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第十二話「父のいない夜の約束」
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レオンハルト様が不在となってから、一週間が過ぎた。 屋敷の中は、主人の不在という大きな穴を埋めるかのように、私が意識的に作り出す明るさと、ふとした瞬間に忍び込む静寂とが同居していた。
「奥様、本日のご予定ですが」
「ええ、午後は領内の備蓄庫の点検へ行きます。それから、厨房にも顔を出しますね。子供たちの夕食、今日は少し趣向を変えたいの」
朝の執務室。私はアルフォンス様の席――ではなく、臨時の執務机に座り、ギルベルトと打ち合わせを行っていた。 本来ならアルフォンス様が座るべき場所だが、「今は子供らしく過ごすこと」を最優先事項としているため、私が代行しているのだ。
「かしこまりました。……それにしても、奥様」
ギルベルトが目を細め、労るような眼差しを向けてきた。
「少し、根を詰めすぎではありませんか? 旦那様のご不在を一人で背負おうとなさらずとも」
「あら、平気ですよ。これくらいの手仕事、社交界での腹の探り合いに比べれば、ずっと健全で楽しいわ」
私はペンを走らせながら、強がって見せた。 嘘ではない。領地経営の実務は、数字が正直に出る分、人間の悪意よりずっと扱いやすい。 けれど、ふとペンを置いた時、無意識に北の窓を見てしまう自分がいるのも事実だった。
空は今日も、鉛色だ。 風鳴りの音が、時折獣の咆哮のように聞こえて、背筋が寒くなる。
(レオンハルト様……)
無事だろうか。 温かい食事はとれているだろうか。 私たちが送った軟膏は、役に立っているだろうか。 考え始めるとキリがない不安を、私は「仕事」という名の蓋で押し込めた。
◇
その日の夜は、特に風が強かった。 窓ガラスがガタガタと悲鳴を上げ、古い屋敷の柱が軋む音が、どこか遠い地底からの響きのようで不気味だった。
夕食後、いつもならサロンで寛ぐ時間だが、子供たちの様子がおかしい。 アルフォンス様は読書に集中できず、何度もページを行ったり来たりしている。 ミレイユ様は、愛用の人形の髪を無言で弄り続けている。 そしてノア様は、私の膝の上で小さく丸まり、時折ビクリと震えては、私の服を握りしめていた。
「……怖い?」
私が聞くと、ノア様が無言で頷いた。 言葉にしなくても分かる。この風の音が、あの「裂け目」の警報音を思い出させるのだ。 そして、この風の向こうに、父親がいるという事実が、彼らの心を押し潰そうとしている。
「ねえ、みなさん」
私は努めて明るい声を出した。
「少し、お散歩に行きませんか?」
「え……こんな時間に?」
アルフォンス様が驚いて顔を上げる。
「ええ。屋敷の中だけれど、とっておきの場所へ。……パパにお祈りをしに行きましょう」
私の提案に、三人の視線が集まった。
向かったのは、北棟の最奥にある「小礼拝堂」だった。 普段はあまり使われていない、家族のための小さな祈りの場。 重い扉を開けると、ひんやりとした冷気が肌を撫でた。 石造りの壁、高い天井。 正面の祭壇には、古びた女神像が静かに佇んでいる。
「……暗いし、寒い」
ミレイユ様が身を縮こまらせる。 確かに、暖炉のないこの部屋は、夜の冷気が溜まっていた。 恐怖を煽りかねないこの寒さを、私はすぐに変えることにした。
「大丈夫。すぐに温かくなりますよ」
私は祭壇の前に立ち、両手を広げた。 体内の魔力を練り上げる。 攻撃のためではなく、守るための魔力。 この屋敷に来てから、私が一番得意になった魔法だ。
「――『灯(ともしび)』よ、優しき光となりて、ここを照らせ」
私の言葉と共に、祭壇の燭台に次々と火が灯った。 それだけではない。 宙にふわりと浮かんだ無数の光の粒が、蛍のように部屋中を舞い始めた。 オレンジ色の温かな光。 それが壁に反射し、冷たい石造りの部屋を、夕暮れ時のような柔らかな色に染め上げていく。
