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第一話「嫁入りと三つの拒絶」
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王都から北へ向かう馬車に揺られること、十日あまり。 窓の外の景色は、いつしか緑豊かな平原から、荒涼とした冬枯れの大地へと変わっていた。
吐く息が白い。 分厚い外套を羽織っていても、冷気が肌を刺すように忍び込んでくる。
「……寒いわね」
私は小さく呟き、かじかんだ指先をさすった。 寒さのせいだけではない。これから向かう場所、そして待ち受ける運命を思うと、指先だけでなく心臓まで凍りついてしまいそうだった。
私の名前は、クラリス・フォン・ローゼンフェルト。 つい先日まで、このレグナリア王国の王太子殿下の婚約者だった女。 そして――「可愛げのない悪役令嬢」として、衆人環視の中で婚約破棄を突きつけられた女だ。
『君のような完璧主義で、冷徹な女は王妃にふさわしくない。リディアのような、慈愛に満ちた女性こそが僕の隣には必要なんだ』
王太子殿下の言葉が、車輪の音に重なって蘇る。 冷徹。可愛げがない。 社交界で私がどう呼ばれていたか、もちろん知っている。 「悪役令嬢」。 正論で場を凍り付かせ、愛想笑いひとつ浮かべず、完璧な令嬢を演じてきた私につけられたあだ名だ。
でも、弁解はしなかった。 王太子殿下が選んだリディア男爵令嬢が、私のことを「怖い」と涙目で見上げ、殿下が彼女を庇うように抱き寄せた時も、私はただ一言、「承知いたしました」とだけ告げて頭を下げた。
泣かなかった。縋らなかった。 それが私のプライドであり、同時に「可愛げがない」と言われる所以なのだろう。
実家に戻った私を待っていたのは、父からの新しい縁談だった。 相手は、北方の辺境を守るグレイフ公爵家。 当主のレオンハルト・フォン・グレイフ公爵は、「氷の公爵」の異名を持つ英雄だ。 魔獣が湧き出る「境界」を守る武門の当主であり、前妻を亡くしてから三人の子どもを男手一つで育てているという。
『北方は過酷な地だ。だが、お前なら耐えられるだろう』
父の言葉は事実上の追放宣告だったけれど、私は不思議と安堵していた。 華やかな王都の社交界よりも、厳しい北の大地のほうが、今の私にはお似合いかもしれない。
「……到着いたしました、奥様」
御者の声で、私は顔を上げた。 馬車が重々しい音を立てて停止する。 扉が開くと、猛吹雪のような冷気が一気に車内へとなだれ込んできた。
「うっ……」
思わず声を漏らしながら、私は馬車を降りた。 目の前には、灰色の空を背景に、黒曜石のように重厚な石造りの屋敷がそびえ立っていた。 グレイフ公爵邸。 今日からここが、私の新しい戦場――いいえ、家になる場所。
「遠路はるばる、ようこそお越しくださいました」
出迎えてくれたのは、白髪の老執事だった。 背筋がピンと伸び、隙のない身のこなし。ギルベルトという名の彼は、丁寧な礼をしながらも、その瞳には値踏みするような光が宿っていた。 王都の「悪役令嬢」が、どれほどのものか。そう見定められている気がする。
「案内いたします。旦那様と、お子様たちがお待ちです」
案内されたのは、屋敷の広間だった。 高い天井。磨き上げられた床。 けれど、どこか寒々しい。 暖炉の火は燃えているのに、部屋全体の空気が張り詰めていて、温かみというものが欠落しているように感じた。
その中央に、四つの人影があった。
「クラリス・フォン・ローゼンフェルトです。この度、レオンハルト様の妻として、この屋敷に参りました」
私はカーテシーをして、顔を上げた。 そこで初めて、夫となる人と目が合った。
レオンハルト・フォン・グレイフ。 「氷の公爵」の名にふさわしい、冷たくも整った美貌の持ち主だった。 銀色の髪は窓から差す冬の光を吸い込んだように輝き、アイスブルーの瞳は、感情を一切映さずに私を見下ろしている。
