王妃はただ、殺されないことを願う

柴田はつみ

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第4章:国王の動揺

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深夜。国王アレスの私的な執務室には、重く澱むような沈黙が満ちていた。
磨き上げられた黒檀の机の上には山積みの公文書、銀の燭台、そして――リリアナへ送ったものと同じ、白い薔薇が一輪、水差しの中で凍えるように咲いている。

アレスは執務椅子にもたれかかり、肉体の疲労とは異なる、精神を締め付ける重圧に押し潰されそうになっていた。
視線は虚空を彷徨い、その奥には朝のリリアナの瞳が焼き付いて離れない。

(……なぜだ。)

朝食の席でのリリアナは、王妃として申し分なく、禁書庫の使用を願い出たときの瞳は、使命感に燃える臣下そのものだった。
完璧な理性、完璧な礼節、完璧な距離――。

だが、それは彼が愛したリリアナではなかった。

婚礼の夜、頬を染め、少し震えながら彼を見つめた少女。
純粋で、彼の名を呼ぶたびに心を寄せてくれた妻。
その姿は跡形もなく消え失せ、今の彼女はアレスを「夫」ではなく、**王冠を戴く“陛下”**として扱っている。

その冷たい敬意こそが、アレスの心を深く抉っていた。

アレスは立ち上がり、窓辺へ歩いた。外の世界は、月光さえ届かぬ濃い闇に沈んでいる。

彼は、リリアナに対して自らが負う二つの義務を呪った。

一つは、夫として、王妃を愛し、護る責務。
一つは、王として、「呪いの血」が発症した場合、国のために王妃を処断する義務。

一度目の人生で、リリアナの無垢な愛に触れたアレスは、後者の義務を捨てようとさえした。
だが、執行の瞬間、彼は愛の裏切り者として自らを憎悪し、狂気に近い衝動に駆られた。

二度目の人生。
今のリリアナが、あえて彼との間に壁を築いているかのような冷淡さを見せる理由がわからない。

(……彼女は、以前の私の迷いを知っているのか?
義務に揺れた私を見透かし、距離を置いたのか?
それとも――)

心の奥底から、最悪の予感が噛みついた。

リリアナの冷たさは、「呪いの血」を持つ者が感情を偽り、王家を内側から崩すための演技――
禁書庫で求めた知識は、国の弱点を把握するための敵国の策略――
そう疑うことは、愛ゆえに彼の心を裂く行為だったが、同時に王としての本能がせずにはいられなかった。


不意に扉が叩かれ、宰相ヴァイスが入室した。
老練な宰相は、アレスの表情を一目で読み取り、静かに口を開く。

「陛下。王妃様が禁書庫に籠られているとのこと、まことにご熱心でございます。王家の歴史を深く理解しようとなさるその姿勢――実に慶賀に堪えませぬ。」

言葉そのものは称賛だった。
しかし、声の端に潜む冷ややかな響きが、アレスの胸にざらりと波紋を広げる。

「ヴァイス……彼女の行動は、あまりに唐突ではないか。」

宰相は一拍置き、静かに頷いた。

「いかにも。若き王妃が、婚礼直後に王家の古文書へ深い関心を示される。隣国との緊張が高まる今、少々……警戒が必要かと。」

直接的な非難は一切ない。
だが、リリアナの**「非凡な知性と冷静さ」**こそが古の予言にある“王家の血を断つ異国の知恵”と重なる――そう暗に示す巧妙な言い回しだった。

「王妃様は、完璧すぎるのです。」
ヴァイスは穏やかに続ける。
「愛情ではなく義務のもとに陛下へ仕え、王家の歴史を学び、その立場を盤石にしようとなさる……これは、ただの愛らしい少女の振る舞いではございますまい。」

その言葉は、アレスの心の最も脆い部分―自分は愛する者に裏切られるという恐怖を容赦なく刺激した。

アレスは机を拳で叩いた。

「……下がれ、ヴァイス。彼女は王妃だ。」

「承知いたしました、陛下。どうかご心労なきよう。冬至の夜会までは、まだ日がございますゆえ。」

“冬至の夜会”――。
それは、呪いが発症した際の儀式の夜。
リリアナの処断が義務として確定する可能性をはらんだ、あまりにも残酷な言葉だった。

ヴァイスが去ったあと、アレスは再び窓外の闇を見つめた。

(……私は、君の夫でありたい。
だが、もし君がこの国を脅かすというのなら――
私は、二度と誤ちは犯さない。)

愛と義務。
その二つの刃の間で、アレスの心はきしみ、軋み、そして疑念へと沈み始めた。

リリアナの冷たい仮面は、アレスの愛を、監視と不信の檻へと閉じ込めてしまったのだ。
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