2 / 31
第二話「最初の戦場は食堂」
しおりを挟む
氷の礫が、頬をかすめた。 鋭い痛みが走るけれど、私は足を止めなかった。
部屋の中は猛吹雪のようだった。 三歳の幼子が放出しているとは思えないほど、濃密で鋭利な冷気。 それは物理的な温度の低さだけでなく、彼が抱える拒絶と恐怖そのものだった。
「……うぅ……ママ……」
ノア様は泣いていた。 閉じた瞼の隙間から涙が溢れ、その涙さえも瞬時に凍りついていく。
私はドレスの裾を翻し、さらに一歩踏み出した。 バキバキと音を立てて、私の足元まで氷が侵食してくる。
普通の令嬢なら、悲鳴を上げて逃げ出していただろう。 けれど、私は逃げない。 昨日、そう宣言したばかりだ。それに何より――こんなに小さな子が、たった一人で「寒さ」と戦っているのを見過ごせるわけがない。
私は深く息を吸い込み、体内の魔力を練り上げた。 攻撃魔法ではない。防御魔法でもない。 私が得意とするのは、もっと生活に根ざした、地味だけれど温かい魔法だ。
「――『灯(ともしび)』よ」
私が呟くと、掌からふわりとオレンジ色の光が生まれた。 それは暖炉の火のように優しく、春の日差しのように柔らかい。 生活魔法の一つである『灯』は、本来は明かりを灯したり、部屋を温めたりするための初歩的な魔法だ。
けれど、使い方次第で、それは冷え切った心を溶かす熱になる。
私はその光を胸に抱き、躊躇なくベッドへと飛び込んだ。 吹き荒れる冷気をオレンジ色の光が押し返していく。 私はノア様の小さな体を、毛布ごと強く抱きしめた。
「大丈夫。もう寒くないわ」
私の腕の中で、ノア様がビクリと震えた。 氷のように冷たい体。 私は体温と魔力を分け与えるように、背中をゆっくりと撫でた。
「怖い夢を見たのね。でも、もう大丈夫。私がいます」
耳元で、繰り返し囁く。 これは魔法の呪文ではない。ただの言葉だ。 けれど、どんな高度な魔術よりも、今の彼には必要な「音」だと思った。
次第に、部屋を覆っていた氷が溶け出し、水滴となって床を濡らし始めた。 狂い咲いていた冷気の嵐が収束していく。
ノア様の呼吸が、ヒック、ヒックとしゃくりあげる音に変わった。 強張っていた小さな指が、私のガウンを頼りなげに握りしめる。
「……あ……」
彼が薄目を開けた。 涙に濡れた瞳が、私を見上げる。 私は努めて穏やかに、安心させるような微笑みを向けた。
その時だった。
「ノア!」
バンッ! と扉が乱暴に開かれ、誰かが飛び込んできた。 レオンハルト様だ。 剣を帯び、騎士団の制服を乱した姿。おそらく、魔力の暴走を感じ取って飛び起きたのだろう。
彼の背後には、アルフォンス様とミレイユ様の姿もあった。二人とも顔色が悪い。
「……レオンハルト様」
私はノア様を抱いたまま、振り返った。 レオンハルト様は、部屋の惨状――溶け出した氷の水溜まりと、私の腕の中で安らかになりつつある息子の姿を見て、呆然と立ち尽くしていた。
「君が……鎮めたのか?」
「『灯』で温めただけです。ノア様は、ただ怖い夢をご覧になっていただけですから」
私はこともなげに答えた。 ここで「私の魔法のおかげです」なんて恩着せがましく言うのは、三流の悪役令嬢だ。 あくまで、母親代わりとして当然のことをしたまで。
レオンハルト様は、何か言いたげに口を開きかけ、そして閉じた。 そのアイスブルーの瞳に、わずかな戸惑いと、隠しきれない安堵の色が浮かぶ。
「……すまない。助かった」
「礼には及びません。それより、お着替えを。このままでは風邪を召されてしまいます」
私は使用人たちに指示を出し、濡れたシーツを交換させ、ノア様を乾いた服に着替えさせた。 その間、ノア様はずっと私の袖を離そうとしなかった。 結局、彼が完全に眠りに落ちるまで、私はベッドの端に座り、その背中をトントンと叩き続けることになった。
部屋の隅で、アルフォンス様とミレイユ様が、何か得体の知れないものを見るような目で私を見ていたことに、私は気づかないふりをした。
◇
翌朝。 嵐のような夜が明けて、グレイフ公爵家での最初の朝がやってきた。
窓の外は相変わらずの曇天だが、屋敷の中は昨日とは違う種類の緊張感に包まれていた。 それは、朝食の時間のせいだ。
