『婚約破棄された悪役令嬢ですが、嫁ぎ先で“連れ子三人”の母になりました ~三人の「ママ」が聞けるまで、私は絶対に逃げません~』

放浪人

文字の大きさ
7 / 31

第七話「氷の公爵、育児に敗北する」

しおりを挟む
アルフォンス様の寝室を出たあと、廊下は静まり返っていた。 レオンハルト様は、まだ少し放心したような顔をしている。 息子と本音で向き合い、抱きしめるという経験は、彼にとっても大きな戦いだったのだろう。

「……疲れたか?」

彼が不意に私に尋ねた。 自分のことよりも、私を気遣うその言葉に、この人の根底にある優しさが垣間見える。

「いいえ。心地よい疲れですわ。……それより旦那様、一つ提案があるのですが」

「提案? また何か、俺に復唱させる気か?」

警戒心たっぷりに身構える彼に、私はくすりと笑った。

「いいえ。復唱ではなく、実技演習です」

「実技……?」

「はい。先ほどのアルフォンス様への対応、合格点はあげられますが、満点ではありませんでした。特に、あの背中の叩き方。あれでは慰めているのか、背骨の位置を確認しているのか分かりません」

「うっ……」

「それに、抱擁の仕方も硬すぎます。あれでは抱かれている方は、鎧に押し付けられている気分です。もっとこう、包み込むような柔らかさが必要です」

私は身振り手振りで説明する。 レオンハルト様は、バツが悪そうに視線を逸らした。

「……仕方ないだろう。俺は生まれてこの方、剣と馬の手綱しか握ってこなかった。柔らかいものを扱うのは苦手なんだ」

「あら、言い訳ですか? 『氷の公爵』ともあろうお方が、赤ん坊一人満足に抱けないなんて」

少し挑発的に言うと、彼の眉がピクリと動いた。 負けず嫌いなところは、やはりアルフォンス様とそっくりだ。

「……分かった。やればいいんだろう、やれば。どうすればいい?」

「まずは力を抜いてください。肩が上がっています。そう、深呼吸をして……」

廊下の真ん中で、公爵様への「抱っこ指導」が始まった。 通りかかったメイドたちが、何事かと目を丸くして見て見ぬふりをしている。

          ◇

そして、昼食の時間。 食堂には、少し異様な、けれど今までになく温かい空気が流れていた。

テーブルには、まだ顔色は優れないものの、憑き物が落ちたように穏やかな顔をしたアルフォンス様。 その隣で、少し不満げながらも大人しく座っているミレイユ様。 そして、私の隣には、まだ眠そうな目をこすっている末っ子のノア様が座っている。

「……いただきます」

レオンハルト様の号令で、食事が始まった。 今日のメニューは、野菜と鶏肉をじっくり煮込んだクリームシチューに、ふわふわの白パン。 湯気が立ち上る食卓は、それだけで心を解きほぐす魔法のようだ。

「アルフォンス。無理して食べなくていい。残しても構わん」

レオンハルト様が、ぎこちなく息子に声をかける。

「はい、父上。でも、とても美味しいので……いただきます」

アルフォンス様がスプーンでシチューを口に運ぶ。 その表情が、ほわりと緩む。 それを見たレオンハルト様が、安堵したように息を吐く。

ここまでは良かった。 問題は、ここからだ。

「……うぅ……」

私の隣で、ノア様が小さく声を漏らした。 見ると、彼はスプーンを握ったまま、困ったように皿を見つめている。 三歳の彼には、具材のニンジンが少し大きすぎたようだ。 スプーンで切ろうとするが、上手くいかずにカチャカチャと音を立てている。

いつもなら、私が手助けするところだ。 あるいは、後ろに控えている侍女が切り分けるだろう。 けれど、私は侍女に目配せをして下がらせた。 そして、テーブルの下でレオンハルト様の足を軽くつついた。

(出番ですよ、パパ)

レオンハルト様が私を見て、ハッとした顔をする。 彼は意を決したようにナイフとフォークを手に取り、ノア様の方へ体を向けた。

「……ノア。貸してみろ。俺が切ってやる」

低い声。 無表情。 そして、手には鋭く光るナイフ。

ノア様がビクリと震え、スプーンを取り落とした。 レオンハルト様の手から発せられる、無駄に洗練された「殺気」のようなオーラに、小動物的な本能が警鐘を鳴らしたらしい。

「あ、うぅ……」

「動くな。危ないぞ」

レオンハルト様は真剣そのものだ。 彼はノア様の皿を引き寄せると、外科手術のような精密さと、敵将の首を落とすような鋭さで、ニンジンを一刀両断にした。

ダンッ!

