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第五話「小さな当主の倒れる日」
「アルフォンス!」
食堂を飛び出し、玄関ホールへと駆けつけた私の目に飛び込んできたのは、冷たい大理石の床に倒れ伏す、小さな背中だった。 その傍らで、レオンハルト様が膝をつき、息子の体を抱き起こそうとしている。 氷の公爵と呼ばれる彼の手が、微かに震えているのが見えた。
「おい、しっかりしろ! アルフォンス!」
呼びかけに答えはない。 だらりと垂れ下がった腕。青白を通り越して土気色になった顔。 十歳の少年とは思えないほど、その体は軽く、薄く見えた。
「レオンハルト様、動かさないで!」
私は叫びながら駆け寄った。 ドレスの裾が乱れるのも構わず、二人のそばに滑り込む。 アルフォンス様の額に手を当てると、火傷しそうなほどの熱さが掌に伝わってきた。
「高熱ですわ。……呼吸も浅い。ギルベルト! すぐに医師を! それから男手を数人呼んで、アルフォンス様を寝室へ運んでちょうだい。毛布も必要よ!」
「は、はいっ!」
私の指示に、凍りついていた使用人たちが弾かれたように動き出す。 レオンハルト様は、自分の腕の中にある息子の顔を見つめ、茫然としていた。 戦場では数多の死線を潜り抜けてきた英雄が、たった一人の息子の不調を前に、何をすべきか分からずに立ち尽くしている。
「レオンハルト様」
私は努めて冷静な声を出した。
「大丈夫です。私たちがついています。まずはベッドへ」
「……あ、ああ」
レオンハルト様が、壊れ物を扱うように慎重にアルフォンス様を抱き上げた。 その背中を追いかけながら、私は唇を噛み締めた。
予兆はあった。 昨夜の、あの異様なまでの執務への執着。 食事も摂らず、睡眠も削り、十歳の子どもが背負うべきではない重荷を一人で背負い込んでいた。 私はそれを止められなかった。 サンドイッチを差し入れするだけで、満足してしまっていたのだ。
(母親失格ね、クラリス)
自分を叱咤しながら、私は階段を駆け上がった。
◇
アルフォンス様の寝室は、彼の性格を反映するかのように、飾り気がなく整然としていた。 ただ、枕元に運び込まれたお湯とタオルの湯気だけが、生々しい現実を突きつけてくる。
到着した専属医の診察が始まった。 聴診器を当てる医師の表情が、刻一刻と曇っていく。 私とレオンハルト様は、部屋の隅でその様子を見守るしかなかった。
「……う……ん……」
ベッドの上で、アルフォンス様が苦しげに呻く。 そのたびに、レオンハルト様の肩がビクリと跳ねる。
やがて、医師がふぅと息を吐き、こちらに向き直った。
「風邪による高熱です。それに、極度の栄養失調と睡眠不足が重なっています」
「栄養失調だと? 食事は与えていたはずだ」
レオンハルト様が鋭く問いただす。
「ええ。ですが、食べたものが身になっていません。常に緊張状態で、胃腸が機能していないのです。それに……」
医師は言葉を濁し、痛ましげに少年を見た。
「肉体的な疲労も限界ですが、それ以上に精神の磨耗が激しい。……まるで、何かに追われているかのような」
その言葉に、部屋の空気が重く沈んだ。 何に追われているのか。それは明白だった。 「公爵家の跡取り」という重圧。 そして、「役に立たなければ捨てられる」という、言葉にならない恐怖だ。
その時だった。
「……書類……」
かすれた声が響いた。 アルフォンス様が、虚ろな目を開けていた。 高熱で焦点が合っていないはずなのに、彼は反射的に体を起こそうとした。
「アルフォンス!」
レオンハルト様が駆け寄る。 しかし、アルフォンス様はその手を振り払うようにして、ベッドから這い出ようとした。
「いけません……父上、まだ……決裁が……予算案の確認が……」
うわ言のように繰り返される言葉。 その姿は、あまりに痛々しく、そして異常だった。 熱に浮かされながらも、彼は「仕事」のことしか口にしない。 自分が倒れたことへの恐怖よりも、仕事が滞ることへの恐怖が勝っているのだ。
「寝ていなさい! 仕事など、今はいい!」
レオンハルト様が怒鳴るように言う。 けれど、それは逆効果だった。 アルフォンス様の顔が、恐怖に歪む。
「だめです……僕がやらなきゃ……父上の、役に立たないと……」
「アルフォンス……」
「僕は……グレイフ家の長男だから……完璧に……もっと、頑張らないと……」