さらに、私はポケットから乾燥させた白睡蓮の花びらを取り出し、香炉にくべた。
「――『鎮(しずめ)』よ、不安を溶かし、安らぎを与えよ」
甘く、清涼な香りがふわりと広がる。 光と香り。 視覚と嗅覚から働きかける「安心」の魔法。
「わぁ……」
ミレイユ様から感嘆の声が漏れた。 アルフォンス様も、目を見開いて周囲を見渡している。 ノア様は、宙を舞う光を目で追いかけ、小さく手を伸ばした。
「さあ、こちらへ」
私は祭壇の前の長椅子に座り、手招きをした。 子供たちが、おずおずと私の隣に座る。 右にアルフォンス様、左にミレイユ様。そして膝の上にはノア様。
「神様に祈るのもいいけれど、今日はパパにお手紙を書くつもりで、心の中で話しかけてみましょう」
私は静かに言った。
「パパは今、遠くにいるけれど、心は繋がっています。私たちがここで『無事でいて』と願えば、その想いはきっと風に乗って届きます」
「……本当に? 届くの?」
ミレイユ様が疑り深く、でも縋るような目で聞いてくる。
「ええ、届きます。魔法よりも確かな法則ですよ」
私は彼女の手を取り、優しく握った。 冷たい手。 不安で凍えていた小さな手だ。
「アルフォンス様も」
私は右手でアルフォンス様の手を握った。 彼は一瞬躊躇ったけれど、すぐに私の手を強く握り返してきた。
こうして、私たちは四人で一つの輪になった。 私の体温が、右手と左手から子供たちへ伝わり、そして子供たちの体温が私へと返ってくる。
「……父上」
アルフォンス様が、ポツリと呟いた。
「僕は……もう無理はしていません。ちゃんと食べて、寝ています。だから……心配しないで、自分の体を守ってください」
それは、彼なりの精一杯の祈りだった。 当主代行としてではなく、ただの息子としての願い。
「……パパ」
ノア様も、小さな声で呼ぶ。
「はやく、かえってきて。……くまさんのえほん、よんでほしいの」
そして、ミレイユ様。 彼女はずっと黙っていたけれど、握った手に力がこもるのを感じた。
「……バカパパ。私のリボン、見てないくせに」
憎まれ口のような、でも泣き出しそうな声。
「帰ってきたら、一番に見せてあげるから。……だから、怪我なんてしないでよ」
三人の祈りが、静寂な礼拝堂に響く。 私は目を閉じ、その祈りに自分の想いを重ねた。
(レオンハルト様。聞こえていますか? あなたの子供たちは、こんなにもあなたを想っています。……どうか、無事に帰ってきて)
その時。 外の風の音が、ふっと止んだような気がした。 ステンドグラス越しに、雲の切れ間から月光が差し込み、祭壇の女神像を青白く照らした。 まるで、祈りが届いた合図のように。
「……温かい」
アルフォンス様が、繋いだ手を見つめて言った。
「クラリス様の手は……どうしてこんなに温かいんでしょう」
「それはね、あなたたちが温かいからですよ」
私は微笑んだ。
「心臓が動いていて、生きている。その熱が、繋いだ手を通して伝わってくるんです。私たちは一人じゃありません。こうして手を繋げば、怖さなんて半分こにできます」
「……半分こ」
ミレイユ様が私の手をいじりながら繰り返す。
しばらくの間、私たちはそうやって手を繋いで座っていた。 言葉は必要なかった。 ただ、互いの存在を感じ、体温を共有するだけで、凍えていた心がゆっくりと解凍されていくのが分かった。 あの不気味な風の音も、もう怖くはない。 ここには、確かな「家族」の温度があるのだから。
◇
部屋に戻る頃には、子供たちの表情から強張りが消えていた。 ノア様は私の腕の中で完全に熟睡してしまい、アルフォンス様が「僕が運びます」と言ってくれたが、さすがにまだ重いので、交代で運ぶことにした。
寝室へ送り届け、一人ひとりにおやすみのキスをする。 最後にミレイユ様の部屋を出ようとした時だった。