皿とナイフがぶつかる音が、静かな食堂に響き渡る。 ニンジンは見事に一口サイズになった。 しかし、そのあまりの気迫に、ノア様の目から涙が溢れ出した。

「……ふぇ……うわぁぁぁぁぁん!!」

「なっ!?」

レオンハルト様が仰天して固まる。 なぜ泣くのか分からない、という顔だ。

「こ、怖い……パパ、こわいよぉ……!」

「こ、怖い? 俺はただ、ニンジンを切っただけだぞ?」

「切り方が怖すぎます、旦那様」

私はすかさずツッコミを入れた。 「なんでそんなに殺気立っているんですか。ニンジンは敵ではありませんよ」

「む……手元が狂わないように集中しただけだ」

「その集中力が、子供には『威圧』に映るんです。もっとこう、ニコニコしながら、『おいしくなーれ』くらいの気持ちでやってください」

「おいしくなーれ……?」

氷の公爵が、宇宙の真理を聞いたような顔で呟く。 ミレイユ様が、呆れたように肩をすくめた。

「パパ、顔が怖い。魔獣を倒しに行く時の顔になってる」

「……そうか?」

レオンハルト様はショックを受けたように自分の頬を触った。 英雄、形無しである。

私は泣いているノア様を膝の上に乗せ、背中をトントンと叩いてあやした。

「よしよし、怖くないですよ。パパはね、ノア君のために一生懸命だっただけなの。ちょっと力が入りすぎちゃったのね」

「……うぅ……グスン……」

私の腕の中で、ノア様が落ち着きを取り戻していく。 その様子を見ていたレオンハルト様が、羨ましそうな、そして少し寂しそうな目を向けた。

「……懐いているな」

「ええ。子供は正直ですから。安心できる場所には寄ってきます」

「俺は……安心できない場所か」

ズーン、と効果音が聞こえそうなくらい落ち込んでいる。 この無敵の公爵様が、三歳児の涙一つでここまでダメージを受けるとは。 少し可哀想になってきたので、私は助け舟を出すことにした。

「旦那様。諦めるのは早いです。ノア様はまだ、あなたの抱っこを知りませんから」

「抱っこ?」

「はい。先ほど廊下で練習したでしょう? あれを実践するチャンスです」

「し、しかし、泣いているぞ」

「だからこそです。泣いている子をあやしてこそ、父親の威厳というものです」

私はニッコリと笑い、膝の上のノア様に優しく言い聞かせた。

「ノア様。パパがね、ごめんねって言いたいんだって。パパの抱っこ、してみる?」

ノア様は涙目のまま、私とレオンハルト様を交互に見た。 レオンハルト様は、緊張で石像のように固まっている。

「……パパ、おっきい」

ノア様が呟く。

「そうね。パパは大きくて、強いのよ。だから、ノア様を守ってくれるわ」

私はそっとノア様を持ち上げ、レオンハルト様の方へ差し出した。 レオンハルト様は、まるで爆発物を受け取るかのように、慎重に両手を差し出す。

「……おいで、ノア」

声が震えている。 でも、その眼差しだけは真剣だった。

ノア様の体が、レオンハルト様の腕の中に移動する。 大きくてゴツゴツした腕。 いつもならここでガチガチに力を入れてしまうところだが、私の指導を思い出したのか、彼はふぅと息を吐いて肩の力を抜いた。

そして、不器用ながらも優しく、ノア様の背中に手を回した。

「……重くなったな」

ぽつりと、レオンハルト様が言った。

「前に抱いた時は……もっと、軽かった気がする」

それはそうだろう。彼が前回ノア様を抱いたのがいつなのか分からないが、子供の成長は早い。 その「重み」こそが、彼が失っていた時間であり、これから取り戻すべきものだ。

