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第十一話「境界の不穏と、温室の薬草」
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レオンハルト様が屋敷を飛び出してから、三日が過ぎた。 北方の空は、鉛を溶かしたように重く、どんよりと濁っている。 時折、地響きのような低い音が遠くから聞こえてくるたびに、屋敷の使用人たちは手を止め、不安げに北の空を見上げるのが常となっていた。
「……奥様。本日の朝食はいかがなさいますか」
「いつも通りに。ただし、アルフォンス様とミレイユ様には、温かいココアをつけてあげて」
私は鏡の前で髪を結い上げながら、侍女に指示を出した。 鏡の中の私は、いつも通りの「悪役令嬢」の顔をしている。 不安など微塵も見せない。それが、主不在の屋敷を守る「母親」の務めだからだ。
食堂に行くと、子供たちはすでに席に着いていた。 けれど、その表情は硬い。 アルフォンス様は新聞を食い入るように見つめ、ミレイユ様はフォークを持ったまま溜息をついている。ノア様は……私の顔を見るなり、椅子から降りて駆け寄ってきた。
「……クラリスさま」
「おはようございます、ノア様。よく眠れましたか?」
私は彼を抱き上げ、いつもの席に座らせた。 ノア様は小さく頷いたけれど、その瞳は怯えている。 あの夜の警報音と、父の慌ただしい出撃が、幼心に影を落としているのだ。
「大丈夫ですよ。パパは世界で一番強い騎士様ですから、すぐに悪い魔獣をやっつけて帰ってきます」
私は明るく言い切り、パンにバターを塗った。 アルフォンス様が新聞を置き、深刻な顔で口を開く。
「……ですが、新聞には『境界の裂け目が拡大傾向にある』と書いてあります。第一砦だけでなく、第二砦付近でも魔獣の反応があると……」
「新聞記者は大袈裟に書くのが仕事ですわ。事実半分、煽り半分と思いなさい」
私はココアを一口飲み、ふわりと微笑んだ。
「それに、あなたのお父様は『氷の公爵』です。魔獣ごときに遅れを取るような方ではありません。私たちが暗い顔をしていては、帰ってきたお父様が心配なさいますよ」
私の言葉に、アルフォンス様は少しだけ肩の力を抜いた。 「……そうですね。僕たちがしっかりしていなければ」
「その通りです。さあ、温かいうちに召し上がれ」
気丈に振る舞ってはいたけれど、私の内心も穏やかではなかった。 新聞の情報が事実なら、今回の「裂け目」は過去数年で最大規模だ。 そして何より気になるのは、その発生のタイミングだ。 王都からの理不尽な干渉と、ほぼ同時期。 偶然にしては出来すぎている。
◇
朝食後、私は中庭にあるガラス張りの温室へと向かった。 外は極寒の冬だが、温室の中は家庭魔法の術式が組み込まれた魔道具によって、春のような暖かさが保たれている。
むっとするほどの緑の匂いと、甘い花の香り。 ここは、亡き前妻様が愛した場所であり、今は私が管理を引き継いでいる場所だ。 私はドレスの袖をまくり、エプロンをつけると、棚に並んだ薬草の鉢植えを確認し始めた。
「……やっぱり、育ちが早いわね」
私の呟きに、後ろに控えていた侍女長のセレスが頷く。
「はい。奥様が『灯』と『鎮』の魔力を注がれてから、薬草の効能が格段に上がっております」
ここにあるのは、ただの観賞用の花ではない。 傷を癒やす「ヒールグラス」、解毒作用のある「キアリーの葉」、そして精神を安定させる「白睡蓮」。 生活魔法しか使えない私だけれど、その魔力は植物を育てるのには適しているらしい。
「セレス。前線の状況は?」
私は剪定鋏を動かしながら、声を潜めて尋ねた。 ここには子供たちはいない。私の「耳」であるセレスと、真実を話す時間だ。
セレスは眼鏡の位置を直し、淡々と、しかし重い口調で報告した。
「芳しくありません。騎士団からの非公式な報告によれば、湧き出る魔獣の数に対して、回復薬(ポーション)の備蓄が追いついていないそうです」
