『影の夫人とガラスの花嫁』

柴田はつみ

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第15章「揺らぐ夫婦の立ち位置」

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翌朝、公爵邸の空気は、
昨夜の騒ぎが嘘だったかのように静かだった。

けれど、静かなのは――
“音”だけだった。

廊下を歩く使用人たちの足取りはいつもより早く、
誰もが目を合わせないように視線を伏せている。

(みんな……知っているのね。
 控室で何かがあったことを)

シャルロットは、胸元のリボンをそっと握りしめた。

窓から差し込む朝の光はやわらかいのに、
心の内側は、冷たい雨のままだ。

「……奥さま」

メイドのローザが、
遠慮がちに声をかけてきた。

「朝食は、御前の間にお運びいたしましょうか?
 それとも、お部屋でお召し上がりになりますか?」

以前なら、
カルロスと向かい合って座る朝食の席が用意されていた。

けれど、昨夜――
シャルロットは自分で言ってしまったのだ。

『部屋を、分けましょう』

胸が、きゅうっと痛んだ。

「……部屋で、いただきますわ」

そう答えると、ローザの表情がかすかに曇る。

「……公爵さまは、御前の間でお待ちでしたが……」

「……そう、でしたの」

喉が苦くなる。

(“距離を置かせてください”って言ったのは、わたくし。
 それなのに、今さら……どんな顔をして会えばいいの?)

ローザは一瞬ためらい、
そっと続けた。

「……公爵さま、
 “無理をさせたくないから、彼女の望むように”と……」

言葉はそこで途切れた。

シャルロットは、
そっと微笑みを作ってみせる。

「ありがとう、ローザ。
 今日は……少しひとりでいたいの」

「……かしこまりました、奥さま」

扉が閉まると、
部屋の中にまた静寂が戻った。

シャルロットは椅子に腰を下ろし、
両手を膝の上でぎゅっと握りしめる。

(距離を置いてと、言ったのはわたくしなのに……
 本当は……本当は、会いたい。
 顔を見て、声を聞いて、“怖かったですね”って……
 そう言ってもらいたかった)

けれど、
ぐるりと部屋を取り囲む静けさは、
その願いを「言ってはいけない」と責め立てる。



同じ頃、別の部屋では。

カルロスは、
朝食のほとんどに手をつけていなかった。

侍従が控えめに問いかける。

「奥さまは……お部屋で召し上がると……」

カルロスの手が、
ナイフを持ったまま静かに止まった。

少しの沈黙の後、
低く短く答える。

「……そうか」

それだけ言って、
彼はナイフとフォークを揃えるように置いた。

「……片づけてくれ」

「ですが、公爵さま……ほとんど召し上がっておられません」

「構わない」

いつも通りの、落ち着いた声音。
だが、目の奥には疲労と苛立ちが潜んでいる。

侍従が下がると、
カルロスは肘をテーブルにつき、
眉間を指で押さえた。

(……距離を置く、か)

昨夜のシャルロットの言葉が、
何度も脳裏で繰り返される。

“不安だから”でも、
“嫌いだから”でもなく。

『壊れてしまう前に、
 自分を守らなければならないからです』

自分がそんなところまで追い詰めてしまっていた。
その事実に、胸が重く沈む。

(守りたかっただけだ。
 前妻の影からも、
 エリザベラの狂気からも。
 なのに、あの子をいちばん傷つけているのは俺だ)

テーブルの上に伸ばしかけた手は、
触れる相手を失ったかのように宙に漂って、
そのまま静かに落ちる。

(距離を置くと言われて、
 “嫌だ”と言えなかったのは……臆病だったからだ)

もしあの場で引き止めていたら、
シャルロットは泣いてしまったかもしれない。

泣かせたくなくて。
壊したくなくて。

結果、
心ごと離してしまっている。



昼前、
シャルロットは庭園を眺められる小さなサロンに移っていた。

雨はすでに上がり、
濡れた庭が柔らかな光を受けてきらきらと輝いている。

白い花弁に光が宿る景色は美しく、
それだけが救いのように思えた。

「……本当は、ここを見せたくて
 連れてきてくださったのよね……」

昨日、庭園でカルロスが言った言葉が
静かに胸によみがえる。

『ここは……静かだから。
 君の心が少しでも休まるのなら』

(優しいのに。
 “影になんてさせない”と言ってくれたのに)

息を吐くと、
胸の奥がじんわりと痛む。

(優しさだけで、隣には立てないのね)

そんなふうに思ってしまう自分が嫌だった。

そのとき、
扉の外で足音が止まり、
小さなノックが響いた。

「……どなた?」

「私だ」

聞き慣れた低い声。

シャルロットの心臓が跳ねる。

(……来てくださった)

