文ではない。ただの言葉だ。 けれど、どんな高度な魔術よりも、今の彼には必要な「音」だと思った。
次第に、部屋を覆っていた氷が溶け出し、水滴となって床を濡らし始めた。 狂い咲いていた冷気の嵐が収束していく。
ノア様の呼吸が、ヒック、ヒックとしゃくりあげる音に変わった。 強張っていた小さな指が、私のガウンを頼りなげに握りしめる。
「……あ……」
彼が薄目を開けた。 涙に濡れた瞳が、私を見上げる。 私は努めて穏やかに、安心させるような微笑みを向けた。
その時だった。
「ノア!」
バンッ! と扉が乱暴に開かれ、誰かが飛び込んできた。 レオンハルト様だ。 剣を帯び、騎士団の制服を乱した姿。おそらく、魔力の暴走を感じ取って飛び起きたのだろう。
彼の背後には、アルフォンス様とミレイユ様の姿もあった。二人とも顔色が悪い。
「……レオンハルト様」
私はノア様を抱いたまま、振り返った。 レオンハルト様は、部屋の惨状――溶け出した氷の水溜まりと、私の腕の中で安らかになりつつある息子の姿を見て、呆然と立ち尽くしていた。
「君が……鎮めたのか?」
「『灯』で温めただけです。ノア様は、ただ怖い夢をご覧になっていただけですから」
私はこともなげに答えた。 ここで「私の魔法のおかげです」なんて恩着せがましく言うのは、三流の悪役令嬢だ。 あくまで、母親代わりとして当然のことをしたまで。
レオンハルト様は、何か言いたげに口を開きかけ、そして閉じた。 そのアイスブルーの瞳に、わずかな戸惑いと、隠しきれない安堵の色が浮かぶ。
「……すまない。助かった」
「礼には及びません。それより、お着替えを。このままでは風邪を召されてしまいます」
私は使用人たちに指示を出し、濡れたシーツを交換させ、ノア様を乾いた服に着替えさせた。 その間、ノア様はずっと私の袖を離そうとしなかった。 結局、彼が完全に眠りに落ちるまで、私はベッドの端に座り、その背中をトントンと叩き続けることになった。
部屋の隅で、アルフォンス様とミレイユ様が、何か得体の知れないものを見るような目で私を見ていたことに、私は気づかないふりをした。
◇
翌朝。 嵐のような夜が明けて、グレイフ公爵家での最初の朝がやってきた。
窓の外は相変わらずの曇天だが、屋敷の中は昨日とは違う種類の緊張感に包まれていた。 それは、朝食の時間のせいだ。
公爵家の食堂は、無駄に広かった。 長いテーブルの上には、豪華な燭台と、銀食器が並べられている。 上座にレオンハルト様。 その右手に私。 左手には、アルフォンス様、ミレイユ様、そして昨夜のことが嘘のように大人しくなったノア様が座っている。
「……いただきます」
レオンハルト様の低い声と共に、食事が始まった。 しかし、カチャリ、カチャリと食器が触れ合う音だけが響き、誰一人として言葉を発しない。
(……何なの、このお通夜みたいな空気は)
私はスープを口に運びながら、密かにため息をついた。 食事の内容も問題だった。 冷製スープに、固いパン。冷めた肉料理。 栄養バランスは考えられているのかもしれないが、彩りがなく、何より「温かみ」がない。 北方の冬の朝に、こんな冷えた食事を出されて、誰が喜ぶというのだろう。
ちらりと子どもたちを見る。 アルフォンス様は、義務のように機械的にパンを口に運んでいる。 ノア様は、スプーンを持ったまま俯いている。 そしてミレイユ様は――皿の中身をフォークでつつき回しているだけで、一口も食べていない。
「……ミレイユ。食べなさい」
レオンハルト様が注意する。 命令口調だ。 ミレイユ様はビクリと肩を震わせ、不満げに唇を尖らせた。
「……いらない」
「食事を残すなと教えたはずだ」
「だっていらないの! これ、嫌い!」
「我儘を言うな」
会話と呼ぶにはあまりに殺伐としたやり取り。 レオンハルト様は眉間に皺を寄せている。彼は子どもを愛しているはずだが、どう接していいか分からず、どうしても軍人のような命令口調になってしまうらしい。
場の空気が重くなる。 アルフォンス様が、助け船を出そうとして口を開きかけるが、言葉が見つからない様子だ。
私は静かにナプキンで口元を拭った。 これが、この家の日常なのだろう。 機能的で、規律正しくて、そして決定的に何かが欠落している。
食事とは、ただ栄養を摂取する作業ではない。 一日の始まりに、心と体を温めるための儀式だ。 それがこんなに冷え切っていては、子どもたちの心も育たない。
(まずは、ここからね)
私が口を開こうとした、その時だった。
ガシャン!!