公爵家の食堂は、無駄に広かった。 長いテーブルの上には、豪華な燭台と、銀食器が並べられている。 上座にレオンハルト様。 その右手に私。 左手には、アルフォンス様、ミレイユ様、そして昨夜のことが嘘のように大人しくなったノア様が座っている。
「……いただきます」
レオンハルト様の低い声と共に、食事が始まった。 しかし、カチャリ、カチャリと食器が触れ合う音だけが響き、誰一人として言葉を発しない。
(……何なの、このお通夜みたいな空気は)
私はスープを口に運びながら、密かにため息をついた。 食事の内容も問題だった。 冷製スープに、固いパン。冷めた肉料理。 栄養バランスは考えられているのかもしれないが、彩りがなく、何より「温かみ」がない。 北方の冬の朝に、こんな冷えた食事を出されて、誰が喜ぶというのだろう。
ちらりと子どもたちを見る。 アルフォンス様は、義務のように機械的にパンを口に運んでいる。 ノア様は、スプーンを持ったまま俯いている。 そしてミレイユ様は――皿の中身をフォークでつつき回しているだけで、一口も食べていない。
「……ミレイユ。食べなさい」
レオンハルト様が注意する。 命令口調だ。 ミレイユ様はビクリと肩を震わせ、不満げに唇を尖らせた。
「……いらない」
「食事を残すなと教えたはずだ」
「だっていらないの! これ、嫌い!」
「我儘を言うな」
会話と呼ぶにはあまりに殺伐としたやり取り。 レオンハルト様は眉間に皺を寄せている。彼は子どもを愛しているはずだが、どう接していいか分からず、どうしても軍人のような命令口調になってしまうらしい。
場の空気が重くなる。 アルフォンス様が、助け船を出そうとして口を開きかけるが、言葉が見つからない様子だ。
私は静かにナプキンで口元を拭った。 これが、この家の日常なのだろう。 機能的で、規律正しくて、そして決定的に何かが欠落している。
食事とは、ただ栄養を摂取する作業ではない。 一日の始まりに、心と体を温めるための儀式だ。 それがこんなに冷え切っていては、子どもたちの心も育たない。
(まずは、ここからね)
私が口を開こうとした、その時だった。
ガシャン!!
甲高い音が食堂に響き渡った。 ミレイユ様の手元から、スープ皿が床に落ちていた。 高価そうな磁器が砕け散り、中身が絨毯に広がる。
事故ではない。 明らかに、彼女の手が皿を押しやったのを、私は見ていた。
「あっ……」
給仕をしていたメイドが息を呑む。 レオンハルト様の顔色が厳しくなる。
「ミレイユ!」
怒声が飛ぶ。 しかし、ミレイユ様は悪びれる様子もなく、挑戦的な瞳で私を見た。 その瞳は、はっきりとこう言っていた。 『怒るでしょ? 新しいお母様も、私のこと、我儘な悪い子だって怒るんでしょ?』と。
これは、試し行為だ。 昨日の挨拶の時と同じ。 わざと悪いことをして、大人の反応を試している。 ここでヒステリックに怒れば、私は「予想通りの継母」になる。 かといって、見過ごせば「無関心な継母」だ。
レオンハルト様が立ち上がろうとする気配を感じた。 私は片手を上げてそれを制し、ゆっくりと席を立った。
コツ、コツ、コツ。 ヒールの音が静寂に響く。 私はミレイユ様のそばまで歩み寄り、その前に膝をついた。 彼女の顔が強張る。罵声を浴びる準備をしている顔だ。
私は砕けた皿の破片には目もくれず、ミレイユ様の目を見つめた。
「……お洋服は、汚れませんでしたか?」
私の第一声に、ミレイユ様がきょとんとした。
「え……?」
「お怪我はありませんか? 破片が跳ねたりして」
「な、ないわよ。そんなの」
「そうですか。それは良かった」
私はふわりと微笑んだ。 そして、床に散らばったスープを見やり、わざと困ったような顔を作ってみせた。
「でも、もったいなかったですね。このスープ、あまりお好きではありませんでしたか?」
「……冷たいし、美味しくないもの」
「ええ、私もそう思いました。少し塩辛くて、朝には重たいですよね」
私が同意すると、ミレイユ様は目を丸くした。 まさか継母が、家の食事に文句をつけるとは思わなかったのだろう。