「……ねえ」
布団に潜り込んだミレイユ様が、私を呼び止めた。 部屋の明かりは消してある。 月明かりだけが、彼女の金髪を銀色に染めていた。
「はい、なんでしょう?」
「……『ママ』って、なに?」
ドキリとした。 あまりに唐突で、そして核心を突く問いかけ。
「……それは、どういう意味ですか?」
私は慎重に問い返した。 言葉の意味を知らないわけではないだろう。 彼女が聞きたいのは、辞書的な意味ではない。
ミレイユ様は布団から顔だけ出して、天井を見つめていた。
「私、本当のお母様のこと、あんまり覚えてないの。写真はあるけど……声とか、匂いとか、忘れちゃった」
七歳。 実母が亡くなったのは数年前だろうか。記憶が薄れていくのは、子供にとって罪悪感を伴う恐怖だ。
「前の継母たちは、『私がママよ』って言ったわ。でも、それは『お父様の妻』って意味だった。私たちが言うことを聞くための、命令者みたいな意味だった」
彼女は視線を私に向けた。 その瞳は、暗がりの中でも強く、探るような光を宿していた。
「あなたは違う。……命令しないし、私の機嫌を取ろうともしない。でも、痛くないように髪を梳かすし、私の好きなクッキーを焼いてくれる」
「……」
「今日、手を繋いだ時……なんか、変な感じがしたの。ここが」
彼女は自分の胸のあたりを小さな手で押さえた。
「ぽかぽかして、泣きたくなって、でも安心する感じ。……これが、『ママ』ってことなの?」
私は息を呑んだ。 この聡明な少女は、感覚的に真理に近づこうとしている。 「ママ」とは、役割や称号ではない。 関係性の中に生まれる、温度の名前なのだと。
私はベッドサイドに膝をつき、彼女の髪を優しく撫でた。
「……正解はありませんわ、ミレイユ様」
「え?」
「『ママ』というのは、誰かが決めるものではないのです。あなたが心の中で、その人を呼んだ時……その時に感じる温かさ。それが『ママ』の正体だと、私は思います」
私は彼女の額に、そっと指を触れた。
「私をママと呼ぶ必要はありません。でも、あなたが寒くて、寂しくて、誰かの手が必要な時……私が一番に手を差し伸べられる人でありたい。それだけは、本当です」
ミレイユ様は、じっと私を見ていた。 やがて、彼女はふいと顔を背け、布団を頭まで被ってしまった。
「……ずるい」
こもった声が聞こえた。
「そんなこと言われたら……嫌いになれないじゃない」
その声は、微かに震えていた。 私は口元が綻ぶのを止められなかった。 「嫌いになれない」。 それは、今の彼女が出せる、精一杯の「好き」に近い言葉だ。
「おやすみなさい、ミレイユ様。また明日」
私は部屋を出た。 廊下に出ると、窓の外の雪が止んでいるのに気づいた。 雲が晴れ、満月が青く輝いている。
三人の「ママ」が聞けるまで。 その道はまだ途中だけれど、今夜、私たちは大きな一歩を踏み出した気がする。
けれど。 その穏やかな月の光は、同時に残酷な事実も照らし出していた。
翌朝。 王都から届いた一通の手紙が、昨夜の安らぎを粉々に砕くことになった。
差出人は、王家。 内容は、社交シーズンの到来を告げる「夜会」への招待状だった。
『グレイフ公爵夫人クラリス殿。 王太子殿下主催の春の園遊会に招待する。 なお、ご家族――特に、継子であるお子様方の同伴を強く希望する』
同伴を希望。 それはつまり、「子供たちを連れてこい。衆人環視の中で、お前が虐待していないか見定めてやる」という呼び出しだ。
レオンハルト様が不在のこのタイミングで。 守るべき盾がいない戦場へ、私と子供たちを誘い出そうというのだ。
「……性格が悪すぎて、呆れますね」
私は招待状をテーブルに放り投げた。 手袋をした手で触れるのも汚らわしい。
けれど、断れば「やましいことがあるから逃げた」と言われるだろう。 行くしかない。 悪役令嬢として、かつて私が断罪されたあの王都の社交界へ。 今度は、三人の子供たちの手を引いて。
