『影の夫人とガラスの花嫁』

柴田はつみ

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第18章「優しい嘘」

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別邸への移動の準備が、
朝から静かに始まっていた。

荷物をまとめる侍女たちの気配が
廊下に淡く広がっている。

シャルロットは窓辺に座ったまま、
庭に降る静かな光を眺めていた。

(……別邸へ行くことになった)

本当は、
行きたくない。

離れたくない。

けれど――
“わたくしがここにいると、誰かが危険になる”と
カルロスが言った。

(それが……優しさだと分かっていても
 苦しい……)

ドアが静かにノックされる。

「シャルロット、入ってもいいか?」

カルロスの声。

シャルロットの指先が、
ぎゅっと震えた。

「……どうぞ」

扉が開くと、
カルロスが立っていた。

黒い上着、疲れのにじむ瞳。
けれど、その瞳には
シャルロットを見る時だけ生まれる
淡く柔らかい色が宿っていた。

「体調は……どうだ?」

「大丈夫ですわ。
 ご心配をおかけして……」

嘘。
心は大丈夫ではない。

カルロスはシャルロットの前に歩み寄るが、
やはり触れる寸前で止まる。

その空気が、胸に痛い。

「……怖い思いをさせた。
 本当にすまなかった」

「いえ……
 わたくしのほうこそ、
 昨夜取り乱してしまって……申し訳ありません」

また嘘。

取り乱すのは当然で、
謝る必要なんてないのに。

二人の優しさが、
互いを追い詰めていく。

カルロスは、椅子にそっと腰を下ろし
深い息をついた。

「……本当は、
 別邸になど行かせたくはない」

シャルロットは胸を掴んだ。

(その言葉だけで……
 泣きそうになるのに)

カルロスは続ける。

「屋敷は今、誰かが動いている。
 鍵の異変も、香りも、
 笑い声も……全部“偶然じゃない”」

シャルロットは俯く。

(そんなの、わたくしだって分かっている。
 でも……真実を言ってくださらない限り、
 この不安は消えないのに)

「君には……
 これ以上何も知らなくていい」

その一言に、
シャルロットの胸はきしりと痛んだ。

(また……言った。
 “知らなくていい”。)

カルロスは続ける。

「これは、君を守るための嘘だ。
 俺がすべてを背負う。
 君は……安心していればいい」

シャルロットは静かに頷く。

「……分かりましたわ」

それは、
シャルロット側の“優しい嘘”。

本当は
安心なんてできない。
何も知らされないほうが、怖い。

行きたくない。
離れたくない。

でも、それを言ったら
カルロスを困らせてしまう。

だから、
笑う。

「別邸へ行くのは……大丈夫ですわ。
 少し気分転換にも……なりますもの」

カルロスはぎゅっと目を伏せた。

(……それが
 嘘だと分かっている)

彼は気づいている。
シャルロットが、
自分のために笑っていることを。

だからこそ、
胸が締めつけられる。

「……すまない」

小さく、苦しげな声。

シャルロットはその声に
胸が熱くなった。

「なぜ謝るのですか?」

「……君を守れない。
 君を近くに置いておく力すらない。
 だから……
 謝るしかできない」

シャルロットは
言葉を失った。

静かな沈黙。

部屋の中に、
白百合の香りはしない。

なのに、
“影”だけがそっと二人の間に立っているような
そんな空気だった。

シャルロットは、
震える声で微笑む。

「……わたくしは大丈夫。
 本当に大丈夫ですわ。
 少し離れるだけですもの。
 公爵さまも、どうか……お気を楽に」

カルロスはその言葉に
ゆっくり顔を上げた。

その瞳に映ったのは、
“嘘”と“強がり”が入り混じった
シャルロットの微笑み。

それが痛いほど美しくて――
痛いほど悲しかった。

「……楽に、などなれない。
 君がいない家で……
 俺はどうやって息をすればいい?」

シャルロットの目が揺れた。

「公爵さま……」

「だが……
 それでも君を離す。
 守るために」

その言葉は
優しいのに、残酷だった。

そしてシャルロットは
小さく微笑む。

「……はい。
 わたくしも、守られますわ。
 “あなたのために”。」

それは互いを傷つけないための――
優しくて、残酷で、
涙が出るほど不器用な嘘だった。

その背後で、
扉の向こうを
ひゅう……と冷たい風が通り抜けた。

――ふふ……

微かに、
廊下の奥から笑い声がした。

二人の“優しい嘘”を
嘲笑うように。
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