15 / 31
第十五話「母の証明:子どもは嘘をつけない」
しおりを挟む
「……公爵家の内輪揉めに、王家が介入する。いささか品位に欠けるのではありませんか」
その老婆の声は、決して大きくはなかった。 しかし、大広間の喧騒を一瞬にして鎮めるだけの、圧倒的な重みを持っていた。
ヴィルヘルミナ・フォン・グレイフ。 レオンハルト様の父方の伯母であり、先代公爵の姉。 王宮のご意見番として知られ、その厳格さと鋭い慧眼から「氷の女帝」と恐れられる人物だ。
彼女は杖をつきながら、ゆっくりと、しかし確かな足取りでこちらへ歩み寄ってきた。 モーゼが海を割るように、貴族たちが慌てて道を開ける。
「ヴィ、ヴィルヘルミナ夫人……」
さしものルドルフ殿下も、この老婦人には一目置かざるを得ないらしい。 彼は一瞬だけ怯んだ表情を見せたが、すぐに味方を得たかのように表情を明るくした。
「おお、夫人! ちょうど良いところへ! 貴女もご存知でしょう、この女の悪行を! 貴女の可愛い甥っ子の留守に、子供たちを虐げ、あまつさえ王家の威光に魔法で逆らうなど……!」
殿下は私のことを指差し、唾を飛ばして訴えた。
「グレイフ家の名誉を守るためにも、この毒婦を排除せねばなりません! ご安心ください、子供たちは私が保護しますから」
殿下の言葉に、ヴィルヘルミナ夫人は無表情のまま、私と子供たちへ視線を向けた。 その瞳は、深海のように暗く、感情を読み取れない。 彼女は私の左手――レオンハルト様から贈られた黒革の手袋――を一瞥し、それから子供たちの顔を順に見つめた。
「……ふむ」
短く鼻を鳴らす。 そして、殿下に向き直り、冷ややかに告げた。
「殿下のおっしゃる通り、グレイフ家の名誉は守らねばなりません。ですが、一方的な断罪は我が家の流儀ではありませんわ」
「な、なんだと?」
「真実を確かめるのに、最も確実な証人がいるではありませんか」
夫人は杖の先で、私の背後を指した。 そこには、私のドレスを掴んで震えている、三人の子供たちがいる。
「子供は嘘をつきません。彼らの言葉こそが、何よりの証拠となりましょう」
夫人の提案に、会場がざわめいた。 リディア様が焦ったように声を上げる。
「夫、夫人! 無理ですわ! あの子たちは怯えているのです。この悪女に脅されて、本当のことなんて言えるはずが……」
「お黙りなさい」
夫人の鋭い一喝が、リディア様の言葉を封じた。
「私が聞くと言っているのです。外野の雑音は不要です」
夫人は私に近づき、至近距離で私を見上げた。 身長は私より低いはずなのに、見下ろされているような錯覚を覚えるほどの威圧感だ。
「クラリスとやら。……子供たちを前に出しなさい。それとも、やましいことがあるから出せないのかしら?」
試されている。 彼女は味方ではない。ただの公平な審判者だ。 もしここで私が躊躇えば、それは「やましい」と認めたことになる。
私は深呼吸をし、背中の子供たちを振り返った。
「アルフォンス様、ミレイユ様、ノア様」
私は膝をつき、彼らと目線を合わせた。
「大丈夫です。あなたたちの思うまま、本当のことを話しなさい。誰もあなたたちを傷つけさせません」
「……クラリス様」
アルフォンス様が不安げに私を見る。 私は彼の手をぎゅっと握り、そして背中をポンと押した。
「行きなさい。グレイフ家の子として、胸を張って」
私の言葉に、アルフォンス様は意を決したように頷いた。 そして、弟と妹の手を引き、ヴィルヘルミナ夫人の前へと進み出た。
会場中の視線が、三人の小さな体に注がれる。 そのプレッシャーは計り知れないはずだ。 けれど、彼らは逃げなかった。
「……アルフォンス・フォン・グレイフです」
長男のアルフォンス様が、震える声を必死に抑えて名乗った。 夫人は厳めしい顔で彼を見下ろす。
「アルフォンス。久しぶりだね。ずいぶんと……顔色が良くなったようだが?」
「は、はい。……以前は、食事も喉を通らず、眠れない日々が続いておりました」
「ほう? それはなぜ?」
「母上……亡き母上の影を追い、父上の期待に応えようと、一人で全てを背負い込んでいたからです」