「……レオンハルトだ。遠いところを、苦労をかけた」
低い声。 拒絶ではないけれど、歓迎もしていない。 ただ義務として、新しい「契約相手」を確認しただけの響き。
そして、その足元に並ぶ、三人の子どもたち。
長男のアルフォンス。十歳。 黒髪に、父親譲りの整った顔立ち。けれどその瞳は、十歳とは思えないほど硬く、警戒心に満ちている。背筋を伸ばして立つ姿は、まるで小さな兵士のようだ。
長女のミレイユ。七歳。 金色の巻き毛が愛らしい少女。けれど、私を見る目は明らかに敵意を帯びている。ふん、と鼻を鳴らすような仕草は、大人の女性顔負けの強気さを感じさせた。
そして、末っ子のノア。三歳。 兄の足の後ろに隠れるようにして、怯えた瞳で私を見ている。指を口に加え、今にも泣き出しそうだ。
「……ご挨拶を」
レオンハルト様が短く促す。 アルフォンスが一歩前に出た。
「アルフォンス・フォン・グレイフです」
礼儀正しい、完璧な挨拶だった。 けれど、その直後に続いた言葉は、カミソリのように鋭く、私の胸を切り裂いた。
「父上が後妻を迎えることは、家の利益として理解しています。ですが――勘違いしないでください」
彼は、私を真っ直ぐに見据えて言った。
「僕たちに、母はいりません」
広間の空気が、ピキリと凍りついた気がした。 横にいたミレイユも、生意気そうに腕を組み、顎を上げて言い放つ。
「そうよ。新しいお母様なんて、欲しくないわ。どうせあなたも、すぐにいなくなるんでしょ?」
末っ子のノアは何も言わなかったけれど、兄の服をギュッと握りしめ、私を拒絶するように顔を背けた。
三つの拒絶。 それは、予想していたよりもずっと明確で、強固な壁だった。
普通の令嬢なら、ここで泣き崩れるか、ショックで言葉を失うところかもしれない。 あるいは、「なんて可愛げのない子どもたち!」と激昂するか。
けれど。 私は、クラリス・フォン・ローゼンフェルト。 伊達に「悪役令嬢」と呼ばれてきたわけではない。
(……なるほど)
私は動揺を顔に出さず、冷静に彼らを観察した。
アルフォンスの拳は、白くなるほど強く握りしめられている。 ――あれは、虚勢だ。弟や妹を守らなければという、悲壮なほどの責任感。
ミレイユの足は、微かに震えている。 ――あれは、試し行為だ。大人がまた自分たちを裏切るのではないかという、不安の裏返し。
そしてノア。 彼はただ、怯えている。母親という存在の不在に、そして変化に。
この子たちは、怒っているんじゃない。 傷ついているのだ。 母を失い、冷え切ったこの広い屋敷の中で、子どもたちだけで身を寄せ合って生きてきた。 そこへ現れた、王都から来た「悪役令嬢」の継母。 警戒するのは当たり前だ。
「……分かりました」
私は静かに答えた。 アルフォンスが、驚いたように目を見開く。怒られるとでも思っていたのだろうか。
私は、三人の前に膝をつき、目線を合わせた。 ドレスの裾が床に広がるのも構わずに。
「あなたたちが、今すぐ私をお母様と思えないのは当然です。無理に母と呼ぶ必要もありません」
「……え?」
ミレイユが呆気にとられた声を出す。 私は、レオンハルト様、そして三人の子どもたちを順に見つめ、はっきりと宣言した。
「ですが、私はこの家の妻となり、あなたたちの保護者となる契約を交わしました。ですから、私は逃げません」
王太子殿下に婚約破棄された時、私は何も言えなかった。 ただの「可愛げのない女」として、与えられた運命を受け入れた。 でも、今は違う。 この凍りついた瞳をした子どもたちを見た瞬間、私の中で何かが決まったのだ。
この子たちが欲しいのは、新しい「公爵夫人」でも、ご機嫌取りの「継母」でもない。 ただ、安心して眠れる場所と、無条件の愛情。
「称号はいりません。私が欲しいのは――あなたたち三人の『ママ』になれる日だけです」
