3 / 49
第2章「遠い背中」
しおりを挟む
カルロスに屋敷の案内を受けたあと、
シャルロットはひとりで広い回廊を歩いていた。
朝の光が窓から差し込み、
大理石の床に淡い金色の帯を作っている。
(……思ったより、ずっと大きな屋敷)
歩いているだけなのに、胸が少し苦しくなる。
“後妻”として足を踏み入れてまだ一晩。
この場所はあまりに静かで、美しくて、そして──広すぎた。
足音が吸い込まれるように響き、
どこか “この家に自分だけが馴染めていない” そう感じさせた。
「シャルロット」
名を呼ばれ、振り向く。
カルロスが少し離れた場所に立っていた。
逆光の中の横顔は、まるで彫刻のように整っている。
けれどその美しさの奥にあるものは、掴めなかった。
「……迷っていないか?」
「ええ、大丈夫ですわ」
笑顔で返したが、心は少しだけざわついた。
(初めて……名前で呼んでくださった)
そのことだけで、胸がゆっくり熱くなる。
カルロスは近づいてくると、
回廊の先を指し示した。
「書庫の場所をまだ案内していなかった。
本を読むのが好きだと……君の父上から聞いていた」
「……父から?」
「君の好みくらいは、知っておきたかったから」
その言葉が、まるで胸の奥をそっと撫でた。
でも――
書庫という言葉に、ふと昨夜のローザの声が蘇る。
(“前妻様と夫人の大切な物が全部ある部屋です”)
胸の奥がきゅっと縮む。
カルロスは書庫の扉に手をかけ、
そこで動きを止めた。
シャルロットはその異変に気づく。
「どうかなさいましたか?」
カルロスは淡く笑い、しかし視線を扉から外さない。
「……少し、散らかっていてな。
今は……あまり見せられる状態ではない」
嘘だ。
優しいけれど、ほんの少し声が固い。
その違和感に、胸がざわついた。
(書庫に……何があるの?)
彼は静かに鍵を掛けた。
シャルロットの目の前で。
「ここは、後日ゆっくり説明する。
今日は……庭を案内しようか」
「……はい」
穏やかな声で言われれば、それ以上は何も言えない。
庭園へ向かう途中、
シャルロットの視線はどうしても夫の背中に吸い寄せられた。
朝の光に照らされた黒いコートの背中。
歩幅の長い、しなやかな動き。
すぐそこにいるのに、
まるで触れられない “遠さ” があった。
優しい、けれど遠い。
寄り添うには、まだ勇気が足りない。
ふとカルロスが立ち止まり、庭園を指さした。
「ここは……エリザ──」
言いかけて、口を閉じた。
そして、別の言葉を選ぶ。
「……この庭は、季節によって雰囲気が変わる。
きっと、君も気に入る」
ほんの一瞬。
前妻の名が出かけたのを、シャルロットは確かに聞いた。
胸の奥で硝子が細かくひび割れる音がした気がした。
「はい……美しい庭ですね」
シャルロットは微笑む。
壊れそうな心を、朝の光に隠すように。
カルロスはその横顔を見たが、
彼もまた何かを言いかけて、沈黙に飲み込まれた。
ふたりの間に、また静かな距離が戻っていく。
(いつか……この背中に、手を伸ばせる日が来るのだろうか)
シャルロットはそっと指先を胸元に当てた。
そのとき、カルロスがふいに言った。
「……今日は無理をするな。
君が傷つくようなことが、どうかありませんように」
「……え?」
「いや、何でもない。行こう」
言葉の意味が分からないまま、
カルロスはゆっくり前を歩き始めた。
その背中は温かく、
けれど触れれば消えてしまいそうなほど遠く感じられた。
シャルロットはその背中を追いかけながら、
胸に生まれたばかりの不安と淡い想いを抱え、
静かに歩みを進めた。
シャルロットはひとりで広い回廊を歩いていた。
朝の光が窓から差し込み、
大理石の床に淡い金色の帯を作っている。
(……思ったより、ずっと大きな屋敷)
歩いているだけなのに、胸が少し苦しくなる。
“後妻”として足を踏み入れてまだ一晩。
この場所はあまりに静かで、美しくて、そして──広すぎた。
足音が吸い込まれるように響き、
どこか “この家に自分だけが馴染めていない” そう感じさせた。
「シャルロット」
名を呼ばれ、振り向く。
カルロスが少し離れた場所に立っていた。
逆光の中の横顔は、まるで彫刻のように整っている。
けれどその美しさの奥にあるものは、掴めなかった。
「……迷っていないか?」
「ええ、大丈夫ですわ」
笑顔で返したが、心は少しだけざわついた。
(初めて……名前で呼んでくださった)
そのことだけで、胸がゆっくり熱くなる。
カルロスは近づいてくると、
回廊の先を指し示した。
「書庫の場所をまだ案内していなかった。
本を読むのが好きだと……君の父上から聞いていた」
「……父から?」
「君の好みくらいは、知っておきたかったから」
その言葉が、まるで胸の奥をそっと撫でた。
でも――
書庫という言葉に、ふと昨夜のローザの声が蘇る。
(“前妻様と夫人の大切な物が全部ある部屋です”)
胸の奥がきゅっと縮む。
カルロスは書庫の扉に手をかけ、
そこで動きを止めた。
シャルロットはその異変に気づく。
「どうかなさいましたか?」
カルロスは淡く笑い、しかし視線を扉から外さない。
「……少し、散らかっていてな。
今は……あまり見せられる状態ではない」
嘘だ。
優しいけれど、ほんの少し声が固い。
その違和感に、胸がざわついた。
(書庫に……何があるの?)
