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第十話「初めての“呼びかけ”未遂」
嵐のような訪問者が去り、グレイフ公爵邸には再び穏やかな時間が戻っていた。 いや、「元通り」ではない。 以前の冷え切った静寂ではなく、今のこの屋敷には、確かな温度があった。
夕食後のサロン。 暖炉の薪がパチパチと爆ぜる音を背景に、私たちはそれぞれの時間を過ごしていた。
「……ここ、間違っていますわ」
「えっ? うそ、どこ?」
「このステッチです。裏で糸が絡まっていますよ。無理に引っ張ると布が傷みますから、一度ほどきましょう」
「むぅ……刺繍って、剣の稽古より難しいわ」
ミレイユ様が不満げに頬を膨らませながら、私の手元を覗き込んでいる。 先日の騒動以来、彼女は私のそばにいることが増えた。 口では「暇だから相手をしてあげているのよ」なんて言っているけれど、その距離感は明らかに以前より近い。 こうして並んで座り、刺繍を教える時間が持てるようになるなんて、来たばかりの頃を思えば夢のようだ。
「アルフォンス様も、根を詰めすぎないでくださいね。本を読むのは良いことですが、照明が暗いです」
「あ、はい。……つい夢中になってしまって」
向かいのソファで本を読んでいたアルフォンス様が、はにかむように微笑んでランプの芯を調整した。 彼が読んでいるのは、領地経営の専門書ではなく、冒険小説だ。 「子供は子供らしく」という私の(そしてレオンハルト様の)方針で、夜は仕事禁止令が出ているのだ。 最初は戸惑っていた彼も、今では物語の世界に没頭する楽しさを思い出したようだ。
そして、私の膝の上には。
「……うとうと……」
ノア様が、船を漕いでいる。 夕食でお腹いっぱいになり、暖炉の暖かさと、みんながいる安心感に包まれて、眠気と戦っているのだ。 その小さな頭が、こくり、こくりと揺れるたびに、私の胸にコツンと当たる。 その重みが、愛おしくてたまらない。
レオンハルト様は、少し離れた安楽椅子に座り、そんな私たちの様子を静かに眺めていた。 手には書類を持っているけれど、視線はずっとこちらに向けられている。 そのアイスブルーの瞳は、以前のような氷の刃ではなく、凪いだ湖のように穏やかだ。
「……平和だな」
彼がぽつりと漏らした言葉が、サロンの空気に溶けていく。
「ええ。とても」
私はノア様の頭を撫でながら答えた。 王都からの理不尽な干渉を退け、私たちは「家族」としての第一歩を踏み出した。 まだ完全ではないかもしれない。 けれど、この空間に流れる空気は、間違いなく「家庭」のそれだった。
◇
「さて、ノア様。そろそろベッドへ行く時間ですよ」
私が声をかけると、ノア様はとろんとした目を擦りながら、素直に両手を伸ばしてきた。 抱っこのおねだりだ。
「……ん」
「はいはい。よいしょ、と」
私は彼を抱き上げた。 ずしりと感じる三歳児の重み。 以前は冷たく凍りついていたこの子が、今はこんなにも温かい。
「おやすみなさい、父上、兄上、姉上」
私が代弁して挨拶をすると、ノア様も真似をして小さく手を振った。
「おやすみ、ノア」
レオンハルト様たちが、優しく微笑んで見送ってくれる。 私はノア様を抱いたまま、廊下へと出た。
北棟の子ども部屋までの道のり。 窓の外は漆黒の闇に包まれ、雪がしんしんと降り積もっている。 廊下の空気は少しひんやりとしているけれど、私の腕の中にある温もりが、寒さを忘れさせてくれた。
「……きょうね」
腕の中で、ノア様がぽつりと話し始めた。 眠い目をこすりながら、今日あったことを話してくれるのが、最近の日課になりつつある。
「うん? なあに?」
「きょう、えほん、よんだの」
「あら、偉いですね。どんなご本?」
「くまさんがね、はちみつ、たべるの」
「ふふ、美味しそうなお話ね」
