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第六話:癒やしの刺繍
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公爵邸での日々は、夢のように穏やかだった。
メイドたちは私を「ルチア様」と呼び、毎日温かい食事と清潔な服を用意してくれた。昼間は庭園を散策し、生まれて初めて見る色とりどりの花の名を覚え、夜はふかふかのベッドで安心して眠りに落ちる。屋根裏部屋で過ごした時間こそが、遠い悪夢だったかのようだ。
そして、私の心境にも変化が訪れていた。
夜、新しい部屋の広い窓辺に座り、星屑を集める。以前はただ無心で行う作業だったが、今は違った。私の脳裏には、いつもあの灰色の瞳が浮かんでいた。
(公爵様の、あの寂しい世界に、少しでも彩りを届けられたら)
そんな願いを込めながら、私は今までで一番丁寧に、そして心を込めて銀色の糸を紡いだ。
あの日、彼がテーブルに置いた真新しいハンカチ。その中央に、私は一輪の花を縫い始めた。彼のかつての瞳の色を思わせる、夜空のように深い青色の「忘れな草」。その花びらの一枚一枚に、私の持つ力のすべてを注ぎ込むように針を進めた。
数日後、ハンカチは完成した。
私はそれを手に、緊張しながら公爵の書斎の扉を叩いた。
「入れ」
聞こえた低い声に促され、中へ入ると、アークライト公爵は山積みの書類を前に、無表情でペンを走らせていた。
私がおずおずと近づき、完成したハンカチを差し出すと、彼は一度だけ視線を上げ、黙ってそれを受け取った。そして、彼の指先が、私が精魂込めて刺繍した忘れな草に触れる。
その瞬間、ペンを走らせていた彼の手が、ぴたりと止まった。
彼はゆっくりと顔を上げ、窓の外へと視線を移す。その灰色の瞳が、驚きに見開かれていた。
彼の世界に、再び色が戻っていた。
しかも、今回は一瞬ではなかった。窓の外に見える庭園の木々の「緑」。噴水が描く弧にきらめく陽光の「白」。そして、どこまでも広がる空の「青」。書斎の棚に並ぶ革表紙の「赤茶色」。すべてが、鮮やかに彼の網膜を彩っていた。
ちょうど執事が運んできた紅茶の、芳しい香りが鼻腔をくすぐる。
彼は無意識にカップを手に取り、一口含んだ。
(……甘い)
何年も感じたことのなかった、微かな甘みと温かさが舌の上に広がる。失われていたのは色彩だけではなかったのだ。味覚も、嗅覚も、凍てついた心と共に眠っていた五感が、この刺繍に触れている間だけ、ゆっくりと目を覚まそうとしていた。
やがて、魔法が解けるように世界は再び灰色に戻った。しかし、彼の心には、先ほどまで見ていた鮮やかな色彩と、紅茶の確かな温もりの余韻が残っていた。
彼は握りしめたハンカチから、刺繍を施したルチアへと視線を移す。
感謝の言葉など、何年も口にしたことがない。どう伝えればいいのか分からなかった。長い沈黙の末、アークライトの口からこぼれたのは、ひどく不器用な言葉だった。
「……悪くない。続けろ」
ぶっきらぼうな、命令形の言葉。
けれど、その声には今まで感じたことのない、微かな穏やかさが含まれていた。彼の氷のような表情が、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、和らいだように見えた。
その変化に気づいた瞬間、私の胸に、これまで感じたことのない温かいものが、じんわりと広がっていくのを感じた。
私の力は、この人を癒せる。
その確信が、私と彼の間に、見えないけれど確かな絆を結びつけ始めていた。
メイドたちは私を「ルチア様」と呼び、毎日温かい食事と清潔な服を用意してくれた。昼間は庭園を散策し、生まれて初めて見る色とりどりの花の名を覚え、夜はふかふかのベッドで安心して眠りに落ちる。屋根裏部屋で過ごした時間こそが、遠い悪夢だったかのようだ。
そして、私の心境にも変化が訪れていた。
夜、新しい部屋の広い窓辺に座り、星屑を集める。以前はただ無心で行う作業だったが、今は違った。私の脳裏には、いつもあの灰色の瞳が浮かんでいた。
(公爵様の、あの寂しい世界に、少しでも彩りを届けられたら)
そんな願いを込めながら、私は今までで一番丁寧に、そして心を込めて銀色の糸を紡いだ。
あの日、彼がテーブルに置いた真新しいハンカチ。その中央に、私は一輪の花を縫い始めた。彼のかつての瞳の色を思わせる、夜空のように深い青色の「忘れな草」。その花びらの一枚一枚に、私の持つ力のすべてを注ぎ込むように針を進めた。
数日後、ハンカチは完成した。
私はそれを手に、緊張しながら公爵の書斎の扉を叩いた。
「入れ」
聞こえた低い声に促され、中へ入ると、アークライト公爵は山積みの書類を前に、無表情でペンを走らせていた。
私がおずおずと近づき、完成したハンカチを差し出すと、彼は一度だけ視線を上げ、黙ってそれを受け取った。そして、彼の指先が、私が精魂込めて刺繍した忘れな草に触れる。
その瞬間、ペンを走らせていた彼の手が、ぴたりと止まった。
彼はゆっくりと顔を上げ、窓の外へと視線を移す。その灰色の瞳が、驚きに見開かれていた。
彼の世界に、再び色が戻っていた。
しかも、今回は一瞬ではなかった。窓の外に見える庭園の木々の「緑」。噴水が描く弧にきらめく陽光の「白」。そして、どこまでも広がる空の「青」。書斎の棚に並ぶ革表紙の「赤茶色」。すべてが、鮮やかに彼の網膜を彩っていた。
ちょうど執事が運んできた紅茶の、芳しい香りが鼻腔をくすぐる。
彼は無意識にカップを手に取り、一口含んだ。
(……甘い)
何年も感じたことのなかった、微かな甘みと温かさが舌の上に広がる。失われていたのは色彩だけではなかったのだ。味覚も、嗅覚も、凍てついた心と共に眠っていた五感が、この刺繍に触れている間だけ、ゆっくりと目を覚まそうとしていた。
やがて、魔法が解けるように世界は再び灰色に戻った。しかし、彼の心には、先ほどまで見ていた鮮やかな色彩と、紅茶の確かな温もりの余韻が残っていた。
彼は握りしめたハンカチから、刺繍を施したルチアへと視線を移す。
感謝の言葉など、何年も口にしたことがない。どう伝えればいいのか分からなかった。長い沈黙の末、アークライトの口からこぼれたのは、ひどく不器用な言葉だった。
「……悪くない。続けろ」
ぶっきらぼうな、命令形の言葉。
けれど、その声には今まで感じたことのない、微かな穏やかさが含まれていた。彼の氷のような表情が、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、和らいだように見えた。
その変化に気づいた瞬間、私の胸に、これまで感じたことのない温かいものが、じんわりと広がっていくのを感じた。
私の力は、この人を癒せる。
その確信が、私と彼の間に、見えないけれど確かな絆を結びつけ始めていた。
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