「準備をして、セレス。……最高に美しいドレスと、子供たちの晴れ着を」
私は不敵に微笑んだ。
「王都の皆様に、幸せな家族の肖像を見せつけて差し上げましょう」
「奥様、本日のご予定ですが」
「ええ、午後は領内の備蓄庫の点検へ行きます。それから、厨房にも顔を出しますね。子供たちの夕食、今日は少し趣向を変えたいの」
朝の執務室。私はアルフォンス様の席――ではなく、臨時の執務机に座り、ギルベルトと打ち合わせを行っていた。 本来ならアルフォンス様が座るべき場所だが、「今は子供らしく過ごすこと」を最優先事項としているため、私が代行しているのだ。
「かしこまりました。……それにしても、奥様」
ギルベルトが目を細め、労るような眼差しを向けてきた。
「少し、根を詰めすぎではありませんか? 旦那様のご不在を一人で背負おうとなさらずとも」
「あら、平気ですよ。これくらいの手仕事、社交界での腹の探り合いに比べれば、ずっと健全で楽しいわ」
私はペンを走らせながら、強がって見せた。 嘘ではない。領地経営の実務は、数字が正直に出る分、人間の悪意よりずっと扱いやすい。 けれど、ふとペンを置いた時、無意識に北の窓を見てしまう自分がいるのも事実だった。
空は今日も、鉛色だ。 風鳴りの音が、時折獣の咆哮のように聞こえて、背筋が寒くなる。
(レオンハルト様……)
無事だろうか。 温かい食事はとれているだろうか。 私たちが送った軟膏は、役に立っているだろうか。 考え始めるとキリがない不安を、私は「仕事」という名の蓋で押し込めた。
◇
その日の夜は、特に風が強かった。 窓ガラスがガタガタと悲鳴を上げ、古い屋敷の柱が軋む音が、どこか遠い地底からの響きのようで不気味だった。
夕食後、いつもならサロンで寛ぐ時間だが、子供たちの様子がおかしい。 アルフォンス様は読書に集中できず、何度もページを行ったり来たりしている。 ミレイユ様は、愛用の人形の髪を無言で弄り続けている。 そしてノア様は、私の膝の上で小さく丸まり、時折ビクリと震えては、私の服を握りしめていた。
「……怖い?」
私が聞くと、ノア様が無言で頷いた。 言葉にしなくても分かる。この風の音が、あの「裂け目」の警報音を思い出させるのだ。 そして、この風の向こうに、父親がいるという事実が、彼らの心を押し潰そうとしている。
「ねえ、みなさん」
私は努めて明るい声を出した。
「少し、お散歩に行きませんか?」
「え……こんな時間に?」
アルフォンス様が驚いて顔を上げる。
「ええ。屋敷の中だけれど、とっておきの場所へ。……パパにお祈りをしに行きましょう」
私の提案に、三人の視線が集まった。
向かったのは、北棟の最奥にある「小礼拝堂」だった。 普段はあまり使われていない、家族のための小さな祈りの場。 重い扉を開けると、ひんやりとした冷気が肌を撫でた。 石造りの壁、高い天井。 正面の祭壇には、古びた女神像が静かに佇んでいる。
「……暗いし、寒い」
ミレイユ様が身を縮こまらせる。 確かに、暖炉のないこの部屋は、夜の冷気が溜まっていた。 恐怖を煽りかねないこの寒さを、私はすぐに変えることにした。
「大丈夫。すぐに温かくなりますよ」
私は祭壇の前に立ち、両手を広げた。 体内の魔力を練り上げる。 攻撃のためではなく、守るための魔力。 この屋敷に来てから、私が一番得意になった魔法だ。
「――『灯(ともしび)』よ、優しき光となりて、ここを照らせ」
私の言葉と共に、祭壇の燭台に次々と火が灯った。 それだけではない。 宙にふわりと浮かんだ無数の光の粒が、蛍のように部屋中を舞い始めた。 オレンジ色の温かな光。 それが壁に反射し、冷たい石造りの部屋を、夕暮れ時のような柔らかな色に染め上げていく。
さらに、私はポケットから乾燥させた白睡蓮の花びらを取り出し、香炉にくべた。
「――『鎮(しずめ)』よ、不安を溶かし、安らぎを与えよ」