彼は喘ぎながら、それでも震える足で立とうとする。 その目には涙が溜まっていた。 熱のせいだけではない。 これは、彼の魂の叫びだ。
『お前はいらない』と言われるのが怖い。 母を亡くし、父との距離が開き、この家に自分の居場所がないと感じている少年が、唯一すがりついた存在証明。 それが「有能な跡継ぎであること」だったのだ。
レオンハルト様が、言葉を失って立ち尽くす。 息子の本音を突きつけられ、どう声をかければいいのか分からないのだ。
私は、静かに歩み出た。 そして、今にも倒れそうなアルフォンス様の肩を、両手でしっかりと掴んだ。
「アルフォンス様。お休みください」
「……はな、して……僕は、行かなきゃ……」
「いいえ、行かせません。これは『母親』としての命令です」
私は努めて強い口調で言った。 優しく言い聞かせる段階ではない。 彼を縛り付けている鎖を、強引にでも断ち切らなければならない。
「あなたは今、病気です。熱があり、立っているのもやっとでしょう。そんな状態で仕事をしても、ミスをするだけです。それはかえって、グレイフ家の不利益になります」
「……っ」
「不利益」という言葉に、アルフォンス様がビクリと反応する。
「本当に優秀な当主は、自分の体調管理も仕事のうちです。今のあなたは、役に立つどころか、周りに心配をかけ、迷惑をかけているだけの子供です」
厳しい言葉だったかもしれない。 レオンハルト様が息を呑む気配がした。 けれど、私は引かなかった。 アルフォンス様の瞳が揺れ、私を睨みつける。
「……あなたに、何が分かるんですか……!」
「分かりますよ。あなたが、とても怖がりで、寂しがり屋の男の子だということは」
私は彼の肩を掴む手に、じわりと『鎮』の魔力を込めた。 温かく、重みのある魔力が、彼の昂った神経を包み込んでいく。
「頑張らなくていいとは言いません。あなたは次期公爵として、立派に努めようとしています。それは素晴らしいことです。……でもね」
私は彼の目線を真っ直ぐに見つめ、声を和らげた。
「倒れるまで頑張るのは、『努力』ではありません。それは『自傷』です。自分を傷つけてまで守るべき家なんて、この世にはありません」
「……でも……僕がしないと……」
「大人がいます。お父様がいて、ギルベルトがいて、そして私がいます。十歳の子供が背負いきれない荷物は、大人が半分持てばいいのです。そのために、私たちがいるのですから」
魔力が浸透し、彼の抵抗する力が弱まっていく。 張り詰めていた糸が、ぷつりと切れたように、彼の膝が折れた。 私はその体を抱き止めた。 熱くて、軽い体。
「……もう、休みなさい。誰もあなたを責めません。誰もあなたを捨てません」
耳元で囁くと、アルフォンス様は私の肩に顔を埋め、小さく嗚咽を漏らした。
「……う、ぅ……」
「大丈夫。大丈夫よ」
背中を撫でる。 彼はしばらく震えていたが、やがて薬と魔力の効果か、その重みがずしりと増した。 深い呼吸と共に、意識が眠りの底へと落ちていく。
私は彼をベッドに横たえ、丁寧に毛布をかけた。 汗ばんだ前髪を払うと、苦痛に歪んでいた表情が、少しだけ安らかになっていた。
部屋には静寂が戻った。 医師が一礼して退室していく。 残されたのは、眠る少年と、私と、レオンハルト様。
レオンハルト様は、ベッドの足元で、ただ呆然と息子を見つめていた。 その背中は、戦場の英雄とは思えないほど小さく見えた。
「……俺は……」
絞り出すような声が、静寂を破った。
「俺は、あいつを追い詰めていたのか」
独白のような問いかけ。
「あいつが……あんな風に思っていたとは、知らなかった。俺の役に立ちたいと……捨てられるのが怖いと……」
レオンハルト様が、大きな手で顔を覆う。 指の間から、悔恨の色が見え隠れする。
「俺は、あいつを守るために、厳しく育てなければと思っていた。北方を守る公爵として、強くあってほしいと。……だが、俺がしていたのは、ただ子供に重荷を背負わせ、孤独にさせていただけだったのか」
「レオンハルト様」
私は彼のそばに歩み寄った。 慰めの言葉は、今は違う気がした。 彼は父親として、初めて直面しているのだ。自分の不器用さが招いた結果に。
「気づけたのですから、遅くはありません。アルフォンス様はまだ十歳です。やり直せます」
「……やり直せるだろうか。俺のような、不器用な父親に」
「一人では無理かもしれませんね」