「うん。……あとで、ママにも、あげるね」
ドキリとした。 「ママ」という言葉。 でも、それは私に向けられた呼びかけではなく、絵本の中の話か、あるいは夢現の中での言葉の綾かもしれない。
「……ありがとう。楽しみにしているわ」
私はあえて何も聞かず、優しく答えた。 焦ってはいけない。 言葉は、心が満ちた時に自然と溢れ出るものだ。無理に引き出そうとすれば、それは本物ではなくなってしまう。
子ども部屋に着くと、私はノア様をベッドに下ろした。 ふかふかの布団をかけ、枕元のランプを常夜灯に切り替える。 部屋の中は、ほのかにオレンジ色に染まり、温室から摘んできた白睡蓮の香りが漂っている。 安眠効果のあるその香りは、子供たちの夜を悪夢から守る、私なりの小さなおまじないだ。
「さあ、おやすみなさい。いい夢を」
私はいつものように、彼のおでこにキスを落とした。 そして、部屋を出ようと背を向けた時だった。
「……いかないで」
小さな手が、私のスカートの裾を掴んだ。 振り返ると、ノア様が布団から半身を起こし、不安そうな瞳で私を見つめていた。
「どうしました? 怖い夢でも見そう?」
「……ううん。……ちがうの」
彼は首を振った。 そして、掴んだスカートを離そうとせず、もじもじと口篭る。
「……あのね」
「なぁに?」
私はベッドサイドに戻り、彼の目線に合わせて屈んだ。 ノア様は、私の手を両手で包み込むようにして握りしめた。 その手は小さくて、少し湿っていて、とても温かい。
「……クラリスさまは、ずっと、ここにいる?」
「ええ、いますよ」
「……わるいひとがきても、いなくならない?」
先日、パルストン子爵が来た時のことを気にしているのだろう。 大人の事情に巻き込んで、不安にさせてしまった。
「いなくなったりしません。私は、あなたのお母様になると決めたのですから」
私は彼の手を握り返し、まっすぐに瞳を見つめた。
「どんな悪い人が来ても、私が追い払います。竜が来ても、お化けが来ても、私があなたを守ります。だから、安心して」
「……ほんとう?」
「本当です。約束します」
小指を出して、指切りをする。 ノア様は、その指切りをじっと見つめ、それから安心したようにふにゃりと笑った。 その笑顔は、天使という言葉でも足りないくらい、無垢で愛らしいものだった。
彼は布団に潜り込み、私の手を握ったまま目を閉じた。 呼吸がすぐに深くなる。 眠りの世界へ落ちていく、その境界線で。
彼は、夢うつつのまま、口元を動かした。
「……ま……」
え? 私は耳を澄ませた。
「……ま、ま……」
それは、あまりに微かな、寝言のような響きだった。 けれど、確かに私の鼓膜を震わせた。
「ママ……」
心臓が、早鐘を打った。 時が止まったような錯覚に陥る。
夢の中での言葉かもしれない。 亡くなった実母を呼んだのかもしれない。 それでも。 今、私の手を握り締め、私の体温を感じながら、彼はその言葉を口にした。
(……ああ)
胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。 目頭が熱くなるのを必死に堪えた。 泣いてはいけない。 もし今泣いたら、彼を起こしてしまう。
私は、握られた手にそっと力を込めた。 言葉には出さず、心の中で答える。
(おやすみなさい。……私の、可愛い子供)
それは、私がこの屋敷に来てから得た、何よりも尊く、美しい瞬間だった。 三つの拒絶から始まった物語が、ようやく一つの「受容」へと辿り着いた瞬間。
私はこの幸せな余韻に浸りながら、彼の手が完全に力を失い、深い眠りにつくのを待った。 あと少し。あと数分だけ、この温もりを感じていたい。
そう思った、その時だった。
ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥ――――――ン!!
