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第二十九話「家族の盾:氷が溶ける瞬間」
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白銀の閃光が、氷結の谷を真っ二つに切り裂いた。
「おおおおおおおおっ!!」
レオンハルト様の咆哮とともに振り下ろされた剣は、カイルが召喚した氷の巨人の拳を砕き、その巨大な腕を駆け上がり、本体である巨人の胴体を斜めに断ち切った。 私の『灯』と『綴』の支援(バフ)、そしてアルフォンス様の祈りが込められた一撃は、物理的な破壊力を超え、魔力を構成する術式そのものを焼き切る浄化の刃となっていたのだ。
「馬鹿な……! ありえない! 古代の氷魔だぞ!?」
カイルが絶叫する。 巨人がガラス細工のようにひび割れ、内側から溢れ出す光によって崩壊していく。 その光は温かく、眩しく、雪原の寒さを一瞬で忘れさせるほどだった。
「家族ごっこだと笑ったな、カイル」
レオンハルト様が着地し、崩れゆく巨人を背に、親友だった男へと歩み寄る。 その体からは、まだ白い湯気が立ち上っていた。
「これが、俺たちが積み上げた『家族』の力だ。孤独な妄執になど、負けはしない」
「ぐ、うぅ……! 認めん……認めんぞレオンハルトォォォッ!!」
カイルは狂乱し、黒い杖を両手で握りしめた。 彼の目から正気が完全に失われる。 敗北を認めるくらいなら、自ら破滅を選ぶ――そんな狂気が見て取れた。
「死なば諸共だ! この遺跡に眠る全魔力を暴走させてやる! 貴様も、その愛する妻も息子も、この谷の底で永遠に氷像となるがいい!!」
カイルが杖を自身の胸に突き立てた。 ドクンッ!! 心臓の鼓動のような不気味な音が、谷全体に響き渡る。 地面が波打ち、周囲の氷壁が一斉にひび割れ始めた。 制御を失った魔力が、カイルを中心としたどす黒い嵐となって渦巻き始める。
「自爆する気か!?」
レオンハルト様が叫び、剣を構えて突っ込もうとする。 しかし、暴走した魔力の乱流が壁となり、彼を弾き飛ばした。
「くっ……! 近づけん!」
「ハハハハハ! 無駄だ! もう止まらない! ここはお前たちの墓場だァッ!」
カイルの高笑いが響く中、黒い嵐は急速に膨張し、私たちを飲み込もうとしていた。 物理攻撃も魔法攻撃も、この混沌としたエネルギーの塊には通用しない。 触れれば消滅する。 逃げ場はない。
「……父上! 母上!」
アルフォンス様が、私の腰にしがみつき、震えている。 レオンハルト様が必死に起き上がり、私たちを庇おうと走ってくるが、間に合わない。
(……考えなさい、クラリス)
私は冷静だった。 恐怖がないわけではない。でも、守るべきものが背中にある時、母親は最強になる。 暴走する魔力。 憎悪と絶望が渦巻く、カイルの心の叫びそのもののような嵐。
力でねじ伏せることはできない。 ならば。
「アルフォンス様。私から離れないで」
「え……?」
私は手袋をはめ直し、暴風の中を一歩進み出た。 扇子を捨て、両手を広げる。 構えなどいらない。 必要なのは、受け入れる覚悟だけ。
「レオンハルト様! 下がっていてください!」
「クラリス!? 何を……!」
私はカイルを見据えた。 嵐の中心で嗤う、哀れな男を。 彼は、誰かに認めてほしかっただけなのだ。 レオンハルト様の隣に並びたかった。 でも、それが叶わず、歪んでしまった。
その暴走する感情(魔力)を止めるのは、刃ではない。
「――『鎮(しずめ)』よ」
私は静かに紡いだ。 叫ぶ必要はない。 心に直接語りかけるように、魔力を波紋として広げていく。
「荒れ狂う嘆きを癒やし、凍てつく孤独を溶かせ。……ここは、終わりの場所ではない」
私の体から、柔らかなピンク色の光が溢れ出した。 それは春の霞のように、黒い嵐へと浸透していく。 攻撃的な魔力同士の衝突ではない。 中和。そして、受容。