アルフォンス様は、そこで一度言葉を切り、私の方を振り返った。 その瞳には、確かな信頼の光が宿っていた。
「ですが、クラリス様が来られてから、変わりました。彼女は僕に『子供でいていい』と教えてくれました。無理に食べなくてもいい、眠れないならそばにいると。……そして、父上との間を取り持ち、僕を孤独から救ってくれました」
彼は前を向き、はっきりと言い切った。
「彼女は、僕たちを虐げてなどいません。むしろ、僕たちの命と心を救ってくれた恩人です」
会場から、ほうっ、と感嘆のため息が漏れる。 十歳の少年の、あまりに理路整然とした、そして情熱的な弁明。 それは、どんな大人の嘘よりも胸を打つものだった。
「う、嘘よ!」
リディア様が悲鳴のように叫んだ。
「騙されないで! それは言わされているのよ! あんなにスラスラと……きっと、台本があるのよ!」
「台本などありません!」
次に声を上げたのは、ミレイユ様だった。 彼女はスカートの裾を握りしめ、リディア様を睨みつけた。
「お兄様は本当のことを言っただけよ! あなたたちこそ、何も知らないくせに勝手なことを言わないで!」
「な、生意気な……!」
「クラリス様はね、私の髪を梳かす時、絶対に痛くしないの! 私がスープをこぼしても、怒らないで『怪我はない?』って聞いてくれたの!」
ミレイユ様は自分の頭の青いリボンを指差した。
「このリボンも、クラリス様が選んでくれたの。私が『可愛い』って言ったら、嬉しそうに結んでくれたわ。……虐める人が、こんなに優しくしてくれるわけないじゃない!」
彼女の言葉は、感情が溢れすぎて、少し支離滅裂だったかもしれない。 でも、だからこそ「本物」だった。 日々の生活の中で積み重ねられた、些細な、しかし決定的な愛情の記憶。
最後に、ノア様が動いた。 彼はトテトテとヴィルヘルミナ夫人の足元まで歩み寄ると、そのドレスの裾をくいっと引っ張った。
「……おばあさま」
「……なんだい、ノア」
夫人が少しだけ目元を緩める。
「クラリスさまは、こわくないよ」
ノア様は一生懸命に言葉を紡いだ。
「よる、こわいゆめ、みたとき……ずっと、トントンしてくれた。お歌、うたってくれた。……とっても、いいにおいがするの」
そして、彼は振り返り、私の元へ駆け戻ってくると、私の足にぎゅっと抱きついた。
「ぼく、クラリスさま、だいすき」
その行動が、すべての答えだった。 「洗脳」でも「脅迫」でもない。 幼子が本能で選び取った、安心できる場所。それが私の隣なのだ。
会場の空気が変わった。 嘲笑や好奇の目は消え、代わりに同情と、感動の色が広がっていく。 「あんなに懐いているじゃないか」「虐待なんて嘘だったのか」「王太子殿下は、なぜあんな嘘を?」
形勢逆転。 ルドルフ殿下の顔色が、青から赤へ、そして土気色へと変わっていく。
「ば、馬鹿な……! 子供たちよ、騙されるな! その女は演技をしているだけだ! お前たちの母親の座を奪った泥棒猫だぞ!」
殿下はなりふり構わず喚き散らした。 その醜態に、貴族たちが冷ややかな視線を向ける。
「……いい加減になさいませ」
ヴィルヘルミナ夫人が、氷のような声で告げた。 彼女は私の方へ歩み寄ると、私の前に立ち塞がり、殿下と対峙した。
「子供たちの言葉、そしてこの様子。これ以上の証拠が必要ですか? 殿下」
「ぐ、ぬ……しかし、リディアが睨まれたと……!」
「リディア嬢の被害妄想でしょう。あるいは、子供に恐怖心を抱かせるような何かを、彼女自身がしたのではないですか?」
「なっ……!?」
リディア様が絶句する。 夫人の指摘は図星だったのだろう。
「グレイフ公爵家は、北方の要。その当主の留守に、妻と子を辱め、あまつさえ罪人に仕立て上げようとするなど……王家の恥です」
夫人は杖を床に強く突き立てた。 ドンッ! という音が、判決の小槌のように響いた。
「これ以上、我が一族を愚弄するなら、私も黙ってはおりませんよ。……陛下にご報告申し上げてもよろしいのですか?」
陛下。すなわち国王陛下。 王太子といえど、絶対権力者である父王には頭が上がらない。 特に、理不尽な理由で有力貴族を敵に回したとなれば、廃嫡の可能性すら出てくる。
