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第八話「社交界の噂:悪役継母」
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「……ふざけるな」
レオンハルト様が、手紙を握り潰した。 厚手の高級紙が、彼の握力で哀れなほどクシャクシャになり、小さな悲鳴を上げたようだった。 サロンの空気は、つい先ほどまでの甘やかな雰囲気から一変し、氷点下の殺気を帯びていた。
「クラリスが、子供たちを虐げているだと? よくもまあ、これほどの妄言を並べ立てられたものだ」
彼のアイスブルーの瞳は、怒りで鋭く光っている。 それは私に向けられたものではなく、この手紙の差出人――王太子ルドルフと、その背後にいる者たちへ向けられたものだ。 その怒りが、私のためのものだと思うと、少しだけ胸が温かくなった。
「落ち着いてください、旦那様。手紙が可哀想ですわ」
私は優雅にティーカップを傾け、努めて冷静に振る舞った。
「火のない所に煙は立たぬと言いますが、彼らの場合は『煙のない所に火をつける』のが得意技ですから。驚くことではありません」
「だが、内容は看過できない。『継母が子供を虐待している』などという噂が広まれば、グレイフ家の名誉に関わる。何より、君が傷つく」
「私は平気です。慣れていますから」
私がさらりと言うと、レオンハルト様は痛ましげに顔を歪めた。 そう、私は「悪役令嬢」。 事実無根の噂を立てられることなど、呼吸をするのと同じくらい日常茶飯事だった。
「それにしても……タイミングが良すぎますね」
私はソーサーをテーブルに置き、思考を巡らせた。
「私がここに来て、まだ数日。それなのに、こちらの内情――例えばアルフォンス様が痩せ細っていたことや、ノア様が泣いていたことなどが、歪曲されて伝わっているような気がします」
単なる捏造ではない。 「事実」の断片を、悪意という接着剤で繋ぎ合わせ、醜悪なモザイク画に仕立て上げている。 誰かが、屋敷の中の情報を漏らしている?
「……セレス」
私が呼ぶと、音もなく影から一人の女性が現れた。 侍女長のセレスだ。 地味な茶色の髪をひっつめにし、眼鏡をかけた彼女は、一見するとどこにでもいる真面目な侍女に見える。 けれど、彼女はこの屋敷の情報管理を一手に担う、私の頼れる「耳」だ。
「お呼びでしょうか、奥様」
「王都の噂について、何か掴んでいる?」
セレスは眼鏡の位置を中指でくいっと直し、淡々とした口調で報告を始めた。
「はい。王都の社交界では、現在このような噂が『真実』として語られております」
彼女は懐からメモを取り出した。
「『元悪役令嬢クラリスは、王太子への腹いせに、再婚先の子供たちを氷漬けにして楽しんでいる』」 「『長男には食事を与えず、倒れるまで労働を強制している』」 「『反抗した長女のドレスを引き裂き、泣かせた』」
読み上げられる内容は、あまりに馬鹿馬鹿しく、そして悪質だった。
「……なるほど」
私はため息をついた。 ノア様の暴走による凍結騒ぎ。 アルフォンス様の過労による失神。 ミレイユ様のスープ皿事件。
すべて、実際に起きたことだ。 だが、主語と因果関係がすり替えられている。 「私が解決した」ことが、「私が原因である」ことに書き換えられているのだ。
「誰がそんな情報を?」
レオンハルト様が低い声で唸る。
「出処は不明ですが、王太子妃候補のリディア様が、お茶会で涙ながらに『可哀想な子供たちを救わなくては』と語っていたとの情報があります。彼女の涙は、どんな証拠よりも雄弁に貴族たちの同情を買いますから」
セレスの言葉に、私は苦笑した。 リディア。 ピンクブロンドの髪に、潤んだ瞳。 小動物のように愛らしく、誰からも守ってもらえる「聖女」のような女性。 けれど、その涙の裏で、彼女がいかに計算高く立ち回るか、私は身をもって知っている。
「……僕が選んだのは君じゃない、リディアのような慈愛に満ちた女性だ」