そう。 これは私の、新しい戦い。 王都の社交界での足の引っ張り合いなんかより、よほどやり甲斐のある、誇り高い戦いだ。
「三人の『ママ』が聞けるまで、私は逃げませんから」
私の宣言に、レオンハルト様がわずかに眉を動かした。 アルフォンスは唇を噛み、ミレイユはふんと顔を背け、ノアは……じっと私を見つめている。
とりあえず、初日の挨拶としてはこれで十分だろう。 私は立ち上がり、一礼してその場を下がろうとした。
その夜のことだ。
あてがわれた客室――まだ「奥様」の部屋には入れてもらえなかった――のベッドで、旅の疲れを癒そうと横になっていた私は、微かな音で目を覚ました。
ヒュオオオオオ……。
風の音? いいえ、違う。屋敷の中から聞こえる。 啜り泣くような、何かが共鳴するような、不気味な音。
私はガウンを羽織り、廊下に出た。 音は、北棟の子ども部屋の方から聞こえてくる。
近づくにつれ、肌に感じる空気が異常なほど冷たくなっていくのが分かった。 ただの冬の寒さではない。 魔力が暴走した時に生じる、物理的な「冷却現象」だ。
「……う、うう……」
小さな泣き声が聞こえる。 子ども部屋の扉が、わずかに開いていた。
私は隙間から中を覗き込み――息を呑んだ。
部屋の中が、凍っていた。 壁も、床も、窓ガラスも、白い霜に覆われ、パリパリと音を立てて氷の結晶が広がっていく。 その中心で、ベッドの上で小さく丸まり、震えている影があった。
末っ子のノアだ。
「……ま……ま……」
うわ言のように繰り返される言葉。 彼は悪夢にうなされ、無意識のうちに魔力を暴走させているのだ。 そして、その強大な魔力は、三歳児が持つにはあまりに危険で、悲痛なものだった。
「ノア様!」
私は迷わず部屋に飛び込んだ。 瞬間、バキキキッ! と音を立てて、私の足元の床が凍りついた。 鋭い冷気が、拒絶の刃となって私に襲いかかる。
これは――ただの夜泣きじゃない。 この子の心にある、もっと深い、根源的な恐怖。
私が一歩踏み出すと、ノアが弾かれたように顔を上げた。 涙でぐしゃぐしゃになった顔。 焦点の合わない瞳が、私を捉える。
その瞬間、部屋中の冷気が渦を巻き、私に向かって殺到した。
吐く息が白い。 分厚い外套を羽織っていても、冷気が肌を刺すように忍び込んでくる。
「……寒いわね」
私は小さく呟き、かじかんだ指先をさすった。 寒さのせいだけではない。これから向かう場所、そして待ち受ける運命を思うと、指先だけでなく心臓まで凍りついてしまいそうだった。
私の名前は、クラリス・フォン・ローゼンフェルト。 つい先日まで、このレグナリア王国の王太子殿下の婚約者だった女。 そして――「可愛げのない悪役令嬢」として、衆人環視の中で婚約破棄を突きつけられた女だ。
『君のような完璧主義で、冷徹な女は王妃にふさわしくない。リディアのような、慈愛に満ちた女性こそが僕の隣には必要なんだ』
王太子殿下の言葉が、車輪の音に重なって蘇る。 冷徹。可愛げがない。 社交界で私がどう呼ばれていたか、もちろん知っている。 「悪役令嬢」。 正論で場を凍り付かせ、愛想笑いひとつ浮かべず、完璧な令嬢を演じてきた私につけられたあだ名だ。
でも、弁解はしなかった。 王太子殿下が選んだリディア男爵令嬢が、私のことを「怖い」と涙目で見上げ、殿下が彼女を庇うように抱き寄せた時も、私はただ一言、「承知いたしました」とだけ告げて頭を下げた。
泣かなかった。縋らなかった。 それが私のプライドであり、同時に「可愛げがない」と言われる所以なのだろう。
実家に戻った私を待っていたのは、父からの新しい縁談だった。 相手は、北方の辺境を守るグレイフ公爵家。 当主のレオンハルト・フォン・グレイフ公爵は、「氷の公爵」の異名を持つ英雄だ。 魔獣が湧き出る「境界」を守る武門の当主であり、前妻を亡くしてから三人の子どもを男手一つで育てているという。
『北方は過酷な地だ。だが、お前なら耐えられるだろう』