彼は静かに鍵を掛けた。
シャルロットの目の前で。
「ここは、後日ゆっくり説明する。
今日は……庭を案内しようか」
「……はい」
穏やかな声で言われれば、それ以上は何も言えない。
庭園へ向かう途中、
シャルロットの視線はどうしても夫の背中に吸い寄せられた。
朝の光に照らされた黒いコートの背中。
歩幅の長い、しなやかな動き。
すぐそこにいるのに、
まるで触れられない “遠さ” があった。
優しい、けれど遠い。
寄り添うには、まだ勇気が足りない。
ふとカルロスが立ち止まり、庭園を指さした。
「ここは……エリザ──」
言いかけて、口を閉じた。
そして、別の言葉を選ぶ。
「……この庭は、季節によって雰囲気が変わる。
きっと、君も気に入る」
ほんの一瞬。
前妻の名が出かけたのを、シャルロットは確かに聞いた。
胸の奥で硝子が細かくひび割れる音がした気がした。
「はい……美しい庭ですね」
シャルロットは微笑む。
壊れそうな心を、朝の光に隠すように。
カルロスはその横顔を見たが、
彼もまた何かを言いかけて、沈黙に飲み込まれた。
ふたりの間に、また静かな距離が戻っていく。
(いつか……この背中に、手を伸ばせる日が来るのだろうか)
シャルロットはそっと指先を胸元に当てた。
そのとき、カルロスがふいに言った。
「……今日は無理をするな。
君が傷つくようなことが、どうかありませんように」
「……え?」
「いや、何でもない。行こう」
言葉の意味が分からないまま、
カルロスはゆっくり前を歩き始めた。
その背中は温かく、
けれど触れれば消えてしまいそうなほど遠く感じられた。
シャルロットはその背中を追いかけながら、
胸に生まれたばかりの不安と淡い想いを抱え、
静かに歩みを進めた。
95
あなたにおすすめの小説
狂おしいほど愛しています、なのでよそへと嫁ぐことに致します
ちより
恋愛
侯爵令嬢のカレンは分別のあるレディだ。頭の中では初恋のエル様のことでいっぱいになりながらも、一切そんな素振りは見せない徹底ぶりだ。
愛するエル様、神々しくも真面目で思いやりあふれるエル様、その残り香だけで胸いっぱいですわ。
頭の中は常にエル様一筋のカレンだが、家同士が決めた結婚で、公爵家に嫁ぐことになる。愛のない形だけの結婚と思っているのは自分だけで、実は誰よりも公爵様から愛されていることに気づかない。
公爵様からの溺愛に、不器用な恋心が反応したら大変で……両思いに慣れません。
記憶を無くした、悪役令嬢マリーの奇跡の愛
三色団子
恋愛
豪奢な天蓋付きベッドの中だった。薬品の匂いと、微かに薔薇の香りが混ざり合う、慣れない空間。
「……ここは?」
か細く漏れた声は、まるで他人のもののようだった。喉が渇いてたまらない。
顔を上げようとすると、ずきりとした痛みが後頭部を襲い、思わず呻く。その拍子に、自分の指先に視線が落ちた。驚くほどきめ細やかで、手入れの行き届いた指。まるで象牙細工のように完璧だが、酷く見覚えがない。
私は一体、誰なのだろう?