婚約破棄の時の、王太子の言葉が蘇る。 慈愛、ね。 遠く離れた地で平穏に暮らそうとしている私を、わざわざ追いかけて踏みつけようとするのが「慈愛」なら、私は一生「悪役」で構わない。
「旦那様。これは宣戦布告です」
私はキッパリと言い放った。
「彼らは『調査』の名目で、この家の平穏を乱しに来るでしょう。子供たちを引き離し、私を断罪し、あなたを意のままに操るために」
「……させるものか」
レオンハルト様が立ち上がった。 その背後から、目に見えそうなほどの冷気が立ち上る。 本気の「氷の公爵」の威圧感だ。
「この家を守るのは俺の役目だ。君も、子供たちも、誰一人として指一本触れさせん」
頼もしい言葉。 でも、武力だけで解決できる相手ではない。 これは政治と、情報の戦争なのだから。
◇
嵐の前の静けさと言うべきか。 翌日からの数日間、屋敷には穏やかな時間が流れた。
王都からの使者が来るまでは、まだ少し時間があるだろう。 私はその時間を、子供たちとの絆を深めるために使うことにした。 外野が何を言おうと、結局のところ、真実は子供たちの中にあるのだから。
「……痛くない?」
「……ん」
朝、ミレイユ様の部屋で、私は彼女の髪を梳かしていた。 専属の侍女もいるけれど、今朝は私が申し出たのだ。 最初は「なんであなたが」と警戒していたミレイユ様も、「新しいリボンがあるの」と言うと、渋々ドレッサーの前に座ってくれた。
金の巻き毛は、絹糸のように柔らかく、美しい。 私は丁寧にブラシを通し、ハーフアップに結い上げた。 そして、私の実家から取り寄せた、深い青色のベルベットリボンを結ぶ。
「はい、出来上がり。鏡を見てみて」
ミレイユ様は、恐る恐る鏡を覗き込んだ。 そして、ぱっと目を輝かせた。
「わあ……かわいい」
「でしょう? ミレイユ様の金髪には、この青がよく似合うと思っていましたの」
「……ふーん。まあまあね」
彼女はすぐにすました顔に戻ったけれど、鏡の中の自分を見る目は嬉しそうだ。 そして、ボソリと言った。
「……前の人たちは、私の髪を引っ張ったの。わざとじゃないって言ってたけど、痛かった」
過去の継母候補たちの話だ。 わざとかどうかは分からない。でも、子供の柔らかな髪を扱うには、愛情と慎重さが必要だ。それが欠けていたのだろう。
「私は痛くしませんよ。大切な、可愛いお嬢様ですから」
私が肩に手を置くと、ミレイユ様は鏡越しに私を見て、少しだけ頬を染めた。
「……今日のオヤツ、またクッキーがいい」
「ふふ、分かりました。ナッツ入りのを焼かせますね」
おねだりは、心を開き始めた証拠だ。 この小さな信頼の積み重ねこそが、私の最強の武器になる。
一方、アルフォンス様は、レオンハルト様から「一日三時間は休息をとる」という厳命を受け、しぶしぶながらも従っていた。 顔色はだいぶ良くなり、食事の量も増えた。 時折、レオンハルト様と執務室で並んで座り、ぎこちない会話を交わしている姿を見かけると、ほっこりする。
ノア様は、私の姿を見つけると、トテトテと寄ってくるようになった。 まだ言葉数は少ないけれど、私のスカートを掴んで離さないその姿は、まるでカルガモの雛のようだ。
この平穏。 冷え切っていた屋敷にようやく灯った、小さな温かい光。 それを「虐待」だなんて言わせない。 この光景を守るためなら、私はどんな汚名でも着てやるし、どんな相手とも戦ってやる。
そう決意を新たにした、その日の午後だった。
カツ、カツ、カツ。 屋敷の玄関ホールに、尊大な足音が響き渡った。
「王太子殿下の名代として参った! グレイフ公爵はどこか!」
甲高い、神経質そうな声。 執事のギルベルトが対応に出ているが、相手は強引に押し入ろうとしているようだ。
私はサロンで刺繍の手を止め、セレスと顔を見合わせた。 来たわね。
「行きましょう、セレス」
「はい、奥様」
私は扇子を手に取り、背筋を伸ばして立ち上がった。 戦いのゴングが鳴ったのだ。