「……くっ……!」
殿下は唇を噛み切りそうなほど強く噛み締め、私と子供たちを睨みつけた。
「……覚えていろ。このままでは済まさんぞ」
捨て台詞を吐き、殿下はマントを翻して会場を去っていった。 リディア様も、慌ててその後を追う。 「ま、待ってくださませ殿下! 私は悪くありませんわ!」
嵐が去った。 会場には、奇妙な静寂が残された。
私は大きく息を吐き、全身の力が抜けるのを感じた。 勝った。 子供たちが、守ってくれたのだ。
「……ふん」
ヴィルヘルミナ夫人が、私に向き直った。 その表情は相変わらず厳めしいが、瞳の奥の鋭さは少しだけ和らいでいるように見えた。
「見事だったわね。……子供たちにあそこまで言わせるとは」
「私は何もしておりません。あの子たちが、勇気を出してくれただけです」
私が子供たちの頭を撫でると、三人は照れくさそうに、でも誇らしげに微笑んだ。
「それにしても」
夫人はミレイユ様を見つめた。
「ミレイユ。お前、さっき……言いかけてやめなかったかい?」
「え?」
ミレイユ様がきょとんとする。
「『虐める人が、こんなに優しくしてくれるわけない』と言ったあと。……何か、別の言葉を飲み込んだように見えたけれど」
さすがは「氷の女帝」。 子供の些細な言葉の綾も見逃さない。
ミレイユ様の顔が、みるみるうちに赤くなった。 彼女はモジモジと指を組み合わせ、チラリと私を見た。
「……う、うるさいわね! おばあさまには関係ないでしょ!」
「ほう? 関係ないとは聞き捨てならないね」
「い、いいから! あーもう、知らないっ!」
ミレイユ様は顔を真っ赤にして、私のスカートの後ろに隠れてしまった。 私はその様子を見て、思わずクスリと笑ってしまった。 彼女が何を言いかけたのか、私にはなんとなく分かったからだ。
『ママ』。 あるいは、『私のお母様』。 そう言いかけて、公衆の面前であることに気づき、そしてまだ素直になりきれない自分のプライドが邪魔をして、飲み込んだのだろう。
(……可愛いらしい未遂ね)
まだ言葉にはならなくても、その気持ちだけで十分だ。
「……まあ、いいでしょう」
ヴィルヘルミナ夫人は、それ以上追求しなかった。 彼女は私に近づき、小声で囁いた。
「勘違いしないでちょうだい。私はあなたのことを認めたわけではありませんよ」
「ええ、存じております」
「ですが……少なくとも、あの子たちにとって『害』ではないことは分かりました。しばらくは、様子を見てあげましょう」
それは、彼女なりの停戦協定であり、合格の印だった。 グレイフ家の重鎮である彼女が「様子を見る」と言った以上、他の貴族たちが表立って私を攻撃することはできなくなる。 最強の盾を手に入れたも同然だ。
「感謝いたします、お義母(おば)様」
私が深くカーテシーをすると、夫人は「ふん」と鼻を鳴らし、杖をついて去っていった。 その背中は、来た時よりも少しだけ温かく見えた。
音楽が再び流れ始める。 貴族たちが、今度は称賛と媚びを含んだ笑顔で近寄ってくる。 「素晴らしい家族愛ですわね」「誤解が解けて何よりです」 掌を返したような態度。 けれど、今の私にはそれすらも心地よいBGMにしか聞こえなかった。
私は三人の子供たちを抱き寄せた。
「ありがとう。……あなたたちは、私の自慢の子供たちです」
「……えへへ」 「……別に、普通のことしただけだし」 「ぼくも、じまん?」
「ええ、もちろん」
私たちは笑い合った。 王都の煌びやかなシャンデリアの下、私たちは本物の「家族」として輝いていた。
けれど。 この時の私はまだ知らなかった。 プライドをズタズタにされた王太子ルドルフが、このまま引き下がるような男ではないことを。 そして、彼が次に狙うのが、私ではなく、もっと別の――グレイフ家そのものを崩壊させるような「急所」であることを。
会場の隅で、一人の男が私たちをじっと見つめていた。 それは、先ほどヴィルヘルミナ夫人の後ろに控えていた従者の一人。 しかし、その目は不自然に虚ろで、口元には歪んだ笑みが張り付いていた。
その夜。 宿に戻ったミレイユ様が、着替えながらポツリと言った。
「……ねえ。さっき、言いかけたことなんだけど」
