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第一部
第14話
しおりを挟む休日の初日だったせいか、駐車場にはたくさんの車が止まっていた。その中でも瀬尾君の車は注目を浴びているし、何より車から降りた瀬尾君は誰よりも目立っていた。スタイル抜群の瀬尾君の隣に並ぶのは気が引けるが、彼とこんな風に出かけることなんてもうないだろうし、人目など気にせずに今日一日を楽しもうと決めた。
駐車場から牧場へは少し長い坂道を上っていく。道は子供連れやカップルなど、楽しそうな笑顔を浮かべる人々でいっぱいだった。かくいう自分も無意識のうちに笑顔になっていたようで、瀬尾君から「顔がにやけてますよ」と指摘されてしまった。
「え?いや、そんなことないよ!」
「正直に言ったらいんじゃないですか?牧場が好きだって。」
「いや、好きじゃない!別に普通だよ、こんな所!」
「あ、馬。」
「え、どこ!?」
瀬尾君が無表情のままで坂道の向こう側を指差した。慌ててその場所に目をこらすが、草むらが広がっているだけで何もいない。瀬尾君の顔と草むらを代わる代わる見てしまった。
「嘘ですよ。」
瀬尾君はプッと吹き出して、声を出して笑い始めた。無邪気に笑う彼を見るのは初めてで間抜けにも口をぽかんと開けたまま凝視してしまった。まるで子供のように屈託のない笑顔に胸がいっぱいになる。
本当に彼に会ってから振り回されてばっかりだ。自分を絶望のどん底に突き落としたかと思えば、こんなにも幸せな気持ちにさせてくれる。心が安定しない状態が続いていると思うし、加えて身体の調子もなんだかおかしい。いくら瀬尾君がαだとは言っても、βの自分をΩのように発情させることはできないはずだ。それに自分自身もまるでΩのように彼に骨抜きにされることがある。
「山口さん、何止まってるんですか。行きますよ。」
「あっ。」
瀬尾君が自分の手を取って歩き出す。彼の体温を手のひらで感じて、一瞬びくりと身体が反応した。瀬尾君はそれに気付かなかったようで自分の手を引いてくれる。そして普通につないでいたはずの彼の手が恋人つなぎへと変わった。
「ちょ、瀬尾君!?っう!」
「何ですか?」
「ふっ・・・!」
瀬尾君の指が自分の指の股をいやらしく撫でてきた。たいした事じゃないはずのなのに、大げさなくらい身体が反応する。すりすりとなだめるように触られて口から小さな悲鳴が漏れてしまった。そんな自分を無言で見下ろす瀬尾君がぴったりと身体を寄せてきて、耳元で囁く。
「そんないやらしい声出してどうしたんですか?こんなに明るい所で発情でもするつもりですか?」
「なっ!」
まるで自分が勝手にいやらしい気分になっているような言い方にカッと頭に血が上る。抗議の意味を込めて彼をにらみつけると、彼は心底面白そうにクスクスと笑っていた。そして握っていた手をほどき、自分の手首の裏を指でツーっと撫でる。
「ひぃ!」
「あぁ、こんなのでも感じちゃうんですか?もしかして山口さん、誰かに開発でもされてるんですか?」
「そんな・・・訳・・・!」
ないだろうと続けたいが、これ以上口を開けば甲高い悲鳴を上げてしまう。口をぎゅっと閉じて首だけを横に振った。
「・・・冗談ですよ。さぁ、遊ぶのもこれぐらいにして牧場を楽しみましょう。ほら、今度は本当に馬がいますよ。」
もう騙されないと思い、瀬尾君が指差した方向は見ずにうつむいた。瀬尾君が山口さんと呼んでくるが返事をせずにうつむいたまま一人で歩き出す。10歳も年上の大人をからかうからこうなるのだ。少しくらい厳しくしないとと思い、後ろから追ってくる瀬尾君を無視して歩き続ける。
「ねえ、幸尚さん。悪かったよ、機嫌なおして。」
「っ!!」
突然、瀬尾君が前に回ってきて自分の身体を抱き留める。自分を腕の中に抱え込むようにして耳元で低く囁いた。突然の名前呼びに驚いて固まってしまう。一瞬、何のことか分からず考えてしまい、すぐに瀬尾君が自分の下の名前を呼んでいることに気付いた。しかも、公衆の面前で自分を抱きしめている。
「ちょ、待って瀬尾君!ここ、牧場!牧場だから!」
「幸尚さんが俺のこと無視するのが悪いんですよ。ちゃんと返事してくれるまではこのままですから。」
「わ、分かった!ちゃんと返事するから!ほら、離して!」
「あと俺の名前呼んでくれるまでは離しません。」
「追加されてる!?」
瀬尾君の名前はもちろん知っているし、夢の中では何回も呼んでいる。しかし本人を前にして呼ぶことになるなど想像もしていなかった。そんなことを懇願されて、生娘のように顔を赤くしてしまう。
「ほら、見られてますよ?恥ずかしいんじゃないんですか?」
「せ、瀬尾君だって!」
抱きしめられたまま周りを見渡すと、何人かがちらほらとこちらを見てほほえましそうにクスクス笑っている。その中には、瀬尾君に見とれている人も多い。いくら道路脇とはいえども、人目につくことには変わりない。周りにバカップルとして見られているだろうことを想像すると、35歳のおっさんがなにをやっているんだと顔から火が出そうだ。
「俺は別に恥ずかしくないですから。」
そう言って笑うと、瀬尾君はさらに強く抱きしめてくる。しかし、いきなり名前を呼ぶなんてハードルが高すぎる。そんなものは、付き合い始めて3回目ぐらいのデートで呼び合うものなのではないのか。頭が混乱してしまい、考え込んでうなってみるものの、瀬尾君が離してくれる気配はない。ずっと抱きしめられている自分たちに注目する人たちはどんどん増えてきている。
「っ、呼ぶから!今日中に呼ぶから!それで勘弁してください!」
なんとかそれだけ絞り出して瀬尾君にすがりつく。とにかくこの状況を脱するのが最善だろう。このお願いがだめだったらもうどうしようもないとおびえていると「まぁ、それで許しますよ」と瀬尾君が小さくため息をついた。自分の背中に回っていたたくましい腕がやっと離れていく。
「それじゃあ絶対今日中に俺の名前、呼んでくださいね。」
今まで以上にご機嫌になった瀬尾君はにっこりと笑って先を歩き始める。どうして自分は瀬尾君の名前を呼ばないといけないのか。別に言うことを聞く必要などないのではないか。それに自分の方が年上なのだから、ここはガツンと言ってやらないと・・・。
「約束、破ったらグチャグチャにしますからね。」
「はひぃ・・・。」
グチャグチャの意味は分からないが、ひどいことをされるのは間違いないだろう。わき上がってきた年上としての矜持はあっという間にしぼんでしまったのだった。
「うわぁ、大きい!さすが牛!」
名前呼びのことは置いておいて、せっかく牧場に来たのなら、楽しまないと損だと思うことにした。やっと牧場内に入り、まずたくさんのホルスタインが草を食む放牧場へ向かった。今年生まれたという可愛らしい子牛もいて、放牧場を囲っている柵の間から顔を出してこちらを見ている。餌を買って食べさせることができるようで、早速購入して子牛にあげてみた。もぐもぐと一生懸命に食べる姿が可愛らしい。周りの子牛もどんどん集まってきて。我先にと自分が持っている餌を奪っていく。たまに分厚い舌で手ごと舐められて、くすぐったくてケラケラと笑ってしまった。こちらを見て舌を出している子牛たちをスマートフォンで何枚も撮影した。渾身の一枚が撮れたので、後ろにいる瀬尾君に自慢する。
「ほら、これ可愛いよね?自信作!」
「あぁ、確かに可愛い。」
瀬尾君が自分の背中に身体を密着させて肩越しにスマートフォンの画面をのぞき込んでくる。その彼氏のような距離感に相変わらずドギマギしてしまう。瀬尾君は、少しクールな感じなのに距離感が近いところがある。それも人をたらし込む魅力の一つなのだろう。
