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―― 第一章 ―― 黒薔薇の刻印
【015】恋の兆しと消えない不安
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購入した品は後日届けてもらうことになり、二人はその足でココアが美味だと評判の店へと向かった。
「開いているでしょうか?」
道中で桜子が尋ねると、礼人がゆっくりと頷いた。
「特別に開けてもらって、貸し切りにしてあるからね。ちなみに俺は珈琲を飲むけど」
「珈琲……」
「甘いのも嫌いというわけじゃないんだけどね。疲れたとき以外はいらないかな。俺にとって今日の一日は、疲れることじゃなく、どちらかと言えば良い気分転換だから。最初にも話したと思うけど。なに?」
じっと桜子が礼人を見ていると、礼人が若干気恥ずかしそうに顔を向けた。外面は無表情に近いのだが、桜子には気恥ずかしそうだと見て取れた。
「大人なのですね。苦いんでしょう?」
「へ?」
「珈琲は、大人の飲み物で、とっても苦いのだとか」
桜子がいつになくキラキラした瞳をしたものだから、礼人はそれが可愛く思えたようだった。礼人は桜子を可愛いと思ったとき、そっと髪に触れようとして、手を引くから確かだ。撫でようとして、自制しているらしい。
その後二人で入った店内は、西欧から移築された洋館で、小さいながらも洗練された家具が並び、珈琲豆の良い匂いと、焼き菓子や揚げ菓子が飾られていた。
「珈琲は――」
手慣れた様子で、礼人が種類を選んでいる。
「それと、ココア。桜子さん、何か食べる?」
「え、あ……」
桜子は飾られていた餡ドーナツをまじまじと見ていたので、そちらと礼人を交互に見た。礼人は複雑そうな顔をしている。
「ココアも甘いよ? あちらは洋風の甘さではあるけど。和の餡子と勝負させてみる?」
「は、はい!」
「お。いいね、その威勢。いつもそのくらい素直でも良いのに」
こうして二人の席には、珈琲とココア、餡ドーナツが一つ運ばれてきた。
ブラックで飲み始めた礼人の前で、静かに桜子はカップを傾ける。人生で初めて飲むココアは、頬が蕩けおちそうなほどに美味だった。手を伸ばした餡ドーナツの方が、食べたことがある分安心して、少し緊張を取ってくれるので、それもあって、逆にココアも味わえた。
二人で穏やかな時間を過ごしてから、馬車に乗り込み帰路につく。
また来て下さいねと、店主さんが餡ドーナツをおまけに四つ持たせてくれた。
「礼人様!」
帰宅すると、すぐに執事の遠藤が駆け寄ってきた。なんだろうかと桜子が顔を向ける前で、封筒を受け取った礼人の顔が険しく変わる。手紙を目で追いかけた礼人は、それから桜子を見た。
「桜子さん。これからまたあやかしの関係で、急に出なければならなくなったんだ。なるべく早く戻れるようにする。無事を、祈っていてくれたら嬉しい」
「はい。お気をつけて」
そのままその足で、礼人は馬車に乗る。軍服に着替える間も惜しかったらしい。
中へと入ろうとしたとき、空から小雨が降ってきたので、桜子は不安になった。
けれどきっと、無事に帰ってきてくれると信じることにする。
これまでに、礼人が桜子に嘘をついたことは一度もない。
「桜子様、冷えます」
詩乃に促されて、桜子も邸宅の中に入った。
――それから、三日。本当に、討伐が長引いているそうで、軍から難航しているという報せが幾度か届いた。女学院はこの週、改修工事で休みだったため、四峰邸でゆったりと過ごした桜子は、礼人がいないというのは、こういう感じなのかと不思議に思っていた。無性に寂しいということが、分かったからだ。己の中で、礼人が大切になりつつあるのを知った。そばにいたい。顔を見たい。いないのは、いなくなってしまうのは、怖い。けれどそれは依存的な恐怖ではない。礼人を見ると、胸の中で蕾が弾けるようにドキドキしたり、また陽だまりの中にいるように優しい気持ちになったりするからで、そういった感情の名前がなんなのか、ここのところ桜子はずっと考えている。
「ああ……明日は、天羽の実家に行く日……」
その事を思い出し、膝の上に手を置いて、ギュッと着物を両手で握る。
もう、猫のカイは助けたけれど。
行かなければ、父と兄が、なにをしてくるか分からない。それが怖い。自分が呪われていると礼人様が知ったなら、と、桜子は考える。今甘受している幸せも泡沫のように消えてしまうのだろうか。その時こそ、カイと二人で、遠くで暮らすことができるのだろうか。できたとしても、礼人がいない生活は、きっと辛い。それに父と兄は己を見逃してくれるだろうか。尽きない不安で、今度は胸が押しつぶされそうになった。
「開いているでしょうか?」
道中で桜子が尋ねると、礼人がゆっくりと頷いた。
「特別に開けてもらって、貸し切りにしてあるからね。ちなみに俺は珈琲を飲むけど」
「珈琲……」
「甘いのも嫌いというわけじゃないんだけどね。疲れたとき以外はいらないかな。俺にとって今日の一日は、疲れることじゃなく、どちらかと言えば良い気分転換だから。最初にも話したと思うけど。なに?」
じっと桜子が礼人を見ていると、礼人が若干気恥ずかしそうに顔を向けた。外面は無表情に近いのだが、桜子には気恥ずかしそうだと見て取れた。
「大人なのですね。苦いんでしょう?」
「へ?」
「珈琲は、大人の飲み物で、とっても苦いのだとか」
桜子がいつになくキラキラした瞳をしたものだから、礼人はそれが可愛く思えたようだった。礼人は桜子を可愛いと思ったとき、そっと髪に触れようとして、手を引くから確かだ。撫でようとして、自制しているらしい。
その後二人で入った店内は、西欧から移築された洋館で、小さいながらも洗練された家具が並び、珈琲豆の良い匂いと、焼き菓子や揚げ菓子が飾られていた。
「珈琲は――」
手慣れた様子で、礼人が種類を選んでいる。
「それと、ココア。桜子さん、何か食べる?」
「え、あ……」
桜子は飾られていた餡ドーナツをまじまじと見ていたので、そちらと礼人を交互に見た。礼人は複雑そうな顔をしている。
「ココアも甘いよ? あちらは洋風の甘さではあるけど。和の餡子と勝負させてみる?」
「は、はい!」
「お。いいね、その威勢。いつもそのくらい素直でも良いのに」
こうして二人の席には、珈琲とココア、餡ドーナツが一つ運ばれてきた。
ブラックで飲み始めた礼人の前で、静かに桜子はカップを傾ける。人生で初めて飲むココアは、頬が蕩けおちそうなほどに美味だった。手を伸ばした餡ドーナツの方が、食べたことがある分安心して、少し緊張を取ってくれるので、それもあって、逆にココアも味わえた。
二人で穏やかな時間を過ごしてから、馬車に乗り込み帰路につく。
また来て下さいねと、店主さんが餡ドーナツをおまけに四つ持たせてくれた。
「礼人様!」
帰宅すると、すぐに執事の遠藤が駆け寄ってきた。なんだろうかと桜子が顔を向ける前で、封筒を受け取った礼人の顔が険しく変わる。手紙を目で追いかけた礼人は、それから桜子を見た。
「桜子さん。これからまたあやかしの関係で、急に出なければならなくなったんだ。なるべく早く戻れるようにする。無事を、祈っていてくれたら嬉しい」
「はい。お気をつけて」
そのままその足で、礼人は馬車に乗る。軍服に着替える間も惜しかったらしい。
中へと入ろうとしたとき、空から小雨が降ってきたので、桜子は不安になった。
けれどきっと、無事に帰ってきてくれると信じることにする。
これまでに、礼人が桜子に嘘をついたことは一度もない。
「桜子様、冷えます」
詩乃に促されて、桜子も邸宅の中に入った。
――それから、三日。本当に、討伐が長引いているそうで、軍から難航しているという報せが幾度か届いた。女学院はこの週、改修工事で休みだったため、四峰邸でゆったりと過ごした桜子は、礼人がいないというのは、こういう感じなのかと不思議に思っていた。無性に寂しいということが、分かったからだ。己の中で、礼人が大切になりつつあるのを知った。そばにいたい。顔を見たい。いないのは、いなくなってしまうのは、怖い。けれどそれは依存的な恐怖ではない。礼人を見ると、胸の中で蕾が弾けるようにドキドキしたり、また陽だまりの中にいるように優しい気持ちになったりするからで、そういった感情の名前がなんなのか、ここのところ桜子はずっと考えている。
「ああ……明日は、天羽の実家に行く日……」
その事を思い出し、膝の上に手を置いて、ギュッと着物を両手で握る。
もう、猫のカイは助けたけれど。
行かなければ、父と兄が、なにをしてくるか分からない。それが怖い。自分が呪われていると礼人様が知ったなら、と、桜子は考える。今甘受している幸せも泡沫のように消えてしまうのだろうか。その時こそ、カイと二人で、遠くで暮らすことができるのだろうか。できたとしても、礼人がいない生活は、きっと辛い。それに父と兄は己を見逃してくれるだろうか。尽きない不安で、今度は胸が押しつぶされそうになった。
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