私はふふ、と小さく笑った。 レオンハルト様が、意外そうに顔を上げる。
「だから、私が来たのではありませんか? あなたが厳しさ担当なら、私が甘やかし担当になります。二人で一人前、それでいいのではありませんか」
「……クラリス」
レオンハルト様のアイスブルーの瞳が、私を映した。 そこには、初めて明確な信頼の色が宿っていた。
「……そうだな。君の言う通りだ」
彼は不器用に口元を緩め、そして眠る息子に視線を戻した。 その眼差しは、先ほどまでの硬いものではなく、痛々しいほどの愛情に満ちていた。
◇
部屋を出たところで、医師が待っていた。 彼は私を見ると、表情を引き締めて一礼した。 まだ話があるようだ。
「奥様。アルフォンス様の容態ですが……峠は越えました。ですが」
医師は言葉を切り、真剣な眼差しで私を見た。
「先ほども申し上げましたが、これは単なる過労ではありません。長期間にわたるストレスが、心臓に負担をかけています。このまま同じ生活を続ければ……次は、取り返しのつかないことになるかもしれません」
「……心因性の、心臓への負担」
「はい。彼に必要なのは薬ではありません。『自分は許されている』という、絶対的な安心感です。それがなければ、いくら休ませても、彼の魂は削られ続けるでしょう」
医師の言葉は重かった。 単に仕事を休ませればいいという問題ではない。 アルフォンス様の心の根底にある、「頑張らなければ価値がない」という呪いを解かなければならないのだ。
その呪いをかけたのは、環境であり、父の沈黙であり、そして母の不在だ。
(難題ね)
私は廊下の窓から、灰色の空を見上げた。 雪が激しくなっている。
アルフォンス様の呪いを解くには、言葉だけでは足りない。 彼が心から「自分は頑張った」「もう十分だ」と思えるような、決定的な承認が必要だ。
そして、それをしてあげられるのは、私ではない。 不器用で、言葉足らずな、あの父親だけだ。
「……面白いじゃない」
私は小さく呟いた。 悪役令嬢として、数々の社交界の荒波を乗り越えてきた私だ。 不器用な父と、意固地な息子の仲を取り持つくらい、どうってことない。
私が次に打つべき手は、決まっていた。 あの氷の公爵に、ちゃんと言葉を吐き出させること。 それが、この家を救う鍵になる。
食堂を飛び出し、玄関ホールへと駆けつけた私の目に飛び込んできたのは、冷たい大理石の床に倒れ伏す、小さな背中だった。 その傍らで、レオンハルト様が膝をつき、息子の体を抱き起こそうとしている。 氷の公爵と呼ばれる彼の手が、微かに震えているのが見えた。
「おい、しっかりしろ! アルフォンス!」
呼びかけに答えはない。 だらりと垂れ下がった腕。青白を通り越して土気色になった顔。 十歳の少年とは思えないほど、その体は軽く、薄く見えた。
「レオンハルト様、動かさないで!」
私は叫びながら駆け寄った。 ドレスの裾が乱れるのも構わず、二人のそばに滑り込む。 アルフォンス様の額に手を当てると、火傷しそうなほどの熱さが掌に伝わってきた。
「高熱ですわ。……呼吸も浅い。ギルベルト! すぐに医師を! それから男手を数人呼んで、アルフォンス様を寝室へ運んでちょうだい。毛布も必要よ!」
「は、はいっ!」
私の指示に、凍りついていた使用人たちが弾かれたように動き出す。 レオンハルト様は、自分の腕の中にある息子の顔を見つめ、茫然としていた。 戦場では数多の死線を潜り抜けてきた英雄が、たった一人の息子の不調を前に、何をすべきか分からずに立ち尽くしている。
「レオンハルト様」
私は努めて冷静な声を出した。
「大丈夫です。私たちがついています。まずはベッドへ」
「……あ、ああ」
レオンハルト様が、壊れ物を扱うように慎重にアルフォンス様を抱き上げた。 その背中を追いかけながら、私は唇を噛み締めた。
予兆はあった。 昨夜の、あの異様なまでの執務への執着。 食事も摂らず、睡眠も削り、十歳の子どもが背負うべきではない重荷を一人で背負い込んでいた。 私はそれを止められなかった。 サンドイッチを差し入れするだけで、満足してしまっていたのだ。
(母親失格ね、クラリス)
自分を叱咤しながら、私は階段を駆け上がった。
◇
アルフォンス様の寝室は、彼の性格を反映するかのように、飾り気がなく整然としていた。 ただ、枕元に運び込まれたお湯とタオルの湯気だけが、生々しい現実を突きつけてくる。