「ミレイユ様。お食事を美味しくないと感じるのは、あなたのせいではありません。でも、お皿を落としても、ご飯は美味しくなりませんよ」
私は優しく、しかし毅然と言い聞かせた。
「気に入らないなら、言葉で教えてください。『これが食べたい』と。そうすれば、私が料理長に伝えて、明日はもっと美味しいものを作らせますから」
「……ほんとう?」
「ええ、約束します。私はこの家の運営を任された妻ですから」
私は立ち上がり、唖然としている使用人たちに手早く指示を出した。
「床を片付けて。それから、ミレイユ様には温かいミルクと、焼き直したパンを持ってきてちょうだい。スープは下げて結構よ」
テキパキとした指示に、使用人たちが慌てて動き出す。 私は席に戻り、何事もなかったかのように紅茶を啜った。
レオンハルト様が、信じられないものを見る目で私を見ていた。
「……クラリス。今の対応は……」
「躾(しつけ)は必要ですが、食事の席で怒鳴り声を上げるのはマナー違反ですわ、旦那様」
私は小声でチクリと刺した。 「それに、不味いものを不味いと言って何が悪いのです? 明日の朝食からは、私が献立を見直します」
悪役令嬢らしく、不敵に微笑んでみせる。 レオンハルト様は虚を突かれたように瞬きをし、それから小さく咳払いをして、パンを齧った。
「……任せる」
その耳が、ほんのりと赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
ミレイユ様は、新しく運ばれてきた温かいミルクを、両手で包み込むようにして持っていた。 もう皿を落とそうとはしない。 時折、上目遣いで私を盗み見ている。 その瞳から、敵意の棘が一本だけ、抜けたような気がした。
だが、これで終わりではない。 執事のギルベルトが、私の背後で深く頭を下げながらも、どこか冷ややかな声で囁いた。
「奥様。甘すぎますな」
古株の執事の小言。 そして、その日の午後。 長女ミレイユ様が私の部屋を訪ねてきた時の、あの予想外の言葉。
まだまだ、この屋敷の攻略は一筋縄ではいかないようだ。
部屋の中は猛吹雪のようだった。 三歳の幼子が放出しているとは思えないほど、濃密で鋭利な冷気。 それは物理的な温度の低さだけでなく、彼が抱える拒絶と恐怖そのものだった。
「……うぅ……ママ……」
ノア様は泣いていた。 閉じた瞼の隙間から涙が溢れ、その涙さえも瞬時に凍りついていく。
私はドレスの裾を翻し、さらに一歩踏み出した。 バキバキと音を立てて、私の足元まで氷が侵食してくる。
普通の令嬢なら、悲鳴を上げて逃げ出していただろう。 けれど、私は逃げない。 昨日、そう宣言したばかりだ。それに何より――こんなに小さな子が、たった一人で「寒さ」と戦っているのを見過ごせるわけがない。
私は深く息を吸い込み、体内の魔力を練り上げた。 攻撃魔法ではない。防御魔法でもない。 私が得意とするのは、もっと生活に根ざした、地味だけれど温かい魔法だ。
「――『灯(ともしび)』よ」
私が呟くと、掌からふわりとオレンジ色の光が生まれた。 それは暖炉の火のように優しく、春の日差しのように柔らかい。 生活魔法の一つである『灯』は、本来は明かりを灯したり、部屋を温めたりするための初歩的な魔法だ。
けれど、使い方次第で、それは冷え切った心を溶かす熱になる。
私はその光を胸に抱き、躊躇なくベッドへと飛び込んだ。 吹き荒れる冷気をオレンジ色の光が押し返していく。 私はノア様の小さな体を、毛布ごと強く抱きしめた。
「大丈夫。もう寒くないわ」
私の腕の中で、ノア様がビクリと震えた。 氷のように冷たい体。 私は体温と魔力を分け与えるように、背中をゆっくりと撫でた。
「怖い夢を見たのね。でも、もう大丈夫。私がいます」
耳元で、繰り返し囁く。 これは魔法の呪文ではない。ただの言葉だ。 けれど、どんな高度な魔術よりも、今の彼には必要な「音」だと思った。
次第に、部屋を覆っていた氷が溶け出し、水滴となって床を濡らし始めた。 狂い咲いていた冷気の嵐が収束していく。
ノア様の呼吸が、ヒック、ヒックとしゃくりあげる音に変わった。 強張っていた小さな指が、私のガウンを頼りなげに握りしめる。