父の言葉は事実上の追放宣告だったけれど、私は不思議と安堵していた。 華やかな王都の社交界よりも、厳しい北の大地のほうが、今の私にはお似合いかもしれない。
「……到着いたしました、奥様」
御者の声で、私は顔を上げた。 馬車が重々しい音を立てて停止する。 扉が開くと、猛吹雪のような冷気が一気に車内へとなだれ込んできた。
「うっ……」
思わず声を漏らしながら、私は馬車を降りた。 目の前には、灰色の空を背景に、黒曜石のように重厚な石造りの屋敷がそびえ立っていた。 グレイフ公爵邸。 今日からここが、私の新しい戦場――いいえ、家になる場所。
「遠路はるばる、ようこそお越しくださいました」
出迎えてくれたのは、白髪の老執事だった。 背筋がピンと伸び、隙のない身のこなし。ギルベルトという名の彼は、丁寧な礼をしながらも、その瞳には値踏みするような光が宿っていた。 王都の「悪役令嬢」が、どれほどのものか。そう見定められている気がする。
「案内いたします。旦那様と、お子様たちがお待ちです」
案内されたのは、屋敷の広間だった。 高い天井。磨き上げられた床。 けれど、どこか寒々しい。 暖炉の火は燃えているのに、部屋全体の空気が張り詰めていて、温かみというものが欠落しているように感じた。
その中央に、四つの人影があった。
「クラリス・フォン・ローゼンフェルトです。この度、レオンハルト様の妻として、この屋敷に参りました」
私はカーテシーをして、顔を上げた。 そこで初めて、夫となる人と目が合った。
レオンハルト・フォン・グレイフ。 「氷の公爵」の名にふさわしい、冷たくも整った美貌の持ち主だった。 銀色の髪は窓から差す冬の光を吸い込んだように輝き、アイスブルーの瞳は、感情を一切映さずに私を見下ろしている。
「……レオンハルトだ。遠いところを、苦労をかけた」
低い声。 拒絶ではないけれど、歓迎もしていない。 ただ義務として、新しい「契約相手」を確認しただけの響き。
そして、その足元に並ぶ、三人の子どもたち。
長男のアルフォンス。十歳。 黒髪に、父親譲りの整った顔立ち。けれどその瞳は、十歳とは思えないほど硬く、警戒心に満ちている。背筋を伸ばして立つ姿は、まるで小さな兵士のようだ。
長女のミレイユ。七歳。 金色の巻き毛が愛らしい少女。けれど、私を見る目は明らかに敵意を帯びている。ふん、と鼻を鳴らすような仕草は、大人の女性顔負けの強気さを感じさせた。
そして、末っ子のノア。三歳。 兄の足の後ろに隠れるようにして、怯えた瞳で私を見ている。指を口に加え、今にも泣き出しそうだ。
「……ご挨拶を」
レオンハルト様が短く促す。 アルフォンスが一歩前に出た。
「アルフォンス・フォン・グレイフです」
礼儀正しい、完璧な挨拶だった。 けれど、その直後に続いた言葉は、カミソリのように鋭く、私の胸を切り裂いた。
「父上が後妻を迎えることは、家の利益として理解しています。ですが――勘違いしないでください」
彼は、私を真っ直ぐに見据えて言った。
「僕たちに、母はいりません」
広間の空気が、ピキリと凍りついた気がした。 横にいたミレイユも、生意気そうに腕を組み、顎を上げて言い放つ。
「そうよ。新しいお母様なんて、欲しくないわ。どうせあなたも、すぐにいなくなるんでしょ?」
末っ子のノアは何も言わなかったけれど、兄の服をギュッと握りしめ、私を拒絶するように顔を背けた。
三つの拒絶。 それは、予想していたよりもずっと明確で、強固な壁だった。
普通の令嬢なら、ここで泣き崩れるか、ショックで言葉を失うところかもしれない。 あるいは、「なんて可愛げのない子どもたち!」と激昂するか。
けれど。 私は、クラリス・フォン・ローゼンフェルト。 伊達に「悪役令嬢」と呼ばれてきたわけではない。
(……なるほど)
私は動揺を顔に出さず、冷静に彼らを観察した。
アルフォンスの拳は、白くなるほど強く握りしめられている。 ――あれは、虚勢だ。弟や妹を守らなければという、悲壮なほどの責任感。