「ポーション不足……」
「はい。王都からの補給物資が、なぜか『手続きの遅れ』で滞っているとか」
ハッ、と私は嘲笑を漏らした。 手続きの遅れ? そんなわけがない。 王都の誰か――十中八九、王太子派閥の誰かが、グレイフ公爵家を困らせるために、あるいはレオンハルト様の手柄を減らすために、意図的に物流を止めているのだ。 前線で命を張る騎士たちのことなど、彼らの政治ゲームの駒としか思っていないのだろう。
「くだらない。本当にくだらないわ」
怒りで鋏を握る手に力が入る。 パチン、と太い茎が音を立てて切れた。
「奥様、いかがなさいますか。裏ルートで物資を調達することも可能ですが、時間がかかります」
「待っていられません。……作りましょう」
「作る、とは?」
「ここで、私たちが」
私は温室を見渡した。 ここには、質の良い薬草が溢れるほどある。 そして、私には『鎮』の魔法がある。
「王都の錬金術師が作るような高度なポーションは無理でも、止血や痛みを和らげる軟膏なら作れます。私の魔力を込めれば、市販品より効果は高いはずよ」
「ですが、奥様の魔力を消耗してしまいます」
「夫が前線で血を流しているかもしれないのに、妻が魔力を惜しんでどうするの?」
私が振り返って笑うと、セレスは一瞬驚いた顔をして、それから深く頭を下げた。
「……承知いたしました。すぐに道具の手配を」
◇
それからの数時間、温室は即席の製薬工房と化した。 大鍋で薬草を煮出し、すり鉢で葉を潰し、魔力を練り込んでいく。 地味で根気のいる作業だ。 額に汗が滲む。ドレスは汚れてしまうけれど、構っていられない。
「……何してるの?」
入り口から、不審そうな声がした。 ミレイユ様だ。 後ろには、心配そうなアルフォンス様もいる。
「あら、見つかってしまいましたね」
私は手を止めず、すり鉢を回しながら答えた。 「お父様や騎士様たちのために、お薬を作っているのです。王都からの荷物が遅れているみたいですから」
「お薬……?」
ミレイユ様が近づいてきて、すり鉢の中を覗き込む。 緑色のペースト状になったそれは、正直あまり見た目の良いものではない。
「くさっ。変な匂い」
「良薬は口に苦し、鼻に臭し、ですわ。でも、これを塗れば傷がすぐに治るのですよ」
私がウィンクすると、アルフォンス様が真剣な顔で進み出てきた。
「僕にも、手伝わせてください」
「アルフォンス様?」
「父上の役に立ちたいんです。剣を持って戦うことはできないけれど……これなら、僕にもできますか?」
その言葉に、ミレイユ様も反応した。 「ず、ずるい! 私だってやるわよ! お兄様だけいい格好させないんだから!」
不安で押しつぶされそうだった子供たちが、自分にも何かできることがあると知って、目に光を取り戻している。 私は嬉しくて、目頭が熱くなるのをこらえた。
「ええ、もちろん。猫の手も借りたいところでしたの。アルフォンス様はこの葉っぱを千切ってください。ミレイユ様は、瓶の蓋を並べてくださる?」
「分かった!」
こうして、公爵夫人と令息令嬢による、前代未聞の「お薬作り大会」が始まった。 アルフォンス様は几帳面に同じサイズに葉を千切り、ミレイユ様は時々「くさいー」と文句を言いながらも、テキパキと瓶を並べていく。 ノア様もやってきて、「ぼくもー」と私のエプロンの紐を結び直す(邪魔をする?)係を担当してくれた。
作業に没頭することで、遠くから響く地響きの音も、少しだけ気にならなくなった。 私たちは今、家族全員で戦っているのだ。
夕方になる頃には、木箱三つ分の特製軟膏が完成した。 『グレイフ家特製・鎮めの軟膏』。 ラベルには、ミレイユ様が描いた(少し不格好な)花の絵が添えられている。
「よし、完成ですね」
私が腰を伸ばすと、セレスが報告に来た。
「奥様。砦へ向かう補給部隊が、間もなく出発するそうです」
「急ぎましょう。これを載せてもらわなくては」
