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第七話「氷の公爵、育児に敗北する」
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アルフォンス様の寝室を出たあと、廊下は静まり返っていた。 レオンハルト様は、まだ少し放心したような顔をしている。 息子と本音で向き合い、抱きしめるという経験は、彼にとっても大きな戦いだったのだろう。
「……疲れたか?」
彼が不意に私に尋ねた。 自分のことよりも、私を気遣うその言葉に、この人の根底にある優しさが垣間見える。
「いいえ。心地よい疲れですわ。……それより旦那様、一つ提案があるのですが」
「提案? また何か、俺に復唱させる気か?」
警戒心たっぷりに身構える彼に、私はくすりと笑った。
「いいえ。復唱ではなく、実技演習です」
「実技……?」
「はい。先ほどのアルフォンス様への対応、合格点はあげられますが、満点ではありませんでした。特に、あの背中の叩き方。あれでは慰めているのか、背骨の位置を確認しているのか分かりません」
「うっ……」
「それに、抱擁の仕方も硬すぎます。あれでは抱かれている方は、鎧に押し付けられている気分です。もっとこう、包み込むような柔らかさが必要です」
私は身振り手振りで説明する。 レオンハルト様は、バツが悪そうに視線を逸らした。
「……仕方ないだろう。俺は生まれてこの方、剣と馬の手綱しか握ってこなかった。柔らかいものを扱うのは苦手なんだ」
「あら、言い訳ですか? 『氷の公爵』ともあろうお方が、赤ん坊一人満足に抱けないなんて」
少し挑発的に言うと、彼の眉がピクリと動いた。 負けず嫌いなところは、やはりアルフォンス様とそっくりだ。
「……分かった。やればいいんだろう、やれば。どうすればいい?」
「まずは力を抜いてください。肩が上がっています。そう、深呼吸をして……」
廊下の真ん中で、公爵様への「抱っこ指導」が始まった。 通りかかったメイドたちが、何事かと目を丸くして見て見ぬふりをしている。
◇
そして、昼食の時間。 食堂には、少し異様な、けれど今までになく温かい空気が流れていた。
テーブルには、まだ顔色は優れないものの、憑き物が落ちたように穏やかな顔をしたアルフォンス様。 その隣で、少し不満げながらも大人しく座っているミレイユ様。 そして、私の隣には、まだ眠そうな目をこすっている末っ子のノア様が座っている。
「……いただきます」
レオンハルト様の号令で、食事が始まった。 今日のメニューは、野菜と鶏肉をじっくり煮込んだクリームシチューに、ふわふわの白パン。 湯気が立ち上る食卓は、それだけで心を解きほぐす魔法のようだ。
「アルフォンス。無理して食べなくていい。残しても構わん」
レオンハルト様が、ぎこちなく息子に声をかける。
「はい、父上。でも、とても美味しいので……いただきます」
アルフォンス様がスプーンでシチューを口に運ぶ。 その表情が、ほわりと緩む。 それを見たレオンハルト様が、安堵したように息を吐く。
ここまでは良かった。 問題は、ここからだ。
「……うぅ……」
私の隣で、ノア様が小さく声を漏らした。 見ると、彼はスプーンを握ったまま、困ったように皿を見つめている。 三歳の彼には、具材のニンジンが少し大きすぎたようだ。 スプーンで切ろうとするが、上手くいかずにカチャカチャと音を立てている。
いつもなら、私が手助けするところだ。 あるいは、後ろに控えている侍女が切り分けるだろう。 けれど、私は侍女に目配せをして下がらせた。 そして、テーブルの下でレオンハルト様の足を軽くつついた。
(出番ですよ、パパ)
レオンハルト様が私を見て、ハッとした顔をする。 彼は意を決したようにナイフとフォークを手に取り、ノア様の方へ体を向けた。
「……ノア。貸してみろ。俺が切ってやる」
低い声。 無表情。 そして、手には鋭く光るナイフ。
ノア様がビクリと震え、スプーンを取り落とした。 レオンハルト様の手から発せられる、無駄に洗練された「殺気」のようなオーラに、小動物的な本能が警鐘を鳴らしたらしい。
「あ、うぅ……」
「動くな。危ないぞ」
レオンハルト様は真剣そのものだ。 彼はノア様の皿を引き寄せると、外科手術のような精密さと、敵将の首を落とすような鋭さで、ニンジンを一刀両断にした。
ダンッ!