「はい?」
「……なんでもない。いつか、ちゃんと言うから。……待ってて」
彼女はそう言って、布団に潜り込んだ。 その耳は、やはり真っ赤だった。
私は心の中でガッツポーズをした。 あと一歩。 あと一歩で、彼女の心の扉は完全に開く。 その日が来るのを、私はいつまでだって待つ覚悟だ。
その老婆の声は、決して大きくはなかった。 しかし、大広間の喧騒を一瞬にして鎮めるだけの、圧倒的な重みを持っていた。
ヴィルヘルミナ・フォン・グレイフ。 レオンハルト様の父方の伯母であり、先代公爵の姉。 王宮のご意見番として知られ、その厳格さと鋭い慧眼から「氷の女帝」と恐れられる人物だ。
彼女は杖をつきながら、ゆっくりと、しかし確かな足取りでこちらへ歩み寄ってきた。 モーゼが海を割るように、貴族たちが慌てて道を開ける。
「ヴィ、ヴィルヘルミナ夫人……」
さしものルドルフ殿下も、この老婦人には一目置かざるを得ないらしい。 彼は一瞬だけ怯んだ表情を見せたが、すぐに味方を得たかのように表情を明るくした。
「おお、夫人! ちょうど良いところへ! 貴女もご存知でしょう、この女の悪行を! 貴女の可愛い甥っ子の留守に、子供たちを虐げ、あまつさえ王家の威光に魔法で逆らうなど……!」
殿下は私のことを指差し、唾を飛ばして訴えた。
「グレイフ家の名誉を守るためにも、この毒婦を排除せねばなりません! ご安心ください、子供たちは私が保護しますから」
殿下の言葉に、ヴィルヘルミナ夫人は無表情のまま、私と子供たちへ視線を向けた。 その瞳は、深海のように暗く、感情を読み取れない。 彼女は私の左手――レオンハルト様から贈られた黒革の手袋――を一瞥し、それから子供たちの顔を順に見つめた。
「……ふむ」
短く鼻を鳴らす。 そして、殿下に向き直り、冷ややかに告げた。
「殿下のおっしゃる通り、グレイフ家の名誉は守らねばなりません。ですが、一方的な断罪は我が家の流儀ではありませんわ」
「な、なんだと?」
「真実を確かめるのに、最も確実な証人がいるではありませんか」
夫人は杖の先で、私の背後を指した。 そこには、私のドレスを掴んで震えている、三人の子供たちがいる。
「子供は嘘をつきません。彼らの言葉こそが、何よりの証拠となりましょう」
夫人の提案に、会場がざわめいた。 リディア様が焦ったように声を上げる。
「夫、夫人! 無理ですわ! あの子たちは怯えているのです。この悪女に脅されて、本当のことなんて言えるはずが……」
「お黙りなさい」
夫人の鋭い一喝が、リディア様の言葉を封じた。
「私が聞くと言っているのです。外野の雑音は不要です」
夫人は私に近づき、至近距離で私を見上げた。 身長は私より低いはずなのに、見下ろされているような錯覚を覚えるほどの威圧感だ。
「クラリスとやら。……子供たちを前に出しなさい。それとも、やましいことがあるから出せないのかしら?」
試されている。 彼女は味方ではない。ただの公平な審判者だ。 もしここで私が躊躇えば、それは「やましい」と認めたことになる。
私は深呼吸をし、背中の子供たちを振り返った。
「アルフォンス様、ミレイユ様、ノア様」
私は膝をつき、彼らと目線を合わせた。
「大丈夫です。あなたたちの思うまま、本当のことを話しなさい。誰もあなたたちを傷つけさせません」
「……クラリス様」
アルフォンス様が不安げに私を見る。 私は彼の手をぎゅっと握り、そして背中をポンと押した。
「行きなさい。グレイフ家の子として、胸を張って」
私の言葉に、アルフォンス様は意を決したように頷いた。 そして、弟と妹の手を引き、ヴィルヘルミナ夫人の前へと進み出た。
会場中の視線が、三人の小さな体に注がれる。 そのプレッシャーは計り知れないはずだ。 けれど、彼らは逃げなかった。
「……アルフォンス・フォン・グレイフです」
長男のアルフォンス様が、震える声を必死に抑えて名乗った。 夫人は厳めしい顔で彼を見下ろす。
「アルフォンス。久しぶりだね。ずいぶんと……顔色が良くなったようだが?」
「は、はい。……以前は、食事も喉を通らず、眠れない日々が続いておりました」