それだけで、
泣きそうになる自分がいる。

「どうぞ……」

扉が開くと、
カルロスが立っていた。

いつも通りの黒い上着。
いつも通りの静かな顔。
そして、いつもより少しだけ疲れた瞳。

「体調は……大丈夫か?」

「はい。
 ご心配を、おかけして……申し訳ありません」

形式的な言葉。
本当は、もっと他のことを言いたかった。

“怖かったですね”とか。
“守ってくださってありがとう”とか。

でも、
その言葉は喉の奥で絡まって、出てこない。

カルロスはシャルロットの斜め前に立ち、
同じように庭園へ視線を向けた。

しばらく、
二人とも口を開かなかった。

沈黙が痛いほど重く、
それでも破り方が分からなかった。

やがて、カルロスが低く言った。

「……今日、領地から執事長が来る。
 しばらく、屋敷の体制を見直す必要がある」

「……体制、ですか?」

「昨夜のようなことが二度と起きないように、
 警備も含めて、すべてだ」

そう言う彼の声音は
あくまで現実的で、公爵としてのそれだった。

「それから……」

言い淀む気配に、
シャルロットの心臓がまた高鳴る。

嫌な予感がした。

「……しばらくのあいだ、
 君を別邸に移すことも、選択肢として考えている」

「…………」

胸が、
音を立てて冷たくなる。

「ここは……前妻の影が、あまりにも濃い。
 噂も、手紙も、香りも……
 君がこれ以上巻き込まれないためには――」

「わたくしを……
 この家から、遠ざける……ということ、ですの?」

静かな声。
震えはわずかだが、
カルロスにははっきりと分かった。

「違う。
 そういう意味では――」

「でも、“別邸に”と仰いましたわ」

シャルロットは、
自分でも驚くほど落ち着いた声で続けた。

「ここが危険だから、と。
 わたくしが巻き込まれないように、と」

カルロスは言葉を失う。

(違う。
 “遠ざけたい”のではなく、
 “守りたい”と思っただけだ)

しかし、その心を
うまく言葉に変える術を持たない。

シャルロットは、
膝の上でぎゅっと手を組んだ。

(ああ……やっぱりわたくしは……
 この家にとって“いてもいなくてもいい存在”なのかもしれない)

「……公爵さまのお考えに、
 異を唱える立場ではありませんわ」

その言葉に、カルロスの表情が揺れる。

「シャルロット……」

「でも、一つだけ……
 お聞きしてもよろしいでしょうか」

シャルロットは、
ゆっくり彼の横顔を見上げた。

その瞳は、
雨あがりの空のように、
どこまでも静かで、どこまでも悲しかった。

「わたくしが、この家から離れたほうが――
 あなたは、楽になりますか?」

カルロスは息を呑んだ。

「そんなわけがない」

即座に返ってきた言葉。

声は低く、
抑えた怒りと悲しみが混じっている。

「楽になど、なるものか。
 ……シヤルロットがいない屋敷で、
 俺がどうやって息をしていけというんだ」

思わず、本音が零れた。

シャルロットの目が、
驚きに大きく見開かれる。

カルロス自身も、
言ってしまった言葉の熱さに
ほんの一瞬だけ戸惑った。

けれど、すぐに視線を逸らし、
静かに続きを飲み込む。

(ここで“だから側にいてくれ”と言えれば……
 どれほど簡単だろう。
 でも真実を話さない限り、その言葉は
 ただのわがままになってしまう)

そして、
彼はまた沈黙を選んでしまう。

シャルロットの胸に、
またひとつ、細いひびが入った。

(“楽になど、なるものか”
 ――それは、本心なのね)

なのに、
そのあとに続く言葉がない。

“だから一緒にいてほしい”とも。
“離れてほしくない”とも。

どこまでも中途半端な優しさは、
彼女の心にとっては
一番残酷な刃だった。

シャルロットは静かに目を伏せた。

「……分かりましたわ。
 公爵さまのお考えにお任せいたします」

「シャルロット――」

呼び止める声が、
どこか頼りなく揺れる。

シャルロットは振り返らなかった。

窓の外の光だけが、
硝子を通して彼女の横顔を照らしている。

(好きだから、一緒にいたい。
 でも、好きな人から傷つけられるのは――
 もう、耐えられそうにない)

この日、
ふたりの“立ち位置”は決まったわけではなかった。

だが、
「共に立つ」ことができない場所にいる
ということだけは、はっきりと浮き彫りになった。

そして屋敷のどこかで、
白百合の香りが、ごくかすかに揺れた。

まるで、
前妻の影が静かに微笑んでいるかのように――。
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