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第五話:初めての温もり
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馬車が止まったのは、ハノーヴァー子爵邸がまるごと十は入ってしまいそうな、壮麗な屋敷の前だった。黒鉄の門が静かに開き、手入れの行き届いた広大な庭園を抜けていく。これが、「灰色の魔法使い」の城……。
わけがわからないまま馬車を降りると、年配の執事をはじめとした使用人たちがずらりと並んで出迎えてくれた。彼らは私の汚れたドレスと怯えた様子を一瞥し、次いで主人の無表情な顔を見て、驚きを隠せないようだった。しかし、誰一人としてそれを口に出すことなく、深く頭を垂れる。
「……部屋へ」
アークライト公爵は短くそれだけ言うと、私の腕を掴んだまま、大理石の廊下を歩き始めた。彼の歩幅についていけず、私がつまずきそうになると、彼は無言のまま少しだけ歩調を緩めてくれた。
連れてこられたのは、東棟の角にある、陽光が燦々と降り注ぐ明るい部屋だった。私の屋根裏部屋とはなにもかもが違う。天蓋付きの大きなベッド、彫刻の施された化粧台、そして窓辺には、ありとあらゆる種類の絹糸や金銀糸、ビーズが収められた豪奢な裁縫箱が置かれていた。
「ここは、君の部屋だ」
公爵は私の腕を離し、部屋の中央で静かに告げた。
「必要なものはすべて揃えさせた。これ以上望むものがあれば、執事に言え」
私は呆然と部屋を見渡した。
自分の、部屋?
生まれてこの方、私だけのものなど何一つ与えられたことがなかった。ふかふかの絨毯を踏みしめ、恐る恐るベッドに指先で触れてみる。その柔らかな感触に、涙が出そうになった。
そこへ、メイドが銀の盆に乗せて温かいスープと焼きたてのパンを運んできた。
「さあ、まずは食事を」
公爵に促され、小さなテーブルにつく。
きのこの香りがする温かいスープを一口含むと、冷え切っていた体の中からじんわりと温もりが広がっていく。それは、涙の味がしない、初めての食事だった。
ぽたり、と。
一粒の雫が、スープ皿に落ちて波紋を作った。気づけば、私の頬を次から次へと涙が伝っていた。
美味しい。温かい。優しい。
生まれて初めて向けられる、まっとうな扱いに、心の堰が切れてしまったのだ。
「……なぜ、泣く」
向かいの椅子に腰かけていた公爵が、不器用に眉をひそめて私を見ていた。彼の灰色の瞳には、純粋な戸惑いの色が浮かんでいる。感情を失った彼には、私の涙の理由が理解できないのだろう。
私はしゃくりあげながら、首を横に振ることしかできなかった。
しばらくして、私が少し落ち着いたのを見計らい、公爵は静かに立ち上がった。
「無理強いはしない。まずは体を休めろ」
彼はそう言うと、テーブルの上に小さな、真新しい絹のハンカチを置いた。
「だが、もし君にその気があるのなら……何か一つ、私のために作ってほしい。君の光を、この目で見たい」
その言葉は命令のはずなのに、どこか懇願するような響きを帯びていた。
私は涙に濡れた瞳で、彼を見上げた。彼はただ私を道具として利用したいだけなのかもしれない。けれど、彼の瞳の奥に宿る、深い孤独と渇望のようなものに、なぜか心が引き寄せられた。
この人は、私の力を必要としてくれている。私の生み出す光を、ただ純粋に求めてくれている。
恐怖や戸惑いが消えたわけではない。それでも、私の心の中に、屋根裏部屋では決して生まれなかったであろう、小さな決意の灯がともった。
この人のために、刺繍をしたい。
私がこくりと頷くと、アークライト公爵の氷のような表情が、ほんのわずかに和らいだように見えた。それはきっと、気のせいだっただろう。けれど、私の新しい日々は、この温かい部屋で、確かに始まろうとしていた。
わけがわからないまま馬車を降りると、年配の執事をはじめとした使用人たちがずらりと並んで出迎えてくれた。彼らは私の汚れたドレスと怯えた様子を一瞥し、次いで主人の無表情な顔を見て、驚きを隠せないようだった。しかし、誰一人としてそれを口に出すことなく、深く頭を垂れる。
「……部屋へ」
アークライト公爵は短くそれだけ言うと、私の腕を掴んだまま、大理石の廊下を歩き始めた。彼の歩幅についていけず、私がつまずきそうになると、彼は無言のまま少しだけ歩調を緩めてくれた。
連れてこられたのは、東棟の角にある、陽光が燦々と降り注ぐ明るい部屋だった。私の屋根裏部屋とはなにもかもが違う。天蓋付きの大きなベッド、彫刻の施された化粧台、そして窓辺には、ありとあらゆる種類の絹糸や金銀糸、ビーズが収められた豪奢な裁縫箱が置かれていた。
「ここは、君の部屋だ」
公爵は私の腕を離し、部屋の中央で静かに告げた。
「必要なものはすべて揃えさせた。これ以上望むものがあれば、執事に言え」
私は呆然と部屋を見渡した。
自分の、部屋?
生まれてこの方、私だけのものなど何一つ与えられたことがなかった。ふかふかの絨毯を踏みしめ、恐る恐るベッドに指先で触れてみる。その柔らかな感触に、涙が出そうになった。
そこへ、メイドが銀の盆に乗せて温かいスープと焼きたてのパンを運んできた。
「さあ、まずは食事を」
公爵に促され、小さなテーブルにつく。
きのこの香りがする温かいスープを一口含むと、冷え切っていた体の中からじんわりと温もりが広がっていく。それは、涙の味がしない、初めての食事だった。
ぽたり、と。
一粒の雫が、スープ皿に落ちて波紋を作った。気づけば、私の頬を次から次へと涙が伝っていた。
美味しい。温かい。優しい。
生まれて初めて向けられる、まっとうな扱いに、心の堰が切れてしまったのだ。
「……なぜ、泣く」
向かいの椅子に腰かけていた公爵が、不器用に眉をひそめて私を見ていた。彼の灰色の瞳には、純粋な戸惑いの色が浮かんでいる。感情を失った彼には、私の涙の理由が理解できないのだろう。
私はしゃくりあげながら、首を横に振ることしかできなかった。
しばらくして、私が少し落ち着いたのを見計らい、公爵は静かに立ち上がった。
「無理強いはしない。まずは体を休めろ」
彼はそう言うと、テーブルの上に小さな、真新しい絹のハンカチを置いた。
「だが、もし君にその気があるのなら……何か一つ、私のために作ってほしい。君の光を、この目で見たい」
その言葉は命令のはずなのに、どこか懇願するような響きを帯びていた。
私は涙に濡れた瞳で、彼を見上げた。彼はただ私を道具として利用したいだけなのかもしれない。けれど、彼の瞳の奥に宿る、深い孤独と渇望のようなものに、なぜか心が引き寄せられた。
この人は、私の力を必要としてくれている。私の生み出す光を、ただ純粋に求めてくれている。
恐怖や戸惑いが消えたわけではない。それでも、私の心の中に、屋根裏部屋では決して生まれなかったであろう、小さな決意の灯がともった。
この人のために、刺繍をしたい。
私がこくりと頷くと、アークライト公爵の氷のような表情が、ほんのわずかに和らいだように見えた。それはきっと、気のせいだっただろう。けれど、私の新しい日々は、この温かい部屋で、確かに始まろうとしていた。
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