玄関ホールへ向かうと、そこには派手な宮廷服を着た小太りの男と、数名の衛兵が立っていた。 男の顔には見覚えがある。 パルストン子爵。王太子殿下の腰巾着として有名な、虎の威を借る狐だ。
「騒々しいですね。公爵邸の玄関は、市場ではありませんよ」
私が階段を降りながら声をかけると、パルストン子爵が振り返った。 私を見るなり、その目が下卑た色に歪む。
「おお、これはこれは。噂の『悪役継母』殿のお出ましとは」
彼はわざとらしい敬語で、しかし嘲りを隠そうともせずに言った。
「クラリス・フォン・ローゼンフェルト……いや、今はグレイフ夫人か。相変わらず、可愛げのない顔をしている」
「お褒めに預かり光栄ですわ。子爵こそ、相変わらず声が大きいこと。王都の品位が疑われますわよ」
私が冷たく言い返すと、子爵の顔が赤くなった。
「ふん! 減らず口を! 我々は王太子殿下の命により、視察に来たのだ! この屋敷で、幼い子供たちが非道な扱いを受けているとの通報があったからな!」
彼は大袈裟に両手を広げ、私の背後に控える使用人たちを見回した。
「可哀想に。お前たちも、この悪女に脅されているのだろう? 安心しろ、正義は我にありだ!」
「……誰も脅されてなどいません」
低い声が響いた。 奥の扉が開き、レオンハルト様が現れた。 その身に纏うのは、儀礼用の軍服ではなく、戦場用の簡素な服。 しかし、その存在感は子爵など足元にも及ばない圧倒的なものだった。
「レ、レオンハルト公爵……」
子爵がたじろぐ。
「私の妻と、使用人たちに無礼な口を利くことは許さん。帰れ」
一言。 問答無用の退去命令。 普通の相手なら、これで尻尾を巻いて逃げ出すところだ。 だが、今回の子爵は違った。彼は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、勝ち誇ったように突きつけた。
「そうはいかんぞ、公爵! これを見ろ! 王太子殿下の署名入りの『調査令状』だ!」
そこには確かに、王家の紋章と、王太子のサインがあった。 貴族にとって、王命は絶対だ。たとえ公爵であっても、正当な理由なく拒否すれば、反逆とみなされかねない。
「子供たちへの面会、および身体検査を要求する! 虐待の痕跡がないか、隅々まで調べさせてもらうぞ!」
子爵が下卑た笑みを浮かべる。 身体検査。 まだ幼いミレイユ様や、怯えやすいノア様に、見知らぬ男たちが触れるということか。 そんなこと、許せるはずがない。
レオンハルト様の手が、剣の柄にかかる。 血管が浮き上がり、今にも抜刀しそうな殺気だ。 まずい。ここで彼が剣を抜けば、相手の思う壺だ。「公爵が調査を妨害した」という既成事実を作られてしまう。
私はすっと前に進み出て、レオンハルト様の手の上に、自分の手を重ねた。
「……クラリス?」
レオンハルト様が驚いて私を見る。 私は彼に目配せをし、優雅に微笑んで子爵に向き直った。
「分かりました。調査、受け入れましょう」
「奥様!?」
ギルベルトが声を上げる。 子爵は「へっ、観念したか」と鼻を鳴らした。
「ただし」
私は扇子をパチリと閉じた。
「子供たちは今、お昼寝の時間です。無理に起こせば機嫌を損ね、正確な調査などできませんわ。サロンでお茶でも召し上がって、お待ちいただけますか?」
「な、なにを……」
「まさか、王太子殿下の代理人が、子供の生活リズムも配慮できない野蛮人だとは仰いませんよね?」
私が挑発すると、子爵は顔をひきつらせた。
「ぐっ……いいだろう。一時間だけ待ってやる。その間に隠蔽工作などしても無駄だからな!」
子爵たちがサロンへと案内されていく。 嵐は、家の中に入り込んでしまった。
「……どうするつもりだ、クラリス」
レオンハルト様が焦燥感を隠せずに問う。 私は彼の目を見つめ、静かに、しかし力強く言った。
「ご安心ください。隠蔽などしません。ありのままの『真実』を見せて差し上げましょう」
私の頭の中には、すでに一つのシナリオが出来上がっていた。 彼らが期待している「虐待された可哀想な子供たち」なんて、どこにもいないということを、一番残酷な方法で証明して見せる。