ミレイユの足は、微かに震えている。 ――あれは、試し行為だ。大人がまた自分たちを裏切るのではないかという、不安の裏返し。
そしてノア。 彼はただ、怯えている。母親という存在の不在に、そして変化に。
この子たちは、怒っているんじゃない。 傷ついているのだ。 母を失い、冷え切ったこの広い屋敷の中で、子どもたちだけで身を寄せ合って生きてきた。 そこへ現れた、王都から来た「悪役令嬢」の継母。 警戒するのは当たり前だ。
「……分かりました」
私は静かに答えた。 アルフォンスが、驚いたように目を見開く。怒られるとでも思っていたのだろうか。
私は、三人の前に膝をつき、目線を合わせた。 ドレスの裾が床に広がるのも構わずに。
「あなたたちが、今すぐ私をお母様と思えないのは当然です。無理に母と呼ぶ必要もありません」
「……え?」
ミレイユが呆気にとられた声を出す。 私は、レオンハルト様、そして三人の子どもたちを順に見つめ、はっきりと宣言した。
「ですが、私はこの家の妻となり、あなたたちの保護者となる契約を交わしました。ですから、私は逃げません」
王太子殿下に婚約破棄された時、私は何も言えなかった。 ただの「可愛げのない女」として、与えられた運命を受け入れた。 でも、今は違う。 この凍りついた瞳をした子どもたちを見た瞬間、私の中で何かが決まったのだ。
この子たちが欲しいのは、新しい「公爵夫人」でも、ご機嫌取りの「継母」でもない。 ただ、安心して眠れる場所と、無条件の愛情。
「称号はいりません。私が欲しいのは――あなたたち三人の『ママ』になれる日だけです」
そう。 これは私の、新しい戦い。 王都の社交界での足の引っ張り合いなんかより、よほどやり甲斐のある、誇り高い戦いだ。
「三人の『ママ』が聞けるまで、私は逃げませんから」
私の宣言に、レオンハルト様がわずかに眉を動かした。 アルフォンスは唇を噛み、ミレイユはふんと顔を背け、ノアは……じっと私を見つめている。
とりあえず、初日の挨拶としてはこれで十分だろう。 私は立ち上がり、一礼してその場を下がろうとした。
その夜のことだ。
あてがわれた客室――まだ「奥様」の部屋には入れてもらえなかった――のベッドで、旅の疲れを癒そうと横になっていた私は、微かな音で目を覚ました。
ヒュオオオオオ……。
風の音? いいえ、違う。屋敷の中から聞こえる。 啜り泣くような、何かが共鳴するような、不気味な音。
私はガウンを羽織り、廊下に出た。 音は、北棟の子ども部屋の方から聞こえてくる。
近づくにつれ、肌に感じる空気が異常なほど冷たくなっていくのが分かった。 ただの冬の寒さではない。 魔力が暴走した時に生じる、物理的な「冷却現象」だ。
「……う、うう……」
小さな泣き声が聞こえる。 子ども部屋の扉が、わずかに開いていた。
私は隙間から中を覗き込み――息を呑んだ。
部屋の中が、凍っていた。 壁も、床も、窓ガラスも、白い霜に覆われ、パリパリと音を立てて氷の結晶が広がっていく。 その中心で、ベッドの上で小さく丸まり、震えている影があった。
末っ子のノアだ。
「……ま……ま……」
うわ言のように繰り返される言葉。 彼は悪夢にうなされ、無意識のうちに魔力を暴走させているのだ。 そして、その強大な魔力は、三歳児が持つにはあまりに危険で、悲痛なものだった。
「ノア様!」
私は迷わず部屋に飛び込んだ。 瞬間、バキキキッ! と音を立てて、私の足元の床が凍りついた。 鋭い冷気が、拒絶の刃となって私に襲いかかる。
これは――ただの夜泣きじゃない。 この子の心にある、もっと深い、根源的な恐怖。
私が一歩踏み出すと、ノアが弾かれたように顔を上げた。 涙でぐしゃぐしゃになった顔。 焦点の合わない瞳が、私を捉える。
その瞬間、部屋中の冷気が渦を巻き、私に向かって殺到した。
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