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また、聖女がやらかした。
せっかくこつこつ築き上げた信頼が、一瞬で崩れ去った。
始まりは、夜明け前のことだ。
恐ろしく冷え込んでいて、空気中の水分まで凍り付く未明。
野営は結界石で囲っているから、外ほどの寒さはない。気配を抑える効果もあるから、たいていの魔物は気づくことすらない。それでも絶対ということはないので、見張り役は必ず立てる。
この時の見張り番は、ヒューゴだった。
湿地帯は終わり、岩肌ばかりが目立つ山岳地帯に入っていた。目に入るのは峻厳な岩山と、ほとんど氷となっている積雪。たまにいじけた高山植物のような草が顔を出しているが、ほとんどが何かの動物によって食いちぎられている。
音すらも凍り付いてしまいそうな静かな極寒の闇。そうかと思えば、時折岩をも吹き飛ばしてしまいそうな突風が襲ってくる。
風は高く低く鳴き、まるで魔王の咆哮のような不気味さで響く。
そんな恐ろしいひと時を、ヒューゴは結界石のギリギリまで出て辺りを観察していた。
狩人の目は弓使いと同じくらい遠くまで見て取る。もちろん、目だけではなく、五感の全てを使って周囲の様子を探り、警戒を怠らない。
ふと、妙な気配がした。
突風の轟音にほとんどかき消されてしまっているが、何かの悲鳴に聞こえた。
魔物か。ヒューゴは緊張の度合いを一段階引き上げる。
次に物音がしたのは、結界の中だった。
神官たちのテントの入り口が開き、聖女が飛び出してきたのだ。
いつもは柔らかい聖女の表情は、今まで見たこともないくらい硬く引き締まっていた。
聖女は防寒具を肩にかけただけの無防備な姿で、何かを見つめながら結界の外に飛び出していく。
ヒューゴは一瞬、迷った。聖女の後を追うべきかどうか。
しかし物音に気付いたアルヴィンが起きだし、テントからも神官が出てきたのを見て心が決まる。聖女の後を追って、暗闇の中に飛び出す。
聖女は彼女らしくない素早さで、でも不器用に岩肌を登っていく。そしてすぐに岩の陰に姿を消した。
それとほぼ同時に、治癒魔法の温かな光が放たれた。いつものよりはるかに強い魔力の光。きっと加減を考えずに全力を出しているに違いない。
聖女は何を治療している?
岩を飛び越えると、そこには聖女が血塗れの獣を抱きしめている光景があった。
獣は大きく白い。密集した毛には銀色の斑紋が見える。太い脚に鋭い牙。それはこの大陸にしか棲息していない雪豹の仲間だった。その珍しさから《春華の大陸》では聖獣ともてはやされているが、ここではさほど珍しくない生物だ。
そんな雪豹を、聖女は髪を振り乱しながら治癒している。大きく見開いた目には鬼気迫るものすらある。
異様な光景に、ヒューゴはたじろいだ。
「おい、何が起きたんだ、ヒューゴ?」
「せ、聖女様……!」
アルヴィンとクリスもやってきた。そしてヒューゴと同じく、聖女と獣を見て言葉を失う。
治癒の光はますます強まり、「聖女様、ダメです!」とクリスが悲鳴を上げた。
光は唐突に治まり、聖女は岩のはざまに倒れ伏した。
聖女が気を失うと、その代わりのように雪豹が体を起こした。そして聖女の頭に己の顔を押し付け、ヒューゴたちを一瞥すると、そのまま姿を消した。
「聖女様ぁ! しっかり!」
弾かれたようにクリスが聖女に駆け寄り、その体を抱き上げる。しかし聖女はピクリともしない。完全に魔力を使い切ってしまっている。
「ああなると……回復まで一日はかかるな。あと少しなのにここで足止め決定だ」
アルヴィンの声は唸り声のようだった。
ヒューゴが恐る恐る窺うと、アルヴィンの顔は怒りと失望、そして軽蔑の色に染まっていた。
聖女が目を覚ますと、クリスのホッとした顔が見えた。
「さあ、聖女様。薬湯です。ゆっくり飲んでくださいね」
「有難うございます……」
喉がガサガサで、咳き込んでしまう。クリスが慌てて背中をさすってくれた。
「ようやく起きたか」
テントの幕をまくり上げ、アルヴィンが顔を出した。しかしその表情は、冬眠から覚めた直後の熊よりも恐ろしい。
「お優しい聖女様よ。お前は何がしたいんだ? 獣に同情するのは好きにしろ。だがお前がしたことは、俺たち仲間の安全よりも、あの獣を優先したってことだ」
「そ、そんなつもりはありません!」
聖女は慌ててかぶりを振った。このパーティーのメンバーは、聖女にとって何よりも大事な宝物となっていたからだ。神殿の中とはまた違う、信頼しあえるメンバー。一緒に笑いあえる仲間たち。
しかし聖女を睨みつけるアルヴィンの眼差しは、氷よりも冷ややかだ。
「お前がどんなつもりでやったかなんて知らん。けど、結果的には俺たちを危険な目に合わせたのと同じってことだ」