不協和音のような、低く不気味な音が、屋敷全体を振動させた。 風の音ではない。 地響きとも違う。 もっと不吉で、本能的な恐怖を呼び覚ますような、警報の音。
「……っ!?」
ノア様がビクリと跳ね起きる。 幸せな静寂は、硝子細工のように粉々に砕け散った。
「クラリスさま……っ!」
「大丈夫! 大丈夫よ!」
私は反射的にノア様を抱きしめた。 音は鳴り止まない。 廊下を走る、重い足音が聞こえる。 金属が触れ合う音。鎧の音だ。
「何事だ!」
遠くでレオンハルト様の怒号が響く。
私はノア様を抱いたまま、部屋の扉を開けた。 廊下には、すでに武装した騎士たちが走り回っていた。 そして、階段の下から、蒼白な顔をした騎士団副長のハインツが駆け上がってくるのが見えた。
「旦那様! 緊急事態です!」
サロンから出てきたレオンハルト様が、ハインツを受け止める。 その表情は、先ほどの穏やかな「父親」の顔ではなく、完全に「氷の公爵」のそれに戻っていた。
「報告しろ!」
「『境界』です! 第一砦より入電! 大規模な『裂け目』が発生しました!」
裂け目。 北方の地に点在する、異界との穴。 そこから魔獣が湧き出し、人々の生活を脅かす災厄の源。
「規模は?」
「推定ランクA……いえ、それ以上かもしれません! すでに魔獣の先兵が砦壁に取り付いています! このままでは、夜明けまでに防衛線が突破されます!」
ランクA。 それは、一つの街が壊滅するレベルの災害を意味する。
レオンハルト様の目が、鋭く光った。
「……総員、第一種戦闘配置! 俺が出る!」
「はっ!」
ハインツが敬礼し、踵を返して走り去る。 レオンハルト様は、振り返って私を見た。 その瞳には、家族との団欒を邪魔された怒りと、守るべきものを前にした決意が宿っていた。
「クラリス」
彼は私のそばに駆け寄り、私の腕の中でおびえるノア様の頭を一度だけ撫でた。
「すまない。……行ってくる」
「レオンハルト様」
私は彼の袖を掴んだ。 行かないで、とは言えない。 彼はこの地の領主であり、人々を守る英雄なのだから。 でも、嫌な予感がする。 このタイミングでの大規模な襲撃。 王都からの干渉があった直後に、まるで示し合わせたかのように起きた災厄。
「……ご武運を。どうか、ご無事で」
私が言えるのは、それだけだった。 レオンハルト様は力強く頷き、私の手を包み込んだ。
「家を頼む。子供たちを……守ってくれ」
「はい。必ず」
彼は翻り、闇の中へと消えていった。 残されたのは、不気味に鳴り響く警報音と、不安に震える子供たち、そして私。
先ほどまでの幸せな空気は、もうどこにもない。 私たちは知らなかったのだ。 屋敷の中の戦いは序章に過ぎず、本当の脅威は、ずっと北の空の下で、どす黒い口を開けて待っていたことを。
「……ママ……」
ノア様が、私の胸に顔を埋めて震えている。 今度は、はっきりとそう呼んだ気がした。 けれど、それは甘えるための呼び名ではなく、助けを求める悲痛な叫びだった。
私は彼を抱きしめる腕に力を込めた。 外からは冷たい風が吹き込み、屋敷の灯りを揺らしている。
長い夜が、始まろうとしていた。
夕食後のサロン。 暖炉の薪がパチパチと爆ぜる音を背景に、私たちはそれぞれの時間を過ごしていた。
「……ここ、間違っていますわ」
「えっ? うそ、どこ?」
「このステッチです。裏で糸が絡まっていますよ。無理に引っ張ると布が傷みますから、一度ほどきましょう」
「むぅ……刺繍って、剣の稽古より難しいわ」
ミレイユ様が不満げに頬を膨らませながら、私の手元を覗き込んでいる。 先日の騒動以来、彼女は私のそばにいることが増えた。 口では「暇だから相手をしてあげているのよ」なんて言っているけれど、その距離感は明らかに以前より近い。 こうして並んで座り、刺繍を教える時間が持てるようになるなんて、来たばかりの頃を思えば夢のようだ。
「アルフォンス様も、根を詰めすぎないでくださいね。本を読むのは良いことですが、照明が暗いです」
「あ、はい。……つい夢中になってしまって」
向かいのソファで本を読んでいたアルフォンス様が、はにかむように微笑んでランプの芯を調整した。 彼が読んでいるのは、領地経営の専門書ではなく、冒険小説だ。 「子供は子供らしく」という私の(そしてレオンハルト様の)方針で、夜は仕事禁止令が出ているのだ。 最初は戸惑っていた彼も、今では物語の世界に没頭する楽しさを思い出したようだ。
そして、私の膝の上には。
「……うとうと……」
ノア様が、船を漕いでいる。 夕食でお腹いっぱいになり、暖炉の暖かさと、みんながいる安心感に包まれて、眠気と戦っているのだ。 その小さな頭が、こくり、こくりと揺れるたびに、私の胸にコツンと当たる。 その重みが、愛おしくてたまらない。
レオンハルト様は、少し離れた安楽椅子に座り、そんな私たちの様子を静かに眺めていた。 手には書類を持っているけれど、視線はずっとこちらに向けられている。 そのアイスブルーの瞳は、以前のような氷の刃ではなく、凪いだ湖のように穏やかだ。
「……平和だな」
彼がぽつりと漏らした言葉が、サロンの空気に溶けていく。
「ええ。とても」
私はノア様の頭を撫でながら答えた。 王都からの理不尽な干渉を退け、私たちは「家族」としての第一歩を踏み出した。 まだ完全ではないかもしれない。 けれど、この空間に流れる空気は、間違いなく「家庭」のそれだった。