ノア様は、最初はこわばっていたが、父親の広い胸板と、意外と高い体温に触れて、次第に力を抜いていった。 そして、小さな手でレオンハルト様の服をぎゅっと掴んだ。

「……パパ……」

「……ああ」

レオンハルト様が、目頭を押さえるように上を向いた。 氷の公爵の瞳が、少しだけ潤んでいるように見えたのは、湯気のせいだけではないだろう。

その光景を見て、アルフォンス様が嬉しそうに微笑み、ミレイユ様も、ふんと鼻を鳴らしつつも、悪い気はしない顔でスープを飲んでいる。

屋敷に来て初めての、本当の意味での「家族の食事」だった。

          ◇

食事が終わり、子供たちがそれぞれの部屋へ戻ったあと。 私とレオンハルト様は、サロンで食後のお茶を飲んでいた。

「……完敗だ」

レオンハルト様が、深いため息と共に言った。

「魔獣の群れを相手にする方が、よほど楽だ。子供一人の機嫌を取るのに、こんなに体力を消耗するとは」

「ふふ、お疲れ様でした。でも、最後は上手でしたよ。ノア様も安心した顔をしていました」

「君のおかげだ。……あの時、君が背中を押してくれなければ、俺はまた逃げていたかもしれない」

レオンハルト様が、カップを置いて私を直視した。 その瞳は、真剣そのものだ。

「クラリス。君は……不思議な人だ」

「不思議、ですか?」

「ああ。噂では『悪役令嬢』と聞いていた。冷徹で、完璧主義で、人の心を持たない女だと」

「まあ、ひどい言われようですね。半分くらいは合っていますけど」

私は苦笑した。 「可愛げがない」のは事実だし、完璧主義なのも否定しない。

「だが、君はこの屋敷に来てから、ずっと温かい。冷え切っていたこの家を、たった数日で変えてしまった。……俺のことも」

彼は自分の手のひらを見つめた。 さっきまでノア様を抱いていた、その手を。

「俺は、君に救われたのかもしれない」

その言葉は、どんな甘い愛の言葉よりも、私の胸に響いた。 契約結婚。政略の道具。 そんな関係で始まった私たちだったけれど、今、確実に何かが変わり始めている。

「……買いかぶりすぎですわ、旦那様」

私は照れ隠しに、すまして答えた。

「私はただ、契約を履行しているだけです。この家の『母親』になるという契約を。そのためには、父親であるあなたにも、ちゃんと働いてもらわないと困りますから」

「厳しいな」

レオンハルト様が、初めて柔らかく笑った。 氷が溶けるような、春の日差しのような笑顔。 その笑顔を見て、私は不覚にもドキリとしてしまった。 悔しいけれど、この顔はずるい。

「……ところで、クラリス」

「はい?」

「君は……本当は何者なんだ?」

ふと、彼が真顔に戻って問いかけた。 その瞳の奥には、純粋な驚嘆と、探究心が宿っている。

「ただの令嬢にしては、肝が座りすぎている。それに、あの『鎮』の魔法の使い方……あれは、普通の貴族教育で習うものではない」

鋭い。 さすがは辺境を守る公爵様だ。ただの不器用なパパではない。

私はカップをソーサーに戻し、悪戯っぽく微笑んだ。

「あら、秘密ですわ。女は秘密を着飾って美しくなるものですから」

「……はぐらかすのか」

「いつか、お話しする日が来るかもしれません。でも今は――」

言いかけたその時だった。

コンコン。

サロンの扉がノックされ、執事のギルベルトが入ってきた。 その手には、銀盆に乗せられた一通の手紙。 封蝋には、見覚えのある王家の紋章が押されていた。

「旦那様、奥様。王都より急便です」

ギルベルトの声が硬い。 室内の温かな空気が、一瞬にして冷える。

「……王都から?」

レオンハルト様が手紙を手に取り、ペーパーナイフで封を切る。 中身を一読した彼の表情が、険しいものへと変わっていった。

「どうなさいました?」

「……厄介ごとのようだ」

レオンハルト様は手紙をテーブルに置いた。 そこには、流麗な筆跡でこう記されていた。

『親愛なるグレイフ公爵へ。  聞き及んでいるだろうか。君の後妻に入ったクラリス嬢について、よからぬ噂が流れている。  彼女は王都でも評判の悪女だった。継子たちを虐げているのではないかと、リディアも心を痛めている。  近々、調査の使者を送るつもりだ。  ――王太子ルドルフ』