アルヴィンから叩きつけられる怒気の強さに、聖女はガタガタと震えだす。
「しゃ、謝罪をします。みなさん全員にお詫びを……」
ふらつく体でテントから転がるように出る。たき火の前で思い思いに腰を下ろしていたメンバーたちの前で膝をつき、額を岩肌に擦りつけた。
「私の浅慮でみなさんを危険な場所に足止めさせてしまいました。本当にごめんなさい。申し訳ございません」
「……何故、だ?」
メンバーが黙ったまま互いの顔を見合わせていると、ヒューゴが重い口を開いた。ブラッドが「喋った!」と座っていた岩から転がり落ちそうになった。
「何故、あの雪豹を助けた? ……今までだって、瀕死の獣くらい何度も見ているだろう」
ヒューゴはあの時、同じ光景を見ていた。だから余計に気になったのだろう。
聖女はヒューゴの視線を真正面から受け止め、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「あの雪豹さんは、ただ怪我をしていたのではなかったのです。あの雪豹さんは……魔物に、なりかかっていました」
「はあ!?」
そんな話は聞いたことがない。メンバーたちは驚愕して固まった。
いきなりこんなことを言われて、信じられないかもしれない。けれど、信じて欲しい。
聖女は祈りの姿勢になって、みんなに訴えた。
「たぶん、あの雪豹さんはもともと怪我をして動けなかったのでしょう。そこに魔王の恐ろしい魔力が絡みついていくのを、私は感じ取ったのです。もしかして、今まで戦ってきた魔物たちは、あのようにして魔王に無理やり魔物化された動物たちなのかもしれないと気づいて、いてもたってもいられなくなったのです」
怖気がくるほど醜悪な魔力の波動が、弱まってきた雪豹の心臓の鼓動と同調していくのを感じ、聖女は無我夢中で治癒魔法をかけた。聖なる光の魔力で、毒々しい魔力が引いていってホッとした。そして魔力が枯渇して気絶したのだった。
「魔王はもうすぐそこにいます。私には分かります。どうか信じてください。魔王を倒すまではお願いします!」
「……ちょっと何それ」
急に、チェルシーが眉間に皺を寄せた。
「その言い方、感じ悪い。気分が悪くなったから、私は寝るわ」
「聖女様も、まだ本調子ではないのですから、休んでください」
クリスがそっとテントへと促す。聖女はうなだれ、素直に従った。
「ったく、ふざけんじゃねぇぞ……」
黙って一部始終を見ていたアルヴィンは、ブーツのつま先で地面を蹴りつけた。
せっかくこつこつ築き上げた信頼が、一瞬で崩れ去った。
始まりは、夜明け前のことだ。
恐ろしく冷え込んでいて、空気中の水分まで凍り付く未明。
野営は結界石で囲っているから、外ほどの寒さはない。気配を抑える効果もあるから、たいていの魔物は気づくことすらない。それでも絶対ということはないので、見張り役は必ず立てる。
この時の見張り番は、ヒューゴだった。
湿地帯は終わり、岩肌ばかりが目立つ山岳地帯に入っていた。目に入るのは峻厳な岩山と、ほとんど氷となっている積雪。たまにいじけた高山植物のような草が顔を出しているが、ほとんどが何かの動物によって食いちぎられている。
音すらも凍り付いてしまいそうな静かな極寒の闇。そうかと思えば、時折岩をも吹き飛ばしてしまいそうな突風が襲ってくる。
風は高く低く鳴き、まるで魔王の咆哮のような不気味さで響く。
そんな恐ろしいひと時を、ヒューゴは結界石のギリギリまで出て辺りを観察していた。
狩人の目は弓使いと同じくらい遠くまで見て取る。もちろん、目だけではなく、五感の全てを使って周囲の様子を探り、警戒を怠らない。
ふと、妙な気配がした。
突風の轟音にほとんどかき消されてしまっているが、何かの悲鳴に聞こえた。
魔物か。ヒューゴは緊張の度合いを一段階引き上げる。
次に物音がしたのは、結界の中だった。
神官たちのテントの入り口が開き、聖女が飛び出してきたのだ。
いつもは柔らかい聖女の表情は、今まで見たこともないくらい硬く引き締まっていた。
聖女は防寒具を肩にかけただけの無防備な姿で、何かを見つめながら結界の外に飛び出していく。
ヒューゴは一瞬、迷った。聖女の後を追うべきかどうか。
しかし物音に気付いたアルヴィンが起きだし、テントからも神官が出てきたのを見て心が決まる。聖女の後を追って、暗闇の中に飛び出す。
聖女は彼女らしくない素早さで、でも不器用に岩肌を登っていく。そしてすぐに岩の陰に姿を消した。
それとほぼ同時に、治癒魔法の温かな光が放たれた。いつものよりはるかに強い魔力の光。きっと加減を考えずに全力を出しているに違いない。
聖女は何を治療している?