◇
「さて、ノア様。そろそろベッドへ行く時間ですよ」
私が声をかけると、ノア様はとろんとした目を擦りながら、素直に両手を伸ばしてきた。 抱っこのおねだりだ。
「……ん」
「はいはい。よいしょ、と」
私は彼を抱き上げた。 ずしりと感じる三歳児の重み。 以前は冷たく凍りついていたこの子が、今はこんなにも温かい。
「おやすみなさい、父上、兄上、姉上」
私が代弁して挨拶をすると、ノア様も真似をして小さく手を振った。
「おやすみ、ノア」
レオンハルト様たちが、優しく微笑んで見送ってくれる。 私はノア様を抱いたまま、廊下へと出た。
北棟の子ども部屋までの道のり。 窓の外は漆黒の闇に包まれ、雪がしんしんと降り積もっている。 廊下の空気は少しひんやりとしているけれど、私の腕の中にある温もりが、寒さを忘れさせてくれた。
「……きょうね」
腕の中で、ノア様がぽつりと話し始めた。 眠い目をこすりながら、今日あったことを話してくれるのが、最近の日課になりつつある。
「うん? なあに?」
「きょう、えほん、よんだの」
「あら、偉いですね。どんなご本?」
「くまさんがね、はちみつ、たべるの」
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「うん。……あとで、ママにも、あげるね」
ドキリとした。 「ママ」という言葉。 でも、それは私に向けられた呼びかけではなく、絵本の中の話か、あるいは夢現の中での言葉の綾かもしれない。
「……ありがとう。楽しみにしているわ」
私はあえて何も聞かず、優しく答えた。 焦ってはいけない。 言葉は、心が満ちた時に自然と溢れ出るものだ。無理に引き出そうとすれば、それは本物ではなくなってしまう。
子ども部屋に着くと、私はノア様をベッドに下ろした。 ふかふかの布団をかけ、枕元のランプを常夜灯に切り替える。 部屋の中は、ほのかにオレンジ色に染まり、温室から摘んできた白睡蓮の香りが漂っている。 安眠効果のあるその香りは、子供たちの夜を悪夢から守る、私なりの小さなおまじないだ。
「さあ、おやすみなさい。いい夢を」
私はいつものように、彼のおでこにキスを落とした。 そして、部屋を出ようと背を向けた時だった。
「……いかないで」
小さな手が、私のスカートの裾を掴んだ。 振り返ると、ノア様が布団から半身を起こし、不安そうな瞳で私を見つめていた。
「どうしました? 怖い夢でも見そう?」
「……ううん。……ちがうの」
彼は首を振った。 そして、掴んだスカートを離そうとせず、もじもじと口篭る。
「……あのね」
「なぁに?」
私はベッドサイドに戻り、彼の目線に合わせて屈んだ。 ノア様は、私の手を両手で包み込むようにして握りしめた。 その手は小さくて、少し湿っていて、とても温かい。
「……クラリスさまは、ずっと、ここにいる?」
「ええ、いますよ」
「……わるいひとがきても、いなくならない?」
先日、パルストン子爵が来た時のことを気にしているのだろう。 大人の事情に巻き込んで、不安にさせてしまった。
「いなくなったりしません。私は、あなたのお母様になると決めたのですから」
私は彼の手を握り返し、まっすぐに瞳を見つめた。
「どんな悪い人が来ても、私が追い払います。竜が来ても、お化けが来ても、私があなたを守ります。だから、安心して」
「……ほんとう?」
「本当です。約束します」
小指を出して、指切りをする。 ノア様は、その指切りをじっと見つめ、それから安心したようにふにゃりと笑った。 その笑顔は、天使という言葉でも足りないくらい、無垢で愛らしいものだった。
彼は布団に潜り込み、私の手を握ったまま目を閉じた。 呼吸がすぐに深くなる。 眠りの世界へ落ちていく、その境界線で。
彼は、夢うつつのまま、口元を動かした。
「……ま……」
え? 私は耳を澄ませた。
「……ま、ま……」
それは、あまりに微かな、寝言のような響きだった。 けれど、確かに私の鼓膜を震わせた。
「ママ……」
心臓が、早鐘を打った。 時が止まったような錯覚に陥る。
夢の中での言葉かもしれない。 亡くなった実母を呼んだのかもしれない。 それでも。 今、私の手を握り締め、私の体温を感じながら、彼はその言葉を口にした。
(……ああ)
胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。 目頭が熱くなるのを必死に堪えた。 泣いてはいけない。 もし今泣いたら、彼を起こしてしまう。
私は、握られた手にそっと力を込めた。 言葉には出さず、心の中で答える。
(おやすみなさい。……私の、可愛い子供)
それは、私がこの屋敷に来てから得た、何よりも尊く、美しい瞬間だった。 三つの拒絶から始まった物語が、ようやく一つの「受容」へと辿り着いた瞬間。
私はこの幸せな余韻に浸りながら、彼の手が完全に力を失い、深い眠りにつくのを待った。 あと少し。あと数分だけ、この温もりを感じていたい。
そう思った、その時だった。
ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥ――――――ン!!