「セレス、子供たちを呼んでちょうだい。……いいえ、『作戦』を伝えるわ」
私は悪役令嬢らしく、口角を吊り上げた。 さあ、反撃の時間だ。
レオンハルト様が、手紙を握り潰した。 厚手の高級紙が、彼の握力で哀れなほどクシャクシャになり、小さな悲鳴を上げたようだった。 サロンの空気は、つい先ほどまでの甘やかな雰囲気から一変し、氷点下の殺気を帯びていた。
「クラリスが、子供たちを虐げているだと? よくもまあ、これほどの妄言を並べ立てられたものだ」
彼のアイスブルーの瞳は、怒りで鋭く光っている。 それは私に向けられたものではなく、この手紙の差出人――王太子ルドルフと、その背後にいる者たちへ向けられたものだ。 その怒りが、私のためのものだと思うと、少しだけ胸が温かくなった。
「落ち着いてください、旦那様。手紙が可哀想ですわ」
私は優雅にティーカップを傾け、努めて冷静に振る舞った。
「火のない所に煙は立たぬと言いますが、彼らの場合は『煙のない所に火をつける』のが得意技ですから。驚くことではありません」
「だが、内容は看過できない。『継母が子供を虐待している』などという噂が広まれば、グレイフ家の名誉に関わる。何より、君が傷つく」
「私は平気です。慣れていますから」
私がさらりと言うと、レオンハルト様は痛ましげに顔を歪めた。 そう、私は「悪役令嬢」。 事実無根の噂を立てられることなど、呼吸をするのと同じくらい日常茶飯事だった。
「それにしても……タイミングが良すぎますね」
私はソーサーをテーブルに置き、思考を巡らせた。
「私がここに来て、まだ数日。それなのに、こちらの内情――例えばアルフォンス様が痩せ細っていたことや、ノア様が泣いていたことなどが、歪曲されて伝わっているような気がします」
単なる捏造ではない。 「事実」の断片を、悪意という接着剤で繋ぎ合わせ、醜悪なモザイク画に仕立て上げている。 誰かが、屋敷の中の情報を漏らしている?
「……セレス」
私が呼ぶと、音もなく影から一人の女性が現れた。 侍女長のセレスだ。 地味な茶色の髪をひっつめにし、眼鏡をかけた彼女は、一見するとどこにでもいる真面目な侍女に見える。 けれど、彼女はこの屋敷の情報管理を一手に担う、私の頼れる「耳」だ。
「お呼びでしょうか、奥様」
「王都の噂について、何か掴んでいる?」
セレスは眼鏡の位置を中指でくいっと直し、淡々とした口調で報告を始めた。
「はい。王都の社交界では、現在このような噂が『真実』として語られております」
彼女は懐からメモを取り出した。
「『元悪役令嬢クラリスは、王太子への腹いせに、再婚先の子供たちを氷漬けにして楽しんでいる』」 「『長男には食事を与えず、倒れるまで労働を強制している』」 「『反抗した長女のドレスを引き裂き、泣かせた』」
読み上げられる内容は、あまりに馬鹿馬鹿しく、そして悪質だった。
「……なるほど」
私はため息をついた。 ノア様の暴走による凍結騒ぎ。 アルフォンス様の過労による失神。 ミレイユ様のスープ皿事件。
すべて、実際に起きたことだ。 だが、主語と因果関係がすり替えられている。 「私が解決した」ことが、「私が原因である」ことに書き換えられているのだ。
「誰がそんな情報を?」
レオンハルト様が低い声で唸る。
「出処は不明ですが、王太子妃候補のリディア様が、お茶会で涙ながらに『可哀想な子供たちを救わなくては』と語っていたとの情報があります。彼女の涙は、どんな証拠よりも雄弁に貴族たちの同情を買いますから」
セレスの言葉に、私は苦笑した。 リディア。 ピンクブロンドの髪に、潤んだ瞳。 小動物のように愛らしく、誰からも守ってもらえる「聖女」のような女性。 けれど、その涙の裏で、彼女がいかに計算高く立ち回るか、私は身をもって知っている。
「……僕が選んだのは君じゃない、リディアのような慈愛に満ちた女性だ」
婚約破棄の時の、王太子の言葉が蘇る。 慈愛、ね。 遠く離れた地で平穏に暮らそうとしている私を、わざわざ追いかけて踏みつけようとするのが「慈愛」なら、私は一生「悪役」で構わない。