岩を飛び越えると、そこには聖女が血塗れの獣を抱きしめている光景があった。
獣は大きく白い。密集した毛には銀色の斑紋が見える。太い脚に鋭い牙。それはこの大陸にしか棲息していない雪豹の仲間だった。その珍しさから《春華の大陸》では聖獣ともてはやされているが、ここではさほど珍しくない生物だ。
そんな雪豹を、聖女は髪を振り乱しながら治癒している。大きく見開いた目には鬼気迫るものすらある。
異様な光景に、ヒューゴはたじろいだ。
「おい、何が起きたんだ、ヒューゴ?」
「せ、聖女様……!」
アルヴィンとクリスもやってきた。そしてヒューゴと同じく、聖女と獣を見て言葉を失う。
治癒の光はますます強まり、「聖女様、ダメです!」とクリスが悲鳴を上げた。
光は唐突に治まり、聖女は岩のはざまに倒れ伏した。
聖女が気を失うと、その代わりのように雪豹が体を起こした。そして聖女の頭に己の顔を押し付け、ヒューゴたちを一瞥すると、そのまま姿を消した。
「聖女様ぁ! しっかり!」
弾かれたようにクリスが聖女に駆け寄り、その体を抱き上げる。しかし聖女はピクリともしない。完全に魔力を使い切ってしまっている。
「ああなると……回復まで一日はかかるな。あと少しなのにここで足止め決定だ」
アルヴィンの声は唸り声のようだった。
ヒューゴが恐る恐る窺うと、アルヴィンの顔は怒りと失望、そして軽蔑の色に染まっていた。
聖女が目を覚ますと、クリスのホッとした顔が見えた。
「さあ、聖女様。薬湯です。ゆっくり飲んでくださいね」
「有難うございます……」
喉がガサガサで、咳き込んでしまう。クリスが慌てて背中をさすってくれた。
「ようやく起きたか」
テントの幕をまくり上げ、アルヴィンが顔を出した。しかしその表情は、冬眠から覚めた直後の熊よりも恐ろしい。
「お優しい聖女様よ。お前は何がしたいんだ? 獣に同情するのは好きにしろ。だがお前がしたことは、俺たち仲間の安全よりも、あの獣を優先したってことだ」
「そ、そんなつもりはありません!」
聖女は慌ててかぶりを振った。このパーティーのメンバーは、聖女にとって何よりも大事な宝物となっていたからだ。神殿の中とはまた違う、信頼しあえるメンバー。一緒に笑いあえる仲間たち。
しかし聖女を睨みつけるアルヴィンの眼差しは、氷よりも冷ややかだ。
「お前がどんなつもりでやったかなんて知らん。けど、結果的には俺たちを危険な目に合わせたのと同じってことだ」
アルヴィンから叩きつけられる怒気の強さに、聖女はガタガタと震えだす。
「しゃ、謝罪をします。みなさん全員にお詫びを……」
ふらつく体でテントから転がるように出る。たき火の前で思い思いに腰を下ろしていたメンバーたちの前で膝をつき、額を岩肌に擦りつけた。
「私の浅慮でみなさんを危険な場所に足止めさせてしまいました。本当にごめんなさい。申し訳ございません」
「……何故、だ?」
メンバーが黙ったまま互いの顔を見合わせていると、ヒューゴが重い口を開いた。ブラッドが「喋った!」と座っていた岩から転がり落ちそうになった。
「何故、あの雪豹を助けた? ……今までだって、瀕死の獣くらい何度も見ているだろう」
ヒューゴはあの時、同じ光景を見ていた。だから余計に気になったのだろう。
聖女はヒューゴの視線を真正面から受け止め、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「あの雪豹さんは、ただ怪我をしていたのではなかったのです。あの雪豹さんは……魔物に、なりかかっていました」
「はあ!?」
そんな話は聞いたことがない。メンバーたちは驚愕して固まった。
いきなりこんなことを言われて、信じられないかもしれない。けれど、信じて欲しい。
聖女は祈りの姿勢になって、みんなに訴えた。
「たぶん、あの雪豹さんはもともと怪我をして動けなかったのでしょう。そこに魔王の恐ろしい魔力が絡みついていくのを、私は感じ取ったのです。もしかして、今まで戦ってきた魔物たちは、あのようにして魔王に無理やり魔物化された動物たちなのかもしれないと気づいて、いてもたってもいられなくなったのです」
怖気がくるほど醜悪な魔力の波動が、弱まってきた雪豹の心臓の鼓動と同調していくのを感じ、聖女は無我夢中で治癒魔法をかけた。聖なる光の魔力で、毒々しい魔力が引いていってホッとした。そして魔力が枯渇して気絶したのだった。
「魔王はもうすぐそこにいます。私には分かります。どうか信じてください。魔王を倒すまではお願いします!」
「……ちょっと何それ」
急に、チェルシーが眉間に皺を寄せた。
「その言い方、感じ悪い。気分が悪くなったから、私は寝るわ」
「聖女様も、まだ本調子ではないのですから、休んでください」
クリスがそっとテントへと促す。聖女はうなだれ、素直に従った。
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