王妃はただ、殺されないことを願う

柴田はつみ

文字の大きさ
5 / 19

第4章:国王の動揺

しおりを挟む
深夜。国王アレスの私的な執務室には、重く澱むような沈黙が満ちていた。
磨き上げられた黒檀の机の上には山積みの公文書、銀の燭台、そして――リリアナへ送ったものと同じ、白い薔薇が一輪、水差しの中で凍えるように咲いている。

アレスは執務椅子にもたれかかり、肉体の疲労とは異なる、精神を締め付ける重圧に押し潰されそうになっていた。
視線は虚空を彷徨い、その奥には朝のリリアナの瞳が焼き付いて離れない。

(……なぜだ。)

朝食の席でのリリアナは、王妃として申し分なく、禁書庫の使用を願い出たときの瞳は、使命感に燃える臣下そのものだった。
完璧な理性、完璧な礼節、完璧な距離――。

だが、それは彼が愛したリリアナではなかった。

婚礼の夜、頬を染め、少し震えながら彼を見つめた少女。
純粋で、彼の名を呼ぶたびに心を寄せてくれた妻。
その姿は跡形もなく消え失せ、今の彼女はアレスを「夫」ではなく、**王冠を戴く“陛下”**として扱っている。

その冷たい敬意こそが、アレスの心を深く抉っていた。

アレスは立ち上がり、窓辺へ歩いた。外の世界は、月光さえ届かぬ濃い闇に沈んでいる。

彼は、リリアナに対して自らが負う二つの義務を呪った。

一つは、夫として、王妃を愛し、護る責務。
一つは、王として、「呪いの血」が発症した場合、国のために王妃を処断する義務。

一度目の人生で、リリアナの無垢な愛に触れたアレスは、後者の義務を捨てようとさえした。
だが、執行の瞬間、彼は愛の裏切り者として自らを憎悪し、狂気に近い衝動に駆られた。

二度目の人生。
今のリリアナが、あえて彼との間に壁を築いているかのような冷淡さを見せる理由がわからない。

(……彼女は、以前の私の迷いを知っているのか?
義務に揺れた私を見透かし、距離を置いたのか?
それとも――)

心の奥底から、最悪の予感が噛みついた。

リリアナの冷たさは、「呪いの血」を持つ者が感情を偽り、王家を内側から崩すための演技――
禁書庫で求めた知識は、国の弱点を把握するための敵国の策略――
そう疑うことは、愛ゆえに彼の心を裂く行為だったが、同時に王としての本能がせずにはいられなかった。


不意に扉が叩かれ、宰相ヴァイスが入室した。
老練な宰相は、アレスの表情を一目で読み取り、静かに口を開く。

「陛下。王妃様が禁書庫に籠られているとのこと、まことにご熱心でございます。王家の歴史を深く理解しようとなさるその姿勢――実に慶賀に堪えませぬ。」

言葉そのものは称賛だった。
しかし、声の端に潜む冷ややかな響きが、アレスの胸にざらりと波紋を広げる。

「ヴァイス……彼女の行動は、あまりに唐突ではないか。」

宰相は一拍置き、静かに頷いた。

「いかにも。若き王妃が、婚礼直後に王家の古文書へ深い関心を示される。隣国との緊張が高まる今、少々……警戒が必要かと。」

直接的な非難は一切ない。
だが、リリアナの**「非凡な知性と冷静さ」**こそが古の予言にある“王家の血を断つ異国の知恵”と重なる――そう暗に示す巧妙な言い回しだった。

「王妃様は、完璧すぎるのです。」
ヴァイスは穏やかに続ける。
「愛情ではなく義務のもとに陛下へ仕え、王家の歴史を学び、その立場を盤石にしようとなさる……これは、ただの愛らしい少女の振る舞いではございますまい。」

その言葉は、アレスの心の最も脆い部分―自分は愛する者に裏切られるという恐怖を容赦なく刺激した。

アレスは机を拳で叩いた。

「……下がれ、ヴァイス。彼女は王妃だ。」

「承知いたしました、陛下。どうかご心労なきよう。冬至の夜会までは、まだ日がございますゆえ。」

“冬至の夜会”――。
それは、呪いが発症した際の儀式の夜。
リリアナの処断が義務として確定する可能性をはらんだ、あまりにも残酷な言葉だった。

ヴァイスが去ったあと、アレスは再び窓外の闇を見つめた。

(……私は、君の夫でありたい。
だが、もし君がこの国を脅かすというのなら――
私は、二度と誤ちは犯さない。)

愛と義務。
その二つの刃の間で、アレスの心はきしみ、軋み、そして疑念へと沈み始めた。

リリアナの冷たい仮面は、アレスの愛を、監視と不信の檻へと閉じ込めてしまったのだ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

冷遇王妃はときめかない

あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。 だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。

記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話

甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。 王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。 その時、王子の元に一通の手紙が届いた。 そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。 王子は絶望感に苛まれ後悔をする。

