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第七話:英雄の代償
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私の刺繍に触れている間だけ、アークライト公爵の世界に色が戻る。
その事実が分かってから、私の日常は目的と喜びに満たされたものになった。私は毎日、心を込めて星屑を紡ぎ、彼の身の回りのものに刺繍を施した。手袋、カフス、書斎のクッション。私の指先から生み出される銀色の糸が、彼の灰色の世界を少しずつ彩っていく。
彼は言葉で礼を言うことはなかった。
けれど、私が新しい刺繍を施した品を渡すたびに、その灰色の瞳の奥に、ほんの一瞬、温かい光が灯るのを私は知っていた。その微かな変化が、私にとって何よりの報酬だった。
ある雨の日の午後、私は公爵に頼まれて、彼の書斎にある古い文献を探していた。普段は彼以外立ち入らないその部屋で、重厚な本棚を調べていると、一冊の古びた日記が目にとまった。それは彼が英雄と呼ばれる前の、まだ士官候補生だった頃の日記だった。
好奇心に抗えず、そっとページをめくってしまう。そこに綴られていたのは、私の知らない、感情豊かなアークライト・グレイフィールドの姿だった。
『今日は同期のエリアスと剣の稽古で一本取った。あいつの悔しがる顔は最高の酒の肴になる』
『王女殿下の笑顔は、まるで春の陽光のようだ。遠くから拝見するだけで心が温かくなる』
『父上の期待に応えたい。この国を守れる、立派な騎士になりたい』
若々しく、情熱に満ちた言葉の数々。そこには、仲間を思い、国を憂い、未来を夢見る一人の青年の姿があった。彼の感情の無さは、生まれつきではなかったのだ。
最後のページは、乱れた文字でこう締めくくられていた。
『魔獣の大群が王都に迫る。もはや、最後の禁術を使うしかない。この身と引き換えに、すべてを守れるのなら悔いはない。エリアス、後のことは頼んだ。そして、願わくば――もう一度、あの青い空が見たい』
それが、彼が世界の色と感情を失った、「大障壁」と呼ばれる戦いの前夜の記録だった。
私は日記を閉じ、胸が締め付けられるのを感じた。彼は、すべてを犠牲にしてこの国を守ったのだ。その代償として、空の青さも、友と笑い合った温かい記憶も、すべてを灰色の中に封じ込めてしまった。
「……何を見ている」
背後からかけられた低い声に、私はびくりと飛び上がった。振り返ると、いつのまにかアークライト公爵がそこに立っていた。私の手にある日記に気づき、彼の表情がわずかに険しくなる。
「申し訳、ありません……その、勝手に……」
慌てて日記を差し出すと、彼はそれを受け取り、ぱらぱらとページをめくった。そして、最後のページで指を止め、自嘲するような、ひどく寂しい笑みを浮かべた。
「昔の感傷だ。もう、ここに書かれているような感情は、私の中にはない」
そう言って、彼は日記を暖炉の火へと投げ入れた。革の表紙が炎に包まれ、彼の過去が灰になっていく。
「公爵様!」
私は思わず叫んでいた。
「そんなことは、ありません! 公爵様の心は、なくなってなどいません! だって……」
だって、私の刺繍に触れた時、あなたの瞳は確かに揺らぐから。
私が淹れた紅茶を飲んだ時、あなたは「温かい」と呟いたから。
言葉にならない思いが、涙となって溢れ出した。私の涙を見て、彼は困ったように眉を寄せ、そして、ためらうようにその大きな手を伸ばした。彼の指先が、私の頬を伝う涙に、そっと触れる。
その瞬間、彼の灰色の瞳が、驚きに見開かれた。
「これは……温かい、のか……」
彼はまるで初めて触れる奇跡のように、私の涙の温度を確かめていた。
この時、私は固く決意した。
失われた彼の世界を、私が取り戻すのだと。彼が犠牲にしたすべての美しいものを、もう一度その瞳に映してみせると。
それは途方もない願いかもしれない。けれど、私の星屑の糸は、きっと彼の凍てついた心を溶かすことができると、私は信じていた。
その事実が分かってから、私の日常は目的と喜びに満たされたものになった。私は毎日、心を込めて星屑を紡ぎ、彼の身の回りのものに刺繍を施した。手袋、カフス、書斎のクッション。私の指先から生み出される銀色の糸が、彼の灰色の世界を少しずつ彩っていく。
彼は言葉で礼を言うことはなかった。
けれど、私が新しい刺繍を施した品を渡すたびに、その灰色の瞳の奥に、ほんの一瞬、温かい光が灯るのを私は知っていた。その微かな変化が、私にとって何よりの報酬だった。
ある雨の日の午後、私は公爵に頼まれて、彼の書斎にある古い文献を探していた。普段は彼以外立ち入らないその部屋で、重厚な本棚を調べていると、一冊の古びた日記が目にとまった。それは彼が英雄と呼ばれる前の、まだ士官候補生だった頃の日記だった。
好奇心に抗えず、そっとページをめくってしまう。そこに綴られていたのは、私の知らない、感情豊かなアークライト・グレイフィールドの姿だった。
『今日は同期のエリアスと剣の稽古で一本取った。あいつの悔しがる顔は最高の酒の肴になる』
『王女殿下の笑顔は、まるで春の陽光のようだ。遠くから拝見するだけで心が温かくなる』
『父上の期待に応えたい。この国を守れる、立派な騎士になりたい』
若々しく、情熱に満ちた言葉の数々。そこには、仲間を思い、国を憂い、未来を夢見る一人の青年の姿があった。彼の感情の無さは、生まれつきではなかったのだ。
最後のページは、乱れた文字でこう締めくくられていた。
『魔獣の大群が王都に迫る。もはや、最後の禁術を使うしかない。この身と引き換えに、すべてを守れるのなら悔いはない。エリアス、後のことは頼んだ。そして、願わくば――もう一度、あの青い空が見たい』
それが、彼が世界の色と感情を失った、「大障壁」と呼ばれる戦いの前夜の記録だった。
私は日記を閉じ、胸が締め付けられるのを感じた。彼は、すべてを犠牲にしてこの国を守ったのだ。その代償として、空の青さも、友と笑い合った温かい記憶も、すべてを灰色の中に封じ込めてしまった。
「……何を見ている」
背後からかけられた低い声に、私はびくりと飛び上がった。振り返ると、いつのまにかアークライト公爵がそこに立っていた。私の手にある日記に気づき、彼の表情がわずかに険しくなる。
「申し訳、ありません……その、勝手に……」
慌てて日記を差し出すと、彼はそれを受け取り、ぱらぱらとページをめくった。そして、最後のページで指を止め、自嘲するような、ひどく寂しい笑みを浮かべた。
「昔の感傷だ。もう、ここに書かれているような感情は、私の中にはない」
そう言って、彼は日記を暖炉の火へと投げ入れた。革の表紙が炎に包まれ、彼の過去が灰になっていく。
「公爵様!」
私は思わず叫んでいた。
「そんなことは、ありません! 公爵様の心は、なくなってなどいません! だって……」
だって、私の刺繍に触れた時、あなたの瞳は確かに揺らぐから。
私が淹れた紅茶を飲んだ時、あなたは「温かい」と呟いたから。
言葉にならない思いが、涙となって溢れ出した。私の涙を見て、彼は困ったように眉を寄せ、そして、ためらうようにその大きな手を伸ばした。彼の指先が、私の頬を伝う涙に、そっと触れる。
その瞬間、彼の灰色の瞳が、驚きに見開かれた。
「これは……温かい、のか……」
彼はまるで初めて触れる奇跡のように、私の涙の温度を確かめていた。
この時、私は固く決意した。
失われた彼の世界を、私が取り戻すのだと。彼が犠牲にしたすべての美しいものを、もう一度その瞳に映してみせると。
それは途方もない願いかもしれない。けれど、私の星屑の糸は、きっと彼の凍てついた心を溶かすことができると、私は信じていた。
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