甲高い音が食堂に響き渡った。 ミレイユ様の手元から、スープ皿が床に落ちていた。 高価そうな磁器が砕け散り、中身が絨毯に広がる。
事故ではない。 明らかに、彼女の手が皿を押しやったのを、私は見ていた。
「あっ……」
給仕をしていたメイドが息を呑む。 レオンハルト様の顔色が厳しくなる。
「ミレイユ!」
怒声が飛ぶ。 しかし、ミレイユ様は悪びれる様子もなく、挑戦的な瞳で私を見た。 その瞳は、はっきりとこう言っていた。 『怒るでしょ? 新しいお母様も、私のこと、我儘な悪い子だって怒るんでしょ?』と。
これは、試し行為だ。 昨日の挨拶の時と同じ。 わざと悪いことをして、大人の反応を試している。 ここでヒステリックに怒れば、私は「予想通りの継母」になる。 かといって、見過ごせば「無関心な継母」だ。
レオンハルト様が立ち上がろうとする気配を感じた。 私は片手を上げてそれを制し、ゆっくりと席を立った。
コツ、コツ、コツ。 ヒールの音が静寂に響く。 私はミレイユ様のそばまで歩み寄り、その前に膝をついた。 彼女の顔が強張る。罵声を浴びる準備をしている顔だ。
私は砕けた皿の破片には目もくれず、ミレイユ様の目を見つめた。
「……お洋服は、汚れませんでしたか?」
私の第一声に、ミレイユ様がきょとんとした。
「え……?」
「お怪我はありませんか? 破片が跳ねたりして」
「な、ないわよ。そんなの」
「そうですか。それは良かった」
私はふわりと微笑んだ。 そして、床に散らばったスープを見やり、わざと困ったような顔を作ってみせた。
「でも、もったいなかったですね。このスープ、あまりお好きではありませんでしたか?」
「……冷たいし、美味しくないもの」
「ええ、私もそう思いました。少し塩辛くて、朝には重たいですよね」
私が同意すると、ミレイユ様は目を丸くした。 まさか継母が、家の食事に文句をつけるとは思わなかったのだろう。
「ミレイユ様。お食事を美味しくないと感じるのは、あなたのせいではありません。でも、お皿を落としても、ご飯は美味しくなりませんよ」
私は優しく、しかし毅然と言い聞かせた。
「気に入らないなら、言葉で教えてください。『これが食べたい』と。そうすれば、私が料理長に伝えて、明日はもっと美味しいものを作らせますから」
「……ほんとう?」
「ええ、約束します。私はこの家の運営を任された妻ですから」
私は立ち上がり、唖然としている使用人たちに手早く指示を出した。
「床を片付けて。それから、ミレイユ様には温かいミルクと、焼き直したパンを持ってきてちょうだい。スープは下げて結構よ」
テキパキとした指示に、使用人たちが慌てて動き出す。 私は席に戻り、何事もなかったかのように紅茶を啜った。
レオンハルト様が、信じられないものを見る目で私を見ていた。
「……クラリス。今の対応は……」
「躾(しつけ)は必要ですが、食事の席で怒鳴り声を上げるのはマナー違反ですわ、旦那様」
私は小声でチクリと刺した。 「それに、不味いものを不味いと言って何が悪いのです? 明日の朝食からは、私が献立を見直します」
悪役令嬢らしく、不敵に微笑んでみせる。 レオンハルト様は虚を突かれたように瞬きをし、それから小さく咳払いをして、パンを齧った。
「……任せる」
その耳が、ほんのりと赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
ミレイユ様は、新しく運ばれてきた温かいミルクを、両手で包み込むようにして持っていた。 もう皿を落とそうとはしない。 時折、上目遣いで私を盗み見ている。 その瞳から、敵意の棘が一本だけ、抜けたような気がした。
だが、これで終わりではない。 執事のギルベルトが、私の背後で深く頭を下げながらも、どこか冷ややかな声で囁いた。
「奥様。甘すぎますな」
古株の執事の小言。 そして、その日の午後。 長女ミレイユ様が私の部屋を訪ねてきた時の、あの予想外の言葉。
まだまだ、この屋敷の攻略は一筋縄ではいかないようだ。
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