「な、なんだ……!? 俺の魔力が……溶かされていく……!?」
カイルが狼狽える。 黒い風が、私の光に触れる端から、ただの穏やかな風へと変わっていく。 それは、ノア様の夜泣きを鎮めた時と同じ。 あるいは、荒れた家庭に温かいスープを出した時と同じ。
「そんな……馬鹿な……! 俺の憎しみが……消える……?」
「消すのではありません。……抱きしめるのです」
私は一歩、また一歩と嵐の中へ進んだ。 頬を風が切る。でも、痛くはない。 背後で、アルフォンス様が私のドレスを掴んだまま、必死についてきている。 彼の「守りたい」という想いもまた、私の魔力を底上げしてくれている。
「カイル・ホルスタイン。あなたは寂しかったのですね」
「……う、うるさい!」
「誰よりも認められたくて、誰よりも愛されたかった。……その気持ちは、罪ではありません」
私はカイルの目の前まで歩み寄った。 黒い杖は、すでに光を失いかけている。
「ですが、そのために私の家族を傷つけることは許しません。……もう、お眠りなさい」
私は右手を伸ばし、カイルの額にそっと触れた。
「――『鎮』、最大出力。……強制鎮静(シャットダウン)」
パァァァンッ……
シャボン玉が弾けるような音がして、黒い嵐が霧散した。 カイルの目から狂気の光が消え、彼は糸が切れた人形のように崩れ落ちた。 私が支えるには重すぎる大人の男の体。 でも、地面に叩きつけられる寸前、誰かが彼を受け止めた。
レオンハルト様だった。
「……レオンハルト……」
カイルが薄く目を開け、親友を見る。 その瞳は、憑き物が落ちたように澄んでいた。
「……俺は……また、お前に負けたのか……」
「いいや。……負けたのは俺たちの『妻』にだ」
レオンハルト様は、悲しげに、しかし慈愛を込めて答えた。 カイルはふっと自嘲気味に笑い、そして意識を手放した。 深い、穏やかな眠り。 二度と目覚めることのない永遠の眠りかもしれないし、あるいは償いのための眠りかもしれない。 今はただ、静寂だけがそこにあった。
「……終わった」
レオンハルト様がカイルを横たえ、立ち上がる。 そして、私の方へと向き直った。
その瞬間、私の緊張の糸がプツリと切れた。 極限の集中と魔力消費。 視界がぐらりと揺れる。
「あ……」
倒れる。 そう思った瞬間、私は温かい腕の中に包まれていた。 レオンハルト様が、強く、痛いくらいに私を抱きしめていた。
「クラリス……ッ!」
彼の体は震えていた。 鎧越しに伝わる心臓の鼓動が、早鐘のように打っている。
「無茶をする……! あんな嵐の中に、生身で入っていくなど……! もし君に何かあったら、俺は……!」
声が詰まっている。 氷の公爵と呼ばれた男が、子供のように取り乱していた。
「……ごめんなさい。でも、あれしか方法がありませんでしたから」
私は彼の胸に顔を埋め、その匂いを吸い込んだ。 鉄と、氷と、そして愛しい人の匂い。
「怖かった……」
レオンハルト様が、絞り出すように言った。
「君を失うのが、怖かった。……もう二度と、こんな思いはしたくない」
彼は私の肩に顔を埋め、嗚咽を漏らした。 戦いの中では見せなかった恐怖。 私を失うかもしれないという恐怖が、彼の氷の心を完全に溶かしていた。
「……母上」
アルフォンス様が、おずおずと私たちの足元に近づいてきた。 彼もまた、涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。
「僕も……怖かったです。母上が、消えちゃうんじゃないかって……」
「アルフォンス様……」
私はレオンハルト様の腕の中から片手を伸ばし、アルフォンス様を引き寄せた。 レオンハルト様も腕を広げ、私たち二人をまとめて抱きしめた。
雪原の真ん中。 古代遺跡の廃墟。 そんな荒涼とした場所で、私たちは一つの塊になっていた。
「……守ってくれて、ありがとう、レオンハルト様。アルフォンス様」
「守られたのは俺たちだ。……君は、最高の盾だ」
レオンハルト様が顔を上げ、私の瞳を見つめた。 そのアイスブルーの瞳には、もう一点の曇りもなかった。 あるのは、溢れんばかりの情熱と、深い愛。
「愛している、クラリス。……君なしでは、俺はもう生きていけない」
「……はい。私もです」
私たちは、アルフォンス様が「わあ、見ちゃダメだ」と手で目を覆う前で(でも指の隙間からしっかり見ているのを知っていたけれど)、長く、深い口づけを交わした。
冷たい風が吹く谷底だったけれど、私たちの心には、永遠に消えない春の陽だまりが生まれていた。
◇
屋敷への帰路。 カイルの身柄は、後から到着した王宮騎士団に引き渡された。 彼は長い眠りから覚めた後、法の裁きを受けることになるだろう。 だが、その表情は安らかだったという。
馬車に揺られながら、私は泥のように眠っていた。 目が覚めた時、私の頭はレオンハルト様の肩にあり、手はアルフォンス様に握られていた。
「……起きたか?」
レオンハルト様が優しく微笑みかける。
「……はい。今、どこですか?」
「もうすぐ屋敷だ。……みんなが待っている」
窓の外を見ると、夕暮れの空の下に、私たちの「家」が見えてきた。 半壊した庭は痛々しいけれど、煙突からは温かそうな煙が立ち上り、窓には明かりが灯っている。 そして、玄関の前には、ミレイユ様とノア様、使用人たちが手を振っているのが小さく見えた。
「……帰ってきましたね」
「ああ。俺たちの家に」
レオンハルト様が私の手を握り直し、もう一度、力を込めた。
「ただいま、クラリス」
「お帰りなさいませ、あなた」
馬車が門をくぐる。 「おかえりー!」という子供たちの声が聞こえる。 私の「悪役令嬢」としての物語は終わり、ここから先は「公爵家の母」としての、賑やかで温かい、そして時々大変な毎日が始まるのだ。
でも、それも悪くない。 今の私には、世界最強の「家族」がついているのだから。
「おおおおおおおおっ!!」
レオンハルト様の咆哮とともに振り下ろされた剣は、カイルが召喚した氷の巨人の拳を砕き、その巨大な腕を駆け上がり、本体である巨人の胴体を斜めに断ち切った。 私の『灯』と『綴』の支援(バフ)、そしてアルフォンス様の祈りが込められた一撃は、物理的な破壊力を超え、魔力を構成する術式そのものを焼き切る浄化の刃となっていたのだ。
「馬鹿な……! ありえない! 古代の氷魔だぞ!?」
カイルが絶叫する。 巨人がガラス細工のようにひび割れ、内側から溢れ出す光によって崩壊していく。 その光は温かく、眩しく、雪原の寒さを一瞬で忘れさせるほどだった。
「家族ごっこだと笑ったな、カイル」
レオンハルト様が着地し、崩れゆく巨人を背に、親友だった男へと歩み寄る。 その体からは、まだ白い湯気が立ち上っていた。
「これが、俺たちが積み上げた『家族』の力だ。孤独な妄執になど、負けはしない」
「ぐ、うぅ……! 認めん……認めんぞレオンハルトォォォッ!!」
カイルは狂乱し、黒い杖を両手で握りしめた。 彼の目から正気が完全に失われる。 敗北を認めるくらいなら、自ら破滅を選ぶ――そんな狂気が見て取れた。
「死なば諸共だ! この遺跡に眠る全魔力を暴走させてやる! 貴様も、その愛する妻も息子も、この谷の底で永遠に氷像となるがいい!!」
カイルが杖を自身の胸に突き立てた。 ドクンッ!! 心臓の鼓動のような不気味な音が、谷全体に響き渡る。 地面が波打ち、周囲の氷壁が一斉にひび割れ始めた。 制御を失った魔力が、カイルを中心としたどす黒い嵐となって渦巻き始める。
「自爆する気か!?」
レオンハルト様が叫び、剣を構えて突っ込もうとする。 しかし、暴走した魔力の乱流が壁となり、彼を弾き飛ばした。
「くっ……! 近づけん!」
「ハハハハハ! 無駄だ! もう止まらない! ここはお前たちの墓場だァッ!」
カイルの高笑いが響く中、黒い嵐は急速に膨張し、私たちを飲み込もうとしていた。 物理攻撃も魔法攻撃も、この混沌としたエネルギーの塊には通用しない。 触れれば消滅する。 逃げ場はない。
「……父上! 母上!」
アルフォンス様が、私の腰にしがみつき、震えている。 レオンハルト様が必死に起き上がり、私たちを庇おうと走ってくるが、間に合わない。
(……考えなさい、クラリス)
私は冷静だった。 恐怖がないわけではない。でも、守るべきものが背中にある時、母親は最強になる。 暴走する魔力。 憎悪と絶望が渦巻く、カイルの心の叫びそのもののような嵐。
力でねじ伏せることはできない。 ならば。
「アルフォンス様。私から離れないで」
「え……?」
私は手袋をはめ直し、暴風の中を一歩進み出た。 扇子を捨て、両手を広げる。 構えなどいらない。 必要なのは、受け入れる覚悟だけ。
「レオンハルト様! 下がっていてください!」
「クラリス!? 何を……!」
私はカイルを見据えた。 嵐の中心で嗤う、哀れな男を。 彼は、誰かに認めてほしかっただけなのだ。 レオンハルト様の隣に並びたかった。 でも、それが叶わず、歪んでしまった。
その暴走する感情(魔力)を止めるのは、刃ではない。
「――『鎮(しずめ)』よ」
私は静かに紡いだ。 叫ぶ必要はない。 心に直接語りかけるように、魔力を波紋として広げていく。
「荒れ狂う嘆きを癒やし、凍てつく孤独を溶かせ。……ここは、終わりの場所ではない」
私の体から、柔らかなピンク色の光が溢れ出した。 それは春の霞のように、黒い嵐へと浸透していく。 攻撃的な魔力同士の衝突ではない。 中和。そして、受容。
「な、なんだ……!? 俺の魔力が……溶かされていく……!?」
カイルが狼狽える。 黒い風が、私の光に触れる端から、ただの穏やかな風へと変わっていく。 それは、ノア様の夜泣きを鎮めた時と同じ。 あるいは、荒れた家庭に温かいスープを出した時と同じ。
「そんな……馬鹿な……! 俺の憎しみが……消える……?」
「消すのではありません。……抱きしめるのです」
私は一歩、また一歩と嵐の中へ進んだ。 頬を風が切る。でも、痛くはない。 背後で、アルフォンス様が私のドレスを掴んだまま、必死についてきている。 彼の「守りたい」という想いもまた、私の魔力を底上げしてくれている。
「カイル・ホルスタイン。あなたは寂しかったのですね」
「……う、うるさい!」
「誰よりも認められたくて、誰よりも愛されたかった。……その気持ちは、罪ではありません」
私はカイルの目の前まで歩み寄った。 黒い杖は、すでに光を失いかけている。
「ですが、そのために私の家族を傷つけることは許しません。……もう、お眠りなさい」
私は右手を伸ばし、カイルの額にそっと触れた。
「――『鎮』、最大出力。……強制鎮静(シャットダウン)」
パァァァンッ……
シャボン玉が弾けるような音がして、黒い嵐が霧散した。 カイルの目から狂気の光が消え、彼は糸が切れた人形のように崩れ落ちた。 私が支えるには重すぎる大人の男の体。 でも、地面に叩きつけられる寸前、誰かが彼を受け止めた。
レオンハルト様だった。
「……レオンハルト……」
カイルが薄く目を開け、親友を見る。 その瞳は、憑き物が落ちたように澄んでいた。
「……俺は……また、お前に負けたのか……」
「いいや。……負けたのは俺たちの『妻』にだ」
レオンハルト様は、悲しげに、しかし慈愛を込めて答えた。 カイルはふっと自嘲気味に笑い、そして意識を手放した。 深い、穏やかな眠り。 二度と目覚めることのない永遠の眠りかもしれないし、あるいは償いのための眠りかもしれない。 今はただ、静寂だけがそこにあった。
「……終わった」
レオンハルト様がカイルを横たえ、立ち上がる。 そして、私の方へと向き直った。
その瞬間、私の緊張の糸がプツリと切れた。 極限の集中と魔力消費。 視界がぐらりと揺れる。
「あ……」
倒れる。 そう思った瞬間、私は温かい腕の中に包まれていた。 レオンハルト様が、強く、痛いくらいに私を抱きしめていた。
「クラリス……ッ!」
彼の体は震えていた。 鎧越しに伝わる心臓の鼓動が、早鐘のように打っている。
「無茶をする……! あんな嵐の中に、生身で入っていくなど……! もし君に何かあったら、俺は……!」
声が詰まっている。 氷の公爵と呼ばれた男が、子供のように取り乱していた。
「……ごめんなさい。でも、あれしか方法がありませんでしたから」
私は彼の胸に顔を埋め、その匂いを吸い込んだ。 鉄と、氷と、そして愛しい人の匂い。
「怖かった……」
レオンハルト様が、絞り出すように言った。
「君を失うのが、怖かった。……もう二度と、こんな思いはしたくない」
彼は私の肩に顔を埋め、嗚咽を漏らした。 戦いの中では見せなかった恐怖。 私を失うかもしれないという恐怖が、彼の氷の心を完全に溶かしていた。
「……母上」
アルフォンス様が、おずおずと私たちの足元に近づいてきた。 彼もまた、涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。
「僕も……怖かったです。母上が、消えちゃうんじゃないかって……」
「アルフォンス様……」
私はレオンハルト様の腕の中から片手を伸ばし、アルフォンス様を引き寄せた。 レオンハルト様も腕を広げ、私たち二人をまとめて抱きしめた。
雪原の真ん中。 古代遺跡の廃墟。 そんな荒涼とした場所で、私たちは一つの塊になっていた。
「……守ってくれて、ありがとう、レオンハルト様。アルフォンス様」
「守られたのは俺たちだ。……君は、最高の盾だ」
レオンハルト様が顔を上げ、私の瞳を見つめた。 そのアイスブルーの瞳には、もう一点の曇りもなかった。 あるのは、溢れんばかりの情熱と、深い愛。
「愛している、クラリス。……君なしでは、俺はもう生きていけない」
「……はい。私もです」
私たちは、アルフォンス様が「わあ、見ちゃダメだ」と手で目を覆う前で(でも指の隙間からしっかり見ているのを知っていたけれど)、長く、深い口づけを交わした。
冷たい風が吹く谷底だったけれど、私たちの心には、永遠に消えない春の陽だまりが生まれていた。
◇
屋敷への帰路。 カイルの身柄は、後から到着した王宮騎士団に引き渡された。 彼は長い眠りから覚めた後、法の裁きを受けることになるだろう。 だが、その表情は安らかだったという。
馬車に揺られながら、私は泥のように眠っていた。 目が覚めた時、私の頭はレオンハルト様の肩にあり、手はアルフォンス様に握られていた。
「……起きたか?」
レオンハルト様が優しく微笑みかける。
「……はい。今、どこですか?」
「もうすぐ屋敷だ。……みんなが待っている」
窓の外を見ると、夕暮れの空の下に、私たちの「家」が見えてきた。 半壊した庭は痛々しいけれど、煙突からは温かそうな煙が立ち上り、窓には明かりが灯っている。 そして、玄関の前には、ミレイユ様とノア様、使用人たちが手を振っているのが小さく見えた。
「……帰ってきましたね」
「ああ。俺たちの家に」
レオンハルト様が私の手を握り直し、もう一度、力を込めた。
「ただいま、クラリス」
「お帰りなさいませ、あなた」
馬車が門をくぐる。 「おかえりー!」という子供たちの声が聞こえる。 私の「悪役令嬢」としての物語は終わり、ここから先は「公爵家の母」としての、賑やかで温かい、そして時々大変な毎日が始まるのだ。
でも、それも悪くない。 今の私には、世界最強の「家族」がついているのだから。
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