「ほう? それはなぜ?」
「母上……亡き母上の影を追い、父上の期待に応えようと、一人で全てを背負い込んでいたからです」
アルフォンス様は、そこで一度言葉を切り、私の方を振り返った。 その瞳には、確かな信頼の光が宿っていた。
「ですが、クラリス様が来られてから、変わりました。彼女は僕に『子供でいていい』と教えてくれました。無理に食べなくてもいい、眠れないならそばにいると。……そして、父上との間を取り持ち、僕を孤独から救ってくれました」
彼は前を向き、はっきりと言い切った。
「彼女は、僕たちを虐げてなどいません。むしろ、僕たちの命と心を救ってくれた恩人です」
会場から、ほうっ、と感嘆のため息が漏れる。 十歳の少年の、あまりに理路整然とした、そして情熱的な弁明。 それは、どんな大人の嘘よりも胸を打つものだった。
「う、嘘よ!」
リディア様が悲鳴のように叫んだ。
「騙されないで! それは言わされているのよ! あんなにスラスラと……きっと、台本があるのよ!」
「台本などありません!」
次に声を上げたのは、ミレイユ様だった。 彼女はスカートの裾を握りしめ、リディア様を睨みつけた。
「お兄様は本当のことを言っただけよ! あなたたちこそ、何も知らないくせに勝手なことを言わないで!」
「な、生意気な……!」
「クラリス様はね、私の髪を梳かす時、絶対に痛くしないの! 私がスープをこぼしても、怒らないで『怪我はない?』って聞いてくれたの!」
ミレイユ様は自分の頭の青いリボンを指差した。
「このリボンも、クラリス様が選んでくれたの。私が『可愛い』って言ったら、嬉しそうに結んでくれたわ。……虐める人が、こんなに優しくしてくれるわけないじゃない!」
彼女の言葉は、感情が溢れすぎて、少し支離滅裂だったかもしれない。 でも、だからこそ「本物」だった。 日々の生活の中で積み重ねられた、些細な、しかし決定的な愛情の記憶。
最後に、ノア様が動いた。 彼はトテトテとヴィルヘルミナ夫人の足元まで歩み寄ると、そのドレスの裾をくいっと引っ張った。
「……おばあさま」
「……なんだい、ノア」
夫人が少しだけ目元を緩める。
「クラリスさまは、こわくないよ」
ノア様は一生懸命に言葉を紡いだ。
「よる、こわいゆめ、みたとき……ずっと、トントンしてくれた。お歌、うたってくれた。……とっても、いいにおいがするの」
そして、彼は振り返り、私の元へ駆け戻ってくると、私の足にぎゅっと抱きついた。
「ぼく、クラリスさま、だいすき」
その行動が、すべての答えだった。 「洗脳」でも「脅迫」でもない。 幼子が本能で選び取った、安心できる場所。それが私の隣なのだ。
会場の空気が変わった。 嘲笑や好奇の目は消え、代わりに同情と、感動の色が広がっていく。 「あんなに懐いているじゃないか」「虐待なんて嘘だったのか」「王太子殿下は、なぜあんな嘘を?」
形勢逆転。 ルドルフ殿下の顔色が、青から赤へ、そして土気色へと変わっていく。
「ば、馬鹿な……! 子供たちよ、騙されるな! その女は演技をしているだけだ! お前たちの母親の座を奪った泥棒猫だぞ!」
殿下はなりふり構わず喚き散らした。 その醜態に、貴族たちが冷ややかな視線を向ける。
「……いい加減になさいませ」
ヴィルヘルミナ夫人が、氷のような声で告げた。 彼女は私の方へ歩み寄ると、私の前に立ち塞がり、殿下と対峙した。
「子供たちの言葉、そしてこの様子。これ以上の証拠が必要ですか? 殿下」
「ぐ、ぬ……しかし、リディアが睨まれたと……!」
「リディア嬢の被害妄想でしょう。あるいは、子供に恐怖心を抱かせるような何かを、彼女自身がしたのではないですか?」
「なっ……!?」
リディア様が絶句する。 夫人の指摘は図星だったのだろう。
「グレイフ公爵家は、北方の要。その当主の留守に、妻と子を辱め、あまつさえ罪人に仕立て上げようとするなど……王家の恥です」
夫人は杖を床に強く突き立てた。 ドンッ! という音が、判決の小槌のように響いた。
「これ以上、我が一族を愚弄するなら、私も黙ってはおりませんよ。……陛下にご報告申し上げてもよろしいのですか?」
陛下。すなわち国王陛下。 王太子といえど、絶対権力者である父王には頭が上がらない。 特に、理不尽な理由で有力貴族を敵に回したとなれば、廃嫡の可能性すら出てくる。
「……くっ……!」
殿下は唇を噛み切りそうなほど強く噛み締め、私と子供たちを睨みつけた。
「……覚えていろ。このままでは済まさんぞ」
捨て台詞を吐き、殿下はマントを翻して会場を去っていった。 リディア様も、慌ててその後を追う。 「ま、待ってくださませ殿下! 私は悪くありませんわ!」
嵐が去った。 会場には、奇妙な静寂が残された。
私は大きく息を吐き、全身の力が抜けるのを感じた。 勝った。 子供たちが、守ってくれたのだ。
「……ふん」
ヴィルヘルミナ夫人が、私に向き直った。 その表情は相変わらず厳めしいが、瞳の奥の鋭さは少しだけ和らいでいるように見えた。
「見事だったわね。……子供たちにあそこまで言わせるとは」
「私は何もしておりません。あの子たちが、勇気を出してくれただけです」
私が子供たちの頭を撫でると、三人は照れくさそうに、でも誇らしげに微笑んだ。
「それにしても」
夫人はミレイユ様を見つめた。
「ミレイユ。お前、さっき……言いかけてやめなかったかい?」
「え?」
ミレイユ様がきょとんとする。
「『虐める人が、こんなに優しくしてくれるわけない』と言ったあと。……何か、別の言葉を飲み込んだように見えたけれど」
さすがは「氷の女帝」。 子供の些細な言葉の綾も見逃さない。
ミレイユ様の顔が、みるみるうちに赤くなった。 彼女はモジモジと指を組み合わせ、チラリと私を見た。
「……う、うるさいわね! おばあさまには関係ないでしょ!」
「ほう? 関係ないとは聞き捨てならないね」
「い、いいから! あーもう、知らないっ!」
ミレイユ様は顔を真っ赤にして、私のスカートの後ろに隠れてしまった。 私はその様子を見て、思わずクスリと笑ってしまった。 彼女が何を言いかけたのか、私にはなんとなく分かったからだ。
『ママ』。 あるいは、『私のお母様』。 そう言いかけて、公衆の面前であることに気づき、そしてまだ素直になりきれない自分のプライドが邪魔をして、飲み込んだのだろう。
(……可愛いらしい未遂ね)
まだ言葉にはならなくても、その気持ちだけで十分だ。
「……まあ、いいでしょう」
ヴィルヘルミナ夫人は、それ以上追求しなかった。 彼女は私に近づき、小声で囁いた。
「勘違いしないでちょうだい。私はあなたのことを認めたわけではありませんよ」
「ええ、存じております」
「ですが……少なくとも、あの子たちにとって『害』ではないことは分かりました。しばらくは、様子を見てあげましょう」
それは、彼女なりの停戦協定であり、合格の印だった。 グレイフ家の重鎮である彼女が「様子を見る」と言った以上、他の貴族たちが表立って私を攻撃することはできなくなる。 最強の盾を手に入れたも同然だ。
「感謝いたします、お義母(おば)様」
私が深くカーテシーをすると、夫人は「ふん」と鼻を鳴らし、杖をついて去っていった。 その背中は、来た時よりも少しだけ温かく見えた。
音楽が再び流れ始める。 貴族たちが、今度は称賛と媚びを含んだ笑顔で近寄ってくる。 「素晴らしい家族愛ですわね」「誤解が解けて何よりです」 掌を返したような態度。 けれど、今の私にはそれすらも心地よいBGMにしか聞こえなかった。
私は三人の子供たちを抱き寄せた。
「ありがとう。……あなたたちは、私の自慢の子供たちです」
「……えへへ」 「……別に、普通のことしただけだし」 「ぼくも、じまん?」
「ええ、もちろん」
私たちは笑い合った。 王都の煌びやかなシャンデリアの下、私たちは本物の「家族」として輝いていた。
けれど。 この時の私はまだ知らなかった。 プライドをズタズタにされた王太子ルドルフが、このまま引き下がるような男ではないことを。 そして、彼が次に狙うのが、私ではなく、もっと別の――グレイフ家そのものを崩壊させるような「急所」であることを。
会場の隅で、一人の男が私たちをじっと見つめていた。 それは、先ほどヴィルヘルミナ夫人の後ろに控えていた従者の一人。 しかし、その目は不自然に虚ろで、口元には歪んだ笑みが張り付いていた。