皿とナイフがぶつかる音が、静かな食堂に響き渡る。 ニンジンは見事に一口サイズになった。 しかし、そのあまりの気迫に、ノア様の目から涙が溢れ出した。
「……ふぇ……うわぁぁぁぁぁん!!」
「なっ!?」
レオンハルト様が仰天して固まる。 なぜ泣くのか分からない、という顔だ。
「こ、怖い……パパ、こわいよぉ……!」
「こ、怖い? 俺はただ、ニンジンを切っただけだぞ?」
「切り方が怖すぎます、旦那様」
私はすかさずツッコミを入れた。 「なんでそんなに殺気立っているんですか。ニンジンは敵ではありませんよ」
「む……手元が狂わないように集中しただけだ」
「その集中力が、子供には『威圧』に映るんです。もっとこう、ニコニコしながら、『おいしくなーれ』くらいの気持ちでやってください」
「おいしくなーれ……?」
氷の公爵が、宇宙の真理を聞いたような顔で呟く。 ミレイユ様が、呆れたように肩をすくめた。
「パパ、顔が怖い。魔獣を倒しに行く時の顔になってる」
「……そうか?」
レオンハルト様はショックを受けたように自分の頬を触った。 英雄、形無しである。
私は泣いているノア様を膝の上に乗せ、背中をトントンと叩いてあやした。
「よしよし、怖くないですよ。パパはね、ノア君のために一生懸命だっただけなの。ちょっと力が入りすぎちゃったのね」
「……うぅ……グスン……」
私の腕の中で、ノア様が落ち着きを取り戻していく。 その様子を見ていたレオンハルト様が、羨ましそうな、そして少し寂しそうな目を向けた。
「……懐いているな」
「ええ。子供は正直ですから。安心できる場所には寄ってきます」
「俺は……安心できない場所か」
ズーン、と効果音が聞こえそうなくらい落ち込んでいる。 この無敵の公爵様が、三歳児の涙一つでここまでダメージを受けるとは。 少し可哀想になってきたので、私は助け舟を出すことにした。
「旦那様。諦めるのは早いです。ノア様はまだ、あなたの抱っこを知りませんから」
「抱っこ?」
「はい。先ほど廊下で練習したでしょう? あれを実践するチャンスです」
「し、しかし、泣いているぞ」
「だからこそです。泣いている子をあやしてこそ、父親の威厳というものです」
私はニッコリと笑い、膝の上のノア様に優しく言い聞かせた。
「ノア様。パパがね、ごめんねって言いたいんだって。パパの抱っこ、してみる?」
ノア様は涙目のまま、私とレオンハルト様を交互に見た。 レオンハルト様は、緊張で石像のように固まっている。
「……パパ、おっきい」
ノア様が呟く。
「そうね。パパは大きくて、強いのよ。だから、ノア様を守ってくれるわ」
私はそっとノア様を持ち上げ、レオンハルト様の方へ差し出した。 レオンハルト様は、まるで爆発物を受け取るかのように、慎重に両手を差し出す。
「……おいで、ノア」
声が震えている。 でも、その眼差しだけは真剣だった。
ノア様の体が、レオンハルト様の腕の中に移動する。 大きくてゴツゴツした腕。 いつもならここでガチガチに力を入れてしまうところだが、私の指導を思い出したのか、彼はふぅと息を吐いて肩の力を抜いた。
そして、不器用ながらも優しく、ノア様の背中に手を回した。
「……重くなったな」
ぽつりと、レオンハルト様が言った。
「前に抱いた時は……もっと、軽かった気がする」
それはそうだろう。彼が前回ノア様を抱いたのがいつなのか分からないが、子供の成長は早い。 その「重み」こそが、彼が失っていた時間であり、これから取り戻すべきものだ。
ノア様は、最初はこわばっていたが、父親の広い胸板と、意外と高い体温に触れて、次第に力を抜いていった。 そして、小さな手でレオンハルト様の服をぎゅっと掴んだ。
「……パパ……」
「……ああ」
レオンハルト様が、目頭を押さえるように上を向いた。 氷の公爵の瞳が、少しだけ潤んでいるように見えたのは、湯気のせいだけではないだろう。
その光景を見て、アルフォンス様が嬉しそうに微笑み、ミレイユ様も、ふんと鼻を鳴らしつつも、悪い気はしない顔でスープを飲んでいる。
屋敷に来て初めての、本当の意味での「家族の食事」だった。
◇
食事が終わり、子供たちがそれぞれの部屋へ戻ったあと。 私とレオンハルト様は、サロンで食後のお茶を飲んでいた。
「……完敗だ」
レオンハルト様が、深いため息と共に言った。
「魔獣の群れを相手にする方が、よほど楽だ。子供一人の機嫌を取るのに、こんなに体力を消耗するとは」
「ふふ、お疲れ様でした。でも、最後は上手でしたよ。ノア様も安心した顔をしていました」
「君のおかげだ。……あの時、君が背中を押してくれなければ、俺はまた逃げていたかもしれない」
レオンハルト様が、カップを置いて私を直視した。 その瞳は、真剣そのものだ。
「クラリス。君は……不思議な人だ」
「不思議、ですか?」
「ああ。噂では『悪役令嬢』と聞いていた。冷徹で、完璧主義で、人の心を持たない女だと」
「まあ、ひどい言われようですね。半分くらいは合っていますけど」
私は苦笑した。 「可愛げがない」のは事実だし、完璧主義なのも否定しない。
「だが、君はこの屋敷に来てから、ずっと温かい。冷え切っていたこの家を、たった数日で変えてしまった。……俺のことも」
彼は自分の手のひらを見つめた。 さっきまでノア様を抱いていた、その手を。
「俺は、君に救われたのかもしれない」
その言葉は、どんな甘い愛の言葉よりも、私の胸に響いた。 契約結婚。政略の道具。 そんな関係で始まった私たちだったけれど、今、確実に何かが変わり始めている。
「……買いかぶりすぎですわ、旦那様」
私は照れ隠しに、すまして答えた。
「私はただ、契約を履行しているだけです。この家の『母親』になるという契約を。そのためには、父親であるあなたにも、ちゃんと働いてもらわないと困りますから」
「厳しいな」
レオンハルト様が、初めて柔らかく笑った。 氷が溶けるような、春の日差しのような笑顔。 その笑顔を見て、私は不覚にもドキリとしてしまった。 悔しいけれど、この顔はずるい。
「……ところで、クラリス」
「はい?」
「君は……本当は何者なんだ?」
ふと、彼が真顔に戻って問いかけた。 その瞳の奥には、純粋な驚嘆と、探究心が宿っている。
「ただの令嬢にしては、肝が座りすぎている。それに、あの『鎮』の魔法の使い方……あれは、普通の貴族教育で習うものではない」
鋭い。 さすがは辺境を守る公爵様だ。ただの不器用なパパではない。
私はカップをソーサーに戻し、悪戯っぽく微笑んだ。
「あら、秘密ですわ。女は秘密を着飾って美しくなるものですから」
「……はぐらかすのか」
「いつか、お話しする日が来るかもしれません。でも今は――」
言いかけたその時だった。
コンコン。
サロンの扉がノックされ、執事のギルベルトが入ってきた。 その手には、銀盆に乗せられた一通の手紙。 封蝋には、見覚えのある王家の紋章が押されていた。
「旦那様、奥様。王都より急便です」
ギルベルトの声が硬い。 室内の温かな空気が、一瞬にして冷える。
「……王都から?」
レオンハルト様が手紙を手に取り、ペーパーナイフで封を切る。 中身を一読した彼の表情が、険しいものへと変わっていった。
「どうなさいました?」
「……厄介ごとのようだ」
レオンハルト様は手紙をテーブルに置いた。 そこには、流麗な筆跡でこう記されていた。
『親愛なるグレイフ公爵へ。 聞き及んでいるだろうか。君の後妻に入ったクラリス嬢について、よからぬ噂が流れている。 彼女は王都でも評判の悪女だった。継子たちを虐げているのではないかと、リディアも心を痛めている。 近々、調査の使者を送るつもりだ。 ――王太子ルドルフ』
「……虐げている、ですって?」
私は思わず鼻で笑ってしまった。 誰が誰を虐げているというのか。 ついさっき、ニンジンと格闘して泣かせたのは、どこの誰だと思っているのか。
「悪役継母……ですか」
私は手紙を見下ろし、冷ややかに目を細めた。 王太子ルドルフ。そして、その婚約者リディア。 私を追い出しただけでは飽き足らず、まだ私を貶めようというのか。
「面白いですわね」
私の口から、自然と好戦的な言葉が漏れた。
「売られた喧嘩なら、買わせていただきましょう。この家の『母親』として」
レオンハルト様が、そんな私を見て、呆れたように、しかし頼もしげに口元を歪めた。
「……君は、本当に何者なんだ」
その問いかけは、今度は称賛の響きを帯びていた。
「……疲れたか?」
彼が不意に私に尋ねた。 自分のことよりも、私を気遣うその言葉に、この人の根底にある優しさが垣間見える。
「いいえ。心地よい疲れですわ。……それより旦那様、一つ提案があるのですが」
「提案? また何か、俺に復唱させる気か?」
警戒心たっぷりに身構える彼に、私はくすりと笑った。
「いいえ。復唱ではなく、実技演習です」
「実技……?」
「はい。先ほどのアルフォンス様への対応、合格点はあげられますが、満点ではありませんでした。特に、あの背中の叩き方。あれでは慰めているのか、背骨の位置を確認しているのか分かりません」
「うっ……」
「それに、抱擁の仕方も硬すぎます。あれでは抱かれている方は、鎧に押し付けられている気分です。もっとこう、包み込むような柔らかさが必要です」
私は身振り手振りで説明する。 レオンハルト様は、バツが悪そうに視線を逸らした。
「……仕方ないだろう。俺は生まれてこの方、剣と馬の手綱しか握ってこなかった。柔らかいものを扱うのは苦手なんだ」
「あら、言い訳ですか? 『氷の公爵』ともあろうお方が、赤ん坊一人満足に抱けないなんて」
少し挑発的に言うと、彼の眉がピクリと動いた。 負けず嫌いなところは、やはりアルフォンス様とそっくりだ。
「……分かった。やればいいんだろう、やれば。どうすればいい?」
「まずは力を抜いてください。肩が上がっています。そう、深呼吸をして……」
廊下の真ん中で、公爵様への「抱っこ指導」が始まった。 通りかかったメイドたちが、何事かと目を丸くして見て見ぬふりをしている。
◇
そして、昼食の時間。 食堂には、少し異様な、けれど今までになく温かい空気が流れていた。
テーブルには、まだ顔色は優れないものの、憑き物が落ちたように穏やかな顔をしたアルフォンス様。 その隣で、少し不満げながらも大人しく座っているミレイユ様。 そして、私の隣には、まだ眠そうな目をこすっている末っ子のノア様が座っている。
「……いただきます」
レオンハルト様の号令で、食事が始まった。 今日のメニューは、野菜と鶏肉をじっくり煮込んだクリームシチューに、ふわふわの白パン。 湯気が立ち上る食卓は、それだけで心を解きほぐす魔法のようだ。
「アルフォンス。無理して食べなくていい。残しても構わん」
レオンハルト様が、ぎこちなく息子に声をかける。
「はい、父上。でも、とても美味しいので……いただきます」
アルフォンス様がスプーンでシチューを口に運ぶ。 その表情が、ほわりと緩む。 それを見たレオンハルト様が、安堵したように息を吐く。
ここまでは良かった。 問題は、ここからだ。
「……うぅ……」
私の隣で、ノア様が小さく声を漏らした。 見ると、彼はスプーンを握ったまま、困ったように皿を見つめている。 三歳の彼には、具材のニンジンが少し大きすぎたようだ。 スプーンで切ろうとするが、上手くいかずにカチャカチャと音を立てている。
いつもなら、私が手助けするところだ。 あるいは、後ろに控えている侍女が切り分けるだろう。 けれど、私は侍女に目配せをして下がらせた。 そして、テーブルの下でレオンハルト様の足を軽くつついた。
(出番ですよ、パパ)
レオンハルト様が私を見て、ハッとした顔をする。 彼は意を決したようにナイフとフォークを手に取り、ノア様の方へ体を向けた。
「……ノア。貸してみろ。俺が切ってやる」
低い声。 無表情。 そして、手には鋭く光るナイフ。
ノア様がビクリと震え、スプーンを取り落とした。 レオンハルト様の手から発せられる、無駄に洗練された「殺気」のようなオーラに、小動物的な本能が警鐘を鳴らしたらしい。
「あ、うぅ……」
「動くな。危ないぞ」
レオンハルト様は真剣そのものだ。 彼はノア様の皿を引き寄せると、外科手術のような精密さと、敵将の首を落とすような鋭さで、ニンジンを一刀両断にした。
ダンッ!
皿とナイフがぶつかる音が、静かな食堂に響き渡る。 ニンジンは見事に一口サイズになった。 しかし、そのあまりの気迫に、ノア様の目から涙が溢れ出した。
「……ふぇ……うわぁぁぁぁぁん!!」
「なっ!?」
レオンハルト様が仰天して固まる。 なぜ泣くのか分からない、という顔だ。
「こ、怖い……パパ、こわいよぉ……!」
「こ、怖い? 俺はただ、ニンジンを切っただけだぞ?」
「切り方が怖すぎます、旦那様」
私はすかさずツッコミを入れた。 「なんでそんなに殺気立っているんですか。ニンジンは敵ではありませんよ」
「む……手元が狂わないように集中しただけだ」
「その集中力が、子供には『威圧』に映るんです。もっとこう、ニコニコしながら、『おいしくなーれ』くらいの気持ちでやってください」
「おいしくなーれ……?」
氷の公爵が、宇宙の真理を聞いたような顔で呟く。 ミレイユ様が、呆れたように肩をすくめた。
「パパ、顔が怖い。魔獣を倒しに行く時の顔になってる」
「……そうか?」
レオンハルト様はショックを受けたように自分の頬を触った。 英雄、形無しである。
私は泣いているノア様を膝の上に乗せ、背中をトントンと叩いてあやした。
「よしよし、怖くないですよ。パパはね、ノア君のために一生懸命だっただけなの。ちょっと力が入りすぎちゃったのね」
「……うぅ……グスン……」
私の腕の中で、ノア様が落ち着きを取り戻していく。 その様子を見ていたレオンハルト様が、羨ましそうな、そして少し寂しそうな目を向けた。
「……懐いているな」
「ええ。子供は正直ですから。安心できる場所には寄ってきます」
「俺は……安心できない場所か」
ズーン、と効果音が聞こえそうなくらい落ち込んでいる。 この無敵の公爵様が、三歳児の涙一つでここまでダメージを受けるとは。 少し可哀想になってきたので、私は助け舟を出すことにした。
「旦那様。諦めるのは早いです。ノア様はまだ、あなたの抱っこを知りませんから」
「抱っこ?」
「はい。先ほど廊下で練習したでしょう? あれを実践するチャンスです」
「し、しかし、泣いているぞ」
「だからこそです。泣いている子をあやしてこそ、父親の威厳というものです」
私はニッコリと笑い、膝の上のノア様に優しく言い聞かせた。
「ノア様。パパがね、ごめんねって言いたいんだって。パパの抱っこ、してみる?」
ノア様は涙目のまま、私とレオンハルト様を交互に見た。 レオンハルト様は、緊張で石像のように固まっている。
「……パパ、おっきい」
ノア様が呟く。
「そうね。パパは大きくて、強いのよ。だから、ノア様を守ってくれるわ」
私はそっとノア様を持ち上げ、レオンハルト様の方へ差し出した。 レオンハルト様は、まるで爆発物を受け取るかのように、慎重に両手を差し出す。
「……おいで、ノア」
声が震えている。 でも、その眼差しだけは真剣だった。
ノア様の体が、レオンハルト様の腕の中に移動する。 大きくてゴツゴツした腕。 いつもならここでガチガチに力を入れてしまうところだが、私の指導を思い出したのか、彼はふぅと息を吐いて肩の力を抜いた。
そして、不器用ながらも優しく、ノア様の背中に手を回した。
「……重くなったな」
ぽつりと、レオンハルト様が言った。
「前に抱いた時は……もっと、軽かった気がする」
それはそうだろう。彼が前回ノア様を抱いたのがいつなのか分からないが、子供の成長は早い。 その「重み」こそが、彼が失っていた時間であり、これから取り戻すべきものだ。
ノア様は、最初はこわばっていたが、父親の広い胸板と、意外と高い体温に触れて、次第に力を抜いていった。 そして、小さな手でレオンハルト様の服をぎゅっと掴んだ。
「……パパ……」
「……ああ」
レオンハルト様が、目頭を押さえるように上を向いた。 氷の公爵の瞳が、少しだけ潤んでいるように見えたのは、湯気のせいだけではないだろう。
その光景を見て、アルフォンス様が嬉しそうに微笑み、ミレイユ様も、ふんと鼻を鳴らしつつも、悪い気はしない顔でスープを飲んでいる。
屋敷に来て初めての、本当の意味での「家族の食事」だった。
◇
食事が終わり、子供たちがそれぞれの部屋へ戻ったあと。 私とレオンハルト様は、サロンで食後のお茶を飲んでいた。
「……完敗だ」
レオンハルト様が、深いため息と共に言った。
「魔獣の群れを相手にする方が、よほど楽だ。子供一人の機嫌を取るのに、こんなに体力を消耗するとは」
「ふふ、お疲れ様でした。でも、最後は上手でしたよ。ノア様も安心した顔をしていました」
「君のおかげだ。……あの時、君が背中を押してくれなければ、俺はまた逃げていたかもしれない」
レオンハルト様が、カップを置いて私を直視した。 その瞳は、真剣そのものだ。
「クラリス。君は……不思議な人だ」
「不思議、ですか?」
「ああ。噂では『悪役令嬢』と聞いていた。冷徹で、完璧主義で、人の心を持たない女だと」
「まあ、ひどい言われようですね。半分くらいは合っていますけど」
私は苦笑した。 「可愛げがない」のは事実だし、完璧主義なのも否定しない。
「だが、君はこの屋敷に来てから、ずっと温かい。冷え切っていたこの家を、たった数日で変えてしまった。……俺のことも」
彼は自分の手のひらを見つめた。 さっきまでノア様を抱いていた、その手を。
「俺は、君に救われたのかもしれない」
その言葉は、どんな甘い愛の言葉よりも、私の胸に響いた。 契約結婚。政略の道具。 そんな関係で始まった私たちだったけれど、今、確実に何かが変わり始めている。
「……買いかぶりすぎですわ、旦那様」
私は照れ隠しに、すまして答えた。
「私はただ、契約を履行しているだけです。この家の『母親』になるという契約を。そのためには、父親であるあなたにも、ちゃんと働いてもらわないと困りますから」
「厳しいな」
レオンハルト様が、初めて柔らかく笑った。 氷が溶けるような、春の日差しのような笑顔。 その笑顔を見て、私は不覚にもドキリとしてしまった。 悔しいけれど、この顔はずるい。
「……ところで、クラリス」
「はい?」
「君は……本当は何者なんだ?」
ふと、彼が真顔に戻って問いかけた。 その瞳の奥には、純粋な驚嘆と、探究心が宿っている。
「ただの令嬢にしては、肝が座りすぎている。それに、あの『鎮』の魔法の使い方……あれは、普通の貴族教育で習うものではない」
鋭い。 さすがは辺境を守る公爵様だ。ただの不器用なパパではない。
私はカップをソーサーに戻し、悪戯っぽく微笑んだ。
「あら、秘密ですわ。女は秘密を着飾って美しくなるものですから」
「……はぐらかすのか」
「いつか、お話しする日が来るかもしれません。でも今は――」
言いかけたその時だった。
コンコン。
サロンの扉がノックされ、執事のギルベルトが入ってきた。 その手には、銀盆に乗せられた一通の手紙。 封蝋には、見覚えのある王家の紋章が押されていた。
「旦那様、奥様。王都より急便です」
ギルベルトの声が硬い。 室内の温かな空気が、一瞬にして冷える。
「……王都から?」
レオンハルト様が手紙を手に取り、ペーパーナイフで封を切る。 中身を一読した彼の表情が、険しいものへと変わっていった。
「どうなさいました?」
「……厄介ごとのようだ」
レオンハルト様は手紙をテーブルに置いた。 そこには、流麗な筆跡でこう記されていた。
『親愛なるグレイフ公爵へ。 聞き及んでいるだろうか。君の後妻に入ったクラリス嬢について、よからぬ噂が流れている。 彼女は王都でも評判の悪女だった。継子たちを虐げているのではないかと、リディアも心を痛めている。 近々、調査の使者を送るつもりだ。 ――王太子ルドルフ』
「……虐げている、ですって?」
私は思わず鼻で笑ってしまった。 誰が誰を虐げているというのか。 ついさっき、ニンジンと格闘して泣かせたのは、どこの誰だと思っているのか。
「悪役継母……ですか」
私は手紙を見下ろし、冷ややかに目を細めた。 王太子ルドルフ。そして、その婚約者リディア。 私を追い出しただけでは飽き足らず、まだ私を貶めようというのか。
「面白いですわね」
私の口から、自然と好戦的な言葉が漏れた。
「売られた喧嘩なら、買わせていただきましょう。この家の『母親』として」
レオンハルト様が、そんな私を見て、呆れたように、しかし頼もしげに口元を歪めた。
「……君は、本当に何者なんだ」
その問いかけは、今度は称賛の響きを帯びていた。
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