到着した専属医の診察が始まった。 聴診器を当てる医師の表情が、刻一刻と曇っていく。 私とレオンハルト様は、部屋の隅でその様子を見守るしかなかった。
「……う……ん……」
ベッドの上で、アルフォンス様が苦しげに呻く。 そのたびに、レオンハルト様の肩がビクリと跳ねる。
やがて、医師がふぅと息を吐き、こちらに向き直った。
「風邪による高熱です。それに、極度の栄養失調と睡眠不足が重なっています」
「栄養失調だと? 食事は与えていたはずだ」
レオンハルト様が鋭く問いただす。
「ええ。ですが、食べたものが身になっていません。常に緊張状態で、胃腸が機能していないのです。それに……」
医師は言葉を濁し、痛ましげに少年を見た。
「肉体的な疲労も限界ですが、それ以上に精神の磨耗が激しい。……まるで、何かに追われているかのような」
その言葉に、部屋の空気が重く沈んだ。 何に追われているのか。それは明白だった。 「公爵家の跡取り」という重圧。 そして、「役に立たなければ捨てられる」という、言葉にならない恐怖だ。
その時だった。
「……書類……」
かすれた声が響いた。 アルフォンス様が、虚ろな目を開けていた。 高熱で焦点が合っていないはずなのに、彼は反射的に体を起こそうとした。
「アルフォンス!」
レオンハルト様が駆け寄る。 しかし、アルフォンス様はその手を振り払うようにして、ベッドから這い出ようとした。
「いけません……父上、まだ……決裁が……予算案の確認が……」
うわ言のように繰り返される言葉。 その姿は、あまりに痛々しく、そして異常だった。 熱に浮かされながらも、彼は「仕事」のことしか口にしない。 自分が倒れたことへの恐怖よりも、仕事が滞ることへの恐怖が勝っているのだ。
「寝ていなさい! 仕事など、今はいい!」
レオンハルト様が怒鳴るように言う。 けれど、それは逆効果だった。 アルフォンス様の顔が、恐怖に歪む。
「だめです……僕がやらなきゃ……父上の、役に立たないと……」
「アルフォンス……」
「僕は……グレイフ家の長男だから……完璧に……もっと、頑張らないと……」
彼は喘ぎながら、それでも震える足で立とうとする。 その目には涙が溜まっていた。 熱のせいだけではない。 これは、彼の魂の叫びだ。
『お前はいらない』と言われるのが怖い。 母を亡くし、父との距離が開き、この家に自分の居場所がないと感じている少年が、唯一すがりついた存在証明。 それが「有能な跡継ぎであること」だったのだ。
レオンハルト様が、言葉を失って立ち尽くす。 息子の本音を突きつけられ、どう声をかければいいのか分からないのだ。
私は、静かに歩み出た。 そして、今にも倒れそうなアルフォンス様の肩を、両手でしっかりと掴んだ。
「アルフォンス様。お休みください」
「……はな、して……僕は、行かなきゃ……」
「いいえ、行かせません。これは『母親』としての命令です」
私は努めて強い口調で言った。 優しく言い聞かせる段階ではない。 彼を縛り付けている鎖を、強引にでも断ち切らなければならない。
「あなたは今、病気です。熱があり、立っているのもやっとでしょう。そんな状態で仕事をしても、ミスをするだけです。それはかえって、グレイフ家の不利益になります」
「……っ」
「不利益」という言葉に、アルフォンス様がビクリと反応する。
「本当に優秀な当主は、自分の体調管理も仕事のうちです。今のあなたは、役に立つどころか、周りに心配をかけ、迷惑をかけているだけの子供です」
厳しい言葉だったかもしれない。 レオンハルト様が息を呑む気配がした。 けれど、私は引かなかった。 アルフォンス様の瞳が揺れ、私を睨みつける。
「……あなたに、何が分かるんですか……!」
「分かりますよ。あなたが、とても怖がりで、寂しがり屋の男の子だということは」
私は彼の肩を掴む手に、じわりと『鎮』の魔力を込めた。 温かく、重みのある魔力が、彼の昂った神経を包み込んでいく。
「頑張らなくていいとは言いません。あなたは次期公爵として、立派に努めようとしています。それは素晴らしいことです。……でもね」
私は彼の目線を真っ直ぐに見つめ、声を和らげた。
「倒れるまで頑張るのは、『努力』ではありません。それは『自傷』です。自分を傷つけてまで守るべき家なんて、この世にはありません」
「……でも……僕がしないと……」