甘く、清涼な香りがふわりと広がる。 光と香り。 視覚と嗅覚から働きかける「安心」の魔法。
「わぁ……」
ミレイユ様から感嘆の声が漏れた。 アルフォンス様も、目を見開いて周囲を見渡している。 ノア様は、宙を舞う光を目で追いかけ、小さく手を伸ばした。
「さあ、こちらへ」
私は祭壇の前の長椅子に座り、手招きをした。 子供たちが、おずおずと私の隣に座る。 右にアルフォンス様、左にミレイユ様。そして膝の上にはノア様。
「神様に祈るのもいいけれど、今日はパパにお手紙を書くつもりで、心の中で話しかけてみましょう」
私は静かに言った。
「パパは今、遠くにいるけれど、心は繋がっています。私たちがここで『無事でいて』と願えば、その想いはきっと風に乗って届きます」
「……本当に? 届くの?」
ミレイユ様が疑り深く、でも縋るような目で聞いてくる。
「ええ、届きます。魔法よりも確かな法則ですよ」
私は彼女の手を取り、優しく握った。 冷たい手。 不安で凍えていた小さな手だ。
「アルフォンス様も」
私は右手でアルフォンス様の手を握った。 彼は一瞬躊躇ったけれど、すぐに私の手を強く握り返してきた。
こうして、私たちは四人で一つの輪になった。 私の体温が、右手と左手から子供たちへ伝わり、そして子供たちの体温が私へと返ってくる。
「……父上」
アルフォンス様が、ポツリと呟いた。
「僕は……もう無理はしていません。ちゃんと食べて、寝ています。だから……心配しないで、自分の体を守ってください」
それは、彼なりの精一杯の祈りだった。 当主代行としてではなく、ただの息子としての願い。
「……パパ」
ノア様も、小さな声で呼ぶ。
「はやく、かえってきて。……くまさんのえほん、よんでほしいの」
そして、ミレイユ様。 彼女はずっと黙っていたけれど、握った手に力がこもるのを感じた。
「……バカパパ。私のリボン、見てないくせに」
憎まれ口のような、でも泣き出しそうな声。
「帰ってきたら、一番に見せてあげるから。……だから、怪我なんてしないでよ」
三人の祈りが、静寂な礼拝堂に響く。 私は目を閉じ、その祈りに自分の想いを重ねた。
(レオンハルト様。聞こえていますか? あなたの子供たちは、こんなにもあなたを想っています。……どうか、無事に帰ってきて)
その時。 外の風の音が、ふっと止んだような気がした。 ステンドグラス越しに、雲の切れ間から月光が差し込み、祭壇の女神像を青白く照らした。 まるで、祈りが届いた合図のように。
「……温かい」
アルフォンス様が、繋いだ手を見つめて言った。
「クラリス様の手は……どうしてこんなに温かいんでしょう」
「それはね、あなたたちが温かいからですよ」
私は微笑んだ。
「心臓が動いていて、生きている。その熱が、繋いだ手を通して伝わってくるんです。私たちは一人じゃありません。こうして手を繋げば、怖さなんて半分こにできます」
「……半分こ」
ミレイユ様が私の手をいじりながら繰り返す。
しばらくの間、私たちはそうやって手を繋いで座っていた。 言葉は必要なかった。 ただ、互いの存在を感じ、体温を共有するだけで、凍えていた心がゆっくりと解凍されていくのが分かった。 あの不気味な風の音も、もう怖くはない。 ここには、確かな「家族」の温度があるのだから。
◇
部屋に戻る頃には、子供たちの表情から強張りが消えていた。 ノア様は私の腕の中で完全に熟睡してしまい、アルフォンス様が「僕が運びます」と言ってくれたが、さすがにまだ重いので、交代で運ぶことにした。
寝室へ送り届け、一人ひとりにおやすみのキスをする。 最後にミレイユ様の部屋を出ようとした時だった。
「……ねえ」
布団に潜り込んだミレイユ様が、私を呼び止めた。 部屋の明かりは消してある。 月明かりだけが、彼女の金髪を銀色に染めていた。
「はい、なんでしょう?」
「……『ママ』って、なに?」