下賜されまして ~戦場の餓鬼と呼ばれた軍人との甘い日々~
イシュタル
恋愛
王宮から突然嫁がされた18歳の少女・ソフィアは、冷たい風の吹く屋敷へと降り立つ。迎えたのは、無愛想で人嫌いな騎士爵グラッド・エルグレイム。金貨の袋を渡され「好きにしろ」と言われた彼女は、侍女も使用人もいない屋敷で孤独な生活を始める。
王宮での優雅な日々とは一転、自分の髪を切り、服を整え、料理を学びながら、ソフィアは少しずつ「夫人」としての自立を模索していく。だが、辻馬車での盗難事件や料理の失敗、そして過労による倒れ込みなど、試練は次々と彼女を襲う。
そんな中、無口なグラッドの態度にも少しずつ変化が現れ始める。謝罪とも言えない金貨の袋、静かな気遣い、そして彼女の倒れた姿に見せた焦り。距離のあった二人の間に、わずかな波紋が広がっていく。
これは、王宮の寵姫から孤独な夫人へと変わる少女が、自らの手で居場所を築いていく物語。冷たい屋敷に灯る、静かな希望の光。
⚠️本作はAIとの共同製作です。
氷の公爵家に嫁いだ私、実は超絶有能な元男爵令嬢でした~女々しい公爵様と粘着義母のざまぁルートを内助の功で逆転します!~
紅葉山参
恋愛
名門公爵家であるヴィンテージ家に嫁いだロキシー。誰もが羨む結婚だと思われていますが、実情は違いました。
夫であるバンテス公爵様は、その美貌と地位に反して、なんとも女々しく頼りない方。さらに、彼の母親である義母セリーヌ様は、ロキシーが低い男爵家の出であることを理由に、連日ねちっこい嫌がらせをしてくる粘着質の意地悪な人。
結婚生活は、まるで地獄。公爵様は義母の言いなりで、私を庇うこともしません。
「どうして私がこんな仕打ちを受けなければならないの?」
そう嘆きながらも、ロキシーには秘密がありました。それは、男爵令嬢として育つ中で身につけた、貴族として規格外の「超絶有能な実務能力」と、いかなる困難も冷静に対処する「鋼の意志」。
このまま公爵家が傾けば、愛する故郷の男爵家にも影響が及びます。
「もういいわ。この際、公爵様をたてつつ、私が公爵家を立て直して差し上げます」
ロキシーは決意します。女々しい夫を立派な公爵へ。傾きかけた公爵領を豊かな土地へ。そして、ねちっこい義母には最高のざまぁを。
すべては、彼の幸せのため。彼の公爵としての誇りのため。そして、私自身の幸せのため。
これは、虐げられた男爵令嬢が、内助の功という名の愛と有能さで、公爵家と女々しい夫の人生を根底から逆転させる、痛快でロマンチックな逆転ざまぁストーリーです!
優しすぎる王太子に妃は現れない
七宮叶歌
恋愛
『優しすぎる王太子』リュシアンは国民から慕われる一方、貴族からは優柔不断と見られていた。
没落しかけた伯爵家の令嬢エレナは、家を救うため王太子妃選定会に挑み、彼の心を射止めようと決意する。
だが、選定会の裏には思わぬ陰謀が渦巻いていた。翻弄されながらも、エレナは自分の想いを貫けるのか。
国が繁栄する時、青い鳥が現れる――そんな伝承のあるフェラデル国で、優しすぎる王太子と没落令嬢の行く末を、青い鳥は見守っている。
7年ぶりに私を嫌う婚約者と目が合ったら自分好みで驚いた
小本手だるふ
恋愛
真実の愛に気づいたと、7年間目も合わせない婚約者の国の第二王子ライトに言われた公爵令嬢アリシア。
7年ぶりに目を合わせたライトはアリシアのどストライクなイケメンだったが、真実の愛に憧れを抱くアリシアはライトのためにと自ら婚約解消を提案するがのだが・・・・・・。
ライトとアリシアとその友人たちのほのぼの恋愛話。
※よくある話で設定はゆるいです。
誤字脱字色々突っ込みどころがあるかもしれませんが温かい目でご覧ください。
氷の騎士と契約結婚したのですが、愛することはないと言われたので契約通り離縁します!
柚屋志宇
恋愛
「お前を愛することはない」
『氷の騎士』侯爵令息ライナスは、伯爵令嬢セルマに白い結婚を宣言した。
セルマは家同士の政略による契約結婚と割り切ってライナスの妻となり、二年後の離縁の日を待つ。
しかし結婚すると、最初は冷たかったライナスだが次第にセルマに好意的になる。
だがセルマは離縁の日が待ち遠しい。
※小説家になろう、カクヨムにも掲載しています。
婚約者に値踏みされ続けた文官、堪忍袋の緒が切れたのでお別れしました。私は、私を尊重してくれる人を大切にします!
ささい
恋愛
王城で文官として働くリディア・フィアモントは、冷たい婚約者に評価されず疲弊していた。三度目の「婚約解消してもいい」の言葉に、ついに決断する。自由を得た彼女は、日々の書類仕事に誇りを取り戻し、誰かに頼られることの喜びを実感する。王城の仕事を支えつつ、自分らしい生活と自立を歩み始める物語。
ざまあは後悔する系( ^^) _旦~~
小説家になろうにも投稿しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる