王妃はただ、殺されないことを願う

柴田はつみ

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序曲:裏切りの半年間

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空は鉛色に沈み、アルカディア王国の宮廷全体を重く覆っていた。
初冬の雪は王都を静かに包み込み、この厳かな一日を祝福するかのように、白い粒をしんしんと降り落としていく。

石造りの壮麗な大聖堂には、凍てつくような冷気と、数千もの蝋燭が放つ温かな熱が入り混じり、独特の静寂が漂っていた。

その中央に立つのは、純白のドレスを纏ったリリアナ。
緊張と期待が入り混じった鼓動が、胸の奥でかすかに震えている。隣国から嫁いできた彼女は、この婚姻が政治のための取引であることを理解していた。

――それでも。

祭壇の向こうに立つ、深紅の王衣を纏った若き国王アレスを一目見た瞬間、リリアナの中で何かが音もなくほどけた。
憂いを宿した真摯な瞳。その眼差しは、凍える雪さえ溶かすほど優しく、静かな悲しみを隠していた。

彼は、想像していた“隣国の王”ではなかった。
あまりに美しく、そして深く哀しみを抱えていた。

(――ああ。この方だけを愛そう。
たとえ“飾りの王妃”にすぎなくともかまわない。
ただ、この方の隣に立てるのなら……それだけで十分。)

その誓いを込めた瞳と、アレスの視線が交差した瞬間、リリアナは未来に待ち受ける刃の冷たさを、まだ知る由もなかった。

王宮の奥、国王の私室に連なる王妃の居室は、薔薇の刺繍が施された絹の天蓋と、柔らかな毛皮で飾られ、まるで夢の中の一室のようだった。
結婚してからの三ヶ月は、リリアナにとって永遠に続く錯覚すら覚えるほど、甘く満ち足りた日々だった。

アレスは政務の疲れを一切見せず、毎夜のように彼女を訪れた。
宮廷での礼儀作法や複雑な外交史を学ぶリリアナの努力を、彼は静かに、そして深い慈しみを込めて褒めたたえた。

「リリアナ。君は、この国にとって……そして私にとって、光だ」

その囁きに触れるたび、胸の奥が温かくほどけ、涙がこぼれそうになる。
――幸福。
その言葉だけでは足りないほどの、満たされた日々。

けれど、その光景の裏で、時折うっすらと影のような違和感がリリアナの胸を掠めていた。

二人が親密に触れ合う瞬間。
特にアレスの指先がリリアナの胸元や首筋へ触れようとするとき――その手が、ほんの一瞬、制御を失ったようにかすかに震える。

まるで、触れることを拒む“肉体の記憶”がそこにあるかのように。

「陛下……どうかなさいましたか? お疲れでは?」

問いかけると、アレスはすぐに手を引き、完璧に作られた“国王の微笑み”を顔に浮かべた。

「いや、なんでもない。ただ……君があまりにも美しくて、思わず震えてしまっただけだ」

柔らかい声音のごまかし。
けれどリリアナにはわかってしまった。

それは恋い慕う者の震えでは、決してない。
何かを深く恐れ、耐えながら、それでも触れようとする者の――どうしようもない戦慄だった。

王妃となって四ヶ月が過ぎた頃、王宮の空気は深まる秋のようにひどく冷え込んでいた。
その頃から、リリアナの体調に小さな異変が現れ始めた。

庭園の泉のそばで、青みがかった苔を見た直後に激しいめまいに襲われたり、特定のハーブティーを飲んだあとに軽い吐き気を覚えたりしたのだ。
それらは、宰相ヴァイスが密かに仕込んだ毒によるものであり、まるで“王妃に呪いの血が発症した”と思わせるための巧妙な計略だった。

やがてその些細な異変は、宮廷中に「王妃の血が呪われている」という噂として広がっていく。

そして――アレスの態度が急に変わった。

「私は今、政務に専念せねばならない。王妃は……しばらく静かに館で過ごすように」

彼の声音はどこか冷たく、夜に彼女の居室を訪れることもなくなっていった。

まるで、王妃という存在そのものが不要になったかのように。
リリアナはその変化に深く傷つきながらも、アレスへの愛を手放すことができなかった。

(陛下が冷たいのは、きっと……私の体調のせいで心配をかけているから)
そう自分に言い聞かせ、必死に受け止めようとした。

そんなある日、アレスが突然倒れた。

高熱にうなされ、意識も朦朧としている彼を、リリアナは必死に看病した。
その最中、アレスは苦しげに何度もつぶやいた。

「……すまない……殺したくない……」

助けを求めるような弱い声。
しかしリリアナは、それを政務の重圧によるうなされ言葉だと思い込み、
その“本当の意味”には気づかなかった。

雪がしんしんと降り積もり、王宮は冬至の夜会を迎えていた。
半年間の結婚生活――あっけなく終わりを告げる夢の最終章だった。

夜会は華やかな仮面舞踏会のようで、煌びやかな光が大広間を満たしていた。
その夜、アレスは久しぶりにリリアナへ優しく、どこか熱を帯びた視線を向けていた。
リリアナはそのわずかな温もりに希望を見いだし、彼の隣で静かに微笑んだ。

しかし、夜会が終わった瞬間、アレスはリリアナの手を取った。
誰にも見つからないよう、王宮のバルコニーへと彼女を連れ出す。

降りしきる雪の中、アレスは震える腕でリリアナを強く抱きしめた。
その抱擁は愛ではなく、まるで何かを失う前の最後の慰めのようだった。

「……リリアナ。すまない。心から、君を愛していた……」

耳元で囁く声は震え、アレスの瞳には涙が浮かんでいた。
だがその涙は一瞬で消え、氷のような冷たい表情が彼の顔を覆う。

次の瞬間、静寂を破る鋭い金属音が響いた。

リリアナの胸元を深く貫いたのは、アレスが佩いていた剣だった。

「君は……隣国が送り込んだ『呪われた血』を持つ王妃だ。
 私には、他の選択肢はなかった」

その言葉は、刃よりも冷たくリリアナの心を切り裂いた。
温かい血が純白の雪の上に落ち、深紅の花のように広がっていく。

その瞬間、リリアナは悟った。
――彼女の愛は、王妃という役割すら覆せない。
 ただの脆い“お飾り”にすぎなかった、と。

そして、彼女の意識は静かに途切れた。
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