「……虐げている、ですって?」

私は思わず鼻で笑ってしまった。 誰が誰を虐げているというのか。 ついさっき、ニンジンと格闘して泣かせたのは、どこの誰だと思っているのか。

「悪役継母……ですか」

私は手紙を見下ろし、冷ややかに目を細めた。 王太子ルドルフ。そして、その婚約者リディア。 私を追い出しただけでは飽き足らず、まだ私を貶めようというのか。

「面白いですわね」

私の口から、自然と好戦的な言葉が漏れた。

「売られた喧嘩なら、買わせていただきましょう。この家の『母親』として」

レオンハルト様が、そんな私を見て、呆れたように、しかし頼もしげに口元を歪めた。

「……君は、本当に何者なんだ」

その問いかけは、今度は称賛の響きを帯びていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

冷遇妃マリアベルの監視報告書

Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。 第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。 そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。 王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。 (小説家になろう様にも投稿しています)

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

公爵令嬢アナスタシアの華麗なる鉄槌

招杜羅147
ファンタジー
「婚約は破棄だ!」 毒殺容疑の冤罪で、婚約者の手によって投獄された公爵令嬢・アナスタシア。 彼女は獄中死し、それによって3年前に巻き戻る。 そして…。

「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~

水上
恋愛
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫だ」 夫である王太子はそう笑い、泣き真似が得意な見習い令嬢ばかりを優先した。 王太子妃セシリアは、怒り狂うこともなく、静かに心を閉ざす。 「左様でございますか」 彼女は夫への期待というノイズを遮断し、離縁の準備を始めた。

【完結】悪役令嬢ですが、元官僚スキルで断罪も陰謀も処理します。

かおり
ファンタジー
異世界で悪役令嬢に転生した元官僚。婚約破棄? 断罪? 全部ルールと書類で処理します。 謝罪してないのに謝ったことになる“限定謝罪”で、婚約者も貴族も黙らせる――バリキャリ令嬢の逆転劇! ※読んでいただき、ありがとうございます。ささやかな物語ですが、どこか少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

【完結】婚約を解消して進路変更を希望いたします

宇水涼麻
ファンタジー
三ヶ月後に卒業を迎える学園の食堂では卒業後の進路についての話題がそここで繰り広げられている。 しかし、一つのテーブルそんなものは関係ないとばかりに四人の生徒が戯れていた。 そこへ美しく気品ある三人の女子生徒が近付いた。 彼女たちの卒業後の進路はどうなるのだろうか? 中世ヨーロッパ風のお話です。 HOTにランクインしました。ありがとうございます! ファンタジーの週間人気部門で1位になりました。みなさまのおかげです! ありがとうございます!

幽閉王女と指輪の精霊~嫁いだら幽閉された!餓死する前に脱出したい!~

二階堂吉乃
恋愛
 同盟国へ嫁いだヴァイオレット姫。夫である王太子は初夜に現れなかった。たった1人幽閉される姫。やがて貧しい食事すら届かなくなる。長い幽閉の末、死にかけた彼女を救ったのは、家宝の指輪だった。  1年後。同盟国を訪れたヴァイオレットの従兄が彼女を発見する。忘れられた牢獄には姫のミイラがあった。激怒した従兄は同盟を破棄してしまう。  一方、下町に代書業で身を立てる美少女がいた。ヴィーと名を偽ったヴァイオレットは指輪の精霊と助けあいながら暮らしていた。そこへ元夫?である王太子が視察に来る。彼は下町を案内してくれたヴィーに恋をしてしまう…。

令嬢失格な私なので

あんど もあ
ファンタジー
貴族の令息令嬢が学ぶ王都学園。 そこのカースト最下位と思われている寮生の中でも、最も令嬢らしからぬディアナ。 しかしその正体は……。

処理中です...