「……あ……」
彼が薄目を開けた。 涙に濡れた瞳が、私を見上げる。 私は努めて穏やかに、安心させるような微笑みを向けた。
その時だった。
「ノア!」
バンッ! と扉が乱暴に開かれ、誰かが飛び込んできた。 レオンハルト様だ。 剣を帯び、騎士団の制服を乱した姿。おそらく、魔力の暴走を感じ取って飛び起きたのだろう。
彼の背後には、アルフォンス様とミレイユ様の姿もあった。二人とも顔色が悪い。
「……レオンハルト様」
私はノア様を抱いたまま、振り返った。 レオンハルト様は、部屋の惨状――溶け出した氷の水溜まりと、私の腕の中で安らかになりつつある息子の姿を見て、呆然と立ち尽くしていた。
「君が……鎮めたのか?」
「『灯』で温めただけです。ノア様は、ただ怖い夢をご覧になっていただけですから」
私はこともなげに答えた。 ここで「私の魔法のおかげです」なんて恩着せがましく言うのは、三流の悪役令嬢だ。 あくまで、母親代わりとして当然のことをしたまで。
レオンハルト様は、何か言いたげに口を開きかけ、そして閉じた。 そのアイスブルーの瞳に、わずかな戸惑いと、隠しきれない安堵の色が浮かぶ。
「……すまない。助かった」
「礼には及びません。それより、お着替えを。このままでは風邪を召されてしまいます」
私は使用人たちに指示を出し、濡れたシーツを交換させ、ノア様を乾いた服に着替えさせた。 その間、ノア様はずっと私の袖を離そうとしなかった。 結局、彼が完全に眠りに落ちるまで、私はベッドの端に座り、その背中をトントンと叩き続けることになった。
部屋の隅で、アルフォンス様とミレイユ様が、何か得体の知れないものを見るような目で私を見ていたことに、私は気づかないふりをした。
◇
翌朝。 嵐のような夜が明けて、グレイフ公爵家での最初の朝がやってきた。
窓の外は相変わらずの曇天だが、屋敷の中は昨日とは違う種類の緊張感に包まれていた。 それは、朝食の時間のせいだ。
公爵家の食堂は、無駄に広かった。 長いテーブルの上には、豪華な燭台と、銀食器が並べられている。 上座にレオンハルト様。 その右手に私。 左手には、アルフォンス様、ミレイユ様、そして昨夜のことが嘘のように大人しくなったノア様が座っている。
「……いただきます」
レオンハルト様の低い声と共に、食事が始まった。 しかし、カチャリ、カチャリと食器が触れ合う音だけが響き、誰一人として言葉を発しない。
(……何なの、このお通夜みたいな空気は)
私はスープを口に運びながら、密かにため息をついた。 食事の内容も問題だった。 冷製スープに、固いパン。冷めた肉料理。 栄養バランスは考えられているのかもしれないが、彩りがなく、何より「温かみ」がない。 北方の冬の朝に、こんな冷えた食事を出されて、誰が喜ぶというのだろう。
ちらりと子どもたちを見る。 アルフォンス様は、義務のように機械的にパンを口に運んでいる。 ノア様は、スプーンを持ったまま俯いている。 そしてミレイユ様は――皿の中身をフォークでつつき回しているだけで、一口も食べていない。
「……ミレイユ。食べなさい」
レオンハルト様が注意する。 命令口調だ。 ミレイユ様はビクリと肩を震わせ、不満げに唇を尖らせた。
「……いらない」
「食事を残すなと教えたはずだ」
「だっていらないの! これ、嫌い!」
「我儘を言うな」
会話と呼ぶにはあまりに殺伐としたやり取り。 レオンハルト様は眉間に皺を寄せている。彼は子どもを愛しているはずだが、どう接していいか分からず、どうしても軍人のような命令口調になってしまうらしい。
場の空気が重くなる。 アルフォンス様が、助け船を出そうとして口を開きかけるが、言葉が見つからない様子だ。
私は静かにナプキンで口元を拭った。 これが、この家の日常なのだろう。 機能的で、規律正しくて、そして決定的に何かが欠落している。
食事とは、ただ栄養を摂取する作業ではない。 一日の始まりに、心と体を温めるための儀式だ。 それがこんなに冷え切っていては、子どもたちの心も育たない。
(まずは、ここからね)
私が口を開こうとした、その時だった。
ガシャン!!