私たちは大急ぎで箱を梱包し、裏庭の搬入口へと向かった。 そこには、物資を積み込む馬車と、護衛の騎士たちがいた。 騎士たちは、公爵夫人と子供たちが自ら荷物を運んできたことに驚愕していた。
「お、奥様!? それに若様とお嬢様まで……」
「これをお願いします。私たちが作った傷薬です。レオンハルト様と、皆さんに」
私が箱を渡すと、騎士の一人が感極まったように声を詰まらせた。
「か、感謝いたします! 前線では薬が不足しており、これは何よりの援軍です!」
「必ず、届けてくれ。父上に」
アルフォンス様が、騎士の手を握って頼む。
「はいっ! この命に代えても!」
馬車が蹄の音を響かせて出発していく。 私たちは並んで、その背中が見えなくなるまで見送った。
空はもう夕闇に包まれている。 北の空を見ると、不気味な赤い光が雲を染めていた。 『裂け目』の光だ。 あそこには、今もレオンハルト様がいる。
「……パパ」
ノア様が小さく呼ぶ。 私は彼の肩を抱き寄せた。
「大丈夫。私たちの気持ちは、きっと届きます」
そう信じるしかなかった。 けれど、現実は私の願いよりも過酷だった。
その夜遅く。 セレスが、見たこともないほど厳しい顔で私の寝室を訪れた。
「……奥様。悪い知らせです」
「……何?」
「先ほど出発した補給部隊とは別に、前線から早馬が着きました。レオンハルト様からの伝言です」
セレスは一瞬躊躇い、そして告げた。
「『裂け目の拡大が止まらない。人為的な術式の干渉が疑われる。事態の収拾まで、数週間から一ヶ月は帰還できない』……と」
一ヶ月。 長期戦だ。 しかも、「人為的な干渉」。 やはり、誰かが意図的に魔獣を呼び寄せている。
「……そう」
私は窓の外、闇に沈む北の方角を睨んだ。
「上等じゃないの」
夫が帰れないのなら、私がこの城を守り抜くしかない。 一ヶ月だろうが、半年だろうが。
「セレス。明日から屋敷の警備レベルを引き上げて。それと、温室の薬草を全て収穫する準備を。……持久戦よ」
悪役令嬢の顔に戻り、私は冷徹に指示を出した。 けれど、窓ガラスに映る私の手は、微かに震えていた。
会いたい。 まだ数日しか経っていないのに、あの不器用な笑顔が、無性に恋しかった。
「……奥様。本日の朝食はいかがなさいますか」
「いつも通りに。ただし、アルフォンス様とミレイユ様には、温かいココアをつけてあげて」
私は鏡の前で髪を結い上げながら、侍女に指示を出した。 鏡の中の私は、いつも通りの「悪役令嬢」の顔をしている。 不安など微塵も見せない。それが、主不在の屋敷を守る「母親」の務めだからだ。
食堂に行くと、子供たちはすでに席に着いていた。 けれど、その表情は硬い。 アルフォンス様は新聞を食い入るように見つめ、ミレイユ様はフォークを持ったまま溜息をついている。ノア様は……私の顔を見るなり、椅子から降りて駆け寄ってきた。
「……クラリスさま」
「おはようございます、ノア様。よく眠れましたか?」
私は彼を抱き上げ、いつもの席に座らせた。 ノア様は小さく頷いたけれど、その瞳は怯えている。 あの夜の警報音と、父の慌ただしい出撃が、幼心に影を落としているのだ。
「大丈夫ですよ。パパは世界で一番強い騎士様ですから、すぐに悪い魔獣をやっつけて帰ってきます」
私は明るく言い切り、パンにバターを塗った。 アルフォンス様が新聞を置き、深刻な顔で口を開く。
「……ですが、新聞には『境界の裂け目が拡大傾向にある』と書いてあります。第一砦だけでなく、第二砦付近でも魔獣の反応があると……」
「新聞記者は大袈裟に書くのが仕事ですわ。事実半分、煽り半分と思いなさい」
私はココアを一口飲み、ふわりと微笑んだ。
「それに、あなたのお父様は『氷の公爵』です。魔獣ごときに遅れを取るような方ではありません。私たちが暗い顔をしていては、帰ってきたお父様が心配なさいますよ」
私の言葉に、アルフォンス様は少しだけ肩の力を抜いた。 「……そうですね。僕たちがしっかりしていなければ」