不協和音のような、低く不気味な音が、屋敷全体を振動させた。 風の音ではない。 地響きとも違う。 もっと不吉で、本能的な恐怖を呼び覚ますような、警報の音。
「……っ!?」
ノア様がビクリと跳ね起きる。 幸せな静寂は、硝子細工のように粉々に砕け散った。
「クラリスさま……っ!」
「大丈夫! 大丈夫よ!」
私は反射的にノア様を抱きしめた。 音は鳴り止まない。 廊下を走る、重い足音が聞こえる。 金属が触れ合う音。鎧の音だ。
「何事だ!」
遠くでレオンハルト様の怒号が響く。
私はノア様を抱いたまま、部屋の扉を開けた。 廊下には、すでに武装した騎士たちが走り回っていた。 そして、階段の下から、蒼白な顔をした騎士団副長のハインツが駆け上がってくるのが見えた。
「旦那様! 緊急事態です!」
サロンから出てきたレオンハルト様が、ハインツを受け止める。 その表情は、先ほどの穏やかな「父親」の顔ではなく、完全に「氷の公爵」のそれに戻っていた。
「報告しろ!」
「『境界』です! 第一砦より入電! 大規模な『裂け目』が発生しました!」
裂け目。 北方の地に点在する、異界との穴。 そこから魔獣が湧き出し、人々の生活を脅かす災厄の源。
「規模は?」
「推定ランクA……いえ、それ以上かもしれません! すでに魔獣の先兵が砦壁に取り付いています! このままでは、夜明けまでに防衛線が突破されます!」
ランクA。 それは、一つの街が壊滅するレベルの災害を意味する。
レオンハルト様の目が、鋭く光った。
「……総員、第一種戦闘配置! 俺が出る!」
「はっ!」
ハインツが敬礼し、踵を返して走り去る。 レオンハルト様は、振り返って私を見た。 その瞳には、家族との団欒を邪魔された怒りと、守るべきものを前にした決意が宿っていた。
「クラリス」
彼は私のそばに駆け寄り、私の腕の中でおびえるノア様の頭を一度だけ撫でた。
「すまない。……行ってくる」
「レオンハルト様」
私は彼の袖を掴んだ。 行かないで、とは言えない。 彼はこの地の領主であり、人々を守る英雄なのだから。 でも、嫌な予感がする。 このタイミングでの大規模な襲撃。 王都からの干渉があった直後に、まるで示し合わせたかのように起きた災厄。
「……ご武運を。どうか、ご無事で」
私が言えるのは、それだけだった。 レオンハルト様は力強く頷き、私の手を包み込んだ。
「家を頼む。子供たちを……守ってくれ」
「はい。必ず」
彼は翻り、闇の中へと消えていった。 残されたのは、不気味に鳴り響く警報音と、不安に震える子供たち、そして私。
先ほどまでの幸せな空気は、もうどこにもない。 私たちは知らなかったのだ。 屋敷の中の戦いは序章に過ぎず、本当の脅威は、ずっと北の空の下で、どす黒い口を開けて待っていたことを。
「……ママ……」
ノア様が、私の胸に顔を埋めて震えている。 今度は、はっきりとそう呼んだ気がした。 けれど、それは甘えるための呼び名ではなく、助けを求める悲痛な叫びだった。
私は彼を抱きしめる腕に力を込めた。 外からは冷たい風が吹き込み、屋敷の灯りを揺らしている。
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