「旦那様。これは宣戦布告です」
私はキッパリと言い放った。
「彼らは『調査』の名目で、この家の平穏を乱しに来るでしょう。子供たちを引き離し、私を断罪し、あなたを意のままに操るために」
「……させるものか」
レオンハルト様が立ち上がった。 その背後から、目に見えそうなほどの冷気が立ち上る。 本気の「氷の公爵」の威圧感だ。
「この家を守るのは俺の役目だ。君も、子供たちも、誰一人として指一本触れさせん」
頼もしい言葉。 でも、武力だけで解決できる相手ではない。 これは政治と、情報の戦争なのだから。
◇
嵐の前の静けさと言うべきか。 翌日からの数日間、屋敷には穏やかな時間が流れた。
王都からの使者が来るまでは、まだ少し時間があるだろう。 私はその時間を、子供たちとの絆を深めるために使うことにした。 外野が何を言おうと、結局のところ、真実は子供たちの中にあるのだから。
「……痛くない?」
「……ん」
朝、ミレイユ様の部屋で、私は彼女の髪を梳かしていた。 専属の侍女もいるけれど、今朝は私が申し出たのだ。 最初は「なんであなたが」と警戒していたミレイユ様も、「新しいリボンがあるの」と言うと、渋々ドレッサーの前に座ってくれた。
金の巻き毛は、絹糸のように柔らかく、美しい。 私は丁寧にブラシを通し、ハーフアップに結い上げた。 そして、私の実家から取り寄せた、深い青色のベルベットリボンを結ぶ。
「はい、出来上がり。鏡を見てみて」
ミレイユ様は、恐る恐る鏡を覗き込んだ。 そして、ぱっと目を輝かせた。
「わあ……かわいい」
「でしょう? ミレイユ様の金髪には、この青がよく似合うと思っていましたの」
「……ふーん。まあまあね」
彼女はすぐにすました顔に戻ったけれど、鏡の中の自分を見る目は嬉しそうだ。 そして、ボソリと言った。
「……前の人たちは、私の髪を引っ張ったの。わざとじゃないって言ってたけど、痛かった」
過去の継母候補たちの話だ。 わざとかどうかは分からない。でも、子供の柔らかな髪を扱うには、愛情と慎重さが必要だ。それが欠けていたのだろう。
「私は痛くしませんよ。大切な、可愛いお嬢様ですから」
私が肩に手を置くと、ミレイユ様は鏡越しに私を見て、少しだけ頬を染めた。
「……今日のオヤツ、またクッキーがいい」
「ふふ、分かりました。ナッツ入りのを焼かせますね」
おねだりは、心を開き始めた証拠だ。 この小さな信頼の積み重ねこそが、私の最強の武器になる。
一方、アルフォンス様は、レオンハルト様から「一日三時間は休息をとる」という厳命を受け、しぶしぶながらも従っていた。 顔色はだいぶ良くなり、食事の量も増えた。 時折、レオンハルト様と執務室で並んで座り、ぎこちない会話を交わしている姿を見かけると、ほっこりする。
ノア様は、私の姿を見つけると、トテトテと寄ってくるようになった。 まだ言葉数は少ないけれど、私のスカートを掴んで離さないその姿は、まるでカルガモの雛のようだ。
この平穏。 冷え切っていた屋敷にようやく灯った、小さな温かい光。 それを「虐待」だなんて言わせない。 この光景を守るためなら、私はどんな汚名でも着てやるし、どんな相手とも戦ってやる。
そう決意を新たにした、その日の午後だった。
カツ、カツ、カツ。 屋敷の玄関ホールに、尊大な足音が響き渡った。
「王太子殿下の名代として参った! グレイフ公爵はどこか!」
甲高い、神経質そうな声。 執事のギルベルトが対応に出ているが、相手は強引に押し入ろうとしているようだ。
私はサロンで刺繍の手を止め、セレスと顔を見合わせた。 来たわね。
「行きましょう、セレス」
「はい、奥様」
私は扇子を手に取り、背筋を伸ばして立ち上がった。 戦いのゴングが鳴ったのだ。
玄関ホールへ向かうと、そこには派手な宮廷服を着た小太りの男と、数名の衛兵が立っていた。 男の顔には見覚えがある。 パルストン子爵。王太子殿下の腰巾着として有名な、虎の威を借る狐だ。
