『影の夫人とガラスの花嫁』

柴田はつみ

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第19章「触れられない理由」

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別邸へ移る準備が進む午後、
シャルロットはサロンのソファに座っていた。

手を膝の上に重ね、
細い肩をわずかに震わせている。

(……本当に、行くのね。
 この家から……カルロスさまから……)

瞳を伏せると、
胸の奥がじんと疼く。

昨夜の笑い声。
消えた鍵。
動いた扉。
影の気配。

(わたくし……何かに“狙われている”)

その確信が胸に重くのしかかる。

けれど――
一番胸を締めつけるのは、
“狙われている理由が分からない”ことではなく、

(どうして……
 あの方は、わたくしに触れてくれないの……?)

ということだった。

触れたくないの?
嫌われているの?
後妻だから?

そんな考えが何度も胸を刺す。

そのとき。

カチャ、と扉がノックされた。

「……シャルロット」

カルロスの声。

シャルロットは背筋を伸ばす。

「どうぞ……」

カルロスは静かに入室した。

いつものように黒い上着を身につけ、
疲れを隠しきれていない瞳。

けれどその瞳には、
確かにシャルロットだけを映していた。

「……準備は、進んでいるか?」

「はい。ローザたちが……」

「そうか」

短い会話。
どちらも、核心に触れられない。

沈黙が数拍、落ちた。

カルロスは、
迷うようにシャルロットに歩み寄り――
彼女のすぐ隣で立ち止まった。

伸ばしかけた手が、
また沈黙の空気の中で止まる。

(また……触れてくれない……)

シャルロットの胸がきゅっと縮む。

耐えきれず、
かすかな声で問いかけてしまった。

「……どうして、
 いつも触れる寸前で……手を引くのですか?」

カルロスの指先がわずかに震えた。

彼は一瞬、目を閉じた。

「……シャルロット。
 それは……言えない理由がある」

「言えない理由……?」

「……君を守るためだ」

また、それ。

また“守るため”という言葉。

シャルロットは悲しげに微笑む。

「そんなに……わたくしは弱く見えますか?」

「違う」

即答。

それなのに、続きの言葉が出てこない。

シャルロットは静かに息を吸い、
初めて、真正面から尋ねた。

「わたくしに……触れたくないのですか?」

カルロスの肩がぴくりと震えた。

瞳が揺れる。

「触れたくないなど……
 一度たりとも思ったことはない」

切実な声だった。

「では、どうして……」

カルロスは拳を握りしめる。

「……触れたら……
 君を危険にさらす」

「え……?」

シャルロットは言葉の意味が理解できず、
目を瞬いた。

カルロスは、
苦しみに耐えるように目を伏せる。

「……俺が触れたものだけが、
 “標的”にされたことがある」

「標的……?」

「一年前……
 ある出来事があった」

シャルロットは息を呑む。

カルロスの声は低く、
震えていた。

「俺は昔……
 “触れた相手を不幸にする男”だと
 噂されたことがある」

「……そんな……」

「エリザベラが死んだ夜も……
 俺の手を握っていた」

シャルロットの呼吸が止まった。

カルロスは続ける。

「もちろん……
 俺が殺したわけではない」

強い否定。
しかし瞳は深い悔いと痛みで濡れている。

「だが、周囲はそう考えた。
 “公爵が触れたものには死が訪れる”と」

シャルロットは言葉を失った。

(そんな……
 そんな迷信のような噂で……)

カルロスは苦しげに目を逸らし、
掠れた声を落とした。

「……だから触れない。
 触れられない。
 君まで……失うのが……怖い」

その声は
静かで、深くて、切なかった。

シャルロットは胸を押さえた。

(わたくしを……
 怖がって……触れられなかったのではなくて……
 守るため……?
 わたくしを失いたくないから……触れない……?)

涙がじんわり滲む。

けれど、
カルロスの告白はまだ続いた。

「……それだけではない」

シャルロットは顔を上げる。

「え……?」

「今の屋敷で起きている出来事は……
 偶然ではない。
 “俺に触れたものだけ”を狙っている」

シャルロットは息を呑む。

「まるで……
 俺のそばにいる者を狙うように」

カルロスは静かに言った。

「だから触れられない。
 触れれば……
 君が一番危険になる」

シャルロットは小さく震えた。

同時に、
深く、胸が満たされた。

(離していたのではなくて……
 わたくしが嫌なのではなくて……
 守ろうとして……)

涙がゆっくり頬を伝った。

カルロスは驚き、
思わず近づきそうになる。

「シャルロット……泣くな……!」

「……すみません……
 でも……嬉しくて……苦しくて……」

「君を悲しませたいわけじゃない」

「わたくし……
 あなたに触れられたいのです……」

カルロスは息を止めた。

手を伸ばし、
シャルロットの頬に触れかけ――
また止まる。

触れたい。
触れてはいけない。
その矛盾が、カルロスの指先を震わせる。

シャルロットはそっと言った。

「……触れて……くださらなくてもいい。
 でも……触れられない理由を……
 教えてくださって……嬉しい……」

カルロスは苦しげに目を閉じた。

「……君を守るためなら、
 俺は何度でも嘘をつくし、距離も置く」

「わたくしは……
 距離を置かれても構いません。
 でも……理由を知らないまま離されるほうが……
 ずっと苦しいのです」

カルロスはぎゅっと拳を握る。

その手は、
シャルロットに触れられないまま
震え続けていた。

そして、
扉の向こうで微かに――

す……っと影が通った。

白百合の香りが、
風のように微かに流れていく。

シャルロットは振り返る。

(わたくしが……
 “触れられない理由”……
 それが本当なら……
 この影は……わたくしを狙っている……?
 それとも……)

扉の向こうで、
影が静かに揺れた。

まるでその理由を知っているかのように。

そして――
“触れられない理由”の真相は、
これでまだ半分しか明かされていなかった。
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