「その通りです。さあ、温かいうちに召し上がれ」
気丈に振る舞ってはいたけれど、私の内心も穏やかではなかった。 新聞の情報が事実なら、今回の「裂け目」は過去数年で最大規模だ。 そして何より気になるのは、その発生のタイミングだ。 王都からの理不尽な干渉と、ほぼ同時期。 偶然にしては出来すぎている。
◇
朝食後、私は中庭にあるガラス張りの温室へと向かった。 外は極寒の冬だが、温室の中は家庭魔法の術式が組み込まれた魔道具によって、春のような暖かさが保たれている。
むっとするほどの緑の匂いと、甘い花の香り。 ここは、亡き前妻様が愛した場所であり、今は私が管理を引き継いでいる場所だ。 私はドレスの袖をまくり、エプロンをつけると、棚に並んだ薬草の鉢植えを確認し始めた。
「……やっぱり、育ちが早いわね」
私の呟きに、後ろに控えていた侍女長のセレスが頷く。
「はい。奥様が『灯』と『鎮』の魔力を注がれてから、薬草の効能が格段に上がっております」
ここにあるのは、ただの観賞用の花ではない。 傷を癒やす「ヒールグラス」、解毒作用のある「キアリーの葉」、そして精神を安定させる「白睡蓮」。 生活魔法しか使えない私だけれど、その魔力は植物を育てるのには適しているらしい。
「セレス。前線の状況は?」
私は剪定鋏を動かしながら、声を潜めて尋ねた。 ここには子供たちはいない。私の「耳」であるセレスと、真実を話す時間だ。
セレスは眼鏡の位置を直し、淡々と、しかし重い口調で報告した。
「芳しくありません。騎士団からの非公式な報告によれば、湧き出る魔獣の数に対して、回復薬(ポーション)の備蓄が追いついていないそうです」
「ポーション不足……」
「はい。王都からの補給物資が、なぜか『手続きの遅れ』で滞っているとか」
ハッ、と私は嘲笑を漏らした。 手続きの遅れ? そんなわけがない。 王都の誰か――十中八九、王太子派閥の誰かが、グレイフ公爵家を困らせるために、あるいはレオンハルト様の手柄を減らすために、意図的に物流を止めているのだ。 前線で命を張る騎士たちのことなど、彼らの政治ゲームの駒としか思っていないのだろう。
「くだらない。本当にくだらないわ」
怒りで鋏を握る手に力が入る。 パチン、と太い茎が音を立てて切れた。
「奥様、いかがなさいますか。裏ルートで物資を調達することも可能ですが、時間がかかります」
「待っていられません。……作りましょう」
「作る、とは?」
「ここで、私たちが」
私は温室を見渡した。 ここには、質の良い薬草が溢れるほどある。 そして、私には『鎮』の魔法がある。
「王都の錬金術師が作るような高度なポーションは無理でも、止血や痛みを和らげる軟膏なら作れます。私の魔力を込めれば、市販品より効果は高いはずよ」
「ですが、奥様の魔力を消耗してしまいます」
「夫が前線で血を流しているかもしれないのに、妻が魔力を惜しんでどうするの?」
私が振り返って笑うと、セレスは一瞬驚いた顔をして、それから深く頭を下げた。
「……承知いたしました。すぐに道具の手配を」
◇
それからの数時間、温室は即席の製薬工房と化した。 大鍋で薬草を煮出し、すり鉢で葉を潰し、魔力を練り込んでいく。 地味で根気のいる作業だ。 額に汗が滲む。ドレスは汚れてしまうけれど、構っていられない。
「……何してるの?」
入り口から、不審そうな声がした。 ミレイユ様だ。 後ろには、心配そうなアルフォンス様もいる。
「あら、見つかってしまいましたね」
私は手を止めず、すり鉢を回しながら答えた。 「お父様や騎士様たちのために、お薬を作っているのです。王都からの荷物が遅れているみたいですから」
「お薬……?」
ミレイユ様が近づいてきて、すり鉢の中を覗き込む。 緑色のペースト状になったそれは、正直あまり見た目の良いものではない。
「くさっ。変な匂い」
「良薬は口に苦し、鼻に臭し、ですわ。でも、これを塗れば傷がすぐに治るのですよ」