甲高い音が食堂に響き渡った。 ミレイユ様の手元から、スープ皿が床に落ちていた。 高価そうな磁器が砕け散り、中身が絨毯に広がる。
事故ではない。 明らかに、彼女の手が皿を押しやったのを、私は見ていた。
「あっ……」
給仕をしていたメイドが息を呑む。 レオンハルト様の顔色が厳しくなる。
「ミレイユ!」
怒声が飛ぶ。 しかし、ミレイユ様は悪びれる様子もなく、挑戦的な瞳で私を見た。 その瞳は、はっきりとこう言っていた。 『怒るでしょ? 新しいお母様も、私のこと、我儘な悪い子だって怒るんでしょ?』と。
これは、試し行為だ。 昨日の挨拶の時と同じ。 わざと悪いことをして、大人の反応を試している。 ここでヒステリックに怒れば、私は「予想通りの継母」になる。 かといって、見過ごせば「無関心な継母」だ。
レオンハルト様が立ち上がろうとする気配を感じた。 私は片手を上げてそれを制し、ゆっくりと席を立った。
コツ、コツ、コツ。 ヒールの音が静寂に響く。 私はミレイユ様のそばまで歩み寄り、その前に膝をついた。 彼女の顔が強張る。罵声を浴びる準備をしている顔だ。
私は砕けた皿の破片には目もくれず、ミレイユ様の目を見つめた。
「……お洋服は、汚れませんでしたか?」
私の第一声に、ミレイユ様がきょとんとした。
「え……?」
「お怪我はありませんか? 破片が跳ねたりして」
「な、ないわよ。そんなの」
「そうですか。それは良かった」
私はふわりと微笑んだ。 そして、床に散らばったスープを見やり、わざと困ったような顔を作ってみせた。
「でも、もったいなかったですね。このスープ、あまりお好きではありませんでしたか?」
「……冷たいし、美味しくないもの」
「ええ、私もそう思いました。少し塩辛くて、朝には重たいですよね」
私が同意すると、ミレイユ様は目を丸くした。 まさか継母が、家の食事に文句をつけるとは思わなかったのだろう。
「ミレイユ様。お食事を美味しくないと感じるのは、あなたのせいではありません。でも、お皿を落としても、ご飯は美味しくなりませんよ」
私は優しく、しかし毅然と言い聞かせた。
「気に入らないなら、言葉で教えてください。『これが食べたい』と。そうすれば、私が料理長に伝えて、明日はもっと美味しいものを作らせますから」
「……ほんとう?」
「ええ、約束します。私はこの家の運営を任された妻ですから」
私は立ち上がり、唖然としている使用人たちに手早く指示を出した。
「床を片付けて。それから、ミレイユ様には温かいミルクと、焼き直したパンを持ってきてちょうだい。スープは下げて結構よ」
テキパキとした指示に、使用人たちが慌てて動き出す。 私は席に戻り、何事もなかったかのように紅茶を啜った。
レオンハルト様が、信じられないものを見る目で私を見ていた。
「……クラリス。今の対応は……」
「躾(しつけ)は必要ですが、食事の席で怒鳴り声を上げるのはマナー違反ですわ、旦那様」
私は小声でチクリと刺した。 「それに、不味いものを不味いと言って何が悪いのです? 明日の朝食からは、私が献立を見直します」
悪役令嬢らしく、不敵に微笑んでみせる。 レオンハルト様は虚を突かれたように瞬きをし、それから小さく咳払いをして、パンを齧った。
「……任せる」
その耳が、ほんのりと赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
ミレイユ様は、新しく運ばれてきた温かいミルクを、両手で包み込むようにして持っていた。 もう皿を落とそうとはしない。 時折、上目遣いで私を盗み見ている。 その瞳から、敵意の棘が一本だけ、抜けたような気がした。
だが、これで終わりではない。 執事のギルベルトが、私の背後で深く頭を下げながらも、どこか冷ややかな声で囁いた。
「奥様。甘すぎますな」
古株の執事の小言。 そして、その日の午後。 長女ミレイユ様が私の部屋を訪ねてきた時の、あの予想外の言葉。
まだまだ、この屋敷の攻略は一筋縄ではいかないようだ。
106
あなたにおすすめの小説
冷遇妃マリアベルの監視報告書
Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。
第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。
そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。
王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。
(小説家になろう様にも投稿しています)
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
公爵令嬢アナスタシアの華麗なる鉄槌
招杜羅147
ファンタジー
「婚約は破棄だ!」
毒殺容疑の冤罪で、婚約者の手によって投獄された公爵令嬢・アナスタシア。
彼女は獄中死し、それによって3年前に巻き戻る。
そして…。
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~
水上
恋愛
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫だ」
夫である王太子はそう笑い、泣き真似が得意な見習い令嬢ばかりを優先した。
王太子妃セシリアは、怒り狂うこともなく、静かに心を閉ざす。
「左様でございますか」
彼女は夫への期待というノイズを遮断し、離縁の準備を始めた。
子育てが落ち着いた20年目の結婚記念日……「離縁よ!離縁!」私は屋敷を飛び出しました。
さくしゃ
恋愛
アーリントン王国の片隅にあるバーンズ男爵領では、6人の子育てが落ち着いた領主夫人のエミリアと領主のヴァーンズは20回目の結婚記念日を迎えていた。
忙しい子育てと政務にすれ違いの生活を送っていた二人は、久しぶりに二人だけで食事をすることに。
「はぁ……盛り上がりすぎて7人目なんて言われたらどうしよう……いいえ!いっそのことあと5人くらい!」
気合いを入れるエミリアは侍女の案内でヴァーンズが待つ食堂へ。しかし、
「信じられない!離縁よ!離縁!」
深夜2時、エミリアは怒りを露わに屋敷を飛び出していった。自室に「実家へ帰らせていただきます!」という書き置きを残して。
結婚20年目にして離婚の危機……果たしてその結末は!?
追放先の辺境で前世の農業知識を思い出した悪役令嬢、奇跡の果実で大逆転。いつの間にか世界経済の中心になっていました。
緋村ルナ
ファンタジー
「お前のような女は王妃にふさわしくない!」――才色兼備でありながら“冷酷な野心家”のレッテルを貼られ、無能な王太子から婚約破棄されたアメリア。国外追放の末にたどり着いたのは、痩せた土地が広がる辺境の村だった。しかし、そこで彼女が見つけた一つの奇妙な種が、運命を、そして世界を根底から覆す。
前世である農業研究員の知識を武器に、新種の果物「ヴェリーナ」を誕生させたアメリア。それは甘美な味だけでなく、世界経済を揺るがすほどの価値を秘めていた。
これは、一人の追放された令嬢が、たった一つの果実で自らの運命を切り開き、かつて自分を捨てた者たちに痛快なリベンジを果たし、やがて世界の覇権を握るまでの物語。「食」と「経済」で世界を変える、壮大な逆転ファンタジー、開幕!
【完結】悪役令嬢ですが、元官僚スキルで断罪も陰謀も処理します。
かおり
ファンタジー
異世界で悪役令嬢に転生した元官僚。婚約破棄? 断罪? 全部ルールと書類で処理します。
謝罪してないのに謝ったことになる“限定謝罪”で、婚約者も貴族も黙らせる――バリキャリ令嬢の逆転劇!
※読んでいただき、ありがとうございます。ささやかな物語ですが、どこか少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
幽閉王女と指輪の精霊~嫁いだら幽閉された!餓死する前に脱出したい!~
二階堂吉乃
恋愛
同盟国へ嫁いだヴァイオレット姫。夫である王太子は初夜に現れなかった。たった1人幽閉される姫。やがて貧しい食事すら届かなくなる。長い幽閉の末、死にかけた彼女を救ったのは、家宝の指輪だった。
1年後。同盟国を訪れたヴァイオレットの従兄が彼女を発見する。忘れられた牢獄には姫のミイラがあった。激怒した従兄は同盟を破棄してしまう。
一方、下町に代書業で身を立てる美少女がいた。ヴィーと名を偽ったヴァイオレットは指輪の精霊と助けあいながら暮らしていた。そこへ元夫?である王太子が視察に来る。彼は下町を案内してくれたヴィーに恋をしてしまう…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる