『婚約破棄された悪役令嬢ですが、嫁ぎ先で“連れ子三人”の母になりました ~三人の「ママ」が聞けるまで、私は絶対に逃げません~』

放浪人

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第六話「頑張ったね、を言う練習」

アルフォンス様が目を覚ます少し前。 私はアルフォンス様の寝室の扉の前で、仁王立ちをしてレオンハルト様と向き合っていた。

「いいですか、旦那様。今から作戦会議を行います」

私は人差し指を立てて、氷の公爵の鼻先に突きつけた。 レオンハルト様は、戦場での作戦会議なら慣れているだろうけれど、妻からの説教じみた会議には慣れていないらしい。困惑したように眉を寄せている。

「作戦……? アルフォンスの容態は安定したのだろう? あとは安静にさせておけば……」

「それがダメなのです! ただ寝かせておくだけでは、あの子の心は休まりません。目が覚めた瞬間、彼は『寝てしまった罪悪感』で自分を責めるでしょう」

私は一歩踏み出した。

「そこで必要なのが、父親であるあなたからの言葉です。『サボって寝ていた』のではなく、『任務を完遂して休息をとっているのだ』と、上官であるあなたが承認してあげなければなりません」

「……承認か。分かった。ならば『休暇を許可する』と伝えよう」

「ブッブー!!」

私は思わず両手でバツ印を作った。 レオンハルト様がビクリと肩を震わせる。

「なんですか、『休暇を許可する』って! それは軍隊の命令です! あの子が求めているのは、許可証じゃありません。『頑張ったね』という、父親からの労いと愛情です!」

「……労い……」

レオンハルト様は難しい顔で腕を組んだ。 北方防衛の英雄にとって、敵を殲滅することは容易くても、息子を甘やかす言葉一つひねり出すのは至難の業らしい。

「今まで、アルフォンス様を褒めたことは?」

「あるぞ。『計算に誤りはない、正確だ』とか、『剣の筋が良い、鍛錬の成果が出ている』と」

「……あぁ……」

私は頭を抱えた。 それは「評価」だ。成果物に対する採点であって、その子自身の存在や努力を認める言葉ではない。 アルフォンス様が「完璧でなければ捨てられる」と思い込んだ原因は、まさにそこにある。成果を出した時しか、父親がこっちを見てくれなかったからだ。

「レオンハルト様。今から言う言葉を復唱してください」

「ふ、復唱?」

「はい。『よく頑張ったな』。……さあ!」

レオンハルト様は、まるで敵軍の大将に降伏勧告をするような渋い顔つきになった。 喉仏が上下し、口が開いたり閉じたりする。

「……よ、よく……がん、ばった……」

声が低い。そして硬い。 まるで「よくぞ死んでくれた」と言わんばかりの重厚さだ。これではアルフォンス様が余計に怯えてしまう。

「もっと柔らかく! 顔の筋肉を緩めて! 眉間のシワ、寄ってますよ!」

私が指で彼の眉間を揉みほぐそうとすると、レオンハルト様はされるがままになりながら、情けない声を出した。

「……難しいな。剣を振るうほうがよほど簡単だ」

「剣では子供は育ちません。……いいですか、完璧でなくていいのです。あなたの言葉で、心を込めて伝えてください。それが、あの子の呪いを解く唯一の鍵なのですから」

その時、部屋の中から微かな衣擦れの音が聞こえた。

「起きたみたいです。……行きますよ、パパ」

私が背中を叩くと、レオンハルト様は決死の覚悟を決めたような顔で頷いた。

          ◇

部屋に入ると、アルフォンス様はすでに上体を起こしていた。 その顔色はまだ青白いが、表情は焦燥に満ちていた。 窓の外が明るいのを見て、自分がどれほど長く眠っていたかを悟り、パニックに陥っているのだ。

「……朝……? 僕は、いつから……書類、まだ途中なのに……」

「おはようございます、アルフォンス様」

私が声をかけると、彼は弾かれたようにこちらを見た。 そして、私の後ろに立つレオンハルト様の姿を認めると、サッと顔を強張らせ、反射的にベッドから降りて跪こうとした。

「ち、父上……! 申し訳ありません! 不覚にも寝過ごしてしまい……すぐに支度をして、遅れた分を取り戻します!」

震える声。 地面に額を擦り付けんばかりの勢いだ。 病み上がりの、ふらつく体で。

レオンハルト様が動いた。 彼は大股でアルフォンス様に近づくと、その小さな肩を掴んだ。

「ひっ……!」

アルフォンス様が身を竦める。怒鳴られる、と思ったのだろう。 レオンハルト様は、息子をベッドに座り直させると、その前に片膝をついて目線の高さを合わせた。

その行動に、アルフォンス様が目を見開く。 いつも遥か高いところから見下ろしていた父が、自分と同じ高さにいる。

「……ア、アルフォンス」

レオンハルト様の声は、やはり少し硬かった。 彼は膝の上で拳を握りしめ、先ほど練習した言葉を紡ごうとして――詰まった。 息子が、怯えた子鹿のような目で自分を見ている。 その事実に、言葉が喉に張り付いて出てこないのだ。

沈黙が痛い。 アルフォンス様の不安が極限に達しようとした時、私は助け船を出した。 すっと二人の間に割って入り、アルフォンス様の冷たい手を両手で包み込む。

「アルフォンス様。怒っているのではありませんよ。お父様は、あなたが倒れるまで頑張っていたことを、ずっと心配されていたのです」

「……心配? 父上が、僕を?」

「ええ。ねぇ、あなたはずっと一人で戦っていたのですね。お母様がいなくなってから、この家を守ろうとして。お父様の役に立とうとして」

私は彼の手を優しくさすった。 ボロボロになったペンだこ。子供らしくない、荒れた指先。 それが彼の戦いの勲章であり、傷跡だ。

「えらかったです。十歳の男の子が背負うには、重すぎる荷物でした。それでもあなたは逃げずに、弟や妹を守り、領地のために尽くしてきました」

私は一語一語、噛み締めるように言った。 評価ではない。ただの事実の承認。

「あなたはもう、十分すぎるほどやりました。誰もあなたを責めません。……頑張りましたね、アルフォンス様」

『頑張ったね』。 その言葉が落ちた瞬間、アルフォンス様の瞳が大きく揺れた。 ずっと張り詰めていたダムに、亀裂が入るように。

「……僕は……がんば、った……?」

「ええ。とても」

私は彼の手を握ったまま、レオンハルト様に視線を送った。 (さあ、今です。あなたの番ですよ)

レオンハルト様はハッとして、息を吸い込んだ。 私の言葉が呼び水になったのか、彼の迷いが消えていた。 不器用な手が、恐る恐るアルフォンス様の頭に伸びる。 そして、くしゃり、と黒髪を撫でた。

「……すまなかった、アルフォンス」

低い声。でも、そこには温かい響きがあった。

「俺は、お前に甘えていた。お前が大人びているから、それに頼って、子供であることを忘れさせてしまっていた」

「ちち、うえ……?」

「クラリスの言う通りだ。お前は……この家の誰よりも、よくやっていた。俺の自慢の息子だ」

レオンハルト様は、そこで一度言葉を切り、喉の奥から絞り出すように言った。

「……よく頑張ったな。もう、無理はしなくていい」

その手はゴツゴツしていて、撫で方もぎこちなかったけれど。 アルフォンス様にとっては、何よりも温かい父親の手のひらだった。

「……っ……う、ぅ……」

アルフォンス様の顔が歪む。 唇を噛んで堪えようとするが、大きな瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。

「……父上……っ、ごめんなさい……僕……っ」

「謝るな。泣いていい」

レオンハルト様は、さらに一歩踏み込み、不慣れな手つきで息子の細い体を抱き寄せた。 アルフォンス様は、父の胸板に顔を押し付け、ついに声を上げて泣き出した。

「うあぁぁぁぁぁぁっ! う、うぅぅ……!」

子供の泣き声が部屋に響く。 それは、彼が「公爵家の跡取り」という鎧を脱ぎ捨て、「ただの十歳の子供」に戻った瞬間だった。

私は少し離れた場所で、その光景を見守っていた。 胸の奥がじんわりと温かくなる。 よかった。これで、まず一人は「こちら側」に戻ってこられた。

レオンハルト様は、腕の中で泣きじゃくる息子の背中を、どう叩けばいいのか分からず、ただ空中で手を彷徨わせていた。 やがて、覚悟を決めたように、ぎこちなくポン、ポンと叩き始める。 そのリズムは私のものとは違って不格好だったけれど、必死さは伝わってきた。

ひとしきり泣いて、アルフォンス様が泣き疲れて落ち着いた頃。 彼は真っ赤な目をして、恥ずかしそうに父から離れた。

「……取り乱しました」

「いや、いい」

レオンハルト様もまた、どこを見ていいのか分からないようで、視線を泳がせている。 似た者親子だ。

「あの……クラリス様」

アルフォンス様が、私を見た。 その瞳からは、昨日のような刺々しい警戒心は消え失せていた。 まだ「お母様」とは呼べないだろう。 でも、そこには明確な信頼と、少しの甘えが見えた。

「サンドイッチ……美味しかったです」

蚊の鳴くような声でのお礼。 私は満面の笑みで答えた。

「どういたしまして。今日のランチはもっと美味しいですよ。みんなで食べましょうね」

「……はい」

アルフォンス様が、小さく頷く。 その頬が、ほんのりと朱に染まっていた。

こうして、長男アルフォンス様の攻略は、ひとまず成功と言っていいだろう。 「母はいりません」と言い放った小さな当主様は、今や私のサンドイッチの虜だ。……というのは言い過ぎかもしれないけれど、少なくとも敵ではない。

部屋を出たあと、廊下でレオンハルト様が大きなため息をついた。 額には脂汗が滲んでいる。

「……寿命が縮まる思いだった」

「あら、魔獣退治より大変でしたか?」

「比べるまでもない。……だが」

彼は扉の方を振り返り、ふっと表情を緩めた。

「あいつがあんな風に泣くのを、久しぶりに見た。……赤ん坊の頃以来かもしれない」

「子供は泣くのが仕事です。これからは、もっと泣かせてあげましょう。嬉しい時も、悲しい時も」

「ああ。……ありがとう、クラリス」

レオンハルト様が、不意に私の手を取った。 大きくて、剣ダコのある武人の手。

「君が来てくれて、本当によかった。俺一人では、一生気づけなかったかもしれない」

真摯な眼差し。 アイスブルーの瞳が、熱を帯びて私を見つめている。 不覚にも、私の心臓がトクンと跳ねた。 なによ、この人。 息子への褒め言葉はあんなに下手だったのに、妻を口説く(?)ような台詞はさらりと言うんだから。 天然たらしかもしれない。要注意だ。

「……お礼を言うのは早いですわ、旦那様。まだ問題は山積みです」

私は照れ隠しに手を引っ込め、咳払いをした。

「次は、あなたのその『抱っこ下手』をなんとかしませんと。さっき見ていましたよ。アルフォンス様の背中を叩く手が、まるで肉を叩いて柔らかくしているみたいでした」

「なっ……! そ、そんなことは……」

「いいえ、ありました。次はノア様やミレイユ様も抱きしめてあげなきゃいけないんですから、特訓が必要ですね」

「特訓……またか……」

レオンハルト様ががっくりと肩を落とす。 そんな私たちのやり取りを、廊下の陰から見ている小さな影があることに、私はまだ気づいていなかった。

(……ふん。お兄様ったら、簡単にほだされちゃって)

不満げに頬を膨らませる、金髪の少女。 ミレイユ様だ。 彼女の手には、私に渡すつもりだったのか、摘んだばかりの花が一輪、握られていた。

しかし、彼女はそれを見るなり、床に投げ捨てて踏みつけた。

「私は騙されないわよ。……絶対」

屋敷の氷は溶け始めたけれど、まだ完全に春が来たわけではない。 特に、あの一番賢くて、一番素直じゃないお姫様にとっては。

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