私がウィンクすると、アルフォンス様が真剣な顔で進み出てきた。
「僕にも、手伝わせてください」
「アルフォンス様?」
「父上の役に立ちたいんです。剣を持って戦うことはできないけれど……これなら、僕にもできますか?」
その言葉に、ミレイユ様も反応した。 「ず、ずるい! 私だってやるわよ! お兄様だけいい格好させないんだから!」
不安で押しつぶされそうだった子供たちが、自分にも何かできることがあると知って、目に光を取り戻している。 私は嬉しくて、目頭が熱くなるのをこらえた。
「ええ、もちろん。猫の手も借りたいところでしたの。アルフォンス様はこの葉っぱを千切ってください。ミレイユ様は、瓶の蓋を並べてくださる?」
「分かった!」
こうして、公爵夫人と令息令嬢による、前代未聞の「お薬作り大会」が始まった。 アルフォンス様は几帳面に同じサイズに葉を千切り、ミレイユ様は時々「くさいー」と文句を言いながらも、テキパキと瓶を並べていく。 ノア様もやってきて、「ぼくもー」と私のエプロンの紐を結び直す(邪魔をする?)係を担当してくれた。
作業に没頭することで、遠くから響く地響きの音も、少しだけ気にならなくなった。 私たちは今、家族全員で戦っているのだ。
夕方になる頃には、木箱三つ分の特製軟膏が完成した。 『グレイフ家特製・鎮めの軟膏』。 ラベルには、ミレイユ様が描いた(少し不格好な)花の絵が添えられている。
「よし、完成ですね」
私が腰を伸ばすと、セレスが報告に来た。
「奥様。砦へ向かう補給部隊が、間もなく出発するそうです」
「急ぎましょう。これを載せてもらわなくては」
私たちは大急ぎで箱を梱包し、裏庭の搬入口へと向かった。 そこには、物資を積み込む馬車と、護衛の騎士たちがいた。 騎士たちは、公爵夫人と子供たちが自ら荷物を運んできたことに驚愕していた。
「お、奥様!? それに若様とお嬢様まで……」
「これをお願いします。私たちが作った傷薬です。レオンハルト様と、皆さんに」
私が箱を渡すと、騎士の一人が感極まったように声を詰まらせた。
「か、感謝いたします! 前線では薬が不足しており、これは何よりの援軍です!」
「必ず、届けてくれ。父上に」
アルフォンス様が、騎士の手を握って頼む。
「はいっ! この命に代えても!」
馬車が蹄の音を響かせて出発していく。 私たちは並んで、その背中が見えなくなるまで見送った。
空はもう夕闇に包まれている。 北の空を見ると、不気味な赤い光が雲を染めていた。 『裂け目』の光だ。 あそこには、今もレオンハルト様がいる。
「……パパ」
ノア様が小さく呼ぶ。 私は彼の肩を抱き寄せた。
「大丈夫。私たちの気持ちは、きっと届きます」
そう信じるしかなかった。 けれど、現実は私の願いよりも過酷だった。
その夜遅く。 セレスが、見たこともないほど厳しい顔で私の寝室を訪れた。
「……奥様。悪い知らせです」
「……何?」
「先ほど出発した補給部隊とは別に、前線から早馬が着きました。レオンハルト様からの伝言です」
セレスは一瞬躊躇い、そして告げた。
「『裂け目の拡大が止まらない。人為的な術式の干渉が疑われる。事態の収拾まで、数週間から一ヶ月は帰還できない』……と」
一ヶ月。 長期戦だ。 しかも、「人為的な干渉」。 やはり、誰かが意図的に魔獣を呼び寄せている。
「……そう」
私は窓の外、闇に沈む北の方角を睨んだ。
「上等じゃないの」
夫が帰れないのなら、私がこの城を守り抜くしかない。 一ヶ月だろうが、半年だろうが。
「セレス。明日から屋敷の警備レベルを引き上げて。それと、温室の薬草を全て収穫する準備を。……持久戦よ」
悪役令嬢の顔に戻り、私は冷徹に指示を出した。 けれど、窓ガラスに映る私の手は、微かに震えていた。
会いたい。 まだ数日しか経っていないのに、あの不器用な笑顔が、無性に恋しかった。
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