その夜。 宿に戻ったミレイユ様が、着替えながらポツリと言った。
「……ねえ。さっき、言いかけたことなんだけど」
「はい?」
「……なんでもない。いつか、ちゃんと言うから。……待ってて」
彼女はそう言って、布団に潜り込んだ。 その耳は、やはり真っ赤だった。
私は心の中でガッツポーズをした。 あと一歩。 あと一歩で、彼女の心の扉は完全に開く。 その日が来るのを、私はいつまでだって待つ覚悟だ。
772
あなたにおすすめの小説
死に物狂いで支えた公爵家から捨てられたので、回帰後は全財産を盗んで消えてあげます 〜今さら「戻れ」と言われても、私は隣国の皇太子妃ですので〜
しょくぱん
恋愛
「お前のような無能、我が公爵家の恥だ!」
公爵家の長女エルゼは、放蕩者の父や無能な弟に代わり、寝る間も惜しんで領地経営と外交を支えてきた。しかし家族は彼女の功績を奪った挙句、政治犯の濡れ衣を着せて彼女を処刑した。
死の間際、エルゼは誓う。 「もし次があるのなら――二度と、あいつらのために働かない」
目覚めると、そこは処刑の二年前。 再び「仕事」を押し付けようとする厚顔無恥な家族に対し、エルゼは優雅に微笑んだ。
「ええ、承知いたしました。ただし、これからは**『代金』**をいただきますわ」
隠し金庫の鍵、領地の権利書、優秀な人材、そして莫大な隠し資産――。 エルゼは公爵家のすべてを自分名義に書き換え、着々と「もぬけの殻」にしていく。
そんな彼女の前に、隣国の冷徹な皇太子シオンが現れ、驚くべき提案を持ちかけてきて……?
「君のような恐ろしい女性を、独り占めしたくなった」
資産を奪い尽くして亡命した令嬢と、彼女を溺愛する皇太子。 一方、すべてを失った公爵家が泣きついてくるが、もう遅い。 あなたの家の金庫も、土地も、働く人間も――すべて私のものですから。
王国最強の天才魔導士は、追放された悪役令嬢の息子でした
由香
ファンタジー
追放された悪役令嬢が選んだのは復讐ではなく、母として息子を守ること。
無自覚天才に育った息子は、魔法を遊び感覚で扱い、王国を震撼させてしまう。
再び招かれたのは、かつて母を追放した国。
礼儀正しく圧倒する息子と、静かに完全勝利する母。
これは、親子が選ぶ“最も美しいざまぁ”。
虐げられていた次期公爵の四歳児の契約母になります!~幼子を幸せにしたいのに、未来の旦那様である王太子が私を溺愛してきます~
八重
恋愛
伯爵令嬢フローラは、公爵令息ディーターの婚約者。
しかし、そんな日々の裏で心を痛めていることが一つあった。
それはディーターの異母弟、四歳のルイトが兄に虐げられていること。
幼い彼を救いたいと思った彼女は、「ある計画」の準備を進めることにする。
それは、ルイトを救い出すための唯一の方法──。
そんな時、フローラはディーターから突然婚約破棄される。
婚約破棄宣言を受けた彼女は「今しかない」と計画を実行した。
彼女の計画、それは自らが代理母となること。
だが、この代理母には国との間で結ばれた「ある契約」が存在して……。
こうして始まったフローラの代理母としての生活。
しかし、ルイトの無邪気な笑顔と可愛さが、フローラの苦労を温かい喜びに変えていく。
さらに、見目麗しいながら策士として有名な第一王子ヴィルが、フローラに興味を持ち始めて……。
ほのぼの心温まる、子育て溺愛ストーリーです。
※ヒロインが序盤くじけがちな部分ありますが、それをバネに強くなります
※「小説家になろう」が先行公開です(第二章開始しました)
白い結婚だったはずなのに、少し糖度が高すぎる気がするのですが。~殿下が今更復縁を懇願してきましたが、もう遅いです~
水上
恋愛
王太子から理不尽に婚約破棄された伯爵令嬢ヴィオラ。
しかし、実は彼女のその知識は、国を支える要だった。
「お前の知識と技術が必要だ」
そんな彼女を拾ったのは、強面で料理上手の辺境伯。
契約結婚から始まった二人は、領地の改革に着手する。
その過程で、二人の関係性も徐々に進展していき……。
一方、彼女を捨てた王宮はボロボロに崩れ始め……?
わたくしがお父様に疎まれている?いいえ、目に入れても痛くない程溺愛されております。
織り子
ファンタジー
王国貴族院の卒業記念パーティーの場で、大公家の令嬢ルクレツィア・アーヴェントは王太子エドワードから突然の婚約破棄を告げられる。
父であるアーヴェント大公に疎まれている――
噂を知った王太子は、彼女を公衆の面前で侮辱する。
婚約破棄された人たらし悪役令嬢ですが、 最強で過保護な兄たちと義姉に溺愛されています
由香
ファンタジー
婚約破棄のその日、
悪役令嬢リリアーナは――弁明すら、しなかった。
王太子と“聖女”に断罪され、すべてを失った彼女。
だがその裏で、王国最強と名高い三人の兄と、
冷静沈着な義姉が、静かに動き始めていた。
再検証によって暴かれる“聖女の嘘”。
広場で語られる真実。
そして、無自覚に人を惹きつけてしまう
リリアーナの優しさが、次々と味方を増やしていく――。
これは、
悪役令嬢として断罪された少女が、
「誰かの物語の脇役」ではなく、
自分自身の人生を取り戻す物語。
過保護すぎる兄たちと義姉に溺愛されながら、
彼女は静かに、そして確実に幸せへ向かっていく。
【番外編も完結】で、お前が彼女に嫌がらせをしている理由を聞かせてもらおうか?
Debby
恋愛
ヴェルトが友人からの手紙を手に辺境伯令嬢であるレィディアンスの元を訪れたのは、その手紙に「詳細は彼女に聞け」と書いてあったからだ。
簡単にいうと、手紙の内容は「学園で問題を起こした平民──エボニーを妻として引き取ってくれ」というものだった。
一方その話を聞いてしまった伯爵令嬢のオリーブは動揺していた。
ヴェルトとは静かに愛を育んできた。そんな自分を差し置いて、言われるがまま平民を妻に迎えてしまうのだろうか。
そんなオリーブの気持ちを知るはずもないエボニーは、辺境伯邸で行儀見習いをすることになる。
オリーブは何とかしてヴェルトを取り戻そうと画策し、そのことを咎められてしまう。もう後は無い。
オリーブが最後の望みをかけてヴェルトに自分を選んで欲しいと懇願する中、レィディアンスが静かに口を開いた。
「で、そろそろお前が彼女に嫌がらせをしている理由を聞かせてもらおうか」
「はい?」
ヴェルトは自分が何を言われたのか全く理解が出来なかった。
*--*--*
覗いてくださりありがとうございます。(* ᴗ ᴗ)⁾⁾
★2/17 番外編を投稿することになりました。→完結しました!
★★「このお話だけ読んでいただいてもOKです!」という前提のもと↓↓↓
このお話は独立した一つのお話ですが、「で。」シリーズのサイドストーリーでもあり、第一弾「で、私がその方に嫌がらせをする理由をお聞かせいただいても?」の「エボニーその後」でもあります(あるいは「最終話」のその後)。
第一弾「で、私がその方に嫌がらせをする理由をお聞かせいただいても?」
第二弾「で、あなたが私に嫌がらせをする理由を伺っても?」
第三弾「で、あなたが彼に嫌がらせをする理由をお話しいただいても?」
どれも女性向けHOTランキングに入り、特に第二弾はHOT一位になることが出来ました!(*´▽`人)アリガトウ
もしよかったら宜しくお願いしますね!
婚約破棄された私は、号泣しながらケーキを食べた~限界に達したので、これからは自分の幸せのために生きることにしました~
キョウキョウ
恋愛
幼い頃から辛くて苦しい妃教育に耐えてきたオリヴィア。厳しい授業と課題に、何度も心が折れそうになった。特に辛かったのは、王妃にふさわしい体型維持のために食事制限を命じられたこと。
とても頑張った。お腹いっぱいに食べたいのを我慢して、必死で痩せて、体型を整えて。でも、その努力は無駄になった。
婚約相手のマルク王子から、無慈悲に告げられた別れの言葉。唐突に、婚約を破棄すると言われたオリヴィア。
アイリーンという令嬢をイジメたという、いわれのない罪で責められて限界に達した。もう無理。これ以上は耐えられない。
そしてオリヴィアは、会場のテーブルに置いてあったデザートのケーキを手づかみで食べた。食べながら泣いた。空腹の辛さから解放された気持ちよさと、ケーキの美味しさに涙が出たのだった。
※本作品は、少し前に連載していた試作の完成版です。大まかな展開や設定は、ほぼ変わりません。加筆修正して、完成版として連載します。
※カクヨムにも掲載中の作品です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる