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かなしみの匂い
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不敬覚悟でなんとかユリウスを部屋から追い出すことができたシモンは、大仕事をやり終えた気分でふぅと息を吐いた。
この国のアルファが愛情深いことはよく知っているが、ユリウスの独占欲はひと一倍だなと思う。さすが王族、とでも言うべきか。おのれのオメガに対する執着は、ユリウスに比べればまだ国王マリウスの方がマシ……というわけではないが、まだ理性が働いている……というわけでもないが、それでもシモンの個人的な印象からするとマリウスの方がほんの僅かに話が通じる気がする。
しかし、これまでの道程を鑑みると、ユリウスの過保護は仕方ないのかもしれない。
シモンは不安げに瞳を揺らす小柄なオメガを見下ろし、片眼鏡の位置を整えた。
リヒト、という名をユリウスから直々に与えられたオメガは、師のベルンハルト曰く「生死の狭間を彷徨っていて気を休める暇が一寸もないほどだった」という有様だったらしい。
シモン自身がリヒトと実際に顔を合わせたのは、ベルンハルトが逝去した後のことだったが、これが噂のユリウス殿下の掌中の珠か、と深い感慨を味わった。
極度の栄養不足で抵抗力が落ちており、皮膚病や眼病を患っていたという子ども。その子が二十を超えてここまで健やかに成長できたのは、ベルンハルトが施した治療以上に、ユリウスの献身が大きい。
ベルンハルトから折に触れてリヒトの様子を聞いていたシモンにしても、もはやリヒトはおのれの孫のような存在である。もっともシモンはベルンハルト同様、医術に一生を捧げており妻帯はしていないのだが。
「リヒト様、こちらへどうぞ」
主不在の部屋でどうすればいいのか、と途方に暮れたように立ち尽くすリヒトへと椅子を勧め、シモンも彼と膝を突き合わせるようにして座った。
リヒトは膝の上に置いた手を握りしめ、金色の瞳を頼りなく瞬かせた。
「あの……どうして……」
迷う口調で言葉を切ったリヒトへと、シモンはやわらかく笑いかける。
「ユリウス殿下に申し上げた通りです。あなたはもうご自分で、ご自分のことが理解できる。治療の甲斐がありましたなぁ」
五感に乏しかったころのリヒトを思えば、奇跡的な回復だ。
目が見え、耳が聞こえ、皮膚感覚も戻っている。
丸二年偽薬を飲み続けたリヒトの辛抱強さと、芯の強さもさることながら、やはりユリウスの力が大きいとシモンは思った。
治療の効果を得られないと泣くリヒトを慰め、つねにリヒトのために気を配り、逃げ道を用意しながらも必ず治ると言い聞かせてきたユリウスの存在がなければ、恐らくこの子はここまで回復しなかっただろう。
愛は時に、医術を凌駕する。
そんな陳腐な感想がシモンの胸に浮かび、我知らず苦笑した。ベルンハルトが生きていればなんと言っただろうか。医術をたしなむ者がそんな夢想家のようなことを言うなと叱られるだろうか。
いや、ベルンハルトならきっと、シモンと同じ感想を抱くはずだ。
ユリウス殿下の愛は、死の淵からおのれのオメガを取り戻し、さらには宗教という名の神からも取り戻したのだ、と。
「さてそれで、この老いぼれに相談とはなんですかなぁ」
シモンは敢えてゆっくりとした話し方で可憐なオメガへと問いかけた。
この部屋を訪れたときから、彼がシモンになにかを話したがっているのは伝わってきていた。そして、それをユリウスや侍従には聞かれたくなさそうな素振りを見せていたことも。
「殿下には秘密のお話でもありますかな?」
冗談めかした口調で尋ねると、案の定リヒトが目を真ん丸に見開いた。まるで満月のような瞳だ。
「なんで……わかるんでしょうか。あの、僕が、ユーリ様に……」
もごり、と口ごもったリヒトの手を取り、シモンはいつものように脈拍を図りながらのんびりと笑った。
「ほっほ。素直なところはあなた様の美徳ですなぁ。私で良ければなんでもお話しください。大丈夫。殿下にも申した通り、診察というのは極めて個人的なもので、これまでが例外だっただけです。医師には守秘義務というものもございます。たとえユリウス殿下であっても、医師の口を割らせることはできません」