婚約破棄されたので、もう誰の役にも立たないことにしました 〜静かな公爵家で、何もしない私の本当の人生が始まります〜

ふわふわ
恋愛
王太子の婚約者として、 完璧であることを求められ続けてきた令嬢エリシア。 だがある日、彼女は一方的に婚約を破棄される。 理由は簡単だった。 「君は役に立ちすぎた」から。 すべてを失ったはずの彼女が身を寄せたのは、 “静かな公爵”と呼ばれるアルトゥール・クロイツの屋敷。 そこで待っていたのは―― 期待も、役割も、努力の強要もない日々だった。 前に出なくていい。 誰かのために壊れなくていい。 何もしなくても、ここにいていい。 「第二の人生……いえ、これからが本当の人生です」 婚約破棄ざまぁのその先で描かれる、 何者にもならなくていいヒロインの再生と、 放っておく優しさに満ちた静かな溺愛。 これは、 “役に立たなくなった”令嬢が、 ようやく自分として生き始める物語。

身代わりの恋だと思っていました〜記憶を失った私に、元婚約者が泣いて縋る理由〜

恋せよ恋
恋愛
「君を愛している。一目惚れだったんだ」 18歳の伯爵令嬢エリカは、9歳年上のリヒャルト伯爵から 情熱的な求婚を受け、幸せの絶頂にいた。 しかし、親族顔合わせの席で運命が狂い出す。 彼の視線の先にいたのは、エリカの伯母であり、 彼の学生時代の恋人で「初めての女性」だった……ミレイユ。 「あの子は私の身代わりでしょう」「私はあなただけなの」 伯母ミレイユの甘い誘惑と、裏切りの密会。 衝撃の事実を目撃したエリカは、階段から転落し、 彼と過ごした愛しくも残酷な二年間の記憶だけを失ってしまう。 「……あの、どちら様でしょうか?」 無垢な瞳で問いかけるエリカに、絶望し泣き崩れるリヒャルト。 裏切った男と、略奪を企てた伯母。 二人に待ち受けるのは、甘い報復と取り返しのつかない後悔だった。 🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。 🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。 🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。 🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。 🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!

眠り姫は十年後、元婚約者の隣に別の令嬢を見つけました

鍛高譚
恋愛
幼い頃、事故に遭い10年間も眠り続けていた伯爵令嬢アーシア。目を覚ますと、そこは見知らぬ大人の世界。成長した自分の身体に戸惑い、周囲の変化に困惑する日々が始まる。 そんな彼女を支えるのは、10年前に婚約していた幼馴染のレオン。しかし、目覚めたアーシアに突きつけられたのは、彼がすでに新しい婚約者・リリアナと共に未来を築こうとしている現実だった――。 「本当に彼なの?」 目の前のレオンは、あの頃の優しい少年ではなく、立派な青年へと成長していた。 彼の隣には、才色兼備で知的な令嬢リリアナが寄り添い、二人の関係は既に「当然のもの」となっている。 アーシアは過去の婚約に縋るべきではないと分かりつつも、彼の姿を目にするたびに心がざわめく。 一方でレオンもまた、アーシアへの想いを完全に断ち切れてはいなかった。 幼い頃の約束と、10年間支え続けてくれたリリアナへの誠意――揺れ動く気持ちの狭間で、彼はどんな未来を選ぶのか。 「私の婚約者は、もう私のものではないの?」 「それでも私は……まだ、あなたを――」 10年間の空白が引き裂いた二人の関係。 心は10歳のまま、だけど身体は大人になったアーシアが、新たな愛を見つけるまでの物語。 運命の婚約者との再会は、果たして幸福をもたらすのか――? 涙と葛藤の三角関係ラブストーリー、ここに開幕!

白い結婚で結構ですわ。愛人持ちの夫に興味はありません

鍛高譚
恋愛
公爵令嬢ルチアーナは、王太子アルベルトとの政略結婚を命じられた。だが彼にはすでに愛する女性がいた。そこでルチアーナは、夫婦の義務を果たさない“白い結婚”を提案し、お互いに干渉しない関係を築くことに成功する。 「夫婦としての役目を求めないでくださいませ。その代わり、わたくしも自由にさせていただきますわ」 そうして始まった王太子妃としての優雅な生活。社交界では完璧な妃を演じつつ、裏では趣味の読書やお茶会を存分に楽しみ、面倒ごととは距離を置くつもりだった。 ——だが、夫は次第にルチアーナを気にし始める。 「最近、おまえが気になるんだ」 「もっと夫婦としての時間を持たないか?」 今さらそんなことを言われても、もう遅いのですわ。 愛人を優先しておいて、後になって本妻に興味を持つなんて、そんな都合の良い話はお断り。 わたくしは、自由を守るために、今日も紅茶を嗜みながら優雅に過ごしますわ——。 政略結婚から始まる痛快ざまぁ! 夫の後悔なんて知りませんわ “白い結婚”を謳歌する令嬢の、自由気ままなラブ&ざまぁストーリー!

陛下を捨てた理由

甘糖むい
恋愛
美しく才能あふれる侯爵令嬢ジェニエルは、幼い頃から王子セオドールの婚約者として約束され、完璧な王妃教育を受けてきた。20歳で結婚した二人だったが、3年経っても子供に恵まれず、彼女には「問題がある」という噂が広がりはじめる始末。 そんな中、セオドールが「オリヴィア」という女性を王宮に連れてきたことで、夫婦の関係は一変し始める。 ※改定、追加や修正を予告なくする場合がございます。ご了承ください。

処理中です...