「大人がいます。お父様がいて、ギルベルトがいて、そして私がいます。十歳の子供が背負いきれない荷物は、大人が半分持てばいいのです。そのために、私たちがいるのですから」
魔力が浸透し、彼の抵抗する力が弱まっていく。 張り詰めていた糸が、ぷつりと切れたように、彼の膝が折れた。 私はその体を抱き止めた。 熱くて、軽い体。
「……もう、休みなさい。誰もあなたを責めません。誰もあなたを捨てません」
耳元で囁くと、アルフォンス様は私の肩に顔を埋め、小さく嗚咽を漏らした。
「……う、ぅ……」
「大丈夫。大丈夫よ」
背中を撫でる。 彼はしばらく震えていたが、やがて薬と魔力の効果か、その重みがずしりと増した。 深い呼吸と共に、意識が眠りの底へと落ちていく。
私は彼をベッドに横たえ、丁寧に毛布をかけた。 汗ばんだ前髪を払うと、苦痛に歪んでいた表情が、少しだけ安らかになっていた。
部屋には静寂が戻った。 医師が一礼して退室していく。 残されたのは、眠る少年と、私と、レオンハルト様。
レオンハルト様は、ベッドの足元で、ただ呆然と息子を見つめていた。 その背中は、戦場の英雄とは思えないほど小さく見えた。
「……俺は……」
絞り出すような声が、静寂を破った。
「俺は、あいつを追い詰めていたのか」
独白のような問いかけ。
「あいつが……あんな風に思っていたとは、知らなかった。俺の役に立ちたいと……捨てられるのが怖いと……」
レオンハルト様が、大きな手で顔を覆う。 指の間から、悔恨の色が見え隠れする。
「俺は、あいつを守るために、厳しく育てなければと思っていた。北方を守る公爵として、強くあってほしいと。……だが、俺がしていたのは、ただ子供に重荷を背負わせ、孤独にさせていただけだったのか」
「レオンハルト様」
私は彼のそばに歩み寄った。 慰めの言葉は、今は違う気がした。 彼は父親として、初めて直面しているのだ。自分の不器用さが招いた結果に。
「気づけたのですから、遅くはありません。アルフォンス様はまだ十歳です。やり直せます」
「……やり直せるだろうか。俺のような、不器用な父親に」
「一人では無理かもしれませんね」
私はふふ、と小さく笑った。 レオンハルト様が、意外そうに顔を上げる。
「だから、私が来たのではありませんか? あなたが厳しさ担当なら、私が甘やかし担当になります。二人で一人前、それでいいのではありませんか」
「……クラリス」
レオンハルト様のアイスブルーの瞳が、私を映した。 そこには、初めて明確な信頼の色が宿っていた。
「……そうだな。君の言う通りだ」
彼は不器用に口元を緩め、そして眠る息子に視線を戻した。 その眼差しは、先ほどまでの硬いものではなく、痛々しいほどの愛情に満ちていた。
◇
部屋を出たところで、医師が待っていた。 彼は私を見ると、表情を引き締めて一礼した。 まだ話があるようだ。
「奥様。アルフォンス様の容態ですが……峠は越えました。ですが」
医師は言葉を切り、真剣な眼差しで私を見た。
「先ほども申し上げましたが、これは単なる過労ではありません。長期間にわたるストレスが、心臓に負担をかけています。このまま同じ生活を続ければ……次は、取り返しのつかないことになるかもしれません」
「……心因性の、心臓への負担」
「はい。彼に必要なのは薬ではありません。『自分は許されている』という、絶対的な安心感です。それがなければ、いくら休ませても、彼の魂は削られ続けるでしょう」
医師の言葉は重かった。 単に仕事を休ませればいいという問題ではない。 アルフォンス様の心の根底にある、「頑張らなければ価値がない」という呪いを解かなければならないのだ。
その呪いをかけたのは、環境であり、父の沈黙であり、そして母の不在だ。
(難題ね)
私は廊下の窓から、灰色の空を見上げた。 雪が激しくなっている。
アルフォンス様の呪いを解くには、言葉だけでは足りない。 彼が心から「自分は頑張った」「もう十分だ」と思えるような、決定的な承認が必要だ。
そして、それをしてあげられるのは、私ではない。 不器用で、言葉足らずな、あの父親だけだ。
「……面白いじゃない」
私は小さく呟いた。 悪役令嬢として、数々の社交界の荒波を乗り越えてきた私だ。 不器用な父と、意固地な息子の仲を取り持つくらい、どうってことない。
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