シモンの言葉を聞いたリヒトが、「しゅひぎむ」と呟いた。秘密はまもるということですよと説明をすると、リヒトの頬からようやく緊張が解ける。
シモンは立ち上がり、往診カバンから体温計と聴診器を取り出した。リヒトが受け取った体温計を腋下に挟み、体温測定の間にシモンは胸の音を聞く。
互いに慣れた動作だ。ユリウスの世話を受けるのが当然だったリヒトは、医師に体を預けることにもまったく抵抗を見せない。
宝石のような見目のオメガが、これほど無防備な様子を見せるのだから、ユリウスの心配を行き過ぎと笑い飛ばすのも気の毒だ。
シモンがアルファであったなら、ユリウスは断固としてリヒトと二人になることをゆるさなかっただろう。
医師はサーリーク王国で恐らく唯一、そのバース性をベータに限る、と法律で規定されている職種だ。
なぜなら、こんなふうに患者と密室で二人きりになる場面が多く、アルファならオメガの、オメガならアルファの香りに精神が乱されて、誤診してしまう危険性が無視できないからだった。
発情期のオメガの誘惑香は、ときにベータにまで影響を及ぼすことはあるが、それでも理性をなくすアルファほどではない。
だが、匂いがわからないというだけで、可愛いものを可愛いと判じる感覚はアルファもオメガもベータも変わりがない。
自分を信じ切った様子で身を任せているリヒトは、シモンの目から見ても大層可愛く、庇護欲を掻きたてられた。
この子のためならなんでも力になってやりたい。そう思いながらシモンは、検温を終えたリヒトから体温計を受け取り、診療の記録をサラサラと書きつけつつ、リヒトが話すのを待った。
リヒトは口を開こうとしてはやめ……を何度か繰り返し、ついに、
「あの……」
と声を発した。
事前にユリウスからは、味覚と嗅覚が戻らないことについてリヒトから相談があるかもしれない、ということを聞いている。
だからシモンはどう答えるべきかを、リヒトの表情を注意深く見ながら考えていたのだが……。
リヒトが口にしたのは、まったくべつのことだった。
「えっと、あの……発情期が来るようになるお薬は、ありますか?」
この国のアルファが愛情深いことはよく知っているが、ユリウスの独占欲はひと一倍だなと思う。さすが王族、とでも言うべきか。おのれのオメガに対する執着は、ユリウスに比べればまだ国王マリウスの方がマシ……というわけではないが、まだ理性が働いている……というわけでもないが、それでもシモンの個人的な印象からするとマリウスの方がほんの僅かに話が通じる気がする。
しかし、これまでの道程を鑑みると、ユリウスの過保護は仕方ないのかもしれない。
シモンは不安げに瞳を揺らす小柄なオメガを見下ろし、片眼鏡の位置を整えた。
リヒト、という名をユリウスから直々に与えられたオメガは、師のベルンハルト曰く「生死の狭間を彷徨っていて気を休める暇が一寸もないほどだった」という有様だったらしい。
シモン自身がリヒトと実際に顔を合わせたのは、ベルンハルトが逝去した後のことだったが、これが噂のユリウス殿下の掌中の珠か、と深い感慨を味わった。
極度の栄養不足で抵抗力が落ちており、皮膚病や眼病を患っていたという子ども。その子が二十を超えてここまで健やかに成長できたのは、ベルンハルトが施した治療以上に、ユリウスの献身が大きい。
ベルンハルトから折に触れてリヒトの様子を聞いていたシモンにしても、もはやリヒトはおのれの孫のような存在である。もっともシモンはベルンハルト同様、医術に一生を捧げており妻帯はしていないのだが。
「リヒト様、こちらへどうぞ」
主不在の部屋でどうすればいいのか、と途方に暮れたように立ち尽くすリヒトへと椅子を勧め、シモンも彼と膝を突き合わせるようにして座った。
リヒトは膝の上に置いた手を握りしめ、金色の瞳を頼りなく瞬かせた。
「あの……どうして……」
迷う口調で言葉を切ったリヒトへと、シモンはやわらかく笑いかける。
「ユリウス殿下に申し上げた通りです。あなたはもうご自分で、ご自分のことが理解できる。治療の甲斐がありましたなぁ」
五感に乏しかったころのリヒトを思えば、奇跡的な回復だ。
目が見え、耳が聞こえ、皮膚感覚も戻っている。
丸二年偽薬を飲み続けたリヒトの辛抱強さと、芯の強さもさることながら、やはりユリウスの力が大きいとシモンは思った。
治療の効果を得られないと泣くリヒトを慰め、つねにリヒトのために気を配り、逃げ道を用意しながらも必ず治ると言い聞かせてきたユリウスの存在がなければ、恐らくこの子はここまで回復しなかっただろう。
愛は時に、医術を凌駕する。
そんな陳腐な感想がシモンの胸に浮かび、我知らず苦笑した。ベルンハルトが生きていればなんと言っただろうか。医術をたしなむ者がそんな夢想家のようなことを言うなと叱られるだろうか。
いや、ベルンハルトならきっと、シモンと同じ感想を抱くはずだ。
ユリウス殿下の愛は、死の淵からおのれのオメガを取り戻し、さらには宗教という名の神からも取り戻したのだ、と。
「さてそれで、この老いぼれに相談とはなんですかなぁ」
シモンは敢えてゆっくりとした話し方で可憐なオメガへと問いかけた。
この部屋を訪れたときから、彼がシモンになにかを話したがっているのは伝わってきていた。そして、それをユリウスや侍従には聞かれたくなさそうな素振りを見せていたことも。
「殿下には秘密のお話でもありますかな?」
冗談めかした口調で尋ねると、案の定リヒトが目を真ん丸に見開いた。まるで満月のような瞳だ。
「なんで……わかるんでしょうか。あの、僕が、ユーリ様に……」
もごり、と口ごもったリヒトの手を取り、シモンはいつものように脈拍を図りながらのんびりと笑った。
「ほっほ。素直なところはあなた様の美徳ですなぁ。私で良ければなんでもお話しください。大丈夫。殿下にも申した通り、診察というのは極めて個人的なもので、これまでが例外だっただけです。医師には守秘義務というものもございます。たとえユリウス殿下であっても、医師の口を割らせることはできません」
シモンの言葉を聞いたリヒトが、「しゅひぎむ」と呟いた。秘密はまもるということですよと説明をすると、リヒトの頬からようやく緊張が解ける。
シモンは立ち上がり、往診カバンから体温計と聴診器を取り出した。リヒトが受け取った体温計を腋下に挟み、体温測定の間にシモンは胸の音を聞く。
互いに慣れた動作だ。ユリウスの世話を受けるのが当然だったリヒトは、医師に体を預けることにもまったく抵抗を見せない。
宝石のような見目のオメガが、これほど無防備な様子を見せるのだから、ユリウスの心配を行き過ぎと笑い飛ばすのも気の毒だ。
シモンがアルファであったなら、ユリウスは断固としてリヒトと二人になることをゆるさなかっただろう。
医師はサーリーク王国で恐らく唯一、そのバース性をベータに限る、と法律で規定されている職種だ。
なぜなら、こんなふうに患者と密室で二人きりになる場面が多く、アルファならオメガの、オメガならアルファの香りに精神が乱されて、誤診してしまう危険性が無視できないからだった。
発情期のオメガの誘惑香は、ときにベータにまで影響を及ぼすことはあるが、それでも理性をなくすアルファほどではない。
だが、匂いがわからないというだけで、可愛いものを可愛いと判じる感覚はアルファもオメガもベータも変わりがない。
自分を信じ切った様子で身を任せているリヒトは、シモンの目から見ても大層可愛く、庇護欲を掻きたてられた。
この子のためならなんでも力になってやりたい。そう思いながらシモンは、検温を終えたリヒトから体温計を受け取り、診療の記録をサラサラと書きつけつつ、リヒトが話すのを待った。
リヒトは口を開こうとしてはやめ……を何度か繰り返し、ついに、
「あの……」
と声を発した。
事前にユリウスからは、味覚と嗅覚が戻らないことについてリヒトから相談があるかもしれない、ということを聞いている。
だからシモンはどう答えるべきかを、リヒトの表情を注意深く見ながら考えていたのだが……。
リヒトが口にしたのは、まったくべつのことだった。
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