ドキリとした。 あまりに唐突で、そして核心を突く問いかけ。
「……それは、どういう意味ですか?」
私は慎重に問い返した。 言葉の意味を知らないわけではないだろう。 彼女が聞きたいのは、辞書的な意味ではない。
ミレイユ様は布団から顔だけ出して、天井を見つめていた。
「私、本当のお母様のこと、あんまり覚えてないの。写真はあるけど……声とか、匂いとか、忘れちゃった」
七歳。 実母が亡くなったのは数年前だろうか。記憶が薄れていくのは、子供にとって罪悪感を伴う恐怖だ。
「前の継母たちは、『私がママよ』って言ったわ。でも、それは『お父様の妻』って意味だった。私たちが言うことを聞くための、命令者みたいな意味だった」
彼女は視線を私に向けた。 その瞳は、暗がりの中でも強く、探るような光を宿していた。
「あなたは違う。……命令しないし、私の機嫌を取ろうともしない。でも、痛くないように髪を梳かすし、私の好きなクッキーを焼いてくれる」
「……」
「今日、手を繋いだ時……なんか、変な感じがしたの。ここが」
彼女は自分の胸のあたりを小さな手で押さえた。
「ぽかぽかして、泣きたくなって、でも安心する感じ。……これが、『ママ』ってことなの?」
私は息を呑んだ。 この聡明な少女は、感覚的に真理に近づこうとしている。 「ママ」とは、役割や称号ではない。 関係性の中に生まれる、温度の名前なのだと。
私はベッドサイドに膝をつき、彼女の髪を優しく撫でた。
「……正解はありませんわ、ミレイユ様」
「え?」
「『ママ』というのは、誰かが決めるものではないのです。あなたが心の中で、その人を呼んだ時……その時に感じる温かさ。それが『ママ』の正体だと、私は思います」
私は彼女の額に、そっと指を触れた。
「私をママと呼ぶ必要はありません。でも、あなたが寒くて、寂しくて、誰かの手が必要な時……私が一番に手を差し伸べられる人でありたい。それだけは、本当です」
ミレイユ様は、じっと私を見ていた。 やがて、彼女はふいと顔を背け、布団を頭まで被ってしまった。
「……ずるい」
こもった声が聞こえた。
「そんなこと言われたら……嫌いになれないじゃない」
その声は、微かに震えていた。 私は口元が綻ぶのを止められなかった。 「嫌いになれない」。 それは、今の彼女が出せる、精一杯の「好き」に近い言葉だ。
「おやすみなさい、ミレイユ様。また明日」
私は部屋を出た。 廊下に出ると、窓の外の雪が止んでいるのに気づいた。 雲が晴れ、満月が青く輝いている。
三人の「ママ」が聞けるまで。 その道はまだ途中だけれど、今夜、私たちは大きな一歩を踏み出した気がする。
けれど。 その穏やかな月の光は、同時に残酷な事実も照らし出していた。
翌朝。 王都から届いた一通の手紙が、昨夜の安らぎを粉々に砕くことになった。
差出人は、王家。 内容は、社交シーズンの到来を告げる「夜会」への招待状だった。
『グレイフ公爵夫人クラリス殿。 王太子殿下主催の春の園遊会に招待する。 なお、ご家族――特に、継子であるお子様方の同伴を強く希望する』
同伴を希望。 それはつまり、「子供たちを連れてこい。衆人環視の中で、お前が虐待していないか見定めてやる」という呼び出しだ。
レオンハルト様が不在のこのタイミングで。 守るべき盾がいない戦場へ、私と子供たちを誘い出そうというのだ。
「……性格が悪すぎて、呆れますね」
私は招待状をテーブルに放り投げた。 手袋をした手で触れるのも汚らわしい。
けれど、断れば「やましいことがあるから逃げた」と言われるだろう。 行くしかない。 悪役令嬢として、かつて私が断罪されたあの王都の社交界へ。 今度は、三人の子供たちの手を引いて。
「準備をして、セレス。……最高に美しいドレスと、子供たちの晴れ着を」
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