「そんなに牛が好きなら一緒に撮ってあげましょうか?」
「え?いいの?」
いつも牧場には一人で行くので、自分の写真を撮ることはなかなかない。これ幸いにと、子牛の前に並んでピースした。
「瀬尾君、早く!あ、ちょ、髪食べないで、やめて!!」
あまりにも顔を近づけたせいで、1頭の子牛が自分の髪をもぐもぐとかみ始めた。慌てて逃げようとする時に足下ある石につまずいてしまい、盛大に前に転んでしまった。
「つらい・・・。」
「いい写真が撮れましたよ。」
立ち上がった自分に瀬尾君が差し出してきたのは、前に転びそうになる直前の自分だった。後ろにいる子牛たちは舌を出しながら自分を見ているので、まるで子牛たちに馬鹿にされているような写真になっている。
「保存しときますね。」
「ちょっと!だめに決まってるだろ!消せ!」
「分かりました、消しますよ。ちゃんとした写真を幸尚さんに送りたいので連絡先教えてください。」
瀬尾君がスマートフォンを差し出してくる。自分のものを取り出そうとして、ここで連絡先を交換していいものかと迷った。彼と会うのは今日が最後と決心したのに、連絡先など交換しては決心が鈍ってしまう。
「今日の最後でいいでしょ。とりあえず全部回ってからにしよう。」
こうして先延ばしにすれば、最後まで連絡先を交換しないですむだろう。瀬尾君は自分の提案にあまり納得してないような表情を見せたが、最終的には「分かりました」と頷いてくれてた。
「自分の名前を呼ぶのと連絡先の交換、忘れないでくださいね。もし約束破ったら、グチャグチャにして立てないようにしますから。」
「え?なんか追加されてない?」
物騒な言葉が増えたような気がして、瀬尾君に問いかけてみるも「次は馬に乗りに行きましょう」と言って返事はしてくれなかった。
結局、午前中から午後3時頃まで牧場で楽しんだ。馬に乗ったり、乳搾りをしたり、山羊を可愛がったり。ほかにもモルモットや犬、猫など動物をたくさん飼っていて、触り放題だったのでテンションが上がってしまった。もう日も陰ってきたところだし、そろそろ帰ることになった。最後に向かったのは、お土産売り場。牧場で作った牛乳のほか、バターやチーズなどの乳製品、肉やハム、ソーセージなど美味しそうな商品が所狭しと並んでいた。
「買いすぎた・・・。」
案の定両手いっぱいに買い込んでしまった自分にため息をついてしまう。いくら瀬尾君に車で送ってもらうとしても買いすぎだ。自分で料理もしないのに山のように買ってしまい、またお裾分けをしないといけない。実家や友達などもらってくれる人を考えていると、ソーセージとチーズのみを買った瀬尾君が荷物をさっと持ってくれた。
「あ、ちょ大丈夫だよ。自分で持てるから。」
「ソーセージならボイルしてマスタードを付けて食べましょうか。ハムは厚く切ってステーキにしてもいいし、薄切りでイチジクと生ハムのサラダにしてもいいですね。チーズとの相性もいいので、きっと美味しいですよ。こんなにたくさんチーズを買ったなら、お菓子も作れると思いますよ。レアチーズケーキもベイクドも作れます。」
「・・・。」
「お腹減ってきたんじゃないですか?どうします?このまま自宅までお送りしますか?」
瀬尾君がかがんで顔をのぞき込んでくる。
「うちで食べません?明日も日曜日です。まだ帰らなくてもいいんじゃないですか?」
「でも・・・。」
「食べたくないですか?」
そんなの食べたいに決まってる。もうご飯のことしか考えられない。
「・・・それにまだ名前を呼んでもらってない。」
「んっ!」
耳に息を吹きかけられる。
「来るでしょ?」
夕日で逆光になった瀬尾君の顔が見えない。断らないとと思うのに、なぜかコクリと頷いてしまったのだった。
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