「騒々しいですね。公爵邸の玄関は、市場ではありませんよ」
私が階段を降りながら声をかけると、パルストン子爵が振り返った。 私を見るなり、その目が下卑た色に歪む。
「おお、これはこれは。噂の『悪役継母』殿のお出ましとは」
彼はわざとらしい敬語で、しかし嘲りを隠そうともせずに言った。
「クラリス・フォン・ローゼンフェルト……いや、今はグレイフ夫人か。相変わらず、可愛げのない顔をしている」
「お褒めに預かり光栄ですわ。子爵こそ、相変わらず声が大きいこと。王都の品位が疑われますわよ」
私が冷たく言い返すと、子爵の顔が赤くなった。
「ふん! 減らず口を! 我々は王太子殿下の命により、視察に来たのだ! この屋敷で、幼い子供たちが非道な扱いを受けているとの通報があったからな!」
彼は大袈裟に両手を広げ、私の背後に控える使用人たちを見回した。
「可哀想に。お前たちも、この悪女に脅されているのだろう? 安心しろ、正義は我にありだ!」
「……誰も脅されてなどいません」
低い声が響いた。 奥の扉が開き、レオンハルト様が現れた。 その身に纏うのは、儀礼用の軍服ではなく、戦場用の簡素な服。 しかし、その存在感は子爵など足元にも及ばない圧倒的なものだった。
「レ、レオンハルト公爵……」
子爵がたじろぐ。
「私の妻と、使用人たちに無礼な口を利くことは許さん。帰れ」
一言。 問答無用の退去命令。 普通の相手なら、これで尻尾を巻いて逃げ出すところだ。 だが、今回の子爵は違った。彼は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、勝ち誇ったように突きつけた。
「そうはいかんぞ、公爵! これを見ろ! 王太子殿下の署名入りの『調査令状』だ!」
そこには確かに、王家の紋章と、王太子のサインがあった。 貴族にとって、王命は絶対だ。たとえ公爵であっても、正当な理由なく拒否すれば、反逆とみなされかねない。
「子供たちへの面会、および身体検査を要求する! 虐待の痕跡がないか、隅々まで調べさせてもらうぞ!」
子爵が下卑た笑みを浮かべる。 身体検査。 まだ幼いミレイユ様や、怯えやすいノア様に、見知らぬ男たちが触れるということか。 そんなこと、許せるはずがない。
レオンハルト様の手が、剣の柄にかかる。 血管が浮き上がり、今にも抜刀しそうな殺気だ。 まずい。ここで彼が剣を抜けば、相手の思う壺だ。「公爵が調査を妨害した」という既成事実を作られてしまう。
私はすっと前に進み出て、レオンハルト様の手の上に、自分の手を重ねた。
「……クラリス?」
レオンハルト様が驚いて私を見る。 私は彼に目配せをし、優雅に微笑んで子爵に向き直った。
「分かりました。調査、受け入れましょう」
「奥様!?」
ギルベルトが声を上げる。 子爵は「へっ、観念したか」と鼻を鳴らした。
「ただし」
私は扇子をパチリと閉じた。
「子供たちは今、お昼寝の時間です。無理に起こせば機嫌を損ね、正確な調査などできませんわ。サロンでお茶でも召し上がって、お待ちいただけますか?」
「な、なにを……」
「まさか、王太子殿下の代理人が、子供の生活リズムも配慮できない野蛮人だとは仰いませんよね?」
私が挑発すると、子爵は顔をひきつらせた。
「ぐっ……いいだろう。一時間だけ待ってやる。その間に隠蔽工作などしても無駄だからな!」
子爵たちがサロンへと案内されていく。 嵐は、家の中に入り込んでしまった。
「……どうするつもりだ、クラリス」
レオンハルト様が焦燥感を隠せずに問う。 私は彼の目を見つめ、静かに、しかし力強く言った。
「ご安心ください。隠蔽などしません。ありのままの『真実』を見せて差し上げましょう」
私の頭の中には、すでに一つのシナリオが出来上がっていた。 彼らが期待している「虐待された可哀想な子供たち」なんて、どこにもいないということを、